大いなる和やかな海

ごま油を引いたフライパン

大いなる和やかな海

 ある晴れた日、汽笛の音がした。港を見下ろせる丘の上でそれを聞いていた私は、一隻の船に目をやった。

 港内の船の中でも一際大きく、冷たい色をしたその船の上には、水兵さんが乗っていて、みんな帽子を頭の上で振っていた。もちろんあなたも、帽子を振っていた。

 遠くて、小さくて、それでもあなただと分かった。いつも無邪気に手を振るあなたが、帽子を振っている。一人だけ大きく帽子を振っているから、すぐにわかった。

 木でできた甲板の上にいるあなたは、船と共に、どんどん小さくなっていって、いよいよ見えなくなった。

 私は信じている。いつも通りあなたが帰ってくると。いつも、汚れた服を片手に私のもとに帰ってくるあなたは、優しくて、広い海のような心を持っていた。

 戦争が始まった時も、船に乗った時も、傷を作って帰ってきた時だって、いつも優しかった。


 あなたが船に乗ってから、幾日も過ぎた。何度も何度も朝が来て、昼が来て、夜が来て、配給の日も来た。

 ある日は空襲もあった。サイレンが鳴った頃、たくさんの飛行機が私たちの町の上を飛び交った。星がついた飛行機と、日の丸がついた飛行機だった。エンジン音と対空砲の発砲音が家の窓を揺らして、ガタガタと音がする。

 時々、防空壕から見える空に、青や黄色の色付きの煙が広がって、きれいだった。その手前を飛行機は悠々と飛ぶ。中には、赤い火と煙を吹いて墜ちていく飛行機もあった。

 空襲が終わって防空壕から出ると、町のどこかが燃えていた。燃えていない場所でも、砲弾の破片で道や農地がえぐれたり、家の瓦が欠けたりしていた。、砲弾の破片で人が亡くなることも少なくはなかった。船も赤い炎に包まれていて、海軍の消防隊が必死に放水をして火を収めようとしている。


 空襲の頻度が増えてきたある日、一枚の手紙が私の手の中に舞い込んだ。

 私たちの小さな家に、役場の職員がやってきた。

 ガラス戸が叩かれる音に気付いた私は、玄関に向かって、ガラス戸を滑らせた。丸眼鏡をかけ、当時では珍しくない瘦せこけた男の人がそこにいて、カバンから一つの茶封筒を取り出した。

 「名誉の戦死です」と言って、私に封筒を手渡した職員は、一礼をして玄関先からいなくなる。男の人が放った言葉を処理しきれないまま封筒を受け取った私は、封筒の表を見た。

「戦死公報入」の文字が書いてあった。目を見開いた私は、鼓動が早くなるのを感じた。

 もしかしたら私が見間違えたのかも。そう思って、一度封筒を裏返して、もう一度表を見た。

 いやに達筆な筆書きで、確かにその五文字は並んでいる。

 きっと、職員が届ける家を間違えたんだろう。そう思って、思いたくて、私は、中身を確かめて心のもやもやを晴らすことにした。

 封筒は糊付けされていなくて、簡単に中身を見せてくれた。

 白い紙に、筆で書かれた文字が目立つ。


 坊ノ岬沖ニテ壮絶ナル戦死


 私の夫の名前と共にそう書かれていた。そのほかにも何か書いてあるのはわかったけど、私はそれを覚えていない。

 私は、その場に崩れ落ちて、ふと戦死公報を手から放した時、ふわりと風が吹いた。

 戦死公報が、私の手元を離れ、空に舞っていく。ひらりひらりと舞うその姿は、空襲の時に見た飛行機のようだった。やがて見えなくなった戦死公報は、私の心に大きな穴を開けた。


 ある夏の日、私はふと家の縁側を見やった。そこにあなたはいない。

 遠くでもくもくと伸びる大きな雲を見たあの日も、そこにあなたはいない。

 夏の暑さのなか、長い長い戦争の終わりを告げる放送をラジオで聞いたあの日も、あなたはいない。

 夏風に揺られた木の葉が飛んで行ったあの日、少しだけあなたの姿が見えた気がしたけど、やっぱりそこにあなたはいなかった。

 港で、斜めに傾いてボロボロになった船を見かけたあの日も、青い目をした兵隊さんが町にやってきたあの日も、市場でたばこの吸い殻が入った雑炊を買ったあの日も、あなたはいなかった。

 町から瓦礫がなくなって、新しい建物が町に並んだ。青い目をした兵隊さんが去った港に、新しい船がやってきた。赤いクレーンと大きなドックも建った。私が見ている景色が何もかもが変わっていった。あなたを除いて。


 あなたがいなくなってから数十年。すっかり歳を取ってあの頃のようには足を上げれない私は、ゆっくりと船に乗り込んだ。

 あなたに会いに行くために、船に乗り込んだ。

 そう長くはない時間、海風に髪をなびかせながら、私はあなたの沈む場所へと向かった。


 坊ノ岬沖、あの日見た戦死公報に書かれていた場所は、数十年前に沈んだ大きな船の面影を感じさせることなく、ただただ和やかに時間が流れていた。

 船は止まった。穏やかな波ではあったけど、船は少しだけ揺れている。水面を覗き込んだ。深い海だ。深く深くに続くこの海に、あなたは沈んでいる。大きく和やかな海の下に、あなたは沈んでいる。

 私は一つ、バッグから手紙を取り出した。あなたに向けて書いた手紙だ。そっとその手紙を海に添えた。手紙が水面に浸かって沈んでいく。

 あなたにもう逢うことはできない。それでも、この手紙は、きっとあなたの元に届くだろう。

 数十年前、戦争は、あなたをこの和やかな海に沈めた...

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

大いなる和やかな海 ごま油を引いたフライパン @gomaabura_pan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