お世話になりました。お礼に参ります。
〇鴉
山域の村にて
列島の西南の方角、都から遠く離れた山域に、一つの村があった。
周囲を取り囲む御山には、様々な恵みと、無数の鳥獣が存在していた。
村の人々は田畑を耕し、先住の者々と御山の恵みを分け合い、敬い、慎ましく暮らしていた。
いつしか、村を統べる者が現れた。
「狩谷」を名乗る一族は、先祖代々より伝わる狩猟の技術を以て、御山の鳥獣を狩り始めた。
鳥獣の肉や毛皮や羽毛は、より高い価値をもつ糧になり、村の人々の営みを一層豊かにした。
豊かな暮らしに慣れていった村の人々はいつしか、かつて御山の恵みを分かち合った先住の者々を、糧としか見られなくなっていた。
村の者々は、日に日に鳥獣達を狩る数を増やし、剥ぐ数を増やし、食らう数を増やしていった。
そうして鳥獣は数を減らし、姿をくらませ、かつての御山の賑わいは、遥か遠い記憶となっていった。
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ある年の神無月の頃。
狩谷家の当主たる男が、猪狩りのために御山へ入っていた。
獣道を歩いていると、何処からともなくすすり泣きのようなものが聞こえてきた。
訝しんで泣き声を辿ると、傾斜の緩い山肌に着いた。
そこには痩身の
「もし。――なにゆえ、このような場所で泣いておるのだ?」
「――この御山にて、あかごを亡くしました。ここには、あかごの骨が埋まっております」
男が声を掛けると、女はさめざめと泣きながら、糸を引くような声で答えた。
「ついこの間の、夏の頃でした。――上のこが、『腹が空いた』と駄々をこねるので、
とつとつと語り始める女に歩み寄り、側に腰を下ろして、男は話を聞いてやることにした。
「そこならば、だれも寄りつかないと思っていたのです。――しかし、
「なんと……惨たらしい……」
語られた悲劇に、男は言葉を失いかけた。
しかし、女の語りの中に出てきた時期と場所に思い当たることがあって、眉をひそめた。
「はて……待てよ。夏の頃、木の洞……?――ああ!思い出した。そこは確か、俺が
記憶を辿り終えて、男が声を上げると、女はぴたりと泣くことを止め、静かに顔を上げた。
「山狛を、狩られたのですか?」
泣き腫らして真っ赤になった目がこちらを見上げ、訊ねる。
すっかり涙に濡れそぼっていたが、それでも思わず息を呑むほどに、美しい顔立ちだった。
「ああ……そうだ。村の者どもの噂を頼りに、身の丈十三尺にもなる山狛とやらを狩りたくてなあ。山のあちこちを探し回っているうちに、木の洞で寝こけているところを見つけたのだ」
赤い目が見つめる中で、今度は男が語りだす。
「生憎、十三尺には到底及ばぬ小ささだったが、その毛皮は上等で、肉も極上のものだった。おかげで三日三晩の酒盛りを楽しめた。所詮は噂に惑わされたが、収穫は実に大きかった」
そのときの様子を思い出しながら、男は誇らしげに、愉快気に語り続ける。
そして次には神妙な面立ちに変えて、女を見つめ返した。
「して……先程からの話と照らし合わせると、お前の赤子は……おそらく、山狛が食ろうてしまったのだろうな」
苦々しくもそう口にすると、女は俯き、再び袖で顔を覆った。
「わたしが……寝かせてゆこうなどと思わなければ……あのこは、食われずに済んだのです。痛い思いを、せずに済んだのです……」
嗚咽を出し始めた女がいたたまれずに、男は寄り添い、そっと肩を抱いてやった。
「あまり思い詰めるな。ただ、運が悪かったのだ。――弱きものが強きものには食われるは、世の
細い肩をさすりながら、男がそう諭してやると、女は暫くの間、嗚咽を零し続けていた。
しかし泣き声は、やがて小さなすすり泣きへと収まっていき、消えるように止んだ。
「落ち着いたか?」
「……ええ」
男が窺うように問うと、女は一度だけ頷いて、そのまま顔を俯かせた。
