8 セキレイ(前編)

***

 秋の日、私は少女と出会った。



 ヨハンソン家のメイドが体調を崩したというので父が屋敷に呼ばれた。じきに私もこの家の専属の医師になるのだからと父は私も連れてヨハンソン邸に向かった。屋敷の門を叩く前、父は私に約束させた。ヨハンソン家の秘密を守ることと秘密を深掘りしないということ。患者の守秘義務に留まらない、深刻な口ぶりにまだ若かった私は怪訝な目を向けた。



 フローレン夫人が扉を開け、父は慣れた様子で屋敷の廊下を進み、一番奥の部屋をノックした。メイドと紹介された女が苦しそうに身を屈めていた。メイドにしては豪奢なベッドに寝かされている。それだけでメイドではないように思えて、愛人かなにかではないかと考えた。それなら秘密にするのも、いくらか納得できる。

 父がメイドの症状を聞いたあと、何種類かの薬を女に渡した。女の顔には大きな火傷の跡があり、呼ぶべきは皮膚科の専門医ではないかと思われた。目配せすると、父は静かに首を横に振った。何も言うなという意味だった。仕方なく、私は水を汲みにキッチンに向かった。

 キッチンはよく整理され、爽やかなハーブの香りがした。桶に水を溜めていると、腰をちょこんとつつかれた。恐る恐る振り替えると幼い少女が立っていた。手には白くて小さな花、シロツメクサの小さな花束を持っていた。

「病気が移ってしまうから、私はお部屋に入っちゃいけないの。このお花を届けてくれる?」

 声を潜めて話す様子から、秘密のミッションなのだと悟った。私は腰を屈め、声を潜めて、少女に伝えた。

「それなら、花瓶もいただけるかな?」

 大人から指示を受けたのが嬉しいのか、少女は目を輝かせてキッチンの奥の部屋に入っていった。食品の貯蔵庫でもあるのだろう。紹介されていないが、フリルのついた綺麗な服を着ていたから、ヨハンソン家のご令嬢だと予想をつけた。ばたばたと何やら動かす音がして、少女は小瓶を私に差し出した。可憐な花に見合ったサイズに私は頷いてみせた。

 私は桶と花瓶を持って、メイドの部屋へ戻った。メイドは窓のそばに置いたシロツメクサを一度見て、そっと目を反らした。見舞いは不要だったらしい。

 静かな部屋に小鳥の鳴き声が響いた。高い声はセキレイのものだ。秋を知らせる鳥と言われている。きっと厳しい冬に備えているのだ。大変なのだと愚痴を言っているように聞こえる。



 フローレン夫人は帰りに礼をいい、父と私は屋敷を後にした。長い付き合いになると父は言い、私はまた言葉を飲み込んだ。小さな町で、ヨハンソン家がかなりの上客であることは間違いない。仕事であるなら、余計な口出しはできない。



 良い医者になるという決意が年を追うごとに薄らいで、今ではあの日の父と変わらない臆病で面白味のない人間になっていった。

 当時、秘密の多いこの家とうまくやっていけるのか不安だったが、あの日の少女が健やかに育つようにと密やかに願っていた。医師として、それは本当の思いだった。しかし、その後の往診で少女と出会うことはなかった。



***


 鳥が鳴いている。

 身体をもち、羽を持つ生き物。自由を表す存在に、テオドールは眉を潜める。さらに興味のない男に運ばれるのも興が削がれる原因だ。しかし、今ならフローレンはいない。キャンベルに話を聞くチャンスだ。

「先生、あんたは全部知ってたんだろう」

「なんのお話でしょうか?」

「ヨハンソン家の事情をさ。先生はわかっていて、あえてヨハンソン夫妻を救わなかった」

 ヨハンソン夫妻が亡くなっても、今のフローレンは壊れたままに生きている。夫妻を見殺しにしたのか、フローレンだけを救おうとした結果がこれなのかはわからない。ヴェロニカと同じく、テオドールも医者であるキャンベルを疑っていた。

