お世話になりました。お礼に参ります。

〇鴉

山域の村にて



列島の西南の方角、都から遠く離れた山域に、一つの村があった。

周囲を取り囲む御山には、様々な恵みと、無数の鳥獣が存在していた。

村の人々は田畑を耕し、先住の者々と御山の恵みを分け合い、敬い、慎ましく暮らしていた。


いつしか、村を統べる者が現れた。


「狩谷」を名乗る一族は、先祖代々より伝わる狩猟の技術を以て、御山の鳥獣を狩り始めた。

鳥獣の肉や毛皮や羽毛は、より高い価値をもつ糧になり、村の人々の営みを一層豊かにした。


豊かな暮らしに慣れていった村の人々はいつしか、かつて御山の恵みを分かち合った先住の者々を、糧としか見られなくなっていた。


村の者々は、日に日に鳥獣達を狩る数を増やし、剥ぐ数を増やし、食らう数を増やしていった。


そうして鳥獣は数を減らし、姿をくらませ、かつての御山の賑わいは、遥か遠い記憶となっていった。




**************************************



ある年の神無月の頃。

狩谷家の当主たる男が、猪狩りのために御山へ入っていた。


獣道を歩いていると、何処からともなくすすり泣きのようなものが聞こえてきた。

訝しんで泣き声を辿ると、傾斜の緩い山肌に着いた。

そこには痩身の滅紫けしむらさき色の着物の女が一人、積み上げた石の前で泣いていた。


「もし。――なにゆえ、このような場所で泣いておるのだ?」

「――この御山にて、あかごを亡くしました。ここには、あかごの骨が埋まっております」

男が声を掛けると、女はさめざめと泣きながら、糸を引くような声で答えた。


「ついこの間の、夏の頃でした。――上のこが、『腹が空いた』と駄々をこねるので、木通あけびを取りにゆきました。あかごはよく眠っていたので、木の洞に寝かせ、隠してきました」

とつとつと語り始める女に歩み寄り、側に腰を下ろして、男は話を聞いてやることにした。


「そこならば、だれも寄りつかないと思っていたのです。――しかし、くうを裂くような泣き声が耳に届き、急いで戻ってみれば……あのこが寝ていた場所に残されていたのは、骨と、幾ばくかの肉片のみでした」

「なんと……惨たらしい……」

語られた悲劇に、男は言葉を失いかけた。

しかし、女の語りの中に出てきた時期と場所に思い当たることがあって、眉をひそめた。


「はて……待てよ。夏の頃、木の洞……?――ああ!思い出した。そこは確か、俺が山狛やまこまを狩ったところだ」

記憶を辿り終えて、男が声を上げると、女はぴたりと泣くことを止め、静かに顔を上げた。


「山狛を、狩られたのですか?」

泣き腫らして真っ赤になった目がこちらを見上げ、訊ねる。

すっかり涙に濡れそぼっていたが、それでも思わず息を呑むほどに、美しい顔立ちだった。


「ああ……そうだ。村の者どもの噂を頼りに、身の丈十三尺にもなる山狛とやらを狩りたくてなあ。山のあちこちを探し回っているうちに、木の洞で寝こけているところを見つけたのだ」

赤い目が見つめる中で、今度は男が語りだす。


「生憎、十三尺には到底及ばぬ小ささだったが、その毛皮は上等で、肉も極上のものだった。おかげで三日三晩の酒盛りを楽しめた。所詮は噂に惑わされたが、収穫は実に大きかった」

