第3話
奈津奈に出会った日から、
彼女からしたら、自分との約束など些事に過ぎなかったようだ。天上人が、いち庶民にかまけるはずもない。
それを確信した奏は、決意する。
「父さん、母さん……ごめんね。この家も、町も、僕には……」
家族との思い出を手放すのは辛い。
けれど、それ以上に――
だから、故郷の地を離れると決めた。
奏は研鑽を続け、方々を流浪しつつ、細々と興行する旅芸人としての生活を始める。
誰も、自分が喜楽の息子だということを知らない土地で。
§
そうして、二年ほど。
小さな劇場の一幕を任されていた、ある日のこと。
観客は少なかった。
だから気づいた。
奈津奈がそこにいた。
舞台を終えると、一目散に彼女のもとへ向かった。
「奈津奈様っ」
劇場の隅で、待ってくれていた。
間違いない。
会いに来てくれたのだ。
「お久しぶりです、奏様……場所を移させていただいてもよろしいでしょうか」
町外れの河畔で、寂寞とした夕暮れを背に、ふたりは言葉を交わし合った。
「ごめんなさい。ずっと来れなくて」
待ち焦がれ、ついには諦め、新たな生活も軌道に乗り始めた頃だ。奏にとって、この再開は喜ぶべきものか分からなかった。
「覚えていて……くれたのですね」
「もちろんです。しかし、とても時間がかかってしまいました」
「何があったのです」
「天上家を抜け出しました」
巫女の力を忌避していた彼女は、大きな決断をしたようだ。
きっと、容易ではなかったはず。
「そんなことをして、大丈夫なので……?」
「いいえ。私は追われる身です。何しろ、知りすぎている……というより、知れてしまう」
例えば、喜楽の死は本当に事故だったのか。
一介の芸者といえども、あれほど異質な才を見せる男だ。政治的な力を持つ前に――
と、一族の者が考えた可能性は捨て切れない。
知ろうと思えば、知ることができてしまう。知りたくもない、悍ましい人の心を。
それが巫女の力だ。
「一族を離反した私は、処分される身です」
「ここまで、逃げてきたのですね」
「いえ……巫女の力から逃れることは、非常に困難です。人から人へと、口寄せを繰り返すことで、一歩も動くことなく人探しができる」
奈津奈が奏を見つけたのも、これだ。
人の記憶を覗き見て、知らない人物を知り、そこからまた新たな人物の記憶へと辿り着く。
これを何百、何千と繰り返すだけで、方々を見渡せるのだ。
「僅かな手がかりでも残してしまえば、糸をたぐるように見つかってしまう。巫女の目から逃れるには、極力、人との接触を絶つほかありません」
「それって……」
「あなたと会うのも、これで最後となりましょう」
「待ってください!」
こんなことを伝えるために、彼女は会いに来てくれたというのか。
「三年前のあなたも、とてもお上手でしたが、今日も、本当に素晴らしい演奏でした。あなたは人前に立つべきお人。私とは生きる世界が違います」
そうか、と。奏は気づいた。
もしも自分が口寄せされるようなことになれば、彼女の思想が漏洩することになる。自分に、本心を話してくれたから。
だから、容易に接触できなかった。今回も、慎重に慎重を重ねてきたのだろう。
諦めず、ずっと、ずっと、機会を伺ったうえでの今日なのだ。
あんな、些細な約束のために。
「奈津奈様……」
彼女の想いに、頭が上がらない。
けれど、それ以上に、奈津奈の方が深く頭を下げる。
「また聴きに来るなどと……無責任なことを言って、本当に、申し訳ございません」
「あなたは、今度も、謝罪のため……そのために僕のもとへ?」
「はい」
奏は焦がれていた。
恋い、焦がれて――
一方、奈津奈は実直すぎる義務感から、ここへ――
会いたいという気持ちの向き方が、まるで違っていたようだ。
「いいのですか、あなたは、それで。人と関わらず生きるなんて」
「誰も巻き込まないためには、そうするしかないのです」
「巫女の力を隠してさえいれば、人を避けなくとも」
「何かあったとき、巻き込んでしまってからでは遅いのです……」
奈津奈は知っている。
人の記憶を通して、経験したことがあるのだ。
追われる者を匿って、罪もない善人が処刑される――もはや、自分の記憶のようにこびりついている。
万が一にも、彼をそんな目に遭わせたくはない。
現に、奏は反逆者だ。自分の考えに同調している時点で、知られれば処断されかねない。
「だから会うのは、これで最後にしたいのです」
「…………」
やはり、喜べるものではなかった。
奏にとって、この再会は、焦がれていたものではなかった。
「さようなら、奏様」
奏にとって、奈津奈は理解者だ。天才の息子だと知りながら、比べるでもなく、自分だけを見てくれる。
おこがましくも、運命を感じていた。
彼女にとっても自分がそうなのだと思いたかった。
しかし、何とも思われていない。
共にありたいという願望が、彼女の瞳にはない。
遠い人は、いつまでも遠かった。
§
(これで、よかった……?)
