工場労働者殺人事件

古野ジョン

工場労働者殺人事件

 俺の父親は、二十年前に蒸発した。当時五歳で、古アパートで両親と三人で暮らしていた。父親は工場労働者で、母親はスーパーでパートをしていた。貧乏な暮らしだったが、特に不満に思うようなことはなかった。父親は俺に優しく、少ない金で何とかおもちゃやお菓子を買い与えてくれていた。


 だがある日、その平和な日々は終わった。父親が職場の飲み会に行くと告げたまま帰って来なかったのだ。どこかで酔いつぶれて寝てるんでしょ。母親はそう言っていたが、数日後になってそうではないことが分かった。というのも、大勢の借金取りが家の前に押し寄せてきたからだ。


 玄関で借金取りたちと問答する母親を、俺はただ眺めることしか出来なかった。後で母親から見せてもらったのだが、借金取りの一人が父親が書き残したという手紙を持って来ていたらしい。そこには次のようなことが書かれていた。


「すまない かねを使いすぎた あとのことたのむ」


その字はなんだか不器用な感じで、いつもの父親の字とは違って見えた。


 ともかく、その一件があってから一度も父親は帰って来なかった。母親は警察に捜索願を出したらしいが、特に成果は得られなかったようだった。そこからの暮らしは地獄のようだった。幸いにして、母親が借金を肩代わりさせられるようなことはなかった。それでも、大黒柱を失ったことで俺たちの生活は厳しくなっていった。古アパートを引き払い、遠い街のさらに古いアパートに引っ越した。母親は生活費を稼ぐために働きに行く日が増えた。日に日に増えるストレスを発散するために、俺に当たることも多くなった。何度もぶたれて、体中が痣だらけになった。


 高校を出た後、母親から逃げるように一人暮らしを始めた。夜間の大学に通って、昼間はアルバイトで学費を稼いだ。大変だったが、なんとか単位を取って卒業することが出来た。その後は小さい出版社に就職し、週刊誌の記者になったというわけだ。


 散々な子ども時代だったわけだが、その原因となった父親を恨む気持ちは不思議と持ち合わせていない。むしろ、あの時どうして蒸発したのか気になっている。家族に隠れて借金を作るような性格ではなかったと思うし、借金取りが持ってきたという手紙もなんだか疑わしい。なにか別の事情があったのではないかと思っている。


 ある日の仕事中、上司に呼び出された。何でも、十年前に起きた事件を取材してほしいとのことだ。

「この事件は知っているか?」

そう言って上司が資料を差し出してきた。そこには「工場労働者殺人事件」と書かれてあった。


 うん?この事件が起こったの、父親が蒸発するまで俺が住んでた場所じゃないか。詳しい情報を得ようと、資料をぱらぱらとめくった。


 事件の概要はこうだ。ある日、六人の工場労働者が無断欠勤した。不審に思った上司が警察に相談し、付近の捜索が行われた。そして、付近の山道近くに六人の遺体が捨てられているのが発見されたというわけだ。その後、大々的に捜査が行われたらしいが、未だに犯人は見つかっていないそうだ。


 資料には、労働者たちが働いていた工場の名前が書かれていた。やはり、父親が働いていた工場だった。しかし父親が蒸発したのは二十年前のことだ。十年前のこの事件と関係があるとは思えないし、偶然だろう。


 資料に目を通した俺は、上司に尋ねた。

「どうしてこの事件を?」

「今年でちょうど十年だからな。未解決事件として、調べがいがあると思ってな」

「それを私一人で、ですか?」

「お前もそろそろ独り立ちしないとな。期待してるぞ」

上司はそう言って、ぽんぽんと肩を叩いた。


 どうすっかなあ。俺は特急列車に揺られながら、そんなことを考えていた。なぜ特急に乗っているのかというと、例の工場がある街に取材に行くためだ。とりあえず行ってみないと始まらない。警察でも何でも取材して、事件のことを聞きだしてみるか。


 駅に着いた俺は、とりあえず例の工場に向かってみることにした。受付で事情を話すと、工場長に取り次いでくれた。工場が出来た当初からここで働いているらしい。応接間で待っていると、間もなくやってきた。