そのときの様子を思い出しながら、男は誇らしげに、愉快気に語り続ける。

そして次には神妙な面立ちに変えて、女を見つめ返した。


「して……先程からの話と照らし合わせると、お前の赤子は……おそらく、山狛が食ろうてしまったのだろうな」

苦々しくもそう口にすると、女は俯き、再び袖で顔を覆った。


「わたしが……寝かせてゆこうなどと思わなければ……あのこは、食われずに済んだのです。痛い思いを、せずに済んだのです……」

嗚咽を出し始めた女がいたたまれずに、男は寄り添い、そっと肩を抱いてやった。


「あまり思い詰めるな。ただ、運が悪かったのだ。――弱きものが強きものには食われるは、世のことわりよ。山狛はお前の子を糧にし、そして俺の糧となった。……自然とは、そういうものなのだ。――お前の赤子は運悪く、理の内に入り込んでしまった。それだけだ」

細い肩をさすりながら、男がそう諭してやると、女は暫くの間、嗚咽を零し続けていた。

しかし泣き声は、やがて小さなすすり泣きへと収まっていき、消えるように止んだ。


「落ち着いたか?」

「……ええ」

男が窺うように問うと、女は一度だけ頷いて、そのまま顔を俯かせた。


男が安堵して立ち上がったとき、周囲の日差しの入り方が大分変っていたことに気が付いた。

上を見上げると、頂上にあった太陽が、大分西の方角へ傾いていた。


「じきに日が落ちるぞ。お前ももう山を下りろ。今度は母親が山の獣に食われたとなれば、残された子がいっそう哀れだ」

「ええ……そうですね」

そう下山を促された女は、最後に涙を袖で拭い取って、ゆっくりと腰を上げた。


「家は遠いのか?どこの村の者だ?これも何かの縁だ、送り届けてやろう」

男は帰路の同伴を申し出たが、女は静かに首を横に振った。

「いいえ、それには及びません。自分の足で戻れます。――旦那様のお優しいお心遣い、感謝します」

そしてそう断ると、女は深々と頭を下げ、山肌から整えられた山道へと歩いていく。

男が慌ててその後を追うと、既に村とは正反対の方向へ歩き始めていた女が、こちらを振り返って、また頭を下げた。


此度こたびのことは、お礼に伺います。――いずれ、また。……お帰りの道中、どうぞお気をつけて」

女は、どこか晴れやかそうにも聞き取れた、澄んだ声でそう言うと、山道の向こうへと消えていった。


「――奇怪ではあったが、なかなかどうして、美しい女だった。山を越えた先の、沢の村の者だろうか?」

女が歩いていった山道をぼうっと見つめたまま、男は独り言ちる。


猪が潜む山の奥で、すすり泣く女というものは確かに異様だったが、滅紫けしむらさき色の着物と、赤い目が、何よりも美しいものとして、脳裏に強く焼き付いて残った。


「いずれ、か……そのときには何か、墓前への供え物を持たせてやろうか」

微かな期待を含ませた独り言を呟いた後、男は先程までいた山肌を見下ろし、石積みの墓に簡単に手を合わせて、自身も下山することにした。


村に着く頃には、目当ての猪を獲られなかったことは、最早どうでもよくなっていた。



**************************************



半月後。

狩谷の家に突如、“縁談”が持ち込まれた。


客間に通された初老の男は、山を越えた先にある村の「野毛のげ」と名乗った。


「先日、手前の娘が、貴方様に大層よくしてもらったと聞きましてなぁ。それからというもの、貴方様のことがひとときも忘れられぬと云うのです。――そこで、厚かましいお願いだとは重々承知しておりますが……どうか、娘を嫁に貰ってやってはくれませぬか」

初老の男は、平身低頭かつ慇懃に、猫を撫でるかのような声色で切り出した。


「実は……娘は、夫と、末の子に先立たれておりまして……長子と共に暮らしております。しかしたいへん気立てが良く、働き者でございます。そして娘は、嫁に貰っていただいた暁には、狩谷様のお家のため、心血を注ぎ、誠心誠意お仕えする心持ちにございます」

