神様箪笥
尾八原ジュージ
神様箪笥
わたしの家にいる神様が何という名前を持っているのか、わたしは知らない。ただその神様は神棚ではなく、代々家にある箪笥の中に収められている。
箪笥自体は少し珍しいものだ。船箪笥といって、かつて北前船の船頭たちが、その船内で使用していたものだという。ただ船乗りでもなんでもなく、元禄の頃から海のない土地に根を下ろして代々農家を営んできたわたしの祖先が、どこでどうやってその箪笥を手に入れたものか、今となってはわからない。
箪笥は一辺約60センチのいくつもの抽斗がついた立方体で、欅の外箱に内箱は桐、そして凝った装飾の施された鉄製の金具が贅沢にとりつけられている。見るからに重そうな代物だが気密性は非常に高く、たとえ船から落としても水に浮くらしい――とは、曾祖母から聞いた話だ。
この箪笥のどこかに隠し抽斗があるという。今はその仕掛けを誰も知らないため、その抽斗を開けることは容易ではない。木と金属とで作られた立方体のどこかに隠された小さな空間に、名前もわからぬ神様はひっそりとお住まいらしい。
わたしはその箪笥がある家で生まれ、育った。
我が家は山際の小さな村にあり、言った通り海とは縁遠い。市町村合併によっていちおう「市」にはなったものの、その実態は依然「村」のままと言っていい。田畑の中にぽつんぽつんと家が建ち、その周囲を山々が囲む。この辺りは地価が安いのに加えて、むかし養蚕が流行ったために敷地が広く別棟のある家が多いのだが、その中でも我が家は一際広く、建屋も大きい。この辺りで単に「本家」と言えば、私が暮らすこの家やそこで暮らす家族たちのことを指す。
幼い頃から「うちが裕福になったのは箪笥の神様のおかげ」と言われて育った。由来も名前もよくわからない神様は、かつて暮らしていたはずの海上を離れ、今は海なし県の片隅の村でひとつの家系を富ませている。流浪の民の哀愁に近いものを感じて、わたしは少しだけ寂しくなる。
箪笥は何代も経た今もなお、大切にされている。毎日乾拭きをされて埃を払われ、艶々と美しいまま居心地のよい六畳の和室に鎮座している。丸窓からは庭の木々が望め、床の間には季節の花や掛け軸が飾られる。このような扱いを受ける程度にはこの神様の霊験は信じられているということで、しかし親戚縁者の中には、この箪笥を厭うものも少なくない。
わたしが物心ついたころ、主に箪笥の世話をしていたのは曾祖母だった。
曾祖母は毎朝起きると、水と生米を朱塗りの御膳に載せ、箪笥の前に供えた。それだけでなく、たまには氷砂糖とか金平糖とか、小さくて甘いものも一緒にお供えしていたものだ。
その曾祖母にしても、どうやって神様がおられる抽斗を開けるのかは知らなかった。聞くところによれば、どうもわたしの曽祖父は開け方の手順を知っていたらしい。しかし事故で急死したために、手順を知る者は絶えてしまった。
そういうわけで神様の姿を直接拝むのは難しい。基本的には、向こうから姿を現す稀な瞬間を待つしかない。
わたしは子供の頃に一度だけ、それらしいものを見たことがある。箪笥の下部、おそらくいくつかある抽斗のひとつから、極彩色の振袖のようなものがぞろりとはみ出していた。それは私の目の前でずるずると動き、伸ばした巻尺の巻取りボタンを押したときのように、しゅるんと箪笥の中に入って見えなくなった。どこかの抽斗に入ったのではないかと思われたけども、箪笥にはいくつも抽斗がついているから、そのうちのどれだと問われてもわかるものではなかった。
その振袖のようなものは赤い地で、金箔や銀箔がふんだんに使われ、犬張り子やら独楽やらでんでん太鼓やら、玩具の柄がぎっしりと染め抜かれていた。少し離れたところから一瞬目にしただけなのに、未だにその鮮やかな色合いが脳裏に焼き付いている。
基本的には、おそらく、あれは見ようとすべきものではないのだと思う。
箪笥の置かれた座敷の前を通るとき、もしも襖を閉ざした向こうでこりこりという音が聞こえたら、絶対に開けてはいけないという。本家だけでなく分家の人間も、およそ一族に縁続きになった者はそう言いつけられている。それは神様が米やら砂糖菓子やらを食べている音だそうだが、どうやら神様の食事姿を拝むことは禁忌らしい。
父方の叔父は子供の頃にこれを覗いたことがあるという。好奇心旺盛だった彼は、襖を細く開け、できた隙間に右目をくっつけて中を覗き込んだ。すると幸い命はとられなかったけれども、覗いた方の視力がガクンと下がってしまった。
叔父によれば、この右目だけで人通りの多い道などを見ていると、白くぼやけた視界にはぼんやりとしたものしか映らないのに、たまにくっきりと鮮明なものが通り過ぎることがあるという。
中でもこの人が特別よく見えるから嫁にもらう、といって連れてきた女の額には、二本の角のようなでっぱりがあった。一族総出で結婚に反対したところ、叔父は女と共に出奔して行方不明になった。今も行方が知れない彼は、子供の頃、細い隙間から何を見たのか、誰にも打ち明けたことがなかったそうだ。
