紅葉綴る

森陰五十鈴

照射

 外の気温はだいぶ下がったが、屋内に居ればさほど寒さを感じない。空調などなくとも、日が差し込む場所であれば微睡みたくなるような心地にさせられる。私が大学の図書館で陣取った席もそのような場所で、ブラインドの隙間から入るまろやかな日差しに身体はすっかり温められていた。

 外光と輝度を張り合うノートPCの画面が滲む。白い画面にたくさんの黒い虫が這っているようだった。霞む思考をなんとか奮い立たせながら、指を動かす。黒い虫が増えていく。内容は読み取れない。私は何を書いているのか――


「……宿題?」


 背後からかけられた声に、頭は一気に覚醒した。水を浴びた気分で振り返る。そこに立つのは、白いシャツを着た好青年。切り揃えられた前髪の下から涼やかな目元が覗き込む。


「びっくりした……」


 声を引き攣らせた私を、彼は笑った。


「眠そうだったね、鈴ちゃん」

「寝てません」


 だが、画面を這う虫――ワードファイルに埋め尽くされた文字は、支離滅裂な内容を示している。羞恥で頬が熱くなった。我ながら、あまりに見え透いた嘘だった。

 意味を成さない文字の羅列を削除している間に、彼は私の隣へ座った。キャスター付きの椅子を動かし、パソコンの画面を覗き込む。


「小説?」

「文芸部の」


 私が趣味で物書きをしていることはすでに知れていることなので、今更隠すべくもない。


「文化祭で配る文芸誌に載せるやつです。課題が決まってて」

「何?」

「〝紅葉もみじ〟」


 彼は目を瞬かせた。それから照れくさそうに笑った。それもそのはず、このヒトもまた〝紅葉〟なのだから。


「秋らしいお題だね。もう話は決まってるの?」

「まだです。とりあえず筆を走らせてはみてるんですけど……」


 頭の中には赤い楓の葉っぱが浮かぶばかりで、そこから具体的な物語ストーリーまでは出てこなかった。なんとなく思い付いた描写をしてみるものの、しっくり来なくて、書いては消し、を繰り返している。物語のジャンルどころか、登場人物ですら定かではなかった。こんな風では小説など書けるはずもない。

 唇を曲げ、画面を睨む。書き出しを目で追って、映像を脳裏で再生する。そこから物語が展開しないものかと期待したが、映像は止まってしまった。これでは筆を投げ出すしかない。書いているのはパソコンだが、気分の問題。


「……難航してるね」


 顰め面をしているだろう私の顔を覗き込み、そのヒトは苦笑する。私は溜め息を吐くしかない。締め切りがあるため焦って書き出してみたものの、執筆は時期尚早、プロットを起こすところから始めるべきだったか、と反省する。そのプロットを書くことさえ難しそうだが。


「先輩」


 私は彼をそう呼んでいた。この大学で出逢ったからだ。二年前、はじめての大学の学園祭で、偶然通りすがったこのヒトに部活の文芸誌を渡した。それからというもの、ちょくちょく大学の敷地内ですれ違った。落ち着いた物腰から歳上と判断し、〝先輩〟呼び。本人は否定しないので、そのまま定着している。


 何、と小首を傾げる先輩。純粋に続きを待つその顔を見て、私は少し躊躇った。今から尋ねることは、そのヒトの中に踏み込むことであるからして。

 とはいえ、なんでもない、と今更取り消すこともはばかられて。


「先輩のこと、書いてもいいですか」


 焦って口走ったのは、本質から少しズレた、遠回しにも程がある上に個人的な要望まで入り混じった質問だった。




「僕がモデル? 照れるな」


 先輩は、本当に照れくさそうに後頭部を掻いた。漫画などで見られそうなその仕草に、私は少しもやついた。自分が言いたいことをうまく言えていない、そのもどかしさから。


「どんな話にするの?」


 私の内心など知らず、無邪気に問い返す彼。ここを逃してはならぬ、と私は意を決した。


「寺の、紅葉の木の精霊の話です」


 す、と彼の顔から表情が消える。怖ろしいほどの無表情に。私は目を伏せ、なるべくその綺麗な顔を視界に入れないようにする。


「先週の夜、東門の近くで先輩を見ました。声を掛けようと思って追いかけたんですけど……なんか、そのときは声が掛けづらくって」


 そのままひとけのない坂を下っていく彼を、追跡する形となってしまった。

 そうこうしているうちに、通りがかったお寺。門は開けど暗くなっていたそこに、彼が吸い込まれるように入っていくのを見てしまった。


「それで、あとを追ったら、先輩がお墓の入口にある楓の木に向かうのが見えて――」


 柳のようにゆらりと揺れる細い楓の木に、溶け込むように消えていくさまを目撃したというわけだった。


 落ちる沈黙。気まずさを、スカートで隠れた自分の膝を見ながら耐える。彼はなんと言うだろうか。見間違い、と否定してくるだろうか。

 だが、私は確かに見てしまった。楓のそばには灯りがあり、楓は夜に浮かび上がるように存在していたのだった。彼が楓に消えていくのも、灯りの下での出来事だった。見失うなんてあり得ない。この七日の間に、私は確信を強くしていった。