そこまで聞いてようやく、この男の言う娘が、あのとき山肌で泣いていた女であることを察した。

同時に、あの滅紫けしむらさきと赤の美しさが、記憶の奥から強く呼び起こされた。


『当主たる息子に未亡人など身の程知らず』と、両親と祖父母は難色を示したが、狩谷の現当主たる男は、二つ返事で縁談を受け入れた。


「実は俺も、あれからずっと気がかりでいた。あの泣き顔が忘れられずにいた。――娘がその気でいるのなら、すぐにでも嫁に来い。子も一緒でいい。未亡人だろうと構わぬ。俺が面倒をみてやる」

男が威勢よく言い放つと、初老の男は座布団から飛び降りて、大仰に畳みへ這いつくばり、何度も頭を下げて礼を述べた。


「よかった、よかった。これで娘の気持ちも浮かばれましょう。――旦那様、どうか何卒、よろしくお願いいたします」

勝手に話を進められ、両親と祖父母は激昂しかけていたが、

「こちらは結納の品にございます。どうかお納めくださいませ」

と、初老の男が差し出した風呂敷の中身を見て、矛を収めた。

桐の箱に収められていたのは、村の特産品であると云う見事な編み細工の工芸品と、隅々まで敷き詰められた、沢で採れたという砂金の粒だった。


突如持ち込まれた縁談は、その日のうちに結納が終わり、狩谷と野毛の間では、とんとん拍子に、婚礼の儀までの日取りが決められた。


全てが決まる頃には家族もみなその気になっており、めでたいことだから今夜は泊まって酒を飲んでいけと、野毛の当主を引き留めるまでになっていた。

しかし野毛の当主は「このことを娘にいち早く伝えてやりたいから」と丁重に断り、屋敷を発った。


「それでは、狩谷様。――また半月後に。我が一族共々、婚礼の日を心待ちにしておりますぞ」

「ああ、娘にもよろしく伝えておいてくれ。気をつけて帰られよ」

最後にそう交わし合った後、野毛の当主は山の方へと歩いて行った。

薄暗い曇天に覆われていたその日、後姿はすぐに見えなくなった。



その夜。

狩谷の当主の婚礼話は、瞬く間に村中へ伝わり、次々と祝辞を述べにきた村民たちを受け入れていくうちに、やがて屋敷を開放しての大宴会が行われた。


『飯を炊け。酒を飲め。飲めや食らえや。歌い踊れ』

無礼講の席で、村民たちはあちこちで飲み食いを楽しみ、歌い踊り狂う。両親や祖父母も、気前よく飯と酒を振舞う。

その様子を上機嫌で眺めながら、男は上座にて酒を煽っていた。


「いやはや、なんとも奇妙な縁だ。しかしながら、あんなにも美しい嫁を貰うことになった。こぶつきを差し引いても充分な女だ。ああ……実に気分がいい。俺はこの地で一番の果報者だろうなあ。愉快、愉快」