途端に襲いくる不安。
とてつもない後悔に襲われる、という予感が拭えなかった。
答えが知りたい。
そして、巫女には知るすべがある。
よって、奈津奈は――
§
「お足元の悪い中、お集りいただき、大変嬉しゅうございます。私、
と、観客へ挨拶している最中。舞台裏から、誰かが近づいてくる気配があった。
不審者が、そのまま舞台まで上がってきてしまう。
狐面で素顔を隠した――
(女のひと?)
予行では、このような演出があるなどとは聞いていない。
狐面の女は、おもむろに奏の隣に座り、口上を継ぐ。
「『双奏喜』という曲を、やらせていただきたく存じます」
奏は驚き、一瞬、三味線を落としそうになった。
(その、曲は……)
べべんっ、と。
女が弾き鳴らす音には、懐かしさがこもる。
奏は、即興で――というには、あまりにも洗練された出だしで、音を合わせていった。
この曲には、万条喜楽が書いた中でも、特に珍しい特徴がある。
たったひとりですべての世界観を表現し切る天才が、唯一、ふたりがかりを想定したもの。
二重奏、そして、二重唱の譜面を持つ。
結局、世には出回っていない。
なぜなら、これは喜楽が、息子のために書き起こした唄だから。
音色が重なり、溶け合う。
まさに今、奏は、父と奏でていた。
声の質は違う。うら若き女の喉で、成熟した男の放つ声色を再現できやしない。喜楽が発する凄みを効かせた声と、女のそれとでは、明らかに波が違う。
けれども、同質の感動を与えてくれる。
表現者としての高みが、まったくの同等なのだ。
奏は確信した。
この人の中に、父がいる、と。
曲は、父子の物語。全二部で構成されている。
共に苦境を支え合い、父の技に息子が追いつこうとする第一部。
衰える父が、遠くなってゆく息子の背中を見守る、その胸中を描いた第二部。
物語は、まず、息子の苦悩から始まった。
高音の急調子を多用する場面。伸びやかな父の演奏に、息子は、かたく苦しげな重たい音を合わせる。奏とその隣に座す者は、演奏技術でもって、父子の対比を見事に演じ切っていた。
そして、何よりも、唄声だ。
真に迫っていた。
あまりにも情感的。奏が震わす喉は、本物の涙と共に流れていたがために。
つづく、第二幕。
父を追い越してゆく姿を、輪唱で表現する。
奏が弾く旋律を、隣の者が追いかけてくる。しかし、重なることはない。緩やかに、伸びやかに、互いの音は離れてゆく。
奏は、堂々と、父の先を歩んだ。
演奏を終え、舞台は喝采に包まれる。幕が下りてなお、鳴りやまない。
決して、大舞台といえるほどの場所ではない。小さな劇場だ。
それでも、確かに、夢が叶った。
叶えてくれた。
「奈津奈様……」
たった一曲。喜楽が残した百を超える作の中で、この一曲だけ。
肩を並べ、弾き切った。
曲に描かれた息子のように、父を追い越したとは言い難い。
されど、弾き切った。
喜楽が表現しようとした世界を、余すことなく観客へ伝えてみせたのだ。
「よく、頑張ったね」
そう、彼女が言った。
これは奈津奈の言葉か、それとも喜楽の言葉か。
奏には分からない。
けれど、それでよかった。
「う……っぐ……」
ここまで弾き続けたことが、まさか、報われるとは思っていなかったから。
奈津奈は狐面を外し、こう続ける。
「ありがとう。この曲を愛し続けてくれて――そう、言っておられました」
§
先日の河畔で、あらためて、ふたりは話をした。
