セキレイ(後編)

***

 鳥が鳴いている。

 気だるい身体を起こして、窓の方を見た。


 幸せなのに、ときどき夢から覚めたように空虚な感覚に襲われる。全て暴かれた身体は穴だらけで空っぽだ。隙間を塞ぐように膝を抱えて、びいぴいと耳障りな鳴き声に心の中で悪態をつく。

 人にとって愛されることは幸福で、たとえわずかな時間でも優しくされると心は満たされる。いつもそうだったのに。言い聞かせても、納得できない日がある。この虚しさの正体を明かそうと暗闇のなかを探ろうとしてしまう。あぁ、忘れよう。開けてはいけない箱が心にはあるというのに。幸せではない理由を考えたって幸せな明日が来るとは限らない。そう悟れるほどに、私は大人になっていた。

「セキレイだね」

 鳥の名前だと、私はすぐに理解できなかった。

「遠い国の神話でね、セキレイの長い尾羽が上下に振れているのを見て、子供の作り方を覚えて、夫婦の神様は国を作ったんだよ」

「愛し合って、国ができるの?」

「あぁ、島国が生まれたんだ。人を増やさないと国はできないから、そういう意味かもしれない」

 ミシェルは博識だ。私の知らない話をいくつもしてくれる。閉じた世界の小さな窓だ。愛おしい小窓に鳥は見えないほうがいい。愛しているよと後ろから抱きしめられて、ミシェルの熱を背に感じる。


 私も新たな国を作るのかもしれない。

 下手くそな鳴き声で、下手くそなダンスを踊る小鳥。重なりあうと、小さな島のようではないか。想像して、ぞわりとした。こんな感情もいらない。幸せに包まれていれば、悲しい時間は溶けていく。


 私はフローレン。

 彼を愛する日々は幸福な日記の1ページ。



***

 セキレイが鳴いている。

 灰色の背中に長い尾羽を持つ愛らしい鳥だ。

 

 いつだったか、動物も吸血鬼にできないかと先生に聞いたことがある。短い命を愛でるのはヴェロニカにはつらかった。試してみればいいと先生はにやりと笑うので、ヴェロニカは夜に小鳥を捕まえた。けれども、震える鳥に牙を立てるのが恐ろしくなって、すぐに手を離した。鳥は逃げるように遠くへ飛んで行った。吸血鬼のいない、手の届かない場所まで、その翼で飛んでいけと願った。そして、変身するなら強く速い鳥がいいと、先生に伝えた。今でもカラフトフクロウの姿はお気に入りだ。次に変身できたのがヌカカだと知ったら、先生は腹を抱えて笑うだろう。こんなはずではなかった。全部、テオドールが悪い。



 ヴェロニカはフローレンの隣に座り、震える肩を抱いた。身体を寄せあっても、二人の体は冷たい。年を取ることもなくなった冷たい身体は目の前のヨハンソン夫妻と似ている。身体が熱を持つのは誰かの血を飲んでいるとき。血が喉を通ると、身体に熱が染み渡るようで、なんとも気持ち良くなる。食事という位置付けだが、自分にも人の血が通っていたことを確かめたくて血を飲んでいる気がする。ヴェロニカの感覚も長い時間をかけて怪物のものに変わっていった。フローレンもいつしか罪悪感が薄まり、躊躇なく人の道を外れていく。そうしないと、長い時間を生きてはいられない。


「まったく、吸血鬼は辛気臭いな」

 重たい沈黙を破るのはいつだってうるさい生首だ。ヴェロニカが目を細めても、生首の口は止まらない。

「この馬鹿げたホームドラマに必要なものはなんたかわかるか?」

「首をボールにするフットボーラー」

「アウェイはお断りだ! ええい、必要なのは名探偵に決まってるだろう!」

 テオドールはまたフローレンの膝の上を陣取り、キャンベルは大事そうにハンカチで包んだ植物を持っている。蔓の長い、大きな葉の植物だ。植物に詳しくないヴェロニカは、フローレンに目線を移す。フローレンも知らないと首を振る。どうして死んだかはわかっていないが、犯人は認めてあるのに、名探偵は必要なものだろうか。

