#2 あの日の罰
「ああ、ようこそ、いらっしゃいました」
玄関から出てきた初老の男性は、杖をつきながらゆっくりと庭を横切り、門を開けると、まずは私に目を向けて、握手を求めた。
私は、彼の骨ばった手を握る。警戒心を解かすためのにこやかな笑みを返しながら、先に自己紹介をする。
「初めまして。私立探偵のアレクサンドロスと言います」
「ええ、果物屋のリージェさんからお話は聞いています。遠路はるばる、ありがとうござます。私が、サミュル・ジーウンです」
先に見た十八歳の頃の写真と同じ、爽やかな笑みをサミュルさんは浮かべた。
次に、サミュルさんは私の隣を見た。そこに立つ彼女に、私の時よりも親愛と懐古を込めた目線を送る。
「久しぶりだね、ローザ」
「ええ。サミュル君も、お元気そうで」
四十四年の時を越えた二人は、そんなことを感じさせないほど、軽やかに笑い合っていた。
◐
キャルセア村に初めて訪ねた日に、果物屋さんからの電話でサミュルさんが、私の探し人だと判明してから、何度かやり取りをして、三日後に彼とローザさんが再会するという約束を取り付けた。
私はそこまでのお膳立てを完遂できたので、この依頼からは離れるつもりだったが、ローザさんからその日に同席してほしいと頼まれた。言葉は丁寧だったが、有無を言わせぬ圧力があり、私は引き受けるしかなかった。
サミュルさんの家に入っていくだけでも、二人は親しげに話している。やっぱり、私がいる意味がないんじゃないかと思ってしまう。ダイニングのテーブルに着いてから、サミュルさんが入れてくれたミントティーのカップを手に取った。
「新鮮な、とても良い香りがしますね」
「分かりますか? 今朝、庭で摘んだばかりのミントなんですよ」
サミュルさんが頷く。私と同じように、ローザさんもミントティーを口にした。
カップから顔を上げたローザさんは、安心しきった子供のような笑みを浮かべて、口を開いた。
「改めて、ローズとサミュル君の話を聞かせてもらってもいい?」
「うん。……ここに来てから――」
「いいえ。あなたたちの馴れ初めから、聞いてみたいの」
はっきりとローザさんがそう切り出して、私は驚いて彼女の横顔を見た。彼女自身が傷つくような話題は、無理にでも止めようかと思ったが、ローザさんはどんな言葉も跳ね返しそうな、意志の強い目でサミュルさんを見据えていた。
「小さい頃から、ずっと一緒だったローズが、サミュル君とそんな仲だったなんて、あの日まで予想だにしなかった。だから、二人がどんな風に愛し合ったのかを、知りたくて……」
「分かった。全て話すよ」
私以上に困惑していたサミュルさんは、大きく頷くと、そのまま俯き加減に、テーブルクロスの網目模様を見つめながら語り始めた。
「入部式の時に一回しか顔を出した事のなかった僕でも、君たち双子のことは、挨拶の時に印象に残っていた。ただ、知っていたのは、名前と顔だけだったんだ。
でも、高校一年生のある朝、牛乳配達のアルバイトを終えた帰り道に、青いワンピースを着たローズと会った。最初はお互いよそよそしかったけれど、並んで歩きながら話している内に、どういう本が好きかという話題になって、彼女もミステリー好きだとを知り、一気に身近に感じた。
それから、時々、こっそり彼女と会うようになった。あの頃の僕は、人生のどん底で……。朝っぱらから酒を飲んで、働こうとしない父親の代わりに、必死で色んなアルバイトをしていて、それなのに当の父親からはちょっとしたことで怒鳴られたり、暴力を振るわれたりしていた。ローズは、そんな灰色の日々で見た光だったんだよ。
実は、当時の僕は大学に行くためにこっそり貯金していた。勉強の時間が殆どなかったから、浪人することはすでに覚悟していたけれど。ただ、卒業式を一週間前に控えた日、自室に隠していたその貯金を父に気付かれて、奪われてしまった。
僕も抵抗したけれど、体格のいい父には敵わなかった。そして、奪われた貯金はほぼ一日で、ギャンブルで消えてしまい、僕の中で、限界が来てしまった。
死ぬか、この町から出ていくか……自分には、そんな選択肢しかなかった。だから、そのことをローズに話して、一緒に逃げようと誘った。勢いでそう言ってしまったから、家族と仲の良いローズはそれを断ると思ったけれど、彼女はそれに乗っかってくれて、僕の方が驚かされたくらいだった。