男が安堵して立ち上がったとき、周囲の日差しの入り方が大分変っていたことに気が付いた。
上を見上げると、頂上にあった太陽が、大分西の方角へ傾いていた。
「じきに日が落ちるぞ。お前ももう山を下りろ。今度は母親が山の獣に食われたとなれば、残された子がいっそう哀れだ」
「ええ……そうですね」
そう下山を促された女は、最後に涙を袖で拭い取って、ゆっくりと腰を上げた。
「家は遠いのか?どこの村の者だ?これも何かの縁だ、送り届けてやろう」
男は帰路の同伴を申し出たが、女は静かに首を横に振った。
「いいえ、それには及びません。自分の足で戻れます。――旦那様のお優しいお心遣い、感謝します」
そしてそう断ると、女は深々と頭を下げ、山肌から整えられた山道へと歩いていく。
男が慌ててその後を追うと、既に村とは正反対の方向へ歩き始めていた女が、こちらを振り返って、また頭を下げた。
「
女は、どこか晴れやかそうにも聞き取れた、澄んだ声でそう言うと、山道の向こうへと消えていった。
「――奇怪ではあったが、なかなかどうして、美しい女だった。山を越えた先の、沢の村の者だろうか?」
女が歩いていった山道をぼうっと見つめたまま、男は独り言ちる。
猪が潜む山の奥で、すすり泣く女というものは確かに異様だったが、
「いずれ、か……そのときには何か、墓前への供え物を持たせてやろうか」
微かな期待を含ませた独り言を呟いた後、男は先程までいた山肌を見下ろし、石積みの墓に簡単に手を合わせて、自身も下山することにした。
村に着く頃には、目当ての猪を獲られなかったことは、最早どうでもよくなっていた。
**************************************
半月後。
狩谷の家に突如、“縁談”が持ち込まれた。
客間に通された初老の男は、山を越えた先にある村の「
「先日、手前の娘が、貴方様に大層よくしてもらったと聞きましてなぁ。それからというもの、貴方様のことがひとときも忘れられぬと云うのです。――そこで、厚かましいお願いだとは重々承知しておりますが……どうか、娘を嫁に貰ってやってはくれませぬか」
初老の男は、平身低頭かつ慇懃に、猫を撫でるかのような声色で切り出した。
「実は……娘は、夫と、末の子に先立たれておりまして……長子と共に暮らしております。しかしたいへん気立てが良く、働き者でございます。そして娘は、嫁に貰っていただいた暁には、狩谷様のお家のため、心血を注ぎ、誠心誠意お仕えする心持ちにございます」
そこまで聞いてようやく、この男の言う娘が、あのとき山肌で泣いていた女であることを察した。
同時に、あの
『当主たる息子に未亡人など身の程知らず』と、両親と祖父母は難色を示したが、狩谷の現当主たる男は、二つ返事で縁談を受け入れた。
「実は俺も、あれからずっと気がかりでいた。あの泣き顔が忘れられずにいた。――娘がその気でいるのなら、すぐにでも嫁に来い。子も一緒でいい。未亡人だろうと構わぬ。俺が面倒をみてやる」
男が威勢よく言い放つと、初老の男は座布団から飛び降りて、大仰に畳みへ這いつくばり、何度も頭を下げて礼を述べた。
「よかった、よかった。これで娘の気持ちも浮かばれましょう。――旦那様、どうか何卒、よろしくお願いいたします」
勝手に話を進められ、両親と祖父母は激昂しかけていたが、
「こちらは結納の品にございます。どうかお納めくださいませ」
と、初老の男が差し出した風呂敷の中身を見て、矛を収めた。
桐の箱に収められていたのは、村の特産品であると云う見事な編み細工の工芸品と、隅々まで敷き詰められた、沢で採れたという砂金の粒だった。
突如持ち込まれた縁談は、その日のうちに結納が終わり、狩谷と野毛の間では、とんとん拍子に、婚礼の儀までの日取りが決められた。