箪笥には、些か不気味な曰くがいくつも纏わりついている。
最たるものがその「歌」だろう。箪笥の神様は不完全な予言をする。
偶さか、箪笥から歌が聞こえることがある。
これ自体古いものだから機械仕掛けなどは考えにくい。むろん、中に生き物が入っているはずもない。わたしも何度か聞いたことがあるけれど、雲雀のような高く透き通った声で、しかしあまり上手ではない。幼な子が気分に任せて口ずさんでいるような歌だった。
一度目に聞いたときは父方の大叔父が急死した。二度目に聞いたときは結婚したばかりの従兄の妻の妊娠がわかった。どうもその歌が聞こえると、一族の人間の増減に関わることが起きるらしい。
だから箪笥から歌が聞こえたと誰かが言えば、分家までが騒然となる。その歌が誕生を予言したものか、それとも死を知らせるものか、聞いただけではわからない。懐妊がわかればほっと一息つくが、そうでないときは「一体誰が死ぬのだろうか」とピリピリしながら過ごすことになる。
自分が死ぬかもしれない――と思えば生きた心地がしないのも当然で、ときには切羽詰まって凶行を企てた者もいる。わたしの曾祖母がまだ十代の娘だったころ、寝たきりになっていた舅の顔に枕を押しつけて殺そうとした女がいたという。先手を打って死者を出してしまえば、自分を含め他の者は助かると思ったのだろう。ところが数十分ぐいぐいとやってもまるで効かず、苦しむ様子もなしにすやすやと眠っているのでとうとう力尽きた。汗みずくで自室に戻ったところ、布団で寝ていた六歳の我が子が冷たくなっていたという。
以来、歌が聞こえたときに人の生き死にに介入するのはご法度ということになり、現在に至るまで一族は箪笥の歌に振り回されている。
それだから、「いっそ箪笥を処分しよう」という話が出なかったわけではない。ただ捨てようとすると異常に重くなったり、金具に手を引っかけて怪我をするものが出たりする。元々とても頑丈で重いものだから、壊したり持ち出したりすることが難しいものなのだ。そのくせ大掃除だとか、畳替えだとかで持ち出すときは簡単に動かすことができるから、やはり何らかの意志を感じずにはいられない。
内部に神様がいる、いないに関わらず、元来船箪笥というのは頑丈なものらしい。船には様々な人が乗るものだから、中には手癖の悪い者もいる。そのような状況下で中の貴重品を守らねばならないというのが、船箪笥がその強固さを獲得した理由のうちのひとつらしい。
かつてこの箪笥を破壊しようと試みた者がいた。その男はなにか口実をつけて本家に泊まり込み、真夜中に鋸を持って座敷に忍び込んだ。その夜、何があったか知っている者はいない。その翌朝、男は鋸を自分の手首に押し当て、一心不乱に切り落とそうとしているところを発見された。すぐさま病院に担ぎ込まれて一命は取り留めたものの、発狂して残りの生涯を病院で過ごしたという。
実はこの男、箪笥が歌ったときに舅を殺そうとして我が子を失った女の夫だった。妻の方はどうなったものやら、わたしは聞いたことがない。ただ箪笥は歌わなかったというから、彼女もやはりそのとき死にはしなかったらしい。
箪笥には鋸による細かな傷がいくつもついていたが、放っておいて普段通り水と生米を供えるなどしていたら、二日ほどで全部消えて元の通りに戻ったという。
わたしが十二歳のころ、曾祖母が老衰で亡くなった。
そのあとすぐ、
曾祖母が行っていた箪笥の手入れをする者がいなかったから――というか、皆が気味悪がってやりたがらなかったため、代わりに雇われた女性である。どこから探して来られたのだろうか、四十代がらみの、小柄でとても静かなひとだった。無口なだけでなく、歩くとき、何かしら動くときなども滅多に音をたてない。何か気配がするなと思ってふりむくと、いつの間にかそこに立っている。子供のわたしにはとっつきにくいひとだったけれど、仕事は真面目で、いつもきちんとしていた。
小陽さんは曾祖母がやっていたのと寸分たがわず、同じように箪笥の世話をした。毎朝水と生米を御膳に載せて供え、表面を乾拭きし、座敷の空気を入れ替え、畳を掃き清めた。庭の花を切って床の間に活け、季節が変わればそれに合わせて掛け軸を変えた。
わたしは彼女の仕事ぶりを、嫉妬に近い感情を抱きながら見ていた。わたしは曾祖母と、箪笥のことが好きだったのだ。あれくらいなら自分にもできるのではないか――と、思いながら、小陽さんがきりきりと働くさまを眺めた。
決められたことをこなすと、彼女はさっさと家に帰っていく。「失礼いたします」と告げる口調には、他所の土地の抑揚があった。
小陽さんは村の片隅にある、小さくて古い借家に住んでいた。若くして夫を亡くした上、病弱な息子がいるのだという。生活や医療費の足しにするために、不気味な箪笥(傍から見ればきっと不気味だろう)の世話をかって出たらしい。
