さんぽ

鹽夜亮

さんぽ

 ここはどこだろう。暗闇を照らすヘッドライトは答えを教えてくれない。カーナビもスマートフォンも電源を落として、当てもなく車を走らせてどのくらいが経ったのだろう。私は煙草が吸いたかった。コンビニに入るつもりはなかった。明かりに鬱陶しさを覚えたから。

 ふと通りがかる左手に、空き地が見えた。道路脇の小さな公園だろうか。私は車を滑り込ませる。駐車場であろう場所に他の利用者は一台もいなかった。心地よいと思った。エンジンを止めて、車を降りる。

 秋と冬の中間は、肌寒さを夜風に湛えている。煙草に火を点ける。公園には街灯が寂しげに、一つだけ灯っている。煙草を咥えたまま数段の階段を上がると、左手に地図が見えた。ひどく廃れている。端々の錆をオレンジ色の街灯が照らしていた。聞いたことも見たこともない地名だった。どうやら周辺は山に囲まれているらしい。地図、と呼ぶにもあまりにも大雑把なそれをぼうっと眺める。寺、神社、大して有名でもないであろう記念物の名前が並んでいる。唯一私の気をひいたのは、「双幹の欅」と書かれた山中を示す一つの矢印だった。…

 私は先程まで車で走っていた道を、歩き始めた。公園から出ても街灯は少ない。深夜の闇が深く、全てを覆い尽くしている。季節を思えば、周囲の山は紅葉に満ちていることだろう。だが、それは月もない夜の闇に紛れて、何一つその色を私に伝えてはこなかった。唯一歩を進めるたびにサクッと鳴る落ち葉の音だけが紅葉を伝える。もしかすると、もう紅葉は終わって、大抵の葉は落ちてしまったのかもしれない。

 脳裏に地図を思い浮かべながら、私は大通りを逸れて数件の住宅がある小道へと入った。明かりの灯った家はない。既に寝ているのだろう、そう思った。少し歩くと、目の前にトンネルが現れた。そこで初めて私は山に行き着いたことを知った。トンネルは狭く、内部を照らす明かりも心もとない。出口は見えなかった。左手には、民家がある。その横に山中へと続くであろう、手入れもされていない未舗装の道があった。私は迷うことなく、その道へ足を向けた。

 民家は廃屋のようだ。生活感は全くない。廃屋を横目に少し歩くと、山肌が壁のように目の前に現れた。私はそこで今日初めて、紅葉を見た。予想の通り、紅葉というよりもそれは冬の枯れ木に近いものだった。山肌の足元、道の突き当たりに木でできた小さな看板があった。「双幹の欅→」。右手には山肌を沿うように一人がギリギリ歩ける程度の狭さの道が続いている。また煙草に火を点けると、私はその道を登り始めた。

 お世辞にも歩きやすい、とは言えなかった。だが、獣道と呼ぶほど整備がされていないわけでもない。苦労は感じなかった。少し歩くと、左手の山肌にいくつかの石仏が見えた。ああ、そういえば欅の近くには寺があるようだった、と地図を思い返す。なんとなしに軽く会釈をして、坂を登る。急な山肌を登る道は、蛇のように畝っていた。登るにつれて、道は人工のそれから少しずつ自然の色を増していく。視界は全くの闇だった。街灯や道を照らす明かりは一つもない。一メートル先を視認することすら困難な道を、一歩一歩ただ歩いた。

 どれほど歩いたかはわからない。そう長い時間ではなかっただろう。私は山肌に欅を示す看板を見つけた。それはここだ、と告げている。しかし、その場所を見ても、壁のように切り立った山肌があるだけだ。どこにあるのだろう?…ふと視線を頭上に向けると、大きな幹が二つ道の上を横断するように覆いかぶさっていることに気がついた。

 「双幹の欅」は、空に向かって伸びてはいなかった。一つの根から伸びたそれは、のたうち回るかのように複雑な曲線を描いて、地表と並行に幹を伸ばしていた。歪だ、と思った。荘厳というには、どうも私には歪に思えて仕方がなかった。幹や根は太く、その生まれから今までの長い年月を思わせた。周囲の木は空に向かって伸びている。ただその欅だけが、捻じ曲げられたかのように畝って、真横に幹を伸ばしている。

 なるほど、確かに珍しいものではあるのだろう、地図に示す意図はただ双幹であったからというわけでもないのか、と私は一人納得する。

 欅の幹や根は、その形の歪さとは対照的に健康を思わせた。力強く、無数の枝を伸ばしながら、生命に溢れた肌を夜風に晒している。ここで私はようやく、この欅を美しい、と思った。

 欅の根の麓、そこには窪みがあった。疲れた足を癒すためにも私はその窪みへ腰を下ろした。窪みから上を眺めると、ちょうど双幹が頭上から正面へと伸びている。見れば見るほど、歪な木だ、と何故か私は可笑しくなった。それは自嘲であったのかもしれない。煙草の煙が暗闇にふわりと浮く。煙越しにも、欅はその幹の存在を鮮明に、私に示し続けた。

 足の疲労感が癒え始めた頃、私はこれからどうするかを考え始めた。登ってきた道を下ろうか、それとも欅の先にもまだ続いている、どこに向かうかもわからぬ道を登ろうか、選択肢はその二つだった。

 少しの思案の先、私はこれからどうするかを決めた。煙草を念入りに消して、窪みから体を起こす。

 笑いながら欅を撫でた。別れを告げるように、軽くパンパンっと幹を叩く。…

 私は歩き始めた。どこに向かうかは私だけが知っている。暗闇が周囲を再び覆い隠した。

 私だけの知る私だけの道筋を、私は煙草と共に歩いてゆく。…

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さんぽ 鹽夜亮 @yuu1201

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