6 眠り

――愛しているよ、フローレン

 いつでもミシェルの声がする。

 愛の言葉はフローレンのためのもの。


――ねえ、フローレン

――やあ、フローレン

――さあ、フローレン

 なんて、しあわせなことば。

 庭に止まったアオサギも、川を泳ぐパーチも、土を這うミミズも、みんなフローレンが大好きだ。

 巣から落ちた雛鳥も、干からびたおたまじゃくしだって、フローレンと口にする。

 みんな抱きしめて、渇かぬように水を与えて、地下室でお茶会を。




 ミシェルが愛していると言うと、

 フローレンわたしもよと答える。

 これがヨハンソン家のみんなのしあわせ。


 あいし、あいされて、

 こんなにもしあわせなのに

 ミシェルのとなりのあなたはだあれ?

 ミシェルのめのまえ、わたしはだあれ?



***

 現在、フローレン貧血で倒れ、さらにはヴェロニカまでもが床に倒れている。

 悪夢にうなされているフローレンに上着のひとつも掛けてやれないことがもどかしい。できないことの積み重ねがテオドールを惨めな気持ちにさせる。また思い返せば、テオドールはここ何年も服を着た記憶がなかった。ほとんど全裸。それだと半裸になるのだろうかと考えて気を紛らわせたが、すぐに飽きた。もにゃもにゃと寝言を言うヴェロニカの鼻をつまむこともできないとは。




「テオったら、ユニコーンみたい!」

 フローレンの血を吸った数分後、ヴェロニカはテオドールを指差し、いつもより甲高い声で笑い続けて、ばたんと床に突っ伏した。空腹の状態から一気に飲んだフローレンの血。空きっ腹に酒はよく回る。しかし、こんなふうにおかしくなるヴェロニカは見たことがない。らしくない盛り上がり方にテオドールは恐怖を感じた。ヴェロニカにかぎっていうと、見た目相応の、子供らしさは不気味なものに見えた。

 血の良し悪しはわからないが、テオドールは自分の血を高級ワイン以上の価値だと思っている。だとしても、フローレンの血はそんなに安酒の部類なのか。血に何か悪いものが含まれていたのだろう。

「バカめ。僕を裏切った罰だ」

 非難しつつも、規則正しい寝息を聞くといくらか安堵した。長年の付き合いで、起きた頃にはいつものヴェロニカに戻るだろう。死が怖いくせに平気で人を殺しにくる子供クソガキ。腹は立つが、そうでなくなると、途端にテオドールの調子も狂っていく。


 二人が倒れてしまったのだから、テオドールにできることは天を仰ぐのみになっていた。天井はそれほど高くはない作りだが、テオドールにとっては遠いものだ。とっくに眉間の血は止まり、長い髪の毛に付いた血が気持ち悪いくらいで問題はない。無事に死ねない肉体は機能を果たしてくれたのだ。鏡で見ることはできないが、たしかに角のようになっている。これ以上刃が深く刺さらないように仰向けの状態を保っていると、ラグビーボールのようでもある。

 横目で見ると、台の上の夫妻が見える。変わらず無言で、行儀よく並んでいる。フローレン夫人の長い髪は台からはみ出しているが、縮れたり、傷んでいるようには見えない。綺麗な頭髪はメイドのフローレンが世話し続けた証拠だ。フローレンは優秀なメイドであり、容姿も儚げで美しい。ミシェルがどんな男であったとしても、自分と先に出会っていたらこんなことにはならなかったろうに。なんの根拠もないが、テオドールは不運な美人を見るとそう思う。



「退屈しのぎに首同士、話そうじゃないか」

 これではフローレンの妄想に現実味を持たせてしまうことになるが、テオドールは黙って待つのは好きではない。待つ時間はえてして焦れったく長く感じられるのだ。これだけ長く生きると退屈しのぎにどれほど馬鹿をやっても、時間の無駄という感覚は薄れる。時間はある。ありすぎるのだ。

「僕にはこの家で起こったことのすべてを把握できてはいない。でも、ミシェル。君がフローレンを愛していたことはわかるとも」

 テオドールも同時に複数人を愛したために共感できた。愛する女を一人だけ選べなんて酷なことができるはずもない。

「僕を目の前にしても、フローレンは君の話ばかりしていたくらいさ。それが愛なのか、君たち二人の育て方なのかも、正直判断はつかないけどね」

 歪な形でも、愛は愛。想い想われたなら、文句を言うのは無粋だ。

「でも、君は3人をフローレン夫人として愛したんだろう? その点で僕とは相容れない。花それぞれに名前があり、愛し方を変えないと枯れてしまうものなのだから」

 ぶんと音がして、またヴェロニカがヌカカになったのかと期待したが、銀のナイフの上に蝿が止まっただけだった。ふーと息を吐くと離れ、また止まる。テオドールは一人で話すことにも慣れている。姿の見えない者の声が聞こえたこともある。亡霊であれ、妄想であれ、聞こえたら返事をしてしまうほうが気持ちは楽だ。極限の状態にあると、非実在の友を呼び出してしまってでも孤独は埋めたほうがいい。

「フローレンはいい女だ。気が利くし、長い睫毛の奥の深い蒼の瞳が美しい。そう、あの美貌は君の手に余るほどの宝石だね。死んだ君より、生きている僕が手にすべき宝だ。まあ、僕の手どころか、身体の場所の見当もつかないけど……」

 ランタンの火が揺れて、光が楕円の模様を作る。この頼りない明かりのもとでメイドのフローレンは同じように2つの首に話しかけていた。フローレンにはどんなものが見えていたのか。テオドールは大きく息を吐いた。

「普通でも気が狂うだろうに」

 フローレンが身をよじり、壁に震える影が見えた。体を丸める、ほんの小さな揺れを感じた。

「起きたかい、フローレン。どこから聞き耳を立てていたかは知らないけれど、あと少しだけ僕らに付き合ってもらうよ」

「逃げないのですか?」

 不安そうなフローレンの声がする。弱々しい声で先ほどまでの威勢はない。やはりフローレンは意図せず二人を失ったのだろう。だからこそ、今も置いていかれるのが怖いのかもしれない。

「君はロニィの眷属の吸血鬼になった。君に僕らは殺せない」

 吸血鬼には多くの力がある。吸血鬼化によって意思を持たない操り人形になるものもいれば、フローレンのように意識のしっかりしたものになることもある。どちらにせよ、基本的には服従する身体に作り替えられる。裏切るとそれなりの代償を払うことになる。その呪いも本能的に理解できると、ヴェロニカは以前言っていた。

「ロニィの力は不完全で不安も多いが、やりたきゃやってみたらいいさ。