酔いが回ってきた口でそう独り言ち、豪快に笑ってから、ふいに自分の腰に目を向ける。

そこには、夏に狩った山狛の毛皮で作った上掛けが、今は腰巻になっていた。


「それもこれも全て、お前を狩ったことに由来するな。これも全てお前のご利益か、はたまたあの娘の末の子の恩か……どっちでも構わん!ああ、愉快だ、愉快だ!」

男は更に豪語し、大笑いをして、上掛けの毛並みを撫で回す。


御山に恵まれし村の民と、その大地主は、夜が明けるまで、この世の春を満喫していた。



**************************************



更に半月が過ぎた頃。

その日は明け方から、村中がお祭り騒ぎだった。


日が昇って大分経つにも関わらず、空はいつまでも朝焼けの朱色から変わらなかったが、誰も気に留める者はいなかった。


大地主への輿入れを待ち侘びた村民達は、早くから作物を刈り取り、山から鳥獣を狩っては竈へ運び、婚礼の馳走を山のようにこさえ、狩谷の屋敷に献上していた。

狩谷の屋敷の前には、夫婦のお披露目の場が設けられており、既に食卓も用意されていた。

家族や使用人達はみな、花嫁の到着を心待ちにしていた。


代々伝わる紋付羽織袴に着替えた、狩谷家の現当主たる男は、御山の向こうから花嫁が来るのを、今か今かと待ち侘びていた。

朝焼けの朱色を背景にした御山は、深緑の葉にその色を宿らせ、轟々と燃えているようにも見えた。

しかしそれは、この目出度い日を、御山が祝福してくれているのだと捉えていた。



「花嫁が来たぞー!!」

屋敷の外で、誰かが叫ぶ声がした。

大広間で控えていた男は、いてもたってもいられず屋敷を飛び出した。


外に出ると、村民達が沸き立つ先で、花嫁道中がこちらに向かってきていた。

先頭を歩くのは、馬に乗った野毛の当主。その後ろでは付き添いの女達が花びらを撒いて、花嫁の往く道を清める。


――めでたや。めでたや。きょうは、我らが頭目の願いが叶いし日。花婿の許へ、いざ参らん――


色鮮やかな着物を着た一行が、笛を吹き、鈴を鳴らして、祝詞を上げる。

その中央には、草蔓で編まれた大きな差し掛け傘の下を、白無垢姿の花嫁が静々と歩いていた。

その背後には、花嫁の角隠しから伸びた裾を持って後に続く、面を被った子供の姿が見えた。

それが娘の子だろうというのは、すぐに分かった。



目の当たりにした者が、口々に溜息を零すほど美しく、神々しくも見えた花嫁道中は、お披露目の場に到着すると、一斉に歩みを止めた。


馬から降りた野毛の当主は、にこにこと笑みを浮かべて、後ろにいた花嫁を促す。

まるで籠のような掛け合い傘と、裾持ちの子供と共に、花嫁は男の目の前までやってきた。


「遠路はるばる、よく来たな。待っていたぞ」

逸る気持ちを押さえて、男が声を掛けると、花嫁は深々とこうべを垂れた。

深く被った角隠しのせいで、表情はよく見えなかったが、次に発せられた声は、微かに震えていた。


「狩谷の旦那様。――あのときは、たいへんお世話になりました」

「なんだ、また泣いてしまうのか?仕方のないやつだ――おいで」

それを、感極まってまた涙を流しそうになっているのだろうと考えた男は、泣き虫な花嫁をいじらしく思い、胸中に迎え入れた。


「世話などと水臭い。俺は、お前の身の上話を聞いたまでよ。――しかしながら、あのときの縁が、このような形で結ばれるとは思いもしなかった」

緊張を解すためにそんな口振りで語り掛けて、男は角隠しの上から、花嫁の頭をそっと撫でる。

間近で見た細い方は、あのときと同じように、小さく震えていた。それがまたいじらしかった。


「旦那様――今日、わたくしは、あのときのお礼に参りました」

