君が忘れてくれるまで。

トム

君が忘れてくれるまで。



 ――ゆうちゃん! ゆうにぃ! なんで、なんでボクを置いてくんだよ――



 ふと目を開けると、まだ夜は明けておらず。かと言って暁闇ぎょうあんとも言えぬ、青藍せいらんの色をしている。「くわ」と大きく欠伸を一つして、身を起こして縮んだ身体を伸ばして目を覚ます。見上げたベッドの上では未だ、寝息を立てて静かに彼は眠っている。ひょいと身軽に枕元へ跳び顔を覗き込んでみると、何やら夢でも見ているのか、閉じた瞼の裏で瞳が動いているのが分かる。そんな無防備にキョロキョロされていると、思わず手を出してしまいそうになるのだが、グッと堪えて目を逸らす。



 家人が誰も起きて居ないリビングで一人、大きなソファでゆっくりしていると、様々な事を思い出す。


 

 ――俺は所謂野良猫だった。


 生まれ落ちてすぐ、同輩達と共に段ボール箱に押し込まれ、まだ目も開いていないうちにどこかの河川敷に置かれた。皆が本能で母を探して箱を這い出ていく中、俺は只々怖くてその場で蹲って震えていた。ニィニィと言う声が遠ざかって行き、何時しか何も聞こえなくなった頃、鼻先に水滴がぽたりと当たる。ポタリがポタポタに代わり、何時しかけたたましくダンボールを叩くバタバタに変わっても、俺はその場で動けずに唯、ミィと声を上げる。……しかしそんな俺の声はどこにも届かずに、徐々に冷えていく身体と薄れていく意識の中で、暗い眠りに誘われた。



 ――ばれ! 頑張れ!


 その声は遥か遠くから聴こえ、眠いのに邪魔をしないでほしいと思っていると、その声が自分のすぐ傍で言われているのに気がついた。「ミィ」と力を込めて鳴いてみたが、あまりに小さくか細い声は、自分がかなり弱っているのだと本能的に理解した。それでも俺の声を聞いたのか、傍で話したその誰かは「生きてる! 良かった! 生きてるよ!」と騒ぎ出し、誰かに何かを言われていた。


 ――気がつくと俺は臭い匂いのする場所で、小さな檻の中に入れられていた。動物病院と言うらしい。……今思い出してもあそこは嫌いな所だ。痛い注射や、手術もされた、いい思い出なんて一つもない。だから、ご主人が俺をネットに入れると、ここに連れてこられると分かって、しょっちゅう暴れて逃げ回っていたものだ。




 ……俺のご主人、播磨はりま 裕二ゆうじは出逢った当時、まだ小さい小学二年生というやつだった。その日も学校でがあったらしく、彼は下校途中にあるこの河川敷にやって来た。降り出した雨の中、それでも彼は橋の下になるその場所で、一人になるために。……だが、その場所に行く途中、見知らぬ段ボール箱を見つけ、中で動かなくなっている俺を見つけて連れ帰ったのだ。


 ――お母さん! この子を助けて! 一人ぼっちで捨てられてたの! だからお願いします! この子はボクと――。



 ガチャリと音が聞こえ、リビングに彼の母である公子きみこが眠そうに半分だけ開いた目で、ボンヤリとしながらソファにどかっと腰を落とす。


「んん~、まだ寝足りないよ~。昨日も結局残業だった。……あのハゲ課長、いっつも私に押し付けやがってぇ~」


 朝起きてソファにダイブした後、愚痴を溢す。ほぼ毎日見る彼女の。だから当然俺は彼女が部屋に入った途端、既にソファから降りてローテーブルの下に避難済みだ。そんな彼女をテーブル下から見上げていると、ぐでぇと手足を伸ばした後「お弁当、作るかぁ」と気合を入れて立ち上がる。寝癖で後頭部が凄い事になっているが、家を出ていく頃には別人の顔になっているので、毎回驚きを禁じえない。立ち上がった彼女がキッチンに行く前に、ベランダの窓に近づくと遮光カーテンを引く。先程まで青藍色だった空は、少しだけ白んでいた。


