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  • 4.江戸時代の大人の遊びへの応援コメント

    幕末にやって来た外国人は、裕福でもない人達まで鉢植えを並べて園芸を楽しんでいる事に驚いた、という文章を読んだ記憶があります。現在も住宅密集地の細い路地の玄関先にプランターや植木鉢が並べられている光景を見ますが、連綿と続いている文化なのでしょう。

    もう随分前ですけど、僕も何故か変化朝顔に興味を持って、偶々買った本の著者が無料で種をくれるというので、貰って育てた事がありました。江戸当時の絵には「これが朝顔?」という改良品種が沢山あって、多くが種の取れない一回切りの花だったとか(僕の貰った朝顔もそうでした)。

    吉原もそうですけど江戸文化は上より下の身分から広がるところがあるようで、取りも直さずオタク気質が凄いって事でしょうか。

    作者からの返信

    そうざ 様
    コメントありがとうございます。
    当時のヨーロッパ圏で、庶民の庭といえば薬草園や菜園ですからね。庭木や花を楽しむための鉢植えを嗜む姿は、驚きだったでしょう。
    品種改良をして、品評会に出して一儲け……といった側面もあったと思いますけどね。

    朝顔の品種改良は、本当に凄かったみたいですからね。一般的な朝顔と全く違った花姿ですし、うまく咲かせることが出来たら喜び倍増でしょう。

    江戸の文化を知ると、日本人のオタク気質を伺えますね。

  • 色々と返信ありがとうございます。
    ご存知でしたら教えて頂きたい疑問があるのです、二つ程。

    一つはもう解決しているとも言えるんですが――魚の棒手振りが江戸の町を売り歩くようなシーンで、上半身は法被で、下半身は白い半ズボンのようなものを穿いている事が多いです。
    実際は褌を締めて尻は丸出しの筈。お茶の間に尻を晒すのはどうか、俳優自身も尻を出したくない、という事情で考案された――「衣装」ですよね。

    もう一の謎はずっと分からないまま。町奉行が裁きをするシーンや、城内で大名達が議論するシーン等で、熨斗目に裃を着用していますが、この時に何やら手首まである白い長袖(手甲、手筒?)を着用している事が多いです。
    当時あんな物を着用していたのかどうか、と時代考証家の本でも疑問を呈しただけで真実は書かれていませんでした。

    当時の錦絵や肖像画等にも描かれていないように思うのですが、冬の撮影時に防寒の為にそれっぽい肌着を着せたとか、見た目的に威厳がありそう気品がありそうという理由で採用したのか。
    現代の歌舞伎でも同様の長袖を着用しているようです。もしかしたら歌舞伎界から映画界へ流入した「衣装」でしょうか。

    作者からの返信

    そうざ 様
    コメントありがとうございます。

    まず、棒手振りに限らず、江戸の人々は暑ければ着物を脱げば良い、邪魔なら裾をまくれば良いという感じに、肌を露出することに羞恥心を感じていなかったので、男性が褌を見せて歩くのは日常風景でした。
    (なんなら、裸を見られるのも平気でしたしね)

    ただ、股引きもありましたので、職業によっては、履いていた可能性もあると思います。(祭りの時は、御輿の担ぎ手が半股引き身に付けるという話もあります)
    が、まぁ、時代劇では尻を出すのを躊躇っての衣装という考えに、一票ですね。

    大名だけでなく、旗本も熨斗目に裃、あるいは袴をTPOに合わせて使い分けしていましたが……手首まである長袖のようなものは着ていなかったと思います。
    布の手甲とは違う、あの肌着みたいだけど、襦袢にしてはぴったりしてるやつですよね?
    確かに、襦袢を見せるお洒落もありましたが……たぶん、あれは、衣装じゃないですかね。
    とりあえず、私の手元にある資料には見当たりませんね(・ω・`=)ゞ

  • 円座、板の間に敷かれているのを時代劇でよく見ます、あれを「布団」と見るかどうか(円座は柔らかいものなんでしょうか)。

    以前読んだ時代考証の本に「座布団は余程の年寄りがプライベートで敷くもので、城内で使うなんてあり得ない」「或る古武道家から、急に襲われた時に座布団で刀を防ぐ技があると聞いて、当時一般的でなかった座布団でどう防ぐのだ」と指摘する文章がありました。もしかしたら、現代人がイメージする座布団か否か、という事かも知れません。

    そう言えば、江戸庶民は寝る際に掛け布団ではなく掻い巻きを掛けていた、ともありました。

    作者からの返信

    そうざ様
    コメントありがとうございます。
    円座は、綿の入ったものもあったそうですよ。

    そうそう、今、思い出しましたが布団は蒲団とも書きますよね。
    これは蒲の葉っぱで円座を編んだことが由来だそうです。
    布団だと、どうしても布が先行してしまい、今の綿が入ったものを想像してしまいますが、そうとは限らないようです。

    掻巻は、寒さをしのぐ知恵だったと思いますよ。布団よりも綿が少なくてすむでしょうからね。

  • 熊本城が地震被害を受けた際に、石垣が崩れた原因の一つに昭和時代の改修の仕方にあったという話を聞きました。当初は裾が広がるようにカーブを描いていたのに、昭和の改修で直線にしてしまい、それで耐震強度が弱まってしまった、と。