「あんたが……取材の人?」

「はい。十年前の殺人事件について、取材させていただこうと思いまして」

「そうかい……」

そんな会話をしていると、さっきの受付の人がお茶を持って来てくれた。工場長はそれをずずずと啜ると、口を開いた。

「十年前も、こうやって取材なんかよく受けたもんだ」

「そうですか。それで、何かご存じのことはないかと」

「無いよ。俺にしちゃ、いきなり何人も人手がいなくなったから補充が大変だった記憶しかねえ」

今まで、さんざん取材を受けてきたのだろう。嫌気が差しているように見える。


 けど、記者としてここで諦めるわけにはいかない。

「事件当日については、どのような状況だったのですか?」

「あんたも調べたんだろう? 例の六人が来なくてよ、家に電話かけても出やしねえ。わざわざ家に行ったら全員留守でな。変だから警察に通報したら、あんなことになったわけよ」

「前日は皆さん出勤されていたんですか?」

「ああ、そうだ」

「お仕事の後は?」

「飲み会に行ってたみたいだ。その六人でな」

ということは、六人は飲み会の帰りに襲われたのか。

「その飲み屋というのはどこですか?」

「すぐ近くにあった居酒屋だ。ここらじゃあそこしか居酒屋は無かったのに、数年前に潰れちまった」

居酒屋のあとの被害者の足取りについては警察も調べたらしいが、よく分からなかったようだ。


 結局、大した収穫が無いまま工場を後にした。折角この街に来たなら、あのアパートに行ってみるか。俺は昔の記憶を頼りに歩き出した。その途中、横に分かれていく細い道があるのを見つけた。たしか、両親にこの道は通るなって言いつけられていた気がする。工場からアパートに行くには近道だが、街灯も少ない暗い道だ。父親も、仕事帰りにこの道を通るのは避けていたらしい。


 それにしても、大人になった今でも気味が悪い道だな。通るのはやめておくか。そう思った俺は、大通りの方に向かって歩いて行った。大通りを抜けると、そこには懐かしい景色があった。昔よりさらに古くなったアパート。たしかに、こんな建物だったなあ。


 センチメンタルな気分でそれを眺めたあと、俺はすぐ近くのコンビニに入った。宿は素泊まりだから、夕飯を用意しなければ。俺はおにぎりの棚に行く前に雑誌コーナーに向かった。たまには他社の雑誌でも立ち読みして勉強するかね。雑誌を手に取ってぱらぱらとめくっていると、横に一人の男が来た。


 その男はぼさぼさの髪で、なんだかやつれた顔つきをしている。しかしその目つきは鋭く、ヤクザのような独特のオーラをまとっている。なんだか気味が悪いな。俺は雑誌を置き、おにぎりの棚に向かった。


 数個のおにぎりとパンを取ってレジに向かうと、さっきの男とばったり出くわした。会計のタイミングが被ってしまったらしい。

「あ、どうぞ」

「す、すいません……」

俺が譲ると、男は弱々しい声でそう言った。強そうだったり弱そうだったり、なんだかよく分からない奴だな。


 そんなことを考えている間に、男は会計を終えて外に出ていた。俺は手短に会計を終えるよう店員に頼み、すぐさま店を出た。きょろきょろと見回して男を探すと、なんと例のアパートに入っていくところだった。どの部屋に入るのか見ていると、俺が住んでいた部屋に入って行くではないか。


 さっきの声と男の後ろ姿を見て、俺の脳裏にある予感が走った。その予感は、そうであってほしいという希望的観測を含んでいた。けど、もしそうだったら。俺はアパートをじっと見つめながら、小さく呟いた。