二人で立てた計画通りに、卒業式の後、僕らは町を出ていった。周囲は浮かれているから、誰にも疑われずに電車に乗ることが出来た。ローズは、君と別れるのが身を裂かれるほど辛かったはずなのに、泣き言は一度も言わず、電車の席の上で、ずっと僕の手に自分の手を乗せていた。
北行きの終点で降りて、目の前に広がる大きな川。その向こうに、このキャルセア村が見えた。ローズは、それを見ながら、感嘆の息をついていたので、なけなしのお金で、その村へ向かった。僕らはすぐにキャルセアを気に入り、ここで暮らそうと決めたんだ……」
長い事自身の半生を語っていたサミュルさんは、ここで言葉を切ると、急に立ち上がった。終始無言の私たちに背を向けて、小さな本棚の一番下、アルバムを数冊取り出し、テーブルの上に置いた。
「この村の人たちはとてもいい人たちで、よそ者、金なし、宿なしの僕らにも、仕事を斡旋してくれて、この家も、ありえないほど安価で貸してくれた。僕は、漁師の手伝いをして、ローズはレストランのウェイトレスとして働いていた」
アルバムをペラペラ捲りながら、サミュルさんは語る。数多くの写真が収まっている。きっと、サミュルさんが撮ったのだろう、ローズさんが写っているものばかりだった。
ウェイトレスの恰好で、振り返りながら微笑するローズさん。庭にしゃがんで、スコップを片手にこちらへピースするローズさん。ここで出会ったのだろう、年の近い友達に囲まれて、自分の誕生日を祝ってもらうローズさん。……たった数年分の写真に、彼女の溢れるばかりの幸せが、封じられていた。
「……だけど、二人の知っている通り、僕らがこの村に住んでから五年後に、ベーナント工場が出来た。場所は、ローズの職場のレストランのすぐ傍だった……」
次のページには、これまでと別人のようにやせ細ったローズさんが、病院のベッドで寝転んでいる写真一葉だけあった。鼻に呼吸用チューブをつけてたまま、こちらに弱々しい笑みを浮かべている。苦しいのに無理していると分かる表情に、ローザさんが息を吞むのが分かった。
三十九年前、ベーナント工場から出た有害物質を含む煙は、キャルセア村を覆いつくした。健康被害を訴える人が続出し、重症化して亡くなった人もいた。その中の一人が、ローズさんだったのだろう。
「ある時から、ローズの呼吸がどんどん苦しそうになり、沿岸の大きな病院に入っても、原因は不明で、治療を受けても回復しなかった。一月後、意識不明に陥って、彼女は眠るように……」
テーブルの上で肘をつき、両手を組んだサミュルさんは、懺悔をするかのように、その手に自分の額を乗せた。
「もしも、僕がこの村へ来ようと言わなかったら……。いや、その前に、駆け落ちしようと誘わなかったら……ローズは、今も元気に、トレンバー町で暮らしていたのかもしれないと、ずっと思っている。君たち家族には申し訳なくて……」
私には、かける言葉が無かった。病気の原因は工場にあり、貴方は全く悪くない。そう思っていても、同じことは何度も言われたのだから、きっと意味が無い筈だ。
だが、ローザさんの行動は速かった。立ち上がり、サミュルさんの両手を自身の手で包み込む。顔を上げた彼に、慈愛に満ちた笑みを向けた。
「アルバムの写真を見たら分かるわ。妹には、貴方とこの村で暮らすことでしか得られない幸福があったのよ。確かに、若くして亡くなったことはこの上ない理不尽だったとしても、最も愛する人と一緒に過ごした日々は、何物にも代えられないものだったはずよ」
「……ごめんよ。ただ、僕にとって、最大の幸福は、彼女と一緒に暮らせたことだったんだ……」
震える声で絞り出したサミュルさんの本音を、ローザさんは無言で首肯した。
◐
教科書で事件を学んでいても、実際に目にする村は印象が全く違う。そよそよと流れる風は、深呼吸したくなるような朗らな気分にしてくれた。
ローザさんと二人で、ローズさんのお墓に向かっていた。サミュルさんもあの時の後遺症で肺疾患を患っていたので、家に残った。彼から描いてもらった地図を持って、ローザさんは私の半歩先を進んでいる。
「アレクサンドロスさん、私はこの四十四年間、妹のどんな未来も想像していました。中には最悪な形も。でも……」
意を決したように話しかけたローザさんの言葉は、途切てしまった。だが、私は彼女が何と言おうとしていたのかの想像できる。