全てが決まる頃には家族もみなその気になっており、めでたいことだから今夜は泊まって酒を飲んでいけと、野毛の当主を引き留めるまでになっていた。
しかし野毛の当主は「このことを娘にいち早く伝えてやりたいから」と丁重に断り、屋敷を発った。
「それでは、狩谷様。――また半月後に。我が一族共々、婚礼の日を心待ちにしておりますぞ」
「ああ、娘にもよろしく伝えておいてくれ。気をつけて帰られよ」
最後にそう交わし合った後、野毛の当主は山の方へと歩いて行った。
薄暗い曇天に覆われていたその日、後姿はすぐに見えなくなった。
その夜。
狩谷の当主の婚礼話は、瞬く間に村中へ伝わり、次々と祝辞を述べにきた村民たちを受け入れていくうちに、やがて屋敷を開放しての大宴会が行われた。
『飯を炊け。酒を飲め。飲めや食らえや。歌い踊れ』
無礼講の席で、村民たちはあちこちで飲み食いを楽しみ、歌い踊り狂う。両親や祖父母も、気前よく飯と酒を振舞う。
その様子を上機嫌で眺めながら、男は上座にて酒を煽っていた。
「いやはや、なんとも奇妙な縁だ。しかしながら、あんなにも美しい嫁を貰うことになった。こぶつきを差し引いても充分な女だ。ああ……実に気分がいい。俺はこの地で一番の果報者だろうなあ。愉快、愉快」
酔いが回ってきた口でそう独り言ち、豪快に笑ってから、ふいに自分の腰に目を向ける。
そこには、夏に狩った山狛の毛皮で作った上掛けが、今は腰巻になっていた。
「それもこれも全て、お前を狩ったことに由来するな。これも全てお前のご利益か、はたまたあの娘の末の子の恩か……どっちでも構わん!ああ、愉快だ、愉快だ!」
男は更に豪語し、大笑いをして、上掛けの毛並みを撫で回す。
御山に恵まれし村の民と、その大地主は、夜が明けるまで、この世の春を満喫していた。
**************************************
更に半月が過ぎた頃。
その日は明け方から、村中がお祭り騒ぎだった。
日が昇って大分経つにも関わらず、空はいつまでも朝焼けの朱色から変わらなかったが、誰も気に留める者はいなかった。
大地主への輿入れを待ち侘びた村民達は、早くから作物を刈り取り、山から鳥獣を狩っては竈へ運び、婚礼の馳走を山のようにこさえ、狩谷の屋敷に献上していた。
狩谷の屋敷の前には、夫婦のお披露目の場が設けられており、既に食卓も用意されていた。
家族や使用人達は
代々伝わる紋付羽織袴に着替えた、狩谷家の現当主たる男は、御山の向こうから花嫁が来るのを、今か今かと待ち侘びていた。
朝焼けの朱色を背景にした御山は、深緑の葉にその色を宿らせ、轟々と燃えているようにも見えた。
しかしそれは、この目出度い日を、御山が祝福してくれているのだと捉えていた。
「花嫁が来たぞー!!」
屋敷の外で、誰かが叫ぶ声がした。
大広間で控えていた男は、いてもたってもいられず屋敷を飛び出した。
外に出ると、村民達が沸き立つ先で、花嫁道中がこちらに向かってきていた。
先頭を歩くのは、馬に乗った野毛の当主。その後ろでは付き添いの女達が花びらを撒いて、花嫁の往く道を清める。
――めでたや。めでたや。きょうは、我らが頭目の願いが叶いし日。花婿の許へ、いざ参らん――
色鮮やかな着物を着た一行が、笛を吹き、鈴を鳴らして、祝詞を上げる。
その中央には、草蔓で編まれた大きな差し掛け傘の下を、白無垢姿の花嫁が静々と歩いていた。
その背後には、花嫁の角隠しから伸びた裾を持って後に続く、面を被った子供の姿が見えた。
それが娘の子だろうというのは、すぐに分かった。
目の当たりにした者が、口々に溜息を零すほど美しく、神々しくも見えた花嫁道中は、お披露目の場に到着すると、一斉に歩みを止めた。
馬から降りた野毛の当主は、にこにこと笑みを浮かべて、後ろにいた花嫁を促す。
まるで籠のような掛け合い傘と、裾持ちの子供と共に、花嫁は男の目の前までやってきた。
「遠路はるばる、よく来たな。待っていたぞ」