「親父だったりしてな」


そして、俺はその場を去った。


 その翌日、俺は再び工場へと向かった。受付に行って工場長に取り次いでもらう。応接間で待っていると、間もなくやってきた。

「またあんたか。もう話せることなんてないよ……」

「いえ、今日は個人的な件でして」

俺はそう言って、一枚の写真を取り出した。

「この人物に見覚えはありませんか?」

それを見た工場長は目を見開いた。そう、その写真に写っているのは俺の父親だ。

「あんた、もしかして……!」

「はい。私はこの人物の息子です」

すると、工場長は堰を切ったように話し始めた。


 どうやら、俺の父親と工場長は友人だったらしい。父親が蒸発した「あの日」も一緒に飲んでいたという。

「あの日、飲み屋で別れたあとはどうなったんですか?」

「どうもしねえんだ。ちょっと飲み過ぎたくらいで、いつもと違うことなんてなかった」

「些細なことでもいいんです。何かありませんか?」

「そういえば、店を出た時の方向が違ったな」

「というと?」

「アイツはいつも、大通りに抜けてから家に帰ってたんだ。けどあの日は遅くなったから、違う道を通ったみてえだ」

もしかして、あの細い道か? 飲み過ぎて遅くなったから、近道であるあの細道を通った……と考えれば不自然ではないな。


 すると、工場長は驚くべき事実を告げてきた。

「まあ、十年前に戻ってきたのはビックリしたけどよ」

「えっ??」

「あんた、知らなかったのか? 十年前に突然現れてよ、また働かせてくれって頭下げてきたんだ」

「ええ??」

「俺だって、二十年前に何が起こったのか聞きたかったよ。けどよ、なんだか深い事情があるみてえだったから聞かずに雇ったんだ」

全く知らなかった。母親からもそんな話は聞いた覚えはない。工場長はさらに話を続けた。

「あんたらが心配してるだろうと思って連絡しようとしたら、アイツに止められたんだ。女房には連絡しないでくれって言うもんでな」

「それで、父は今も働いているんですか?」

「いや、すぐ辞めた」

「どうしてです?」

「戻って一か月くらいの頃によ、アイツ仕事中に倒れて救急車で運ばれたんだ。死ぬかもしれねえってんで、流石にあんたの母親にも連絡したさ。結局無事に退院出来たんだが、その後すぐに辞めちまった」

「その後、父はどうなったんです?」

「実はよ、その後すぐに例の殺人事件が起こったんだ。それでいろいろごたごたしてたから、連絡先も聞けないままだった」

どちらにせよ、少なくとも母親はこのことを知っていたのか。教えてくれても良いだろうに、なぜ言ってくれなかったんだ。


 一通りの話を終えたあと、俺は工場を出た。いろいろと新しい情報があって頭が混乱してきた。とりあえず、時系列で整理してみるか。


二十年前:父親が蒸発する

十年前:父親が工場に戻るが一か月で退職。そのあと殺人事件が起こる。


父親の件は殺人事件と関係ないと思っていたが、こうしてみるとなんだか怪しいな。関連がないとは思えんが、どうしたものか。


 そんなことを考えながら歩いていると、例の細い道が見えてきた。二十年前のあの日、父親がこの道を歩いたのかもしれない。なんとなく怖いが、歩いてみるか。俺は交差点を曲がり、その細道を進み始めた。


 何か手がかりはないかと周囲を見回しながら歩いていると、ある家の塀に大きなへこみがあるのを見つけた。なんだか車がぶつかったような跡だが、一体何だろう。細いとはいえ、まっすぐな道だ。そうそう車が事故るとは思えんな……


 へこみを見ていると、近くの勝手口から女性が出てきた。こちらを見て驚いたようで、大きな声を上げた。

「何ですか!!人ん家の塀をじろじろ見て!!」

そりゃ、塀をじっと見てたら不審者だよなあ。俺は慌てて名刺を差し出し、事情を説明した。納得してもらえたようなので、塀のへこみについて聞くことにした。


 その女性も、へこみの原因についてはよく分かっていないらしい。ある日の夜遅く、塀の方から衝突音が聞こえたそうだ。家を出て確認しようとしたが、複数の男が揉めていて怖かったのでやめたそうだ。翌朝になってから塀を確認してみるとへこみが出来ていたというわけだ。


