第3話 ファベルジェの追想 1-⑶
「つい四、五年ほど前まで『五灯軒』は
坂を下り弥生町のあたりに差し掛かると、日笠は歩みを緩め懐かしそうに言った。
「露西亜料理ですか。それはまた珍しいですね。今はもう、ないんですか?」
「火災で焼けてしまったのだ。私も時々、パンを買っていたので店が焼けてしまった時は随分と惜しんだものだ」
「随分と色んなものを召し上がりますね、住職は」
流介が感心すると、早智という女性が「私も『五灯軒』のパンが好きなんです。
「
「あ、ごめんなさい。私が女学校に行っていた時、教会で知り合った方です。今は『五灯軒』で料理のお手伝いをしています」
ははあ、と流介は思った。末広町は早智が仕事をしている山上神宮からかなり離れている。そこへわざわざパンを買いに行くということはつまり国彦という男性に会いに行くということなのだ。
「料理を手伝っているということは、その国彦さんという人は料亭の息子か何かなんですか?」
「いえ、『五灯軒』で働く前はハリストス正教会で、露西亜料理をこしらえたりパンを焼いたりするお手伝いをされていたそうです」
「ああ、あそこにいたんですか。なるほど、露西亜の教会にいたのなら西洋料理の店で働いてもおかしくはないですね」
ハリストス正教会は万延元年に、露西亜領事館の付属教会として建てられたものだという。
以前は露西亜から来た若い司祭がいたようだが、少し前に東京に行ってしまったらしい。
「私、何年か前まで教会の中にある女学校に通っていたんです。ある時、私がパンを焼く匂いに誘われてうろうろしていると、通りがかった男の人が小さなパンをくれたんです。その人は教会でパン作りを手伝っていて、腕が上がったら外で生かしたいと私に言いました」
「それが今『五灯軒』で働いている国彦さんというわけですね」
流介が質すと早智は「はい」と頷いた。料理人を目指す青年と女学生の恋。いい話だ。それにしてもあの教会の中に女学校があるというのは初耳だ。
「私が女学校を卒業した後、偶然街で国彦さんにお会いしたんです。私はパンのことを思い出し、何かお礼をしたいと思いました。それでちょうど同級生のお家が写真館だったので、頼みこんで写真を撮ってもらいそれをパンのお礼代わりにしました」
流介は早智の顔を見返し、奇妙な思いに囚われた。彼女くらいの年で写真館の娘……
「その時、国彦さんが『五灯軒』で働くことになったと言ったので、お邪魔かもしれないと思いつつ後日、『五灯軒』を訪ねてみました。国彦さんはちょうどパンを焼き終えたところらしくにこにこしながら現れると、写真のお礼だと言って私に小さな時計をくれました」
「時計?」
「はい。彼は機械を組み立てるのが得意で、自分で時計も作っているのだと言ってました。写真はパンのお礼なのだから、そのまたお礼はおかしいと言ったのですが彼がぜひ君にというので、貰うことにしました」
「ふうむ、器用な人なんですね」
「はい。とても頭のよい方です」
流介は国彦という青年のことを誇らしげに語る早智を、まぶしい思いで見つめた。奇譚の材料探しは不首尾に終わりそうだが、たまには若い男女の幸せな話を聞くのも悪くない。
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