武士の家計簿という本がありますが、これを読むとそこそこの位にいる武士も、家計は相当苦しかった事が伺われます。家禄は基本固定(給料は本人の頑張りと言うより、祖先の位で決まっている)、物価スライド制でもないし、武士としての体面を維持する為の儀礼的な支出も多く、木麺の着物を新品で購入する事なんかなくて、全部古着屋で買っていた様です。
江戸時代の社会制度で面白いのは、権力と財力の分離がなされていて、武士には権威と権限があったけれど貧乏で、商人は財力はあったけれど、権威も権限もありませんでした。このふたつを支配階級が両方とも持ってしまうとどうなるかは、今の世界を見ればわかりますね。徳川幕府は当時の世界線で見ると非常に清廉潔白な政権で、これが260年も続いた理由でした。明治維新だって外圧がなければ、相当先になっていたでしょうし…。
作者からの返信
白狐姫と白狐隊 様
コメントありがとうございます。
武士の家計簿、面白いですよね~。
武士といっても階級も様々でしたし、商人より財力がない武士もいましたね。
そのため、高利貸し屋も大きくなりましたからね。
えっと……
コメントはありがたいですが、出来れば本文のメイン「ファッション」についてお話ししたかったですね。
色々と返信ありがとうございます。
ご存知でしたら教えて頂きたい疑問があるのです、二つ程。
一つはもう解決しているとも言えるんですが――魚の棒手振りが江戸の町を売り歩くようなシーンで、上半身は法被で、下半身は白い半ズボンのようなものを穿いている事が多いです。
実際は褌を締めて尻は丸出しの筈。お茶の間に尻を晒すのはどうか、俳優自身も尻を出したくない、という事情で考案された――「衣装」ですよね。
もう一の謎はずっと分からないまま。町奉行が裁きをするシーンや、城内で大名達が議論するシーン等で、熨斗目に裃を着用していますが、この時に何やら手首まである白い長袖(手甲、手筒?)を着用している事が多いです。
当時あんな物を着用していたのかどうか、と時代考証家の本でも疑問を呈しただけで真実は書かれていませんでした。
当時の錦絵や肖像画等にも描かれていないように思うのですが、冬の撮影時に防寒の為にそれっぽい肌着を着せたとか、見た目的に威厳がありそう気品がありそうという理由で採用したのか。
現代の歌舞伎でも同様の長袖を着用しているようです。もしかしたら歌舞伎界から映画界へ流入した「衣装」でしょうか。
作者からの返信
そうざ 様
コメントありがとうございます。
まず、棒手振りに限らず、江戸の人々は暑ければ着物を脱げば良い、邪魔なら裾をまくれば良いという感じに、肌を露出することに羞恥心を感じていなかったので、男性が褌を見せて歩くのは日常風景でした。
(なんなら、裸を見られるのも平気でしたしね)
ただ、股引きもありましたので、職業によっては、履いていた可能性もあると思います。(祭りの時は、御輿の担ぎ手が半股引き身に付けるという話もあります)
が、まぁ、時代劇では尻を出すのを躊躇っての衣装という考えに、一票ですね。
大名だけでなく、旗本も熨斗目に裃、あるいは袴をTPOに合わせて使い分けしていましたが……手首まである長袖のようなものは着ていなかったと思います。
布の手甲とは違う、あの肌着みたいだけど、襦袢にしてはぴったりしてるやつですよね?
確かに、襦袢を見せるお洒落もありましたが……たぶん、あれは、衣装じゃないですかね。
とりあえず、私の手元にある資料には見当たりませんね(・ω・`=)ゞ