最終話 未来の物語 *
【西暦2025年3月15日 若葉】
「……それで、ふたりはどうなったの?」
エックハルトの膝の上にちょこんと座った二歳の娘、
「ここで別れ別れになった二人を可哀想に思って、神様がこの二人を生まれ変わらせて、また引き合わせてくれたんだ。それが、パパとママなんだよ」
スケッチブックに手書きの絵を貼り付けたその絵本の最後のページをめくりながら、エックハルトはそんなことを言う。
「……なんだ、またパパの妄想かよ!」
そう言うのは五歳の兄、
「こら。お兄ちゃんは、そういうこと言わないの」
「へへーんだ!」
私は嗜めるけど、理人は鼻で笑って駆け出してしまう。その様子はいかにも生意気な悪ガキだけど、本当は泣いていたのが恥ずかしいのだろうと、私は思う。
「…………」
一方の有沙は、エックハルトの膝の上で黙って、考え込んでいる。その整った顔立ちと色素の薄い目はエックハルト譲りだが、癖っ毛の彼と違って、私に似て髪の毛はまっすぐだ。そう、あのエックハルトとは違っていて、このエックハルトは癖っ毛だ、そんな風に見た目や、いろんな部分が少しずつ違う。
エックハルトはその髪を優しく撫でて、言う。
「アリサの髪が、ママに似ていてよかった」
それを見て、私はついつい思い出してしまう。彼のその手が、飽きもせずに私の髪をずっとずっと撫でていた夜のことを。
理人の言うエックハルトの、妄想の話。
彼は子供たちに、おとぎばなしを語る。ある時はよく知られているおとぎばなし、またある時は、即興で作られたと思われる、聞いたことのないおとぎばなし。もしかしたら、彼の世界ではよく知られたお話だったのかもしれないけど。
その中でも、今回の絵本は、彼がぜひ、と言って、二人で作った手作りの絵本だった。ストーリーを書いたのは彼で、絵を描いたのは私。画用紙に描いた手書きの絵を、小さめの色付きスケッチブックに貼り付けた、そんな簡素な絵本だった。
とにかくエックハルトのおとぎばなしの結末はなぜかいつも、パパとママが出会えてハッピーエンドになるのだ。さすがにそのことに気づいた理人は、最近父親に冷たい。同い年の子たちと遊ぶ時間が増えて、急に男の子っぽく、生意気になってきた。
ちょっと前までは泣き虫の甘えん坊だったのだけど。子供の成長は喜ばしいのだけど、こんな風に可愛らしい時期は人生の中では短いことを考えると、勿体なくもある。
【西暦2023年10月5日 若葉】
有沙が生まれてから、しばらくその世話にかかりきりで、この理人が拗ねてしまったことがあった。
「パパとママは、アリサがかわいいんだ。もうぼくのことなんてかわいくないんだ。かわいくないぼくのことなんていらないんだ」
理人はそんなことを言いながらぷう、と紅い頬を膨らませていた。その顔はいかにも可愛らしくて、あざとさすら私は感じてしまう。なんともこの状況には相応しくない、母親としては不届きな考え方だったのだが。
エックハルトの方はというと、しゃがんで理人に視線を合わせると、静かに口を開いた。
「リヒト。落ち着いて、よく聞いてほしい。パパは君のことを、世界で二番目に愛している」
「いちばんは、アリサなんでしょ!」
「違うよ。一番はママだ。二番目がリヒトとアリサ。どうしてだかわかるかい」
「……わかんないよ!」
理人の癖っ毛(こちらの髪はエックハルトによく似ていた)を撫でながら、エックハルトはこんな風に言ったのだ。
「リヒト。君はこの世界で、自分の人生を見つけ出すんだ。自分の力、自分の足、自分の手で。君の人生は、君が選択するんだ。だから、君の一番はそこにある。君にとっては、パパとママは二番だ。そうだろ?」
「…………」
エックハルトの言葉に、理人は視線を落とし、黙り込むが、また口を開く。
「……いまはまだ、いないじゃん。そんなの」
「そうだね。これから見つけるんだ。……だけど、パパとママはこの家に留まる。君たちが生まれて育つ、僕らはそれを見届ける、そんな人生を愛する。今は見えない君の可能性まで愛するのが、僕らの人生なんだ」
そう語るエックハルト。
理人には理解できるんだろうか? きっと彼が自分の未来を生きる上では、とても大事なことなのだけど。母親としては、きっと今の彼には、違う形のフォローが必要だ。
私は後ろから、理人を抱きしめる。
「お母さんは、世界で一番理人が大事だけどね?」
「わっ!」
声を上げつつもことの成り行きには満足そうな理人に、エックハルトは困り顔だ。
「若葉、僕は……」
「分かってるって。大丈夫」
私はそれだけ言って、ニヤニヤしながらエックハルトの困り顔を堪能することにする。だって、きっといつか、今現在の先の未来では理人も分かってくれるだろうし、その頃には私たちは、彼にとっては世界一大事な存在じゃなくなっているだろうから。
【西暦2025年3月15日 若葉】