逸る気持ちを押さえて、男が声を掛けると、花嫁は深々と
深く被った角隠しのせいで、表情はよく見えなかったが、次に発せられた声は、微かに震えていた。
「狩谷の旦那様。――あのときは、たいへんお世話になりました」
「なんだ、また泣いてしまうのか?仕方のないやつだ――おいで」
それを、感極まってまた涙を流しそうになっているのだろうと考えた男は、泣き虫な花嫁をいじらしく思い、胸中に迎え入れた。
「世話などと水臭い。俺は、お前の身の上話を聞いたまでよ。――しかしながら、あのときの縁が、このような形で結ばれるとは思いもしなかった」
緊張を解すためにそんな口振りで語り掛けて、男は角隠しの上から、花嫁の頭をそっと撫でる。
間近で見た細い方は、あのときと同じように、小さく震えていた。それがまたいじらしかった。
「旦那様――今日、わたくしは、あのときのお礼に参りました」
「ああ。分かっている。……嫁ぐことを礼とするのは、少々大袈裟な気もするが。お前の気持ち、快く受け取らせてもらうぞ」
改めて“お礼をしにきた”と告げる花嫁に、男は朗らかに笑いつつも、真剣な面立ちで、承諾する。
そして婚礼の儀の場へと連れていくため、男は花嫁に向けて手を差し出した。
「わたくしは――嬉しゅうございます」
差し出された手の平をじっと見つめ、花嫁は感慨深げに呟いた。
その瞬間、身の毛もよだつような生暖かい風がびゅう、と村の中を一気に駆け抜けた。
「なんだ今のは!?」「おい、空を見てみろ!!」
悪寒に撫でられ、背筋を震わせた村民達が、瞬く間に起きた周囲の変化にざわめき立つ。
遅れて異様さに気が付いた狩谷の家の者が辺りを見回すと、いつの間にか空は、夕焼けに変わっており、村中がおどろおどろしい赤色に染まっていた。
「なんだ……どうしたのだ!?」
男もまた動揺し、慌てて花嫁を引き連れて、この場を離れようとした。
そのとき、夕焼けに照らされた花嫁道中の影が、目に留まった。
突然の事態にも関わらず、誰一人として騒いでいなかった、花嫁道中の者々から伸びた影は、どれ一つとして、人の形をしていなかった。
そして花嫁の影には、――大きな耳と、尾の影が、揺らめいていた。
「やっと――やっと、あの
花嫁は心底嬉しそうに呟くと、ようやく俯かせていた顔を上げた。
男の目に入ってきたのは、あのとき惚れ込んだ美しい顔ではなく、まるで餓えた野犬の如く牙を剝きだした歪んだ表情と、血のように真っ赤に染まり、吊り上がった二つの目だった。
「う、うわぁぁぁっ!!?」
男は悲鳴を上げて後ずさろうとした。しかし足が動かず、その場で背中から倒れた。
動かない下半身を下がらせようと、必死に地面の上をもがく中、視界の端に見えたのは、自分の影を踏みつける小さな狛の影だった。
そして小さな狛の影は、面を被った子供の足下から伸びていた。
「その毛皮を剝いだとき――あの仔がどのように泣き叫んでいたか、覚えているか」
女の澄んだ声が、低い唸り声のような音と共に問う。
女が指さした首元には、山狛の毛皮でこさえた襟巻きが巻かれていた。
そう問われた途端、木の洞に寝ていた山狛を引きずり出して、絞めることを億劫がり、そのまま山刀を入れたときの光景が、鮮明に蘇った。
「酒の肴として肉を削いだとき――あの仔がどのように苦しんでいたか、覚えているか」
続けて問われると、毛皮を剥ぎ取った後で肉を切り落としていく最中、喉が裂けるまで鳴き声を上げ続けていた、小さな山狛の姿が蘇る。
『おお、よく鳴くなあ。活きがいい証だ』
嬉しそうな自分の声が同時に聞こえてきて、悍ましさから吐き気がこみ上げてきた。
一歩、一歩と歩み寄ってくるうちに、花嫁の頭から角隠しは落ちて、大きな耳が飛び出した。
ずる、ずる、と、白無垢を引きずる音が近づいてくる。
やがて真白い着物は脱げ、女の瘦身は、巨大な獣の体躯へと変わっていた。