 俺はメモを取りながら、女性の話を聞いていた。

「だからね、その音と関係があるとは思うんだけど……」

「分かりました、ありがとうございます。ところで、それが起きたのはいつの話ですか?」

「私が嫁入りしてすぐだから……二十年前くらいかねえ」

ペンを持つ手がぴたりと止まった。

「正確な日付、分かりますか!?」

「ええ、いつだったかしら……ちょっと待っててくださいね」

そう言うと、女性は家の中に入って行った。


 しばらくして、女性はアルバムを手に戻ってきた。

「あんまり大きいへこみだから写真に撮ってたのよ。ほら、これ」

その写真にはへこみが大きく写っており、右下にはタイムスタンプが入っていた。ビンゴだ。この日付、父親が蒸発した日と一致している。

「いろいろとありがとうございました。大きな手掛かりになりそうです」

俺は女性にそうお礼した。


 やはり父親は蒸発したわけではなく、何らかの事件に巻き込まれていたんだ。そうに違いない……と考えたところで、あることを思い出した。じゃあ、あの借金取りたちは何だったんだ? 借金が原因で蒸発したわけじゃないなら、説明がつかないな。あ、分かった。恐らく父親は、借金で首が回らなくなってヤクザにでも拉致されたんだ。それで身売りでもしたんだろう。そういうことだったんだ。


 理屈は通ってるが、それでも少し変だな。父親は十年前に工場に復職しているはず。ヤクザに拉致された人間の行く先なんて、臓器売買の犠牲になるとか、東京湾に沈められるとか、そんなとこだろう。のこのこと生き延びて元の職場に復帰するなんて有り得るのだろうか。それに、やっぱり父親がヤクザに追い回されるほどの借金を作るような性格とは思えない。


 手掛かりを求めて、父親の借金について詳しく調べてみることにした。俺は特急列車に飛び乗り、今度は実家へと向かった。そして母親がいない時間を狙って実家に入った。母親とは顔を合わせたくないからな。


 俺は、書類がありそうな場所をいろいろと漁ってみた。押入れの奥を探してみると、隠すように置いてある物体があった。なんだこれ。手に取ってみると、「借用書控え」と題した書類が何枚も束ねられていた。


 その束の中から一枚を取り、読んでみた。ああ、どうやら本物みたいだな。なんだ、やっぱり父親は金を借りた挙句にヤクザにやられたのか……。落胆した気持ちでいたが、目を凝らしてもう一度それを読んでみることにした。


 すると、あることに気づいた。おかしいぞ、借主の欄が母親の名前になっている。他のも見てみたが、やはり全て母親名義の借用書だった。衝撃のあまり、頭が真っ白になった。


 何が起こっている? 父親が借金をしていたもんだとばかり思い込んでいたが、借主欄に書かれているのは紛れもなく母親の名だ。母親に聞いてみるか……いや、やめておくか。隠してある時点でしらばっくれるのは間違いない。それが分かっているのに、わざわざ母親と話なんかしたくない。俺はもとあった場所に書類を片付け、実家を出た。


 とりあえず、上司に今までの取材について報告するか。そう思って会社に戻ると、なんだか騒がしい。

「何かあったんですか?」

そう上司に聞くと、困った顔で返事をしてきた。

「実はな、脅迫文が届いたんだ。『工場労働者殺人事件』について調べるのをやめろって」

「え? 送り主は?」

「詳しくは分からん」

そう言って、上司は脅迫文を見せてきた。こんな字、どこかで……。


 気づいた瞬間、身の毛がよだつような感じがした。二十年前、父親が書き残したというあの手紙の字とそっくりだったのだ。これで確信した。父親の蒸発と「工場労働者殺人事件」には関係がある。


 その次の日。俺は改めて事件の捜査資料を調べてみることにした。警察は犯人を特定することは出来なかったようだが、何人か怪しい人物をリストアップしていたらしい。その中には、あの工場がある街を根城にしていたヤクザの組員がいた。仮に事件の犯人がヤクザだった場合、捜査が難航したのも納得がいく。アイツら、殺しのプロだもんな。


 二十年前に父親が蒸発したのがヤクザの仕業だと仮定すると、そのヤクザがこの事件と関連していると考えるのは不自然ではない。となると、今度はこのヤクザについて調べてみるのがよさそうだ。たまたま同じ会社に暴力団の取材をしている人間がいたので、協力を頼んだ。例のヤクザの組員名簿を取り寄せてもらったので、精査することにした。


 すると、ますます頭が混乱する事態となった。なんと、名簿に父親の名があったのだ。二十年前に組に入り、十年前に脱退したことになっている。どういうことだ? 父親は拉致されたのではなく、組に入ったということなのか?