「ああ。分かっている。……嫁ぐことを礼とするのは、少々大袈裟な気もするが。お前の気持ち、快く受け取らせてもらうぞ」

改めて“お礼をしにきた”と告げる花嫁に、男は朗らかに笑いつつも、真剣な面立ちで、承諾する。

そして婚礼の儀の場へと連れていくため、男は花嫁に向けて手を差し出した。



「わたくしは――嬉しゅうございます」

差し出された手の平をじっと見つめ、花嫁は感慨深げに呟いた。


その瞬間、身の毛もよだつような生暖かい風がびゅう、と村の中を一気に駆け抜けた。


「なんだ今のは!?」「おい、空を見てみろ!!」

悪寒に撫でられ、背筋を震わせた村民達が、瞬く間に起きた周囲の変化にざわめき立つ。

遅れて異様さに気が付いた狩谷の家の者が辺りを見回すと、いつの間にか空は、夕焼けに変わっており、村中がおどろおどろしい赤色に染まっていた。


「なんだ……どうしたのだ!?」

男もまた動揺し、慌てて花嫁を引き連れて、この場を離れようとした。

そのとき、夕焼けに照らされた花嫁道中の影が、目に留まった。


突然の事態にも関わらず、誰一人として騒いでいなかった、花嫁道中の者々から伸びた影は、どれ一つとして、人の形をしていなかった。

そして花嫁の影には、――大きな耳と、尾の影が、揺らめいていた。



「やっと――やっと、あのの仇を、討てる」

花嫁は心底嬉しそうに呟くと、ようやく俯かせていた顔を上げた。

男の目に入ってきたのは、あのとき惚れ込んだ美しい顔ではなく、まるで餓えた野犬の如く牙を剝きだした歪んだ表情と、血のように真っ赤に染まり、吊り上がった二つの目だった。


「う、うわぁぁぁっ!!?」

男は悲鳴を上げて後ずさろうとした。しかし足が動かず、その場で背中から倒れた。

動かない下半身を下がらせようと、必死に地面の上をもがく中、視界の端に見えたのは、自分の影を踏みつける小さな狛の影だった。

そして小さな狛の影は、面を被った子供の足下から伸びていた。



「その毛皮を剝いだとき――あの仔がどのように泣き叫んでいたか、覚えているか」


女の澄んだ声が、低い唸り声のような音と共に問う。

女が指さした首元には、山狛の毛皮でこさえた襟巻きが巻かれていた。

そう問われた途端、木の洞に寝ていた山狛を引きずり出して、絞めることを億劫がり、そのまま山刀を入れたときの光景が、鮮明に蘇った。


「酒の肴として肉を削いだとき――あの仔がどのように苦しんでいたか、覚えているか」


続けて問われると、毛皮を剥ぎ取った後で肉を切り落としていく最中、喉が裂けるまで鳴き声を上げ続けていた、小さな山狛の姿が蘇る。


『おお、よく鳴くなあ。活きがいい証だ』

嬉しそうな自分の声が同時に聞こえてきて、悍ましさから吐き気がこみ上げてきた。


一歩、一歩と歩み寄ってくるうちに、花嫁の頭から角隠しは落ちて、大きな耳が飛び出した。

ずる、ずる、と、白無垢を引きずる音が近づいてくる。

やがて真白い着物は脱げ、女の瘦身は、巨大な獣の体躯へと変わっていた。


「他の命を食らい、己の命を繋ぐ。――れは確かに、世の理。我らも、其の理の内で生きておる。よって、我らを食らうことを怨みはせぬ。――全ては“運”なのだからなぁ」

小さな下駄が土を踏む音は、大きな鈎爪が地面を抉る音に変わっていった。

化けることを止めた“女だったもの”は、滅紫けしむらさき色の毛皮を持ち、身の丈が十三尺ほどもある、山狛になった。


「なれど、貴様らはどうだ?――餓えるでもなければ、寒さに凍えるでもない。――身の丈以上の欲をかいた末に、かつて共生してきた者々を、片端から撃ち、剥ぎ、食らってきた。そして……まだ世もろくに知らぬ幼き命を、惨たらしく奪った!」