「ブルグマンシアだよ」

「うちにそんな植物がありましたでしょうか?」

「あったんだよ、レモンバーペナの後ろ、グリーンハウスの外にこいつは生えていた」

 靴底についていた種から芽吹くこともあるし、庭が外にあるかぎり知らない植物が生えることはありうる。

「その葉っぱがヨハンソン家をおかしくしたっていうの?」

「まあ、この家はずっとおかしいが、崩壊に導いたのはこいつの仕業だろうよ。かなりの毒性があって、効果は」

 テオドールの口がにやりと歪んだ。長い付き合いだ。またろくでもないことが起こるとヴェロニカはすっと立ち上がった。契約で消えない限界まで距離を取らねば。

「先生、ロニィを押さえて葉っぱを食わせろ」

「どうしてよ」

「僕もフローレンも毒は効かないし、先生に食わせたら危ないだろう。お前は傷の治らないヨハンソン夫妻を心配してたくらいだもんな」

「毒とわかっているなら十分! 実験する必要はないじゃない!」

「効果は見て確かめるべきだろ。大体、僕だけが痛い目を見ているのも納得がいかない」

「探偵が個人的な恨みで毒を飲ませてどうするのよ。説明すれば済む話でしょう」

「推理ショーに実演は必要だ」

「どこの探偵もわざわざトリックで人を殺して見せないわ」

「お前はヒトではないから気にするな。先生、やれ!」

 指示すると、ぼんやりとした目のキャンベルがにじり寄り葉をヴェロニカの口に押し当てた。壁を背にしていたためヴェロニカは逃げられない。懸命に口を固く閉じている。ばたばたと手足で抵抗するが、大の男の力には叶わない。こいつも眷属にするかとヴェロニカが諦めかけたとき、冷たい声がする。

「ヴェロニカ、命令だ。口を開いて、ちゃんと飲み込むんだ」

 首輪のようにヴェロニカを縛る絶対の命令。怒りよりも先に口は開かれ、葉を噛んで飲み込んだ。苦さに吐き出そうにも、命令は飲み込むまでだ。喉を押さえて、ヴェロニカは膝をついてキャンベルのほうに身体を預けた。普通でも生の葉なんて美味しくない。青臭さと、痺れるような感覚。

「がっ……はぁ、はぁ……てお」

「これが呼吸困難と痙攣」

 ヴェロニカはテオドールのほうを睨み付けている。瞳が揺れ、大きく見える。

「瞳孔も大きくもなる」

こっらぁすコロスいめシネ!」

「言語障害も起こる」

ごぉっ……っずゴミクズ!」

「そして、錯乱しているな。僕はゴミでもクズでもないし」

「これは錯乱ではないと思います」

 事実ではという言葉を飲み込んで、キャンベルは異を唱えた。指示に従ったキャンベルですら、幼い少女が毒に苦しむ姿はいただけない。正気に戻ったフローレンはもっと前から、別の意味の恐怖に震えている。百年の恋、現実の日数としては一週間ほどの恋も冷める瞬間がついに訪れた。

「さあ、まだあるだろ? 可哀想なロニィ、お前には何が見えるんだ?」

「テぉ、うにこん……あたみ、っなユニコーン、頭みっつになった

「何を言っているかわからないが、このようにブルグマンシア、通称エンジェルストランペットは精神に異常を来す。幻覚症状だ。フローレン、君が誤ってお茶に混ぜたのはこれだ」

 ヴェロニカが悶え苦しむなかで、テオドールは愉快そうに推理、および人体実験を披露してのけた。ヴェロニカが縁を切りたがっていた理由をまざまざと見せつけられたようでもある。

「わかりましたが、あの……! 残りのハーブティーを飲ませたらよかったのでは?」

「これは急性中毒といったところかな。ハーブティーはおそらく慢性中毒。じわじわとヨハンソン家を蝕んだんだろうな」

 尚更、直接に葉を食べさせる理由にはならないではないかとキャンベルとフローレンは目を合わせる。少女が不憫でならない。

「おい、勝手に真面目ぶって通じ合わないでくれ。それに、話にはまだ続きが」

 ヴェロニカは激しい頭痛と吐き気に襲われた身体を引きずって、フローレンの膝の上にいるテオドールの頬に噛みついた。柔らかい頬の皮膚ごと肉が裂け、赤い血が跳ぶ。ヴェロニカの渾身の一撃であった。テオドールは顔を抉られたことのショックで失神し、フローレンのドレスが新たな血で染まった。

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死ねない生首と吸血少女(仮) camel @rkdkwz

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