 待てよ。今どき、警察もヤクザの名簿くらい持っているはずだ。捜索願が出ている人間がヤクザの名簿に載っていたら気づくはず。そう思った俺は警察署に向かった。父親の名で捜索願が出ていることを伝えると、データベースを照会してくれた。しかし、対応してくれた警察官の返事は意外なもので、

「その名前に該当する捜索願は出されておりません」

というものだった。


 要するに、母親は捜索願を出していなかったのだ。押入れの借用書の件といい、父親の復職を俺に伝えなかった件といい、母親が俺に何かを隠しているのは間違いない。俺はもう一度、実家に向かうことにした。この間とは違って、母親から話を聞きだすがあるからな。


 実家に帰ると、母親が鬱陶しそうに出迎えてきた。

「あんた、何しに来たの」

「なに、ちょっと母さんに書いてもらう書類があってね」

俺は適当にそう言って、母親に一枚の紙を差し出した。

「何これ、何も書いてないじゃない」

「そこにさ、母さんの名前を書いてくれないか」

そう言って、ペンを手渡した。母親は右手でそれを受け取り、紙に書こうとする。俺は母親の腕を掴み、それを制止した。

「何すんのよ、書けないじゃないの」

「母さん、書いてくれないか」

それを聞いた母親が、ぴくりとした。

「あんた、何のつもり」

「いいから、書いてくれよ」

母親は渋々左手で名前を書いた。その字はまさしく、あの脅迫文の字だった。


 俺は胸ポケットから脅迫文を取り出した。

「これ出したの、母さんだよね?」

母親は明らかに動揺した。

「あんた、それどうしたのよ」

「そういや、俺がどこで働いているか教えたことはなかったな」

そう言って俺は名刺を取り出した。

「母さん、十年前の事件を調べている記者ってのは俺のことだ。運が悪かったな」

母親はもう何も言えなくなっていた。


 こうなると、あとはこっちのもんだ。俺はさらに問い質した。

「あの時借金していたのは父さんじゃなくて母さんだろう? 押入れのを見させてもらったよ」

「……そうよ。貧乏に我慢できなくなったから。あんたたちに隠れて、贅沢してたわ」

「それで返せなくなって、とうとう闇金にでも手を出したんだろ?」

「そう。スーパーのパートじゃとても返しきれなくて」

「……それで、父さんを売ったのか?」

「そうよ。次は家まで取りに行くって脅されたから、うちの旦那を借金のカタにって言ったのよ」

「どういうつもりだ!!!」

俺は母親の胸ぐらを掴んだ。人生でこれほど怒りを覚えたのは初めてだ。だが母親はそれを意に介さず、話を続けた。

「あんたとか周りの人には、お父さんは交通事故で死んだことにするつもりだったの。けど、向こうの手違いで家まで取り立てに来たのよね」

恐らく、父親が蒸発した数日後に取り立てが来た件のことだろう。

「だから、お父さんが借金してたことにしたのよ」

「それで父さんの手紙を偽造したのか?」

「偽造って大げさねえ」

俺は胸ぐらを掴んでいた手を離した。


 父親の件は分かったが、結局殺人事件の話が解決していない。

「母さん、なんで脅迫文なんて送ってきたんだ?」

「事件のことがバレると、私が父さんを売ったことがバレるからよ」

「どうしてだ?」

「それは言えないわ。別にいいでしょ、お父さん生きてるんだから。あの人、二回も死に損なうなんて運がいいわねえ」

そう言うと、母親はため息をついた。二回、とはどういう意味だろう。どちらにせよ、事件のことを話すつもりはないようだな。やれやれ、もうコイツと話をするのは懲り懲りだ。俺は帰り支度を始めた。

「とにかく、事件のことを調べるのはやめてちょうだいよ」

「それは上司が決めることだからな、俺は知らん」

俺はそう言って、家を出た。


 翌日。俺は再び特急に乗り、工場のある街へと向かった。駅を出ると、真っすぐあのアパートへと向かった。かつて自分が住んでいた部屋の前に立ち、インターホンを押す。ここまで来たら、真正面から立ち向かってみよう。間もなく、男が戸を開けた。