    「ここより下に家を建てるな」みたいな石碑があっても無視して街を作り、津波の被害が……みたいな事もありますし、古人の業績を無条件に無視は出来ないなーと思ったのでした。

    作者からの返信

    そうざ 様
    コメントありがとうございます。
    どのくらいの影響があるか、私は分かりませんが……昭和の改修工事がなければ、熊本城は荒廃の一途をたどったとも聞いたことがあります。
    あの大地震が、江戸当時に起きて、熊本城が耐えられたかも分かりませんから何ともですね。
    ですが、今回の修繕には多くの有識者が意見を出し、シュミレーションを重ねたとも聞いています。二度とあのような大地震が来ないことを祈るだけですね。

    石碑や伝聞に関しては、そうですね……無視をしたというよりは、情報過多な時代で伝わりにくくなっているのかもしれません。
    また、現代人の興味が薄れている等もあるような気がします。

  • 江戸の話、好きです。

    参勤交代って「参勤」と「交代」なんですよね。行きと帰り。

    徳川時代のイメージは明治新政府が悪く喧伝した側面もあるようで、今では「鎖国」「士農工商」等が教科書から消えているとか。明治以降に一般化した「江戸時代の言い方」も色々とあるようで。「藩」とか「天領」とか。

    正座は元はプライベートのリラックスした座り方だったなんて話も聞きます。公の場では男性は胡坐だとして、女性もかつては立膝が普通だった。座布団は一般的には使っていなかったとか、現代人が伝統的だと思っているあれこれ、実は歴史が浅い。

    作者からの返信

    そうざ 様
    コメントありがとうございます。
    そうですね。参勤交代の意味は、行きと帰りですね。そして、明治新政府が悪く宣伝した側面もあります。
    うちの娘たちの教科書には、まだ鎖国も士農工商もありましたが……まぁ、教科書は変わるものですからね。その言葉が生まれた意味を知ることの方が大切だと思います。

    公の場で男性が胡座だったのも、咄嗟に動くためにもっともよい形だったのでしょう。戦国時代で正座などしていたら命がいくらあっても足りませんよね。
    女性の立膝も、すぐに動けるようにということだったのかもしれません。

    座布団!
    実は話題にしようと思っていたものです。
    そもそも、木綿や綿は高価でしたからね。座布団どころか、布団が一般的になったのも明治時代と云われています。
    まぁ、円座といわれる座布団に似たものはありましたけどね。

    編集済
  • シーボルトは一種のスパイだったみたいですね。国禁の書をわかっていた上で持ち出そうとして捕まり、大問題になっています。相当なエロ親父だったのも事実ですよ。

    作者からの返信

    白狐姫と白狐隊 様
    コメントありがとうございます。
    はい、今でいうスパイです!
    でも、シーボルト自身は植物学、動物学、民族学などの興味を持っていたものを調べたいって思いが強かったんだと思います。
    スパイ行為だったとしても、彼の働きのお陰でヨーロッパ圏の園芸文化は大きく飛躍しましたし、日本の西洋医療も発展したのですからね。

    ドイツ人で開業医だったけど、夢を諦めきれずにオランダの軍医になっちゃうんですから、凄いですよね。

    そうそう、日本の地図を持ち出そうとして国外退去になりましたね。
    でも、彼は日本が好きだったんじゃないかなって思いますよ。オランダに戻ったのち結婚するんですが、生まれた息子は、後に外交官になって日本に訪れるんですよ。
    息子に、日本の良さを伝えていたのかな……そうであったら良いなって思います。

    エロ親父と言いますが、出島に訪れたのは若い頃で、外に遊びにもいけないですからね。遊女を呼び寄せるくらいしか癒しはなかったと思いますよ。

    そもそも、出島を行き来できる人は限られてましたし、特定の女性が出来たとしても、その人を本国に連れていくことも出来ませんし、子を成したとしても連れていけないのですから……本気になるのは辛いことだったでしょうね。
    (一部変換ミスを訂正しました)

    編集済
  • 西洋の防御方式は、基本、大砲に対する防御を前提としていますね。山がちな日本の場合、当時の大砲では設置が難しく、射程も短いので、それほど攻城戦では活躍していません。大砲の活躍が目立っているのは大坂城くらいでしょうか。

    華麗な天守閣も戦国期で作られたのは例外的少数で、多くは江戸初期の建造です。戦国期から残っている天守は数えるくらいしかありません。犬山城はその中でも有名ですが、実際に行ってみるととても小さく、質素です。姫路城は江戸初期ですが、もう大きな戦争は無くなっていく時代でした。名古屋城なんかは立派な天守が造られていますが、戦災で焼失したのは残念ですね。

    作者からの返信

    白狐姫と白狐隊 様

    コメントありがとうございます。
    そうですね。
    函館の五稜郭に関していえば、当時すでに欧州では欠点も露呈していて、古い様式だと言われていましたからね。
    それでも、あの様式を取り入れたのは、西洋式のインパクトを与えるためか、とか、裏で海外勢が日本を攻め落とすための布石の一つだったのではないか、とか、様々な説があると聞いたことがあります。