「どうして、戻ってくださったのです」
「……私は、ずるをしました。あなたに『さよなら』を言ったとき、本当にこれでよいのか、不安で堪らなく……だから、答えを求め……」
きまり悪く、奈津奈は告白する。
「……あなたを、口寄せしました。すると、ああせずにはいられませんでした」
数ある喜楽の作の中で、彼は、あえてあの曲を極めていた。
失ってさえも、父との約束を果たそうとしていた。
それほどまでに愛していた。
研鑽を実らせてあげたいという想いは、堪えられるものではなかった。
「でも、あんな人前で」
「そうですね……とても目立つことをしてしまいました。私は、間もなく一族に見つかるでしょう」
「なんで、そうまでして……だって、見つかったら処分されるって!」
「事前に相談すれば、あのような舞台、あなたは望まなかった。不躾な飛びこみとなってしまいましたこと、ご容赦いただけますと幸いです」
「これから、どこへ……」
「あなたにご迷惑はお掛けしません。私の方から出向けば、母も……それ以上は探らないでしょう」
「あんまりだ。僕を口寄せしたってことは……」
そうだ。
心の内を、つまびらかにされてしまった。
ならば、知っているはず。
「そうですね……あなたが私のことを、どれだけ慕ってくれているのか……存じています。けれど、私を追いかけず、見送ってくれる。私の覚悟を尊重してくれる。あなたは、そういうお人」
「ずるい、こんな……」
「才能の、ここぞという使い道を見つけられ、私は幸せです。今度こそ、さようなら」
本当に、これが最後の挨拶。
そのつもりだった。
巫女は、男心を知ってはいても、解ってはいなかった。
「奈津奈様が知っている僕は、以前の僕です。今の僕の気持ちは知らない」
「……だめです」
これからも幸せになってほしい。奈津奈はそう願っている。
しかし、当の奏からすれば、その考えはひどく間違っている。
「もう十分」
これ以上の幸せを望もうとは思わない。
今日の演奏で、これまでのことがすべて報われた。
ここで終わってもいい。むしろ、終わることが正しいとさえ思う。
「今ここであなたを見送ってまで、生きてゆこうとは思いません」
「来ないで。お願い……」
今よりも幸せな未来がないとして、それが何だというのか。
生きてほしい。
何よりも強く、奈津奈はそう思う。
しかし、奏だって同じだ。
いや。
奏の方が、きっと、もっと強く想っている。
もう、先がないのだとしたら――
「一緒にゆきましょう」
まもなく訪れるであろう、破滅のときまで。
§
あれから――
奈津奈の母が、娘を見つけ出すまで、五日とかからなかった。
しかし、追手はかからなかった。
奈津奈の母は、あの日の演奏の評判を頼りに、口寄せを辿り辿って、奏の存在までたどり着いていた。
彼を通して、娘の姿を見たのだ。そのうえで、天上家一同へ、こう告げた。
「娘は死んだ」
母の知る奈津奈は、そこにはいなかった。
このとき、娘の、本当の顔を知った。
色濃い継承をする血族にあって、よくよく、自分に似た面立ち。けれど、ついぞ見たことのない表情。
かくあれかし。
一介の母として、そう思いたくなる心が芽生えるほど――
現人神などではない。
ただ幸せを願うひとりの女が、そこにいた。
奏の唄 松井千悠 @chiharu_matsui
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