 小気味よく響いていた庭土を踏みしめる足音が止まっても、テオドールにはキャンベルの顔が見えない。困惑しているのか、はたまた笑っているのか。効きすぎた催眠の効果でキャンベルの真意は読み取れない。しかし、こうも動揺しない男の身体が立ち止まる程度には核心をついていた。首から下があるなら、やはりそうかと頷いているところだ。

「責めるつもりはない。僕もフローレンは生かすだろうよ」

 好いた相手を優先する。この家に限らず、よくある話だ。

「私は何も知りません」

 キャンベルは尚も平坦な声で応える。

「馬鹿言え。この家の医者がお前だけなら、異様さに気付かないはずがない」

「私は彼女が誰かも知りません」

 彼女とは今のフローレンだろう。毎度ややこしく、掻けるものら頭を掻きたいなとテオドールはため息をついた。

「じゃあ、地下室で見た女の首とは知り合いか?」

「あの方はメイドの方です。お名前は……」

 キャンベルが目を伏せたことをテオドールは気付かない。しかし、キャンベルの歩みが少しだけ鈍くなっているのを感じた。役割をすり替えて、この家は保たれていたのだ。

「悪趣味なもんだな」

 テオドールはまた顔を歪め、近付いてくるグリーンハウスに目を向けた。ガラスでできたグリーンハウスは朝日に照らされ美しく輝いている。



 グリーンハウスの中は朝の爽やかな空気に満ちていた。

 フローレンと来たときは植えられた植物をたいして確認していなかったが、キャンベルに室内をぐるりと歩かせた。水捌けのよい通路に沿ってルッコラ、トマト、ズッキーニ、エッグプラントなど、野菜も育てているのがわかる。本格的なものではなく、家庭栽培というこじんまりとした規模だ。奥のベンチはフローレン自慢のハーブが見えるように配置されている。目立つものがレモンバーペナの低い木で、その周りにプランターで育てているものも置かれている。レモンバーペナはフローレンが淹れるハーブティーのベースのものだった。他にレモングラス、ラベンダー、カモミールにバジル。元から偏食なこともあるが、ヴェロニカはスープを口にしても、緑の匂いのきついハーブティーを口にしなかった。

「先生、ベンチに僕を置いて」

 はいと応えたャンベルがそっとテオドールをベンチの中央に置いた。ブランケットを敷かないベンチはひんやりと冷たい。

 テオドールの目線の先、レモンバーペナとは違う形の葉が落ちている。フローレンと訪れたときには他の植物の葉が風で飛ばされたのだと思っていた。しかし、よく見ればレモンバーペナの裏に別の植物が絡んでいる。

「レモンバーペナの、正面の木の裏に回ってくれ」

 近付くとガラスの壁の下部に割れ目を発見した。何かの衝撃で割れたのかもしれない。塞ぐためにブロックが置かれているが、そのわずかな隙間から蔦が伸びている。暖かく、光ある方へ向かったのだろう。グリーンハウスの外には、白い花が咲いている。


 花の名前はブルグマンシア。下を向いて咲く姿は天使のラッパに似ているため、エンジェルストランペットという名で流通している。観賞用として親しまれていても、毒性の強い植物だ。

「先生、この蔦を持ち帰るぞ。素手はやめておけ。かつ、僕の顔に当てるな」

 左腕でテオドールを抱え直したキャンベルは器用に右手にハンカチを巻いてブルグマンシアの蔦を引きちぎった。いくつか葉も付いており、サンプルには十分だ。



 来た道を戻りながら、テオドールはまた問いかけた。

「先生、いつまでシラを切るつもりだ?」

「ヨハンソン家の皆さんが何を口にしていたかなんて、私に知りようがありません」

 やぶ医者めとテオドールが吐き捨てても、キャンベルの態度は変わらない。小鳥の鳴き声だけが虚しく響いていた。

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