幸福な日々の中で、突然起きた体の異変。誰にも原因が分からないまま、治る見込みもなく、ベッドの上で自分の死と向き合い続ける日々……。そんな妹の最期など、最悪以上の最悪でしかない。
「本当に、ただの気まぐれだったんです」
「……なんの話です?」
こちらを振り返らず、歩く速度も変わらないローザさんが話しかけてきた。シミ一つないシルバーグレーの髪を眺めつつ、彼女の次の言葉を待つ。
「ある朝、家族の誰よりも早く起きた私は、散歩に出かけることにしました。着る服は、何となく、青いワンピースにしたんです
そのまま、外を歩いていたら、サミュルに会いました。舞い上がった私は、迷いなく彼に話しかけました。ミステリーの話題で盛り上がってから家に帰り、気付いたのです……私は、あの時名乗っていなかった、と」
「つまり、サミュルさんは、あの日話したのを、ローザさんではなく、ローズさんだったと勘違いし続けているのですか?」
恐る恐る口にした私の憶測に、ローザさんは前を向いたまま頷いた。あまりの衝撃に、立ち止まりそうになる足を無理矢理動かしなら、頭も一緒に働かせる。
サミュルさんがローズさんとの思い出話をしてくれた時に、「ミステリーの話で盛り上がった」の部分に違和感を抱いたが、サミュルさんの趣味にローズさんが合わせていただけだと思っていた。ローズさんが二人のきっかけから聞きたがったのは、勘違いしていたのかどうかを確かめる為でもあったのだ。
となると、サミュルさんと結ばれて、キャルセルに来ていたのは、ローズさんだったのかもしれない。そして、工場が原因の病に罹り、二十三歳で亡くなったのは、彼女の方だったのかもしれない。
ローザさんは、自分の思い人をかすめ取っていった妹の最期を聞いて、どう思ったのだろうか。もしも「ざまあみろ」なんてほくそ笑んでいたとしたら……そう考えると恐ろしくなり、私は彼女の表情を確認できなかった。
「あ、墓地が見えてきましたよ」
俯いていた私は、ローザさんの声に顔を上げた。村の共同墓地は、小高い丘の上にできていた。絶えず流れる川を見下ろせる位置だ。
片隅に立つローズさんの墓に、私たちは花を手向けた。墓石にローズさんの自作の詩が刻まれている。病床のノートで書かれた通りに、筆跡もそのままで刻んでいるのは、彼女の遺言に従ったからだという。
「妹は、本当に幸せだったのですね」
この村の自然への愛を、村人たちへの感謝、最後にサミュルさんへの愛を綴ったその詩を読んで、ローザさんは微笑した。しかし、私はその詩に違和感があった。
文は、長方形になるようにまとまっていた。言葉の途切れる位置が可笑しくなっているので、この形にこだわっていることが分かる。私は、ある確信を持ってローザさんへ話しかけた。
「ローザさん、幼少期は、よくオリジナルの暗号を書いて見せていた、と言っていましたよね? その暗号の中に、長方形に文章を配置するものはありませんでしたか?」
「あ、あります。文章を、一番下の右端から左へ、次に上、右から左、そして下へと、こう、渦を巻くように読んでいく暗号です」
ローザさんがくるくると回す指の道筋の通りに詩を読むと、全く違う文章が現れた。
『サミュルが、何故か私とローザを勘違いしていたことは、初めて二人きりで話した時から気付いていた。でも、彼の無邪気な笑顔を見ていると、それを指摘できずに、私は話を合わせていた。だんだんと彼にとっての大切な人になっていくのを感じて、その優越感に浸っていた私は、彼の誘いに乗って町を出るのも躊躇しなかった。だから、この病気は、ローザからサミュルを奪った罰だと感じている。でも、一方でそれを嬉しく思う。あなたがこんな苦しい思いをしなくて良かった。本当に、この運命は私にとって幸運だった』
「ローズさんは、いつかローザさんが来るのだと信じて、メッセージを残したのですね」
「ええ……でも、妹は、一つだけ勘違いをしています」
ローザさんは、墓に刻まれた「幸運」という歪んだ筆跡の文字を優しくなぞった。
「あなたの苦しみは、私自身の苦しみでもあったのよ」
彼女の目から流れる涙は、透明な風が拭うように乾かしていった。
あるいは幸運なミステイク 夢月七海 @yumetuki-773
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