「他の命を食らい、己の命を繋ぐ。――
小さな下駄が土を踏む音は、大きな鈎爪が地面を抉る音に変わっていった。
化けることを止めた“女だったもの”は、
「なれど、貴様らはどうだ?――餓えるでもなければ、寒さに凍えるでもない。――身の丈以上の欲をかいた末に、かつて共生してきた者々を、片端から撃ち、剥ぎ、食らってきた。そして……まだ世も
山狛の言葉には、かつて石積みの墓前で聞いた澄んだ声と、獣の濁った唸り声が、交互に混ざり合っていた。
同胞を粗末にされてきた怒りと、我が子を苦しめ殺められた怒りは、地獄から這い上がってきたかのような怨恨となって、男の耳に突き刺さる。
「
山狛は、まだ口紅が残る大きく裂けた口から、咆哮を上げた。
その咆哮を合図に、野毛の当主や花嫁道中の者々が、一斉に雄叫びを上げたかと思うと、たちまち姿を変貌させた。
それらはかつて、自分達が狩ってきた鳥獣達と同じ姿をしていて、怒りと憎しみの灯った目は、全ての村民と、狩谷の家の者達に向けられていた。
自分達が“狙われている”と察した村民達は、一斉にそこから逃げ出そうとした。
しかし村は、先程吹き抜けた生暖かい風で囲われていて、どうやってもその壁を通り抜けることが出来なくなっていた。
鮮烈なる夕焼けの下で、村の者は一人残らず、捕らわれていた。
「わ……悪かった……!俺たちは、やりすぎた……!豊かさに溺れ、お前達を踏みにじってしまった……!!」
逃げられないと悟った男は、なんとか上半身を起こすと、山狛と鳥獣達を見渡して、地に額を擦りつけた。
「もう二度と、欲をかいたりはしない!本当だ!お前の子の形見も返す!だから……だからどうか許してくれ!このとおりだ!!」
体中をがたがたと震わせながら、男は必死に懇願した。何度も謝罪を口にしながら、額を地面に打ち付けた。
しかし山狛は黙したまま、鈎爪を男の着物に引っ掛け、上を向かせる。
男を見下ろす、吊り上がった赤い目は、嘲笑っているように見えたが、紅を差した目尻からは、涙が流れていた。
「今更、許しを乞うても、無意味なのですよ。――貴方様達は、奪いすぎたのです。旦那様」
そして澄んだ声でそっと囁くと、長い舌で男の頬を静かに舐めてから、恐怖で見開かれていた目に、牙を突き立てた。
静まり返っていた広場に、目を潰された男の絶叫が響き渡る。
次の瞬間には、再び村民達の悲鳴が木霊した。
「のげのものたちよ、
鮮血に染まった牙を振りかざし、山狛が再び咆哮すると、鳥獣達は開戦の狼煙の如く、思い思いに吼え散らして、人々へ襲い掛かった。
**************************************
断末魔が一つ、また一つ、御山に吸い込まれては消えていく度に、歓声と笑い声が増えていく。
鳥獣達の仇討ちに見舞われた村は、さながら地獄絵図のようだった。
「はははは!さあさあ、足を折られてから追い立てられる気分はどうだ?おれの親父はそうやって散々苦しめられてから狩られたんだ!」
片足があらぬ方向に曲がり、地を這って逃げようとする人間を、大熊が轟々と笑いながら追いかけ、背中に爪を振り下ろしていた。
声も上げられずにうずくまったそれを、大熊は更に切り裂いた。
「ねえねえ、うちの旦那はこれで捕まったんだよぉ?」
「あたいのおっかさんは、そんで羽を毟られてばらばらにされたんだ!」
「わちの兄ちゃんは、ぐらぐら煮立った湯に放り込まれた!熱い熱いと言って死んでった!」
「お前たちにも、あたしらの家族と同じことをしてあげようねぇ!」
甲高い鳴き声に笑い声を混ぜて、数十羽の鳥達が、花嫁に差し向けていた掛け合い傘を、追い詰めた数人の村民めがけて落とし、中に閉じ込めた。
草蔓編みの掛け合い傘は、鳥を捕らえるときに使われる笊の仕掛けによく似ていた。
先程まで婚礼の席の馳走を仕込んでいた