    戦国時代の城は、山城のイメージが強いですし、個性豊かですよね。
    堅牢な天守閣といえば、姫路城ですかね。一度は訪れたいなと思っています。

  • 武士の家計簿という本がありますが、これを読むとそこそこの位にいる武士も、家計は相当苦しかった事が伺われます。家禄は基本固定(給料は本人の頑張りと言うより、祖先の位で決まっている)、物価スライド制でもないし、武士としての体面を維持する為の儀礼的な支出も多く、木麺の着物を新品で購入する事なんかなくて、全部古着屋で買っていた様です。

    江戸時代の社会制度で面白いのは、権力と財力の分離がなされていて、武士には権威と権限があったけれど貧乏で、商人は財力はあったけれど、権威も権限もありませんでした。このふたつを支配階級が両方とも持ってしまうとどうなるかは、今の世界を見ればわかりますね。徳川幕府は当時の世界線で見ると非常に清廉潔白な政権で、これが260年も続いた理由でした。明治維新だって外圧がなければ、相当先になっていたでしょうし…。

    作者からの返信

    白狐姫と白狐隊 様
    コメントありがとうございます。
    武士の家計簿、面白いですよね~。
    武士といっても階級も様々でしたし、商人より財力がない武士もいましたね。
    そのため、高利貸し屋も大きくなりましたからね。

    えっと……
    コメントはありがたいですが、出来れば本文のメイン「ファッション」についてお話ししたかったですね。

  • 惣構、だと思ってググってみたら、どっちもよかった。

    勉強になります(^^♪

    作者からの返信

    天のまにまに様
    コメントありがとうございます。
    惣構でも合ってます!
    総構えの方が読みやすいなと思って、そちらを使いました(*^^*)
    函館の五稜郭のように、西洋の様式を取り入れたものもありますよね。予算不足でしたし、大砲には弱かったといわれますが……あの様式は、戦国時代だったら難攻不落の城となったように思います。

  • 4.江戸時代の大人の遊びへの応援コメント

    村々で数学の問題を出し合って、その解答を絵馬に書いて神社やお寺に奉納している例があり、江戸時代の村の教育レベルは、同時代の西洋なんかに負けていませんでした。高等数学にあたる様な三角形の面積を求める問題とかも作られています。

    作者からの返信

    白狐姫と白狐隊 様
    度々、コメントありがとうございます!
    学問による立身出世も、当然ありましたからね。江戸城下だけでなく、藩による学問所がいくつもありましたし、平和が訪れたからこそ、新しい文化や学びには貪欲だったことでしょう。

    そのあたりは、まぁ、大人の遊びとはまた違う側面ですので、他の日にでも、語りたいと思います。

  • 鎖国とは言ってもオランダとは交易しており、オランダ経由で西洋各国の事情や情報も収集していたので、意外と抜かりがなかったりしています。あと、参勤交代は家光の時代以降、相応に緩められています。小大名が困窮して領民から搾り取る様になると、島原の乱みたいなのがまた起こる可能性があったからです。松倉勝家を調べるとわかりますが、こういうご乱心気味の君主が出てきかねません。

    作者からの返信

    白狐姫と白狐隊 様
    コメントありがとうございます。
    ご安心ください。鎖国政策で外国との接点が全くない訳でないのは、知っていますよ。
    言葉足らずで、申し訳ないです。

    オランダ以外にも、中国や朝鮮、琉球などとの交易もありましたよね。
    特に琉球使節なんかは、江戸の庶民も異国文化に触れるのを楽しみにしていた側面もありますからね。

    オランダに限定すると、緊張した時期もあるんですよね。フランスに支配された時期の出島は大変だったとか、イギリスがオランダの旗を掲げて入ろうとした事件とか……

    そのあたりは、また別の時に語ろうかなと思ってます。

  • 4.江戸時代の大人の遊びへの応援コメント

    洋の東西を問わず花は高額取引されるのでしょうか。

    チューリップバブルを思い出しました。

    作者からの返信

    天のまにまに 様
    コメントありがとうございます!
    チューリップバブルと似ていますね。

    ちなみに、高額取引は特に明治時代に見られます。日本の軍艦は、ユリで出来ているなんて言われることもありました。
    ユリ、アサガオ、アジサイなんかが、海外で人気だったようですよ。
    また、シーボルトによって多くの種が持ち出され、ヨーロッパでの品種改良も進んだと聞いたこともありますね。

    江戸の頃はプラントハンターと呼ばれる植物収集家も多かったですからね。鎖国をしていた日本の植物への期待は、大きかったんじゃないでしょうか?

  • 自称とは知りませんでした。
    勉強させていただきました。

    作者からの返信

    天のまにまに様
    コメントありがとうございます!(近況ノートにもありがとうございます!)

    自称なんですよ。
    私も知った時、驚きました。
    あまりにも有名な肩書きですから、誰もがそう呼んでいたかと思ってましたが、もしかしたら、創作かもしれないですよね。
    魔王を名乗ったら、仏教関係者が記録残しそうですし。