山狛の言葉には、かつて石積みの墓前で聞いた澄んだ声と、獣の濁った唸り声が、交互に混ざり合っていた。

同胞を粗末にされてきた怒りと、我が子を苦しめ殺められた怒りは、地獄から這い上がってきたかのような怨恨となって、男の耳に突き刺さる。


れは最早、理にあらず!!理の外にて同胞を奪われし我らには、仇討ちの名分が有りけり!!」

山狛は、まだ口紅が残る大きく裂けた口から、咆哮を上げた。

その咆哮を合図に、野毛の当主や花嫁道中の者々が、一斉に雄叫びを上げたかと思うと、たちまち姿を変貌させた。

それらはかつて、自分達が狩ってきた鳥獣達と同じ姿をしていて、怒りと憎しみの灯った目は、全ての村民と、狩谷の家の者達に向けられていた。


自分達が“狙われている”と察した村民達は、一斉にそこから逃げ出そうとした。

しかし村は、先程吹き抜けた生暖かい風で囲われていて、どうやってもその壁を通り抜けることが出来なくなっていた。


鮮烈なる夕焼けの下で、村の者は一人残らず、捕らわれていた。


「わ……悪かった……!俺たちは、やりすぎた……!豊かさに溺れ、お前達を踏みにじってしまった……!!」

逃げられないと悟った男は、なんとか上半身を起こすと、山狛と鳥獣達を見渡して、地に額を擦りつけた。


「もう二度と、欲をかいたりはしない!本当だ!お前の子の形見も返す!だから……だからどうか許してくれ!このとおりだ!!」

体中をがたがたと震わせながら、男は必死に懇願した。何度も謝罪を口にしながら、額を地面に打ち付けた。

しかし山狛は黙したまま、鈎爪を男の着物に引っ掛け、上を向かせる。


男を見下ろす、吊り上がった赤い目は、嘲笑っているように見えたが、紅を差した目尻からは、涙が流れていた。


「今更、許しを乞うても、無意味なのですよ。――貴方様達は、奪いすぎたのです。旦那様」

そして澄んだ声でそっと囁くと、長い舌で男の頬を静かに舐めてから、恐怖で見開かれていた目に、牙を突き立てた。


静まり返っていた広場に、目を潰された男の絶叫が響き渡る。

次の瞬間には、再び村民達の悲鳴が木霊した。


「のげのものたちよ、野獣のけものたちよ!今日まで食い荒らされてきた同胞の無念に代わり、此奴こやつらを同様に食い荒らしてやれ!!」

鮮血に染まった牙を振りかざし、山狛が再び咆哮すると、鳥獣達は開戦の狼煙の如く、思い思いに吼え散らして、人々へ襲い掛かった。



**************************************



断末魔が一つ、また一つ、御山に吸い込まれては消えていく度に、歓声と笑い声が増えていく。

鳥獣達の仇討ちに見舞われた村は、さながら地獄絵図のようだった。



「はははは!さあさあ、足を折られてから追い立てられる気分はどうだ?おれの親父はそうやって散々苦しめられてから狩られたんだ!」

片足があらぬ方向に曲がり、地を這って逃げようとする人間を、大熊が轟々と笑いながら追いかけ、背中に爪を振り下ろしていた。

声も上げられずにうずくまったそれを、大熊は更に切り裂いた。


「ねえねえ、うちの旦那はこれで捕まったんだよぉ?」

「あたいのおっかさんは、そんで羽を毟られてばらばらにされたんだ!」

「わちの兄ちゃんは、ぐらぐら煮立った湯に放り込まれた!熱い熱いと言って死んでった!」

「お前たちにも、あたしらの家族と同じことをしてあげようねぇ!」

甲高い鳴き声に笑い声を混ぜて、数十羽の鳥達が、花嫁に差し向けていた掛け合い傘を、追い詰めた数人の村民めがけて落とし、中に閉じ込めた。

草蔓編みの掛け合い傘は、鳥を捕らえるときに使われる笊の仕掛けによく似ていた。


先程まで婚礼の席の馳走を仕込んでいたかまどには、爪や牙で切り刻まれ、骨を砕かれた人間が放り込まれる。

婚礼の席のために綺麗にめかし込んだ人間達は、髪や皮を剥ぎ取られ、肥溜めに捨てられていた。


鳥獣達の仇討ちは、この村の人々に、各々の身内や親しいもの達がされてきた仕打ちと、全く同じものだった。