そのうちわたしにも、小陽さんは見た目ほどとっつきにくくないということがわかってきた。無口ではあるが、話しかければちゃんと答えてくれる。
「小陽さんはこの箪笥がこわくないの?」
そう尋ねると、彼女は「怖くありませんよ」と、どことなくチェロのような響きがある声で答えてくれた。
なるほど、彼女にしてみればいい仕事だったのだろう。物の少ない六畳間は、ほんの小一時間もあれば座敷の掃除まで終えることができる。仕事を終えたら別の仕事に行くなり、家に帰るなりしてくれて構わない。それでいて金払いは悪くないというのだから。とはいえ小陽さんの態度からは「金のため」というような気持ちは感じ取れず、彼女は淡々と、そして丁寧に神様のお世話をした。わたしは、血縁がないはずのその背中に、時折曾祖母の面影を見た。
小陽さんが箪笥としゃべっている。
そんな光景を見たのは、夏が終わり秋にさしかかり始めた頃のことだった。ある朝、例の座敷の前を通ると、ひそひそと人の話し声が聞こえた。襖をほんの少し開けてみると、小陽さんが箪笥のすぐ前にきちんと正座をして、何やら口を動かしているのが見えた。
わたしはすぐに、小陽さんは箪笥の中にいる何かと話しているのだ、と確信した。そうであるなら、何を話しているのか聞きたい。襖の外に貼りついて中を覗いていると、突然小陽さんがパッとこちらを向いた。逆光で黒くなった顔に、二つの目が猫のように爛々と光って見えた。
わたしは小さく悲鳴をあげて廊下を駆け出した。それからは小陽さんが帰ってしまうまで、幼児のように母にべったりくっついていた。
翌朝、小陽さんはやっぱり何事もなかったようにやってきた。いつもの物静かで無口な様子で、両方の目もまるで当たり前の澄んだ茶色をしていた。
昨日はあんなに怖かったのに、反面、彼女のことが気になって仕方がなかった。わたしは箪笥のある座敷の襖の影から、畳を箒で掃く小陽さんを覗いていた。襖が開いているから、覗いているわたしの姿は丸見えだ。それでも小陽さんは、いつも通り黙って、淡々と仕事を進めた。
掃除を終え、水と生米を供えると、小陽さんはふうっと息を吐いた。
それから珍しいことに、「お嬢さん」とわたしを呼んだ。
わたしがおそるおそる座敷に入ると、小陽さんはすいっと立って襖を閉めた。それから「昨日、見てらしたでしょう」とささやくように話しかけてきた。
「お嬢さん。あの箪笥はね、ほんとはうちにあるはずのものなんですよ。昔、私の祖先が船の上で使っていたもので、神様を中にいれたのもその人なんです。その証拠に、私は神様の名前を知っています」
そう言うと、小陽さんは箪笥の前に膝を揃えて座り、呪文のようなものを唱え始めた。風が吹くようなひゅうひゅうという音で、唱え終えるまでには十秒ほどもかかり、名前を呼んでいるようには思えなかった。
ところがその直後、ことことと微かな音がした。音は箪笥の中から聞こえた。何かが桐の抽斗を震わせて、小陽さんの呼びかけに応えた――そんな気がした。
わたしはまた恐ろしくなった。小陽さんは神様を連れ戻しに来たんじゃないか、と思ったのだ。このひとならは、この箪笥を軽々と持ち上げて持ち去ることができるのではないか。でも、神様がいなくなったらうちはどうなってしまうのだろう? そう考えだすと体が震えた。
小陽さんはするりと立ち上がると、わたしの前にやってきた。すぐ目の前に屈み、薄いてのひらでわたしの手を包んだ。
「でもね、この箪笥はこの家でずっと大切にされていたんでしょう。私にもそれがわかります。このままこの家に置いてもらうのが、神様にとっては一番よいのだと思います。それに、もう私の生家はないのだし」
そう言って、小陽さんは猫の仔でも触るように、わたしの手の甲をそっと撫でた。
小陽さんは二年ほど我が家に通った。
彼女の息子が亡くなったのは夏の盛りだった。元々体力がなかったところに夏風邪を引き、それが悪化してとうとう力尽きたのだそうだ。わたしは朝顔が巻きつく垣根の向こうに、小さな骨壷を抱えて歩く小陽さんの姿を見た。
その翌日、小陽さんは仕事を辞めた。
「わたしの後は、お嬢さまがわたしよりもずっと立派にお務めになると存じます」
彼女は父にそう言ったという。
わたしは無性に寂しかった。玄関から出ていこうとする小陽さんを、「小陽さん!」と大きな声で呼び止めた。彼女はひっそりと笑って、深くお辞儀をした。
そうして、すぐに村からいなくなってしまった。
今も箪笥は母屋の一室、小綺麗な六畳間にひっそりと安置されている。
毎日水と生米を供え、部屋の中を整えるのは、わたしの役目だ。
神様箪笥 尾八原ジュージ @zi-yon
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