婚礼の席のために綺麗にめかし込んだ人間達は、髪や皮を剥ぎ取られ、肥溜めに捨てられていた。
鳥獣達の仇討ちは、この村の人々に、各々の身内や親しいもの達がされてきた仕打ちと、全く同じものだった。
少し遠いところで、両親の悲鳴が響き渡った。
猿の鳴き声に混ざってげらげらと笑う声がして、「首に紐を括って軒下に吊るしてやろう!」という言葉が聞こえた。
遅れて祖父母の断末魔がして、どさどさと地面に何かがばら撒かれる音がした。
すぐ隣では、使用人達が「いっそ殺してくれ」と泣き叫ぶ声と、狢達の無邪気な笑い声がしていた。
「たのむ……ゆるしてくれぇ……ゆるしてくれぇぇ……」
脈打つ痛みが続く暗闇の中で、男はただただ許しを乞いていた。
何も見えない中で、全身が火を放たれたように熱かった。
切り裂かれた腹の中で、鈎爪に内臓を刻まれる感触が、まだ続いていた。
「痛い……痛いぃ……苦しいぃぃ……ゆるして……ゆるして……」
絶え間なく続く苦痛で、何度も意識が飛びかけたが、その度に頬をはたかれて引き戻されて、気を失うことを許されなかった。
それは、自分が山狛の子を捌いていたときにしていたことと、寸分違わず同じ行為だった。
隅々まで皮を剝がされ血達磨になり、肉を削がれて骨を剥き出した男が、喉から血と泡を吹き零して、壊れたように許しを乞い続ける。
それに対し山狛は、侮蔑の一瞥をくれて、耳元に口先を近づけた。
「――あの仔はね、事切れるそのときまで、そう泣き続けていたよ」
間近からした濁った獣の声に、男は全身をぶる、と震わせた。
「わたしが叫び声を聞いて、必死に走って戻っている間にね――『おっかあ、痛い、痛い』って、ずうっと泣いてたよ。――さて、お前が泣きだしてから、どれくらい経ったか、分かるか?」
そう訊ねると、男はいよいよ心を壊したのか、けらけらと笑いながら、大声で泣き喚き始めた。
血を失いすぎたことも相成って、男の命も、ようやく事切れようとしていた。
山狛は壊れた男を、ただじっと見下ろしていた。
やがて男が、「ごめんなさい」を唱え続ける合間に、泡を吹いて喉を詰まらせ、息絶える最期のときまで、ずっと、ずっと、見下ろしていた。
いつしか、鮮烈な夕焼け空は、曇天に変わっていた。
薄暗い空の下には、もう断末魔も、笑い声も、聞こえてはこなかった。
各々の目的を成し遂げた鳥獣達は、粛々と一か所に集まった。
そこは狩谷の家の前。本来ならば、婚礼の儀が行われるはずだった、祝いの席。
そして、男の首から、末の子の毛皮を取り外すと、愛おしげに鼻先を摺り寄せた。
「ああ――坊や。坊や。おっかあが、坊やの仇を取ったからね。もう大丈夫だよ」
吊り上がっていた目は、穏やかに細められ、濁った声は、また澄んだ声になっていた。
山狛の足元に、面を被った子供が駆け寄ってきて、体を寄せた。
山狛が面を取ってやると、子供は山狛の子の姿に戻って、母に甘えだした。
「安心して、お休みよ。安らかに眠って、いつかまた廻り廻って……おっかあと、姉やのところに、またおいで」
そんな弔いの言葉を手向けて、山狛の母は、静かに涙を零した。
集まった鳥獣達は、山狛の母を――
大地主も、村民も、鳥獣も、ひとり残らずいなくなった、山域の村は、
やがて冬を迎え、雪が覆い、春になって融けた水で、全てを洗い流されて、
そのまま静かに、刻々と、朽ち果てていった。
**************************************
列島の西南の方角、都から遠く離れた山域に、一つの村があった。
周囲を取り囲む御山には、様々な恵みと、無数の鳥獣が在った。
いつしか、その恵みを有り難がらなくなり、欲に駆られた村の者々は、
それまで食い荒らしてきた先住の
お世話になりました。お礼に参ります。 〇鴉 @sion_crow
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