 空の藍が白々となり、曙色しょしょくに変わり始めた頃、キッチンでは公子が「出来たぁ! 今日も完璧! 残り物ご飯と玉子焼きのマリアージュ! さぁて、朝はパン! パンパパン♬」と鼻歌交じりに洗面に向かう。いつもの事だが、朝食を摂ろうと歌いながら何故顔を洗いに行くのだ? と思っていると、裕二も起きてきたのか、ドアのところでお見合いしていた。


「おはよう息子よ! 後は頼む! コーヒーは濃いめで」

「……はいはい、おはよう。ってか毎朝おんなじ事言わなくても分かってるよ」


 そう言いながら入ってきた彼は既に洗面を終え、服装も全て着替え終わっている。片手にぶら下げたバックパックをダイニングの椅子に掛け、そのままキッチンに向かい、ブツブツと言いながらも準備を始める。


「……洗い物もそのまんまじゃねぇか。……ったく」


 テキパキと食器棚から幾つかの皿を出し、テーブルに置いてある食パンを、トースターに放り込むと、冷蔵庫を漁ってサラダを作り始める。ミニトマトをさっと水で流し、レタスを千切ってボールに入れて行く。ブロッコリーは冷凍庫から出してレンジに入れると、そのままチン。コーヒーサーバーに水をセットしたと思ったら、そのまま豆を上部に入れてスイッチしている。なんとも要領がいいと言うか、手慣れすぎていると言うか……。まぁ、毎朝のことなので見慣れた光景ではあるのだけれど。卵とベーコンを同時にフライパンで炒め始めると、そのままシンクに溜まった洗い物をして、全ての工程が終わる頃、別人に変身した公子が戻ってくる。


「……お?! 洗い物まで終わってんじゃん! さんきゅー、!」

「誰だよ? 俺は裕二だ」

「サンだよ! 私の愛しの息子って意味!」

「……母さんが言うと、日本語にしか聴こえねぇって……。ある意味すげぇよ」

「む?! それは褒めているのか? ぶじょ――」


 ……そうしてにぎやかに会話をしながら二人は朝食を頬張り始める。それはまるでいつもの日常のようで、ほんの少し違和感を感じさせながら。



「……今日は何時に帰る予定?」

「午前中の講義の後、バイト入ってるから、少し遅くなるかも」

「……そう」

「ねぇ、裕二」

「何?」

「……無理、してない?」


 途端、彼は咀嚼していた口を止め、じっと俯いたまま全ての動きを止めるが、すぐに頭を振って「してない」と答えると、食事を再開する。


「本当に? 母さんだって――」

「してないってば!」


 ダン! と大きな音を立ててテーブルを叩くと、裕二は食べるのを止め、皿を全て纏めてシンクに放り込むと、口を袖で拭きながらバックパックを引っ掴む。


「……ごちそうさま。もう行くよ」


 振り返りもせずそれだけ言うと、彼はそのまま玄関から飛び出すように出て行ってしまう。残された公子はそんな彼を黙って見送った後、大きな溜息を一つだけ零して小さく呟いた。


「……私だってのに、アンタが哀しくない訳ないじゃんか」



 打って変わってノソノソと、出社の準備を整えると、シンクをチラと見つめた後、玄関の鍵を閉めて出ていった。




 ――はぁ~、仕方ない親子だ。


 二人が出ていき、静寂が戻ったリビングで思わず愚痴を溢していると、不意に視線を感じてそちらを見やる。それはどこから現れたのか、一匹の仔猫がこちらに近づいてくる。……まだ目も開ききっていない、歩くと言うより這いずると言ったほうが近い表現になるが、それでもその口は何故か異様なほどに弁舌が立つ。