 改めてその男の顔を見て、俺は確信した。

「お久しぶりです、お父さん」

そう言うと、男は目を見開いた。そして俺の顔をまじまじと見て、涙を流し始めた。やはり、父親だったのか。コンビニで見かけたときは、その不気味さから声をかけられなかった。けど、最初からこうすれば良かったのかもしれないな。父親は涙を拭き、俺を居間へと招き入れた。そして、二十年前に何があったのかを語りだした。


 二十年前のあの日、父親は飲み屋で飲み過ぎてしまった。そして近道をしようと、例の細道を通って帰ろうとしたらしい。ここまでは俺の推測通りだな。細道を歩いていると、後ろから勢いよく車が走ってきた。車は勢いそのままに、近くの塀にぶつかった。それがあの塀のへこみの原因か。父親は何が起こっているのか分からずにいたが、間もなく車から降りてきた男たちにさらわれてしまった。それがまさしく、例のヤクザの組員たちだったのだ。


 父親が推測するには、その車は大通りで待ち伏せしていたんだろうということだ。恐らく、母親がヤクザに父親の帰宅ルートを教えていたんだろう。しかし父親は細道の方に行ってしまった。それに気づいて慌てて細道の方に入ってきたもんだから、ハンドル操作を誤って壁に追突したんだろうな。


 父親は、本当は外国に売られるはずだったらしい。それこそ臓器売買の商品になるところだったそうだ。ところが、買い手側の都合でその取引がおじゃんになってしまった。ヤクザは父親の処遇に困り、組員にしてしまったのだそうだ。そして、嫌々ながらヤクザをやる羽目になった。舐められないようにと相手を睨みつける術を学んでいたら、本当に目つきが悪くなってしまったと父親は笑った。


 そして十年後に組を抜けるお許しを得たそうだが、「街から出て行くこと」を条件にされたそうだ。組にとって父親は臓器売買の証拠みたいなもんだから、警察にバレるとまずいという考えだったみたいだ。


 だが何を思ったか、父親は街に残るという選択肢を選んだ。そして例の工場に頼み込んで、再び雇ってもらった。そのままひっそりと息を潜めて生きていくつもりだったのだそうだ。工場長が母親に連絡するのを止めたのは、母親経由で組にバレるのを恐れたからだろう。


 ところが、父親は工場で倒れて救急車で運ばれてしまった。見舞いに来た工場長から、母親に連絡したことを聞かされた。それを聞いた父親は、ヤクザから何かされる前に工場を辞めて街を出たそうだ。


 一通りの話を聞いて、だいたい察しがついてきた。

「じゃあ、例の殺人事件は?」

「あの事件は、組が俺のことを消そうとして起こしたんだ。馬鹿の一つ覚えでさ、今度は細道で待ち伏せしてたみたいだ」

「つまり、あの六人はただの巻き添え?」

「彼らには悪いことをしたよ。暗い道だから、俺がいるか分からなかったんだろうな」

組は父親が仕事を辞めたのを把握していなかったんだろう。だが結果的に無関係の人間を六人も殺してしまったのだから、それこそ組の存続に関わる大事件だ。それに懲りたのか、父親を消そうとすることはなくなったそうだ。

「だからさ、もう一度この街に戻ってきたんだ」

父親はそう言った。母親が「二回死に損なった」と言っていたのはこういうことだったのだ。


 すると、玄関の戸がバーンと開いた。驚いてそちらの方向を見ると、刑事らしき人間が何人も立っており、そのうちの一人が口を開いた。

「貴様を詐欺罪等の疑いで逮捕する!!」

「はいはい、分かってますよ」

そう言うと父親は立ち上がり、おとなしく手錠をかけられた。

「ちょっと、刑事さんどういうことですか」

「この男は元暴力団員だ。その身分を偽ってアパートを契約した疑いがある」

そう言うと、刑事たちは父親を外へと連れ出した。


 父さん、そこまでしてなぜこの街にこだわるんだ。十年前だって、組に消されるリスクを負ってまでこの街に残ったんだろう? なあ、教えてくれよ。父親がパトカーに乗せられる直前、俺は大声で「父さん、この街には何があるって言うんだーー!!!」と叫んだ。


 父親はにこやかな表情で、静かに答えた。

「ここにいれば、いつかお前に会える気がしたんだ」

そして、パトカーは走り去った。

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工場労働者殺人事件 古野ジョン @johnfuruno

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