そんなことを思い出しながら私は、この世界での二人の馴れ初めの頃、そして、一緒に暮らし始めた頃のことを思い出していた。
もう、外の世界も、文明も、他の何もかも消えて、暗い部屋の中で二人だけで、時間も忘れて愛し合うこと、それ以外のことは全て忘れたようになって、それがたとえようもなく幸せだと思う、そんな時間。
そんな蜜月期間は、子供が生まれたら続けていられるわけではなかった。だって、目を離したら死んでしまうかもしれない、小さくてか弱い、たとえようもなく可愛い生き物が自分の腕の中にあるのだから。それにやっぱり、社会生活のことも忘れるわけにはいかない。そんな理由で、この数年間はてんやわんやだった。
ちなみに今の私だけど、博物館のスタッフとして働いている。中途半端な形ではあるのだけど、私も昔の夢を完全に捨ててはいなくて、形を変えて追いかけているとも言える。
とにかくそんな多忙を極める中では、二人っきりでいられる時間なんてほんの短いものだ。
出会った時期が決して早くないのだから、そろそろもう、若くて美しい時期は過ぎ去ってしまう。というか、今年でもう37になる私がそう言ったら、そろそろ他の人から厚かましいと言われてしまいそうだ。昔の私は先に自分で自分を卑下して、他人には言わせまいと必死だったのだけど。
でももう、そんなことは気にしない。厚かましくたって構わない。やがては薄れて暗くなっていくだろう、若くて美しい人生の季節の名残を、必死に私達は生きている。あの時心の底から望み、願い続けて、それでも叶わなかった未来、手が届かない壁の先の世界に、今の私たちが存在しているのだから。だからそれでいいし、それがいいのだ。
そんなことを思い返しているうちに、理人は子供部屋に行ってしまい、有沙はエックハルトの膝を枕にして眠ってしまっていた。
その頭を優しく撫でるエックハルトの横顔は、昔と少しも変わらない美しさで、だけど昔とは違っていて、ずっと穏やかだった。
私は彼の側に立つと、その髪を撫でて、言う。
「大人になっちゃったねえ。私たち」
「……どういうこと?」
エックハルトは顔を上げると、私の目を見つめ返す。
それぞれに業の深さと苦悩する魂を抱えて陥穽にどうしようもなく嵌っていた私たちがこの人生を得るには、自分たちの死、そして世界と運命の因果を乗り越える必要があった。その過程でエックハルトは何十年の時間を余計に見てきて、だから、私の知っていた最初のエックハルトとはいろんな意味で違う人間になってしまった。だけど同時に、このエックハルトはどうしようもなくあのエックハルトで、それは私しか知らないし、私にしか分からない。
さっきのエックハルトの妄想絵本は、私たちが経てきた説明しがたい体験を、おとぎ話の形で子供たちに伝えるための物語なのだ。それも、一つの形だけじゃなくて、いくつもいくつもに形を変えて。この奇妙な時空と運命の物語をそのままの形で語れば、きっと理解してもらえないか、それとも二人が理解されなくなってしまうから。
私はエックハルトの頭を撫でながら、言う。
「……未来のことは分からないけど。もしもまた人生があるなら、またあなたと出会えるといいけど。でも今はこの世界の、この人生で生きていたい。あなたと一緒に」
私の言葉に、エックハルトの目に光が宿る。
「……ちょっと待ってて」
それから、エックハルトは有沙を抱え上げると、子供部屋のベッドに運んでいく。その間私は、居間で待っていることにする。
帰ってきたエックハルトは、片手で私の首、それから片手で私の腰に手を回して、耳元で囁く。
「……ずっと生きていこう、二人で、この世界、この人生で。この世界の終わりまで。その終わりすら乗り越えて、その先に辿り着こう。だから」
私たちは寿命の限られた人間でしかなくて、私たちが認識できる世界は、私たちの人生とともに終わってしまう、普通に考えれば。だから、私たちはそれを、次の世代に託すしかない。それはあるいは、私たちの子孫という形で。またあるいは、私たちがこの世界で成した物事の形で。
私たちの存在、私たちが残していける痕跡は、すぐに消えてしまいそうなさざ波、蝶の羽搏きのように微かな空気の流れでしかないのかもしれない。だけど私たちは、それがいつか大きなうねりを引き起こして、やがては世界全体を変えていくことを願っている。
今ではない、だけどいつか来る究極の終わり。だけど、それを乗り越えるために私たちは存在して、この世界に生きている。
私はエックハルトの髪の間に指を入れ、その頭皮を指の腹で撫でる。私が確かにここにいると、彼に感じることができるように。
「生きていこうね。ずっとずっと、一緒に」
(了)
アリーシャ・ヴェーバー、あるいは新井若葉と、歴史の終わり 平沢ヌル@低速中 @hirasawa_null
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