6:ある夫婦
装いを改めて、鏡でまじまじと自分の顔を見つめる。
不思議だ。これが間違いなく私の顔なのに、他人の顔のようにも思えてしまう。
歳が違う。髪が違う。瞳が違う。人種が違う。三十路の日本人女但馬――――じゃない、
でも、これが私。明松ハルになる前の私だ。
相手有責で浮気夫との離婚を成立させた次の夜、突如足許に起こった地割れに為す術なく呑み込まれたときは、志半ばにして死を覚悟した。
だけど、そこから伸びてきた力強い腕に抱き締められた瞬間、すべてを思い出した。
異世界転生とやらが昨今の流行りらしいけど、私はその逆。異界から日本へと、誤って転生してしまっていたのだ。
相変わらずの強引な迎えに、しかし私は幾許かの猶予を求めた。
それらをすべて片付け、まずはこちらの両親に顔を見せに行った。特に母は、三十年振りの再会を泣いて喜んでくれた。
そして、冬の始まりの今日、ようやくここに、愛する本当の夫の許に戻ってこれた。
部屋を出て、蝋燭の炎が揺らめくヨーロッパの古城さながらの廊下を進む。逸る心を押さえ、飽くまで淑やかに。
広い謁見の間には、城の主でもある夫の姿しかなかった。私は段上の玉座に向かって膝を折り、慣れた仕草で優雅に一礼する。
「ただいま戻りました、アイドネウスの君。長き不在、まことに申し訳ございません」
ハルとして生きていた頃には耳にしたことすらなかった言語が、なめらかに桃色の唇からこぼれる。
私の口上に、夫の口許が薄く綻んだ。
「――――よく戻って来てくれた、
深みのある声が、この国の后として与えられた私の名前を呼ぶ。
頭上からの声に、私は言葉ではなく頬を寄せることで応じ、懐かしいぬくもりや鼓動を堪能した。この腕を思い出した今となっては、どうしてあんな浮気男を伴侶に選んだのか不思議だ。
『
冥界、死者の国というと陰鬱な印象を覚え、それが王のイメージにも直結する人が多いと思うけれど、それは早合点というもの。仏教に於ける浄土に相当する楽園、エリュシオンだって、ハデス様の管轄下にあるんだから。
無駄なく均整の取れた体躯や高貴な面差しには、まさしく王者に相応しい風格が備わっている。ヒカルも、既婚者でありながら無知な若い女を引っ掛けられたんだから、まあ見栄えはそれなりだったけれど、『髪黒き御子』ハデス様とは比べるべくもない。
「あなたが急に姿を消して、気が狂いそうなほど捜した」
「ごめんなさい……」
私の不注意が引き起こした事故で、母様とハデス様にはとても心配をかけてしまった。けれど母様もハデス様も、気にしなくてもいいというように微笑んでくれる。
「無事に帰って来てくれただけで充分だ。……誤って輪廻の巡りに巻き込まれたことも想定してはいたが、さすがに極東の島国に転生しているのは予想外だった。あの連中から連絡を受けたときは驚愕した」
あの連中というのは、少し前にハルとして訪ねた≪WWW≫の店番たちのことだろう。彼岸と此岸の狭間に建ち、両岸を売買で結ぶ店。冥界とも付き合いがあって、私も后として応対し、美の箱などを卸したことがあった。あのとき思い当たる節がなかった「立て替えてくれるあて」が誰だったのか、今はよく解る。
それにしても、元旦那への復讐にエロースの矢を選んだのも、今思えば皮肉なもの。
何故なら、私とハデス様の出逢いもまた、エロースの矢によって仕向けられたものだったから。
諸事情により黄金の矢で射抜かれて私に一目惚れしたハデス様は、数々の段階をすっ飛ばして私を冥界に誘拐し求婚してきた。怯えて拒む私に、ハデス様はとても優しく紳士的に接してくれたけれど、如何せん最初が最悪よりなお悪い。母様のところに帰れることになったときは天に舞い上がる心地だったし、制約により冬は冥界で暮らすことを定められたときは地獄に叩き落された気分だった。
そうして始まった夫婦だったけれど、季節を重ねるうち、誠実で真面目な『
「あちらでは結婚していたのだな」
「……ごめんなさい」
「謝る必要はない。姿形が変わってもあなたの魅力は変わらない。恋人や夫がいないほうがおかしいだろう」
ハデス様は普段それほど饒舌ではないけれど、その分照れてしまうほどの賛辞の言葉をくれる。