「よぉ、あの二人は相変わらずの引き摺りっぷりだな」

「……あぁ」

「お前もまんざらでもないんだろう?」

「…………」

「沈黙は是。なんだぜ


 コイツは向こうでどんな連中とつるんでいるんだと思いながら、小さくため息を吐いて頭を振る。俺の記憶の中では「ニィニィ」と、可愛い声で鳴いていたのに……。


「そりゃあ、十二年も一緒に居たんだ。情愛だって湧くだろう」

「……はっ、その人間たちに俺たちは捨てられたのにな」

「二人はあいつらと関係なかろう!」


 その言葉に苛つき、思わず爪を立てて彼を引っ掻くと、その部分から彼は煙のように消えていく。


「ははは。まぁ、好きにしな……っと、伝言だ。『待ってはやるが、刻限は守れ』だとさ」

「……分かっているさ」



 陽の光が窓から差し込み、ほんの少しだけ気温が上がったリビングで、俺はソファの定位置に戻ると体を丸め、日差しを浴びるようにして目を閉じる。




「――裕一ゆういち!」

「えぇ?! ここは宅配便のキキでしょ!?――」

「良いの! 僕の大切な名前をあげるの!」

「――っ! ゆ、祐ちゃん……」


 臭い匂いのする場所から二人の家に連れてこられてすぐ、最初にこの二人が発言したのが俺の名付けだった。動物病院である程度の発育経過を見た後、各種検査や注射を打たれ、二人が保護すると決め、俺はこの家に引き取られる事になった。公子は俺の体毛が真っ黒であった事から「キキ!」と変な名をずっと推していたが、主人である彼が「裕一」を頑なに守り、公子が根負けする形で俺の名は裕一に決着した。


 裕一……それは主人の大好きだった双子の兄の名前。主人の兄は彼が幼い頃、死別している。毎年行っている二人の誕生日、家で家事をする母の手伝いを主人が行い、父と裕一は買い物に出掛けて交通事故に巻き込まれたと言う。当時の主人にとって兄は自慢の兄だった。かけっこをすればいつも一等賞になり、字を書かせれば誰よりも綺麗な字を書くんだと、周りに言って回った。「じゃあお前はどうなんだ?」と難癖をつけられても、どこ吹く風と気にも留めなかった。……実際はどうだったのか、本人が語らない以上、その詮索をする事はなかったが。……訃報の後、主人はそれまでとは別人のように、暗く大人しい性格に変わってしまった。元々少なかった友人は彼の変貌ぶりについて行けず、いつも一人で遊ぶようになってしまう。そんな彼のお気に入りだった場所が、俺と出逢ったあの河川敷だ。近くに児童公園もあったのだが、彼の父や兄といつもあの河川敷でキャッチボールやサッカーなどをして走り回っていた。一人で遊ぶようになっても初めの頃は橋脚にボールを当てるなど、想い出をなぞるような事をしていた。何時しかそれも徐々にしなくなったが、それでもあの河川敷に行ってはぼんやりする事が日課になっていく。




 小学校に上がる頃、突然それは静かに始まった。


 始まりは些細なこと。クラスの誰かが話しかけたのに、ボーっとしていた彼が返事をしなかった。決して無視をした訳じゃない。ただ、ぼんやりしていてその声が彼に届いていなかっただけ。だがその翌日、クラスの何人かが彼と話をしなくなったのだ。それは何時しかクラス中に広がって、小学二年生にして、彼の友達は一人も居なくなって居た。


「……あのね、おかあさん――」

「うん、どうしたのゆうちゃん」


 名付けを譲らず、じっと母公子を見つめる彼の大きな瞳から、ポロリポロリとこぼれ落ちたそれは、どこまでも綺麗で美しい。同じ目線に降りた彼女は優しく彼を抱きしめると、その震える小さな唇から聞かされる。悲しく、そして辛く苦しい地獄のような日々の独白を……。


 ――お前なんかより、兄貴の方が生き残ればよかったのに――。


 その言葉を最後に彼は限界を迎え、激しく慟哭し、声にならない声を叫び、只々母の胸にすがりつき、疲れて眠りに落ちるまでずっと怯えるように震えていた。


 ――ごめんなさい……ボクが生き残ってごめんなさい――。





 新天地となったこの場所の近くに河川敷はない。ここは母の出身地である地方都市、山がマンションの窓から見え、以前暮らした戸建ての一軒家よりもかなり部屋数は減った。


 何故彼女はそんな選択をしたのか。


 学校には勿論、相談という形で話をしに行った。が、その学校の教師陣の態度は信じがたい対応を見せた。担任教師は「そんなの絶対にありえません。ましてまだお子さんは低学年です。こう言ってはなんですが、彼は少しクラスで浮いて――」と聞くに堪えない言葉を吐き、話にならないと校長に話をすると言った途端、周りの教師たちが「うわモンペかよ」と小声で言う始末。挙げ句、校長に話をすると「担任から聞いていますが……お子さんはどうも」と学校自体で取り合おうともせず、教育委員会に訴えると言えば「困るのはそちらですよ」と呆れる返事が返ってきた。


