7 まわる

「はい、ちくっとしますね」

 眉間に刺さったナイフを抜く前に医者のキャンベルは落ち着いた声でテオドールの額に局所麻酔をかけた。


 麻酔の効いてくる頃合いを見計らって、キャンベルはナイフに力を込めたのだが、ギャアアアアアとテオドールは三度目の悲鳴を上げた。首を切られて死なない男テオドールは薬も異物と判断するようで、麻酔の効果を無くしてしまう。完全に角にでもなったのか、皮膚が裂け、だらだらと出血している。テオドールの血を拭ったキャンベルは困ったように、離れたヴェロニカとフローレンに視線を寄越した。銀のナイフは虫除けの薬のように吸血鬼を遠ざけており、二人して気の毒にという顔で頷いてみせた。呼ばれたキャンベルにも、抜かれているテオドールにも気の毒にというような哀れみの表情である。

「どの麻酔も効きませんね」

「どうせ首だけではたいした抵抗もできないし、一思いに抜いてしまえばいいんですよ、先生」

「ロニィ、虫歯の処置だってもう少し丁寧だろうが!」

「麻酔の効かない状態でこの処置を行うのは些か酷かと……」

 ヨハンソン家お抱えの医師として呼ばれたキャンベルはヴェロニカに催眠術をかけられながらも的確に意見を述べる。長身で、白髪交じりの髪はさっぱりと短い。いまいち年齢がわからない、若くも年老いても見える不思議な男だ。

「痛がらない状態なら可能ってこと?」

「そうですね。けれども、これだけ傷が修復されているものを抜くとなると、新しい傷を作るようなものです。かなり痛いでしょうね」

「そうか、じゃあ仕方ないね」

「簡単に諦めるんじゃない」

「そういうことじゃないわよ。私だってナイフの刺さったままのテオを運びたくはない」

 面倒すぎるわとぽそりと呟いたヴェロニカはフローレンに顔を向けた。フローレンの腕を掴み、頭を下げた。

「ごめんなさい、フローレン。私は吸血鬼としてあなたの上司ボスになるけれど、私から教えられることは少ないわ」

 深刻な顔のヴェロニカに合わせて、フローレンもはいと頷き唇を強く結んだ。新たな主の指示を待つ心地はフローレンの性に合っている。

「最初の食事としてテオの血を飲むのはグルメになりすぎるかもしれない。私のママがよく言ってたの。ご馳走は特別なときに食べるからご馳走になるって」

「ご馳走とはそういうものですね」

「でも、私はさっきあなたの血を飲んでお腹いっぱいなの」

 顔を上げたヴェロニカは悔しそうな顔にも見える。

「……なるほど、わかりました!」

 察したフローレンがテオドールに向き直ると、テオドールもキャンベルに隣の様子が見られるように横を向けられており、悟りきった目でこちらを見つめ返している。テオドールの悪いほうの勘はよく当たる。

「キャンベル先生、テオのナイフをフローレンに見せないように持ち上げなさい」

 キャンベルはテオドールを後ろ向きにして持ち上げた。

「大丈夫、見た目はあれでも味は確かだわ」

「はい、テオドール様! ええと、失礼します!」

 後ろ髪をかきあげて、フローレンはテオドールのうなじに歯を立てた。容易く裂けた皮膚から流れる血をぺろりと舐めると甘くて人間のときに舐めた血とは違う旨味がある。一度吸うと、止められなくなるような。そんな甘美な血を吸い上げると、テオドールはすぐに顔面蒼白となり、水分を失ったように干からびていく。もう吸い上げられないと口を離すと、テオドールは白目を向いて、失神していた。

「ヴェロニカ様、どうしましょう!私ったら、美味しすぎて飲みすぎてしまったのでは?」

 子供より大人のフローレンのほうが血を飲む量が多い。そして、完全に失血死したら、うるさいテオドールも騒ぎようがない。

「先生! 今のうちにナイフを抜いてください!」

「なんとも、まあ」

 驚く様子も平坦なまま、キャンベルはふうと息を吐いてテオドールの頭を押さえ、ナイフを握った。


「はい、ぶちっといきますね」

 几帳面な声かけのもと、テオドールのナイフは額からひっこ抜かれた。血もわずかに裂けた切り傷のみだ。しかし、傷を塞ぐ処置をする前に傷はみるみる修復されていく。こびりついた血を拭うくらいしかできることはなくなってしまった。

「私はお役に立てたのでしょうか?」

「先生は必要よ。もしも、ここで通りすがりの農夫でもつれてきてたら、テオはもっとうるさかったもの」




***

 失血死して二時間、目を覚ましたテオドールの眉間の傷は完全に修復していた。場所は変わらず地下室で、仕事をやり遂げた風の吸血鬼二人は親しげに横並びで座っている。

「変身するのも、変身を解くのも練習が必要なの!よく練習してね」

「解くのも大変なんですか」

「映画を思い出してみて。みんな、服ごと変身してるじゃない? あれって最初の段階で装飾品すべてを自身の身体の一部として扱ってやらなきゃいけない高度な術なの。その認識が甘いと、変身を解いたときにうっかり裸になっちゃう。あと靴下の片方がないとかも悔しいんだよ」

「格好よく正体を明かしても、裸だと様にならないですものね」

「吸血鬼はプライドの高い生き物だから、変身術はかなり練習してるものよ。知り合いの吸血鬼も泥酔状態で変身を解いてしまって、裸を見たものの記憶を全部消して回ってたんだから!」