 返事はなかなか得られない。さすがに気になって、視線だけ動かして窺ってみると、彼は机に頬杖をついて色のない眼差しで私を見下ろしていた。


「君は、幽霊が視えるの?」


 抑揚のない声に、首を振る。


「……霊感はないと思っていました」

「でも、僕が視えている」


 馬鹿にされるかと思った。だが、肯定と受け取れる言葉に、私は顔を上げた。彼はやはり無表情で、それだけに凄みがあった。喉が干上がる。

 先輩の白い肩が落ちた。


「そんなに怯えなくても、呪い殺したりしないよ」


 呆れたような目付き。彼にようやく表情が戻って、ほっとした。ようやくまともに彼の顔が見られる。


「昔、あの木で首を括った人がいてね。その瞬間に、僕の自我は生まれたんだ」


 あの細い木で、首を。意外と予想外で、私は目を瞬かせた。


「地縛霊?」

「とは違う。僕は首を括ったその人じゃない」


 第一、地縛霊にしては活動範囲が広すぎる。ごもっともな意見に、私は縮こまった。

 彼の眉間に皺が寄る。どう説明するか、考えあぐねているようだ。


「死者の情念に木が刺激されたのか。それとも、木がその人の魂を吸い取って形を成したのか。判然とはしないけれどね」


 何しろ自分が生まれたときのことなんて覚えていないから。そういうものか、と私は納得した。私自身も生まれたときのことなど覚えてはいないのだから。


「だから精霊かどうかも判らない。人でないのは確かだけど」


 そうなのか、と頷く。それから私は、まじまじと彼を観察した。透けて見えるなんてことはない。質感も伴っているように見える。触れてみようか、とも思い、だがそれはやめた。さすがにそれは、人であったとしても失礼なことである。


「どう? 書けそう?」


 声を掛けられて、我に返る。そういえば『書かせてくれ』とお願いをしていたのであったか。

 どうでしょう、と私は視線を逸らす。逸らした先にパソコンがあった。原稿には、何気なく書いた書き出しのみ。取材をしておきながらメモを取っていない。己の迂闊さに密かに呆れた。

 だが、そう尋ねてくるということは、私は許されているということか。正体を暴いたことについてなのか、彼をモデルとすることなのか、あるいは両方か。それは分からないが。


 安易なことに、私はすっかり緊張が解けてしまった。パソコンの画面を睨みつつ、顎に手をやり考え込む。とりあえず、この書き出しは削除しよう。先輩をモデルにるなら、もっと違った風にしたい。

 とにかくまずは、方向性。


「先輩は、どう書かれたいですか」


 そのヒトをモデルにする以上、迂闊なことは書けない。そう判断した私は、さらに質問を重ねることにした。それにどうせなら、そのヒトの理想に沿うように書きたいではないか。


「嫌な奴にはなりたくないな」


 それはそうだろう。私は頷く。


「そもそもジャンルは? やっぱりホラーかな?」

「ファンタジーや恋愛も有りかなとは思いますが」


 そこから決めなければならないか、と思い至り、溜め息を吐いた。決まっていないことが多すぎる。そんな状態で話を書こうと思った自分に呆れる一方で、締め切りの存在に焦りもあった。こういうときは思考がからまわりして、良いアイデアなど生まれはしないのだが――。


 人の死から生まれた、か。

 不謹慎のような気もしたが、先輩の生まれはなかなか興味深いものがあった。


 夜に映える赤い紅葉。木の足元で無念のうちに力尽きる女。その情念に呼応して、木の幹から押し出されるようにあらわれる白い影。生まれながらに青年の姿を持つ妖者あやかしもの


 突如として思い浮かんだ一場面に、私はキーボードを叩きはじめた。没にする文章を消す時間も惜しく改行。思い浮かんだイメージが消えていかないうちに、とにかく指を走らせる。力強い打音。あぶくのように湧き上がる物語に、我ながら興奮する。

 高揚感に身を任せパソコンを操作して、二十分くらいだろうか。一通りイメージを出し尽くした私は、背もたれに身を預けた。心地よい疲れと満足感。マウスを操作し画面をスクロールさせながら文章を追えば、口元がつい歪んでしまう。完成にはまだ遠いが、一つまた物語を生み出した。


「良いものはできた?」


 私が原稿に熱中している間も、先輩はずっと待っていてくれた。私が自作を振り返るために机に置いていた、過去の文芸誌。それらを捲りながら。


「そうですね。これなら書けそうです」

「それは良かった」


 先輩は文芸誌を机に戻し、椅子から立ち上がった。パソコンを覗き込むことなくこちらに背を向ける様子から、私は思わず声を掛ける。


「見ないんですか?」

「完成したのを楽しみにしているよ」


 手を上げて、立ち去っていく。白い背中を見送って、私は少し寂しい気分に襲われた。もう少し気にして欲しかった――というより、私自身が作品について語りたかったのだ。今唐突に生まれた物語に、それだけ愛おしさを感じている。

 肩を落として、パソコンに向き直る。以前の書き出しを見直して、やはり雰囲気にそぐわないのでばっさりと消してしまった。それから走り書きを手直ししつつ、文章を起こしはじめる。彼を書く以上、素晴らしいものに仕上げたい。使命感が私を支配するのと同時に、彼を満足させたいという欲求が私の中に生まれていた。


 いつの間にか日が翳り、窓から冷気が忍び込んできた。外の薄暗さに慌てて片付けをはじめる。パソコンを鞄に放り込み、広げてあった文芸誌をかき集めた。

 その中の一冊に、何か挟まっていることに気付く。

 開いてみると、ちょうど私の作品が掲載されているページに、赤い楓の葉が一枚置かれていた。

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紅葉綴る 森陰五十鈴 @morisuzu

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