 ただ、彼女も言われるがままではなく。その会話を全て録音し、スマホに動画も残してそれらをSNSに拡散、教育委員会に匿名で提出したのは、引越し先で全ての手続を終えた後だった。


「――ゆうちゃん、もう大丈夫だからね。お婆ちゃんも近所だから、何時でも遊びにおいで」

「うん、ばあちゃん、ありがとう」


 こうして心機一転。全ての想い出を過去にし、二人と一匹の新生活は始まった。彼も徐々にではあるが暗かった部分も減り、新しく転校した小学校も、次の学期になる頃には数人の友人が出来ていた。中学校へもそのまま地域の中学へと入学し、高校受験を気にし始めるまで、第二次性徴期や、可愛い反抗期で賑やかな生活を送っていく。


 彼が高校二年の夏、初めて出来た『彼女』を家に連れてきた。当然だが家にはちゃんと母の公子も居て、無論俺も同席していた。彼女を連れた主人は妙に大人ぶっていて、普段と違う言葉使いで、母は必死に笑いを堪えていた。公子曰く「ゆうちゃんの彼女お人形さんみたいに可愛らしい!」と喜びを全身で表し、俺を抱えてぐるぐる周り、抗議の声をいくら上げてもその声を聞き入れてくれずに、気持ち悪くなってすぐにテレビの裏に逃げ込んだのは、今思い出しても憤懣ふんまんやる方ない。そんな可愛い彼女と別れたのは確か……。



「別れちゃったの?!」

「……あぁ」

「どうして!?」

「言いたくない」


 そう、あれは主人が大学進学の為に塾へと通い始めてすぐだ。正月休みに帰省した彼女が戻ってきたからと、初詣に行ってくると出掛けて、かなり不機嫌な様子で帰ってきたのを不審がって、母が聞いて帰って来た答えがそれだった。いくら母が問いただしても、主人は頑としてその理由までは言わなかったが、その夜一緒のベッドで聞いたあの言葉は「あぁ、確かにそれは別れるだろうな」と納得してしまった。



「……クソ! なんで。なんでなんだよ……。アイツがをした所為で、俺がどれだけ辛い思いをしたと思って――」


 俺の背に顔を押し付け、グスグスといつまでも聞こえたそのすすり泣きは、既に老猫となった俺には少しきつかったが「……今は好きなだけ泣けば良い」と彼が寝息を聞かせるまで、ずっと我慢した。




 ふと閉じていた目を開け、その双眸をベランダの窓に向ける。意識したわけではない、ただなんとなく長考していた意識を一度リセットしたかっただけ。そうして見つめた先の空はいつの間にか青を過ぎて雲を影にし、東雲色しののめいろへと変じていた。


 同じ姿勢に少し疲れ、一度体を伸ばして尻尾まで張ってみると、一気に力を抜いて仰向けになる。未だこうするのは長年の癖なのだろう、身体がこわばることなど、もう無いというのに。ただそれでもこうする事で気分というものが切り替わってくれるのも事実なのだ。そうしてソファの上で起き上がり、ふわりと跳んで床に降りる。


 リビングの向かいにある部屋へ入ってすぐ、ドアの正面に洋風の仏壇が置かれている。その背は百六十程は有ろうか。上下二段に分かれていて、上段には位牌や写真が飾られていて、下の段には仏具や貴重品などが収められていると、主人から聞いた。上段の扉は今閉じられ、その中を望むことはできない。幾つも写真が並べられ、そこには皆笑顔のものしか置かれていないらしい。ふと、横を向くと彼女のベッドが綺麗にセットされ、本来の彼女の几帳面さが見て取れる。部屋のカーテンは閉じられ、今この部屋は暗闇と言っていいだろうが、猫である俺にとっては関係ない。そのままベッドの下に腕を入れ、爪で小さな箱を取り出すと、その蓋をひょいと引っ掛け開けてみる。


 ――猫じゃらしに、ケリグルミ。ネズミの形を模した走る玩具に、放ると鈴がなるボールと未だ未開封の高級猫缶と……古ぼけて擦れてしまった、小さな鈴が着いた首輪が一つ。確か着物の端切れを使ったと、主人の祖母が言っていたか。手作りで「ゆうちゃんの首に巻くものだから、やはり私達と同じ素材が良いだろう?」と笑いながら着けてくれたな。直接会ったのは数えるほどだが、いつも笑顔を絶やさない優しい人だった。そんな事を考えながら、そっとそれをなぞるように触れていると、玄関の方でガチャリと音がした。



◇  ◇  ◇



「……ただいま……って母さんはまだ帰ってないのか」


 玄関を入ってすぐ、リビングに電気が点いてない事に気がついて、母がまだ帰宅していないと気がついた。そのままバックパックを部屋に放り込み、洗面所で手を洗ってからリビングの電灯のスイッチを入れると、開きっぱなしのカーテンから外を望む。このマンションに越してきて十二年、当時この住宅街の中で一番高かった高層マンションだったが、今はすぐ傍に似たようなマンションが幾つも見えるようになっている。おかげで、綺麗に見えていた遠くの山が半分になってしまった。近所の店も幾つか変わり、近所にあった個人商店のお菓子屋が潰れた時は、当時中学生だった俺も、結構衝撃を受けてしまった。


 ――人も街も……何もかも。その全ては何時しか過去になって行く。写真や想い出でそれは何時でも見られるけれど、それでも何時かはそれすら忘れて、消えていく……。


 それは俺にとってある意味でとても良い方向に進めたけれど、同時に失くしたくない想い出だって沢山有るんだ。お菓子屋で一緒に遊んだ友達、喧嘩もしたりしたけれど、今では笑って話せる親友だ。……今はまだ元気な婆ちゃんだって、最近は足腰が痛いと出不精になったと母が困っていた。今度の誕生日に買おうと思っている椅子付きの買い物カート、喜んでくれると良いなと思う。


 ――そして、父さんと裕一兄さんと猫の裕一……。この三人だけは何があってもどんな事が起こっても決して、忘れない。だって、彼らは俺の、俺と母の大切な家族なんだから……。



 ――ちりん。


「……?!」


 一人リビングの窓辺で外を眺めていると、不意に小さく鈴の音が聞こえる。どこから聴こえたと思い、周りを探してみるが、どこにもそんな物は見当たらず。最後に母の部屋の扉をそっと開けてみると、真っ暗な部屋でちりんとまた聴こえた。慌てて目を凝らして部屋の電気を点けようと、壁に手を向けた時、その声はベッドの傍からはっきりと聴こえた。


「点けるな。少しじっとして目を閉じてみろ、すぐに慣れるから」

「だ、誰だ?!」

「……大丈夫だ、危害を加えるつもりはない。ただ、灯りは不味いだけだ。


 聞いた事もない少ししわがれた声。……だけど、その声に危害を加えないと言われた途端、爆発しそうなほどに暴れていた心臓が、すっと落ち着いていくのが分かる。聴いたこともないのに何故かその人を知っているような気がして、目を閉じ、ゆっくりと目を開いて見るとそこにはついこの間、悲しい別れをしたばかりの彼が居た。



◇  ◇  ◇



 しくじった。……本来なら夢に現れようと考えていたのに。公子め、こんな小細工をしやがって。首輪は卑怯だ! 十年近くも着けていたんだ、触りたくもなるだろう。……まぁ、こうなってしまったなら仕方ない。少し時間が変わっただけだ。公子にも一言くらい言ってやりたかったが……伝言として頼むとしよう。


「どうしても裕二に伝えたい事があってな。こうして、言葉が交わせるようになったんで、少しお願いして来させて貰った」

「……ゆういちぃ」


 俺の言葉を聞いているのか、腰が抜け、へたり込んだ状態で、既に涙と鼻水で彼の顔はぐしゃぐしゃになっている。それでも俺を抱きしめようと、ズルズル尻で引き摺ってきて、ガバリと俺を掴もうとして……すり抜ける。


「当然だろう、もう肉の身体は無いのだから。互いに触れることはもう出来ない」

「うぅ……ゆうちゃん~。なんでぇ、どうしてぇ。嫌だよ~、ぎゅってしたいよ~」


 ……いかん、あまりの出来事に子供返りしてしまったのか? 語彙がおかしい。それに……本当は俺が「そう願えば」触れるんだが……今は駄目だ。


「落ち着け。いや、まぁ難しいとは思うが、一旦落ち着こう、な。ゆっくり深呼吸でもして、意識をしっかり保て」


 俺の言葉に理解がやっと追いついたのか、彼は言われた通りに息をゆっくり吸っては吐きを繰り返し、流した涙と鼻を袖口でズズと啜りながら擦って拭いた。


「ふぅ~、少し落ち着いたよ。……でも本当にが起こるんだ。まさか、今俺夢でも見てるのかな……痛てっ」


 そう言って裕二は自分の手の甲をつねり、痛みがわかって一人納得すると、興味津々といった表情でこちらを見つめてくる。


「ねぇ裕一、聞きたいん――」

「ダメだ、質問は一切受け付けない。と言うより答えられない、そう言う『約定』を交わしているからな」


 これは本当の事だ。と様々な制約の下『約定』を交わす事で、俺は今裕二の「理解出来る」言葉で話している。もしこれが一つでも違えてしまえばその瞬間に、朝に来た同輩の様に煙となって霧散してしまう。だから先に俺の言葉を彼に伝えなければならない。そう言う意志を込めてまっすぐ彼を見つめていると、渋々ではあるが彼も納得し、その場に胡座をかいて座り直した。


「……分かった。ちゃんと聞くよ」

「良し、じゃぁ、今から言うことをきちんと理解し、必ず納得してくれ」



 ――俺のことは忘れてくれ。これからは前を向いてちゃ――


「嫌だ!」


 まだ全てを言いきっていないにも関わらず、彼は大きな声で否定する。思わず俺は吃驚して、尻尾を思い切り膨らませてしまう。


「お、お前……今、約束したばかりじゃないか」

「何馬鹿なこと言ってるんだよ?! なんで俺がゆうちゃんを忘れないといけないのさ! ゆうちゃんは、河川敷で逢ったあの日からずっと大切なだよ! 死んだからって何故家族を忘れる必要があるんだよ? そんな馬鹿な事は聞けないし、納得できない!」


 ……そうだ、裕二はこう言う奴だった。普段は大人しくて素直なのに、一度こうだと決めると頑として聞かない厄介な奴だ。


 家族……か。そう思ってくれてたんだな。同じ日に捨てられた、血を分けた兄弟たちはすぐに居なくなったのに。


 そう思った瞬間、裕二と公子と俺の二人と一匹の騒々しくも楽しくて、いつも笑い合っていた彼らと、その側で寝転ぶ俺の姿が脳裏に鮮やかに蘇ってくる。俺を風呂に入れようとして、公子が滑って湯船に嵌ったこと。俺が寝そべるソファに寝ぼけた裕二が倒れ込み、あまりの苦しさについ爪を立て、わんわん大泣きさせてしまった事……。猫じゃらしを必死に追いかけて、飛び掛かったらそのまま裕二にダイブした事など。次から次へと思い出し、止まらなくなったとても大切なその一つ一つがキラキラと輝いていつの間にかボロボロ水滴が溢れていた。


「俺だって……俺だって裕二達と暮らしたこの十二年は大切だ! でも……でもだからこそ、それに引っ張られて立ち止まっちゃいけないんだよ! 生者は死者をいつか忘れなきゃいけないんだ! じゃないと! 死者である俺の未練が残ってしまって……裕二にとって重荷になってしまうんだよぅ。……今すぐ忘れろという訳じゃない。ただ、悲しみを、苦しみを抱え込まないでほしいんだよ。分かるだろ? 大事な人が、心から思う大切な人がいつまでも自分の事で苦しんでいたら、どんな気持ちになると思う? ……もう何も言えないんだぞ。何も伝えられず、ただ見ているだけなんて、そんなの、そんなの辛すぎるだろう」