少し遠いところで、両親の悲鳴が響き渡った。

猿の鳴き声に混ざってげらげらと笑う声がして、「首に紐を括って軒下に吊るしてやろう!」という言葉が聞こえた。

遅れて祖父母の断末魔がして、どさどさと地面に何かがばら撒かれる音がした。

すぐ隣では、使用人達が「いっそ殺してくれ」と泣き叫ぶ声と、狢達の無邪気な笑い声がしていた。



「たのむ……ゆるしてくれぇ……ゆるしてくれぇぇ……」

脈打つ痛みが続く暗闇の中で、男はただただ許しを乞いていた。

何も見えない中で、全身が火を放たれたように熱かった。

切り裂かれた腹の中で、鈎爪に内臓を刻まれる感触が、まだ続いていた。


「痛い……痛いぃ……苦しいぃぃ……ゆるして……ゆるして……」

絶え間なく続く苦痛で、何度も意識が飛びかけたが、その度に頬をはたかれて引き戻されて、気を失うことを許されなかった。

それは、自分が山狛の子を捌いていたときにしていたことと、寸分違わず同じ行為だった。


隅々まで皮を剝がされ血達磨になり、肉を削がれて骨を剥き出した男が、喉から血と泡を吹き零して、壊れたように許しを乞い続ける。

それに対し山狛は、侮蔑の一瞥をくれて、耳元に口先を近づけた。


「――あの仔はね、事切れるそのときまで、そう泣き続けていたよ」

間近からした濁った獣の声に、男は全身をぶる、と震わせた。


「わたしが叫び声を聞いて、必死に走って戻っている間にね――『おっかあ、痛い、痛い』って、ずうっと泣いてたよ。――さて、お前が泣きだしてから、どれくらい経ったか、分かるか?」

そう訊ねると、男はいよいよ心を壊したのか、けらけらと笑いながら、大声で泣き喚き始めた。

血を失いすぎたことも相成って、男の命も、ようやく事切れようとしていた。


山狛は壊れた男を、ただじっと見下ろしていた。

やがて男が、「ごめんなさい」を唱え続ける合間に、泡を吹いて喉を詰まらせ、息絶える最期のときまで、ずっと、ずっと、見下ろしていた。





いつしか、鮮烈な夕焼け空は、曇天に変わっていた。

薄暗い空の下には、もう断末魔も、笑い声も、聞こえてはこなかった。


各々の目的を成し遂げた鳥獣達は、粛々と一か所に集まった。

そこは狩谷の家の前。本来ならば、婚礼の儀が行われるはずだった、祝いの席。

夫婦めおとが座るはずだった、二つの空席を最後に一瞥して、山狛は男の腹の中から爪を引き抜いた。

そして、男の首から、末の子の毛皮を取り外すと、愛おしげに鼻先を摺り寄せた。


「ああ――坊や。坊や。おっかあが、坊やの仇を取ったからね。もう大丈夫だよ」

吊り上がっていた目は、穏やかに細められ、濁った声は、また澄んだ声になっていた。

山狛の足元に、面を被った子供が駆け寄ってきて、体を寄せた。

山狛が面を取ってやると、子供は山狛の子の姿に戻って、母に甘えだした。


「安心して、お休みよ。安らかに眠って、いつかまた廻り廻って……おっかあと、姉やのところに、またおいで」

そんな弔いの言葉を手向けて、山狛の母は、静かに涙を零した。


集まった鳥獣達は、山狛の母を――野獣のけものの頭目を、輪になって囲み、同胞達と、幼子の御魂が、再び御山に還ることを願って、黙祷を捧げた。





大地主も、村民も、鳥獣も、ひとり残らずいなくなった、山域の村は、

やがて冬を迎え、雪が覆い、春になって融けた水で、全てを洗い流されて、

そのまま静かに、刻々と、朽ち果てていった。



**************************************



列島の西南の方角、都から遠く離れた山域に、一つの村があった。

周囲を取り囲む御山には、様々な恵みと、無数の鳥獣が在った。


いつしか、その恵みを有り難がらなくなり、欲に駆られた村の者々は、

それまで食い荒らしてきた先住の野獣のけものにより狩り尽くされ、誰一人として残らず、土に還った。


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