 こんなに程度の低い吸血鬼トークを初めて聞いたなと思いつつ、テオドールはこほんと咳払いをした。

「仲良くなったようで何よりだが、お前たちは僕に言うことはないのか?」

「ナイフの件と、さらには血を吸いすぎてしまい、大変申し訳ございません」

「……とっさにテオを手に取ったことは悪いと思ってるわ。でも、テオは死なないし、今ならこれが最善策だったように思える」

 フローレンは心から謝罪しているが、ヴェロニカは渋々といった様子である。いや、反省の気持ちは微塵もない言葉だろう。

「最善策だと? 他に2つも首はあったんだ! 僕を投げる必要はなかっただろうが!」

「ヨハンソン夫妻の傷は一生残るけど、テオの傷は修復するでしょう。結果的には被害もゼロよ」

「死なないからって、やっていいことと悪いことはある!」

「死者にも守るべき尊厳はあるでしょう!」

「お前のモラルはどうなってんだよ!」

「あの、お二人とも! 落ち着いてください!」

「フローレンには言われたくない!」

 声が揃い、二人は眉を潜めて呼吸を整えた。時刻は午前5時。外は明るくなり始めている。吸血鬼二人が地下室にいるのはわかるが、何故かキャンベルもまだ地下室の隅で小さくなって座っている。

「先生を帰さなかったのか?」

「私たちはもう日差しの下には出られないし、日中はキャンベル先生にテオの世話をしてもらおうと思って」

 テオドールが空腹になると満足に血が作られず、吸血鬼二人も飢える。大変身勝手な理由で、怪物モンスターらしいとテオドールは乾いた笑いを漏らした。

「では、朝のお食事をお持ちしますね」

 ゆらりと立ち上がったキャンベルはナイフを抜き取る前より、目がぼんやりとしてる。それなのに、はきはきとした声を出して、気味が悪い。

「おい、先生に何をした?」

「私の催眠術に不安があって、試しにフローレンにも先生に催眠術をかけさせたら、何故かすごく効いてるのよ」

 催眠術の重ねがけをしたことになる。治るのかという不安とともに、別の医者を呼ぶべきかとテオドールは眉を潜めた。

「私も自信をなくしそうよ。もしかしたら、フローレンはすぐに変身できちゃうかも」

 吸血鬼にも適正はあるのだろう。優等生タイプを前にしたヴェロニカを気の毒に感じつつも、テオドールは本題に入ることにした。



「フローレン、話の続きをしよう。君がいつからおかしくなったのか、本当に知りたいのかい?」

 フローレンは取り戻した記憶のなかを探ろうとした。それでも、断片から見えるものに確信はない。自分は殺していないと思う。けれど、その記憶すら正しいものなのかが危うく感じられる。自分の見たものが不確かという感覚に鳥肌が立つ。

「知りたいです」

 血が吸われるまで、自分が誰だったのかすらわからなくなっていた。過ちを認めるにも、自分が曖昧なままでは満足に罰することもできない。

「君は死者の声が聞こえていた。今はどうだ?」

「聞こえません。あんなに話しかけてくれた声が、もう聞こえないのです」

「おそらくロニィに血を吸われて、吸血鬼になった影響だ。吸血鬼になると、病気もほぼ治る。太陽なんかに弱い弱点はあるが、毒も効かないはずだ。ロニィは例外だが」

 ヴェロニカは毒も効く。死にはしないが、一時的に苦しむ。

「やはり病気だったのですか?」

「そうだね、慢性中毒といったところかな。君がメイドになって、始めたことはないかい?」

 フローレンは自分がメイドの仕事を手伝い始めたのは14歳。母が病に倒れる前にも少しずつ家事を学んでいた。母がフローレンを演じるとき、給仕が必要になることもあったため所作には注意を配っていた。長年ヨハンソン家に仕えた母の言葉通りに家事をこなしてきたつもりだ。ミシェルの好みは少しのスパイスを、フローレン様の好みは自然の優しいものを。

「16歳になったとき、母が私にグリーンハウスの世話を任せてくれました。もちろん、ヨハンソン家の持ち物なのですが、自然いっぱいの庭が好きな私にもってこいだと……」

「やはり、グリーンハウスか」

 フローレンは頭をふった。

「私は植物についても調べました! おかしなものはなかったです」

「でも、君はハーブティーを淹れるようになったんじゃないか?」

「え?」

「ヴェロニカが眠っている日中、僕らはよくお茶会ティータイムをしていただろう。僕は先の通り麻酔が効かないほどに身体が丈夫だ。ハーブティーに何か混ざっていても無毒化できる。ヴェロニカはこの家にきて1杯もハーブティーを飲んでいないが、君の血を飲んだ後におかしくなった」

 フローレンが顔を手で被った。自分が恐ろしいことをしたことに気付いたのだ。

「お二人も、ママも美味しいと飲んでくださいました。そんな、 私は何を飲ませたというのですか! もし、そうなら、私は3人も、私の手で苦しませてしまったことに」

「君が殺したかについては判断しかねる。僕らは科学捜査はできないし。これは僕の推論に過ぎない」

 テオドールは部屋の隅のキャンベルに声をかけた。

「先生、僕をグリーンハウスに連れていってくれ」

 キャンベルに抱えられて、テオドールは地下室を出ていった。



 ヴェロニカは震えるフローレンと物言わぬヨハンソン夫妻の首を見ていた。話の大筋は間違っていないと思う。しかし、ヨハンソン邸で起こった悲劇に違和感がある。絡まったヨハンソン家の4本の糸に1本だけ別の色の糸が混じっている。

 その糸を切り離すべきかを考えて、溜め息が出た。

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