 そこまで言うのが限界だった。その後は溢れる涙を止められず、ニャァニャァと声を上げて泣き出してしまう。



 ――まさか、年寄りのアンタが泣いちまうとはな。


「……父さん……と、ゆうにぃ」


 裕二が俺の号泣に驚き、呆けてこちらを見ていると、その頭の上から別の声が聞こえ、見上げた裕二が二人の名を告げ、固まった。


「元気そうで何よりだ裕二、……ずっと見ていたぞ」


 その言葉が彼に届いた途端、二人に彼は抱きついた。


「父さん! ゆうにぃ! なんで、なんでボクを置いて逝っちゃったんだよ?! 嫌だよ! ボクも連れて行ってよ!」

「じゃぁ、母さんはどうするんだ? お前まで居なくなってしまったら、母さん一人になってしまうぞ。お前の事を何があっても守ると言った母さんを、お前は置いて行くのか?」

「……じゃ、じゃぁ母さんも――」

「こら裕二、そんな事を言っちゃ駄目だよ」



「本当は俺たちはここに来るつもりは無かったんだ。ただ、見ていて余りに彼が可哀想でな。裕二、お前と母さん二人を残して、先に逝ってしまった事については申し訳ないと思っている。それでお前がどんなに悲しい思いをし、そして苦しい目に遭ったかも。だけど、裕二は頑張って乗り越えたじゃないか。そうして俺たちの事をちゃんと過去として納得は出来なくても折り合いは着けているだろう? なぁ裕二、これからもお前は沢山の出会いと別れを経験する。そこには必ず『死』も含まれているんだ。慣れろとは言わない、でも、その度に引き摺られ、立ち止まっていたら、裕二自身の人生が立ち行かなくなってしまうかも知れない。だから、思い出してくれれば良いんだ、その人と笑った時を。心に辛い事ばかりを溜め込んでしまうと、何時しか潰れてしまう。……だから、普段は忘れても良いんだ。心の奥の大事な場所に楽しかった思いと共に、そっとしまっておいてくれればそれだけで、俺たちは充分だ」


 未だ父の身体にしがみついてはいるが、どうやらきちんと伝わったらしい。ギュッと瞑ったままの目を、ゆっくり開けて父を見上げると彼はゆっくり言葉を紡ぐ。


「……うん、解った。すぐにそう出来るかと聞かれると難しいけど、頑張ってみるよ」

「そうか、偉いな。じゃぁ、の言った事も、理解できるな」


 裕二の父はそう言って、俺の方に目線を寄越す。釣られて裕二がこちらに振り向くと、泣き笑いの表情でうんと頷いた。


「……良かったな、「ゆうちゃん」」

「はは、アンタにその名を呼ばれるのは少し変な気分だ」

「ははは。確かに俺も言ってて妙な気分だよ、裕一は俺にとって「この子」だからな」


 そう言って彼の横に佇む小さな『裕一』の頭をクシャリと撫でていると、俺を含めた二人と一匹の身体がぼやけ始める。


「……無理やり来ちまったからな、そろそろ刻限だ」


 彼の言葉に俺は頷くと、ふと思い立ってそれを咥えて裕二の足元に置く。


「これを、裕二に渡すよ。根付にでもして使ってくれれば嬉しい」

「……これ」


 ――ちりん。


「じゃぁ、さようならだ」

「そんな……」

「裕二」


 俺はそっと歩き出し、二人の足元でちょこんと座る。




 ――大好きだぞ、俺のご主人、良い生涯をありがとう。此処から先は自身のためにどうか精一杯生きて下さい。



◇  ◇  ◇



 二人と一匹が穏やかな笑顔を見せながら、光の粒子となって消えていく。思わず傍に駆け寄りたいが、足に力を込めて踏ん張って堪える。笑顔を……笑顔を見せて送らなきゃ。そんな思いと裏腹に、眼の前の景色はどんどん滲んでぼやけていく。


「……とうさ……ゆうに、ゆうちゃ」



 

 はっとして飛び起きると、いつの間にそこに居たのか、俺はリビングのソファで眠っていた。


「……え?! あれ、夢?」


 何か大切でものすごく重要な夢を見ていた気がするのだが、どうしてもそれが思い出せず、うんうんと頭を捻っていると、玄関が空いて「ただいま~、あ! 裕二帰ってるの?」と呑気な声が聞こえてくる。そう言えばシンクを覗いた時、洗い物をしていなかったなと思い出し、一言言ってやろうと立ち上がった時、足元で小さな音が鳴る。



 ――ちりん。





 ~完~

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君が忘れてくれるまで。 トム @tompsun50

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