「しかし、浮気者たちへの復讐の道具にエロースの矢を選ぶとは、面白いものだ」
やっぱりハデス様、≪WWW≫で情報を仕入れてる。夫婦して同じこと考えるなあと単純に感心していた私は、続く言葉に目を剥いた。
「だが、あなたの元夫とその不倫相手は死んだ」
「え!?」
思わず私はハデス様から身を離し、傍目には表情に乏しい怜悧なその顔を見上げる。
「嘘。なんで……私のせい?」
ストーカーのように執着するヒカルと、それを蛇蝎の如く嫌う相葉さんの様子は、退職直前、部署違いの私の耳にも届くほどで、まさに私の意図した構図だった。あとはせいぜいヒカルが迷惑防止条例違反あたりで逮捕される程度だと思っていたけれど、可愛さ余って憎さ百倍の境地にまで至ってしまったのだろうか。
青ざめた私に、ハデス様が微かに笑う。
「あなたが気に病むことではない。不倫相手はあなたを呪い殺そうとして失敗し自滅した。元夫はその死に様を目の当たりにして発狂し自害した。それだけだ」
「相葉さんが、私を……?」
客観的には浮気だが、妊娠までした彼女からすれば、妻であった私こそが邪魔者ではある。でも呪い殺そうとしたって……そこまでする!?
「そして、二人の魂は今、冥界の法廷にいる」
「なんで!?」
もう一度声が裏返った。
「だって、日本や中国の死者は閻魔王率いる十王の管轄でしょう?」
「ああ。だから閻魔王に少々無理を言って引き渡してもらった」
人界に様々な国や統治者がいるように、天界や幽界もいくつかの領土に分かれている。日本の死者は、いわゆる閻魔様に裁かれるはずなのだが、ハデス様は職権乱用、いや越権行為をさらりと白状する。
「……まさかハデス様、私情に偏った裁きを下すつもりではないですよね?」
断罪者として許されることではない、と語気を強めて言ったが、私を溺愛する本当の夫はそこまで愚かではなかった。
「閻魔王にも、公正な判決を下すことを条件に融通を利かせてもらったのだ。そのような真似はしない。……ただ、
だが、とハデス様はどこか楽しげに続ける。
「異国で裁きを受ける裏切り者たちの前に、裁く側の立場で裏切った妻が現れる……そのくらいの意趣返しは許されるだろう」
「…………」
私は唖然とハデス様の顔を見返す。……もしかして、私以上に怒ってる?
ハデス様は冥界の王、死者の法廷の審判者にして罪人たちの看守。公明正大だけれど決して聖人君子ではない。
私もつい、想像を膨らませてしまう。法廷に引きずり出される浮気夫と不倫女。自分たちが、いわゆる「死後の裁判」にかけられていることは判るだろうけれど、告げられる言葉はすべて英語ですらない異国の言葉。厳しい視線に晒され、生き様に相応しい判決が下されても、何ひとつ解らない。
その法壇に、かつての妻が姿を現したら――――二人はどんな反応をするだろう?
……正直、ものすごく見てみたい、と思ってしまう私はもう、母様の庇護下にいた純真無垢な乙女ではない。無慈悲な冥界の后、破壊をもたらす女なのだ。
日本から持ち込んだ数少ない私物の中に、ハルの仮面がある。それをつければ、まるで服を着替えるように、私はペルセフォネーからハルの容姿になれる。……ついでに言うと、きっちり徴収した慰謝料含む預貯金も引き上げてきたけど、『
でも、さすがハデス様、「ざまぁ」の構造をよく解っていらっしゃる。
はしたなくも、隠し切れない高揚感が表情に表れてしまったらしい。私を見るハデス様の双眸が、満足げに細められた。
折りよく、そこに裁判官の一人が直々に訪れ、二人の裁判の準備が整ったと告げる。
「では行こうか、我が光、我が妻よ」
「ええ、ハデス様」
ハルの仮面を使うのはこれが最後。私の居場所、帰るべき場所はこの世界、様々な異名で畏怖される冥王ハデス様の隣だ。
ハデス様がごく自然な動作で腕を差し出してくれるから、私も当然のようにそこに自分の腕を慎ましやかに絡める。まるで舞踏会の如く完璧なエスコートで、私たちは法廷へと向かうべく謁見の間をあとにした。
法廷で会いましょう 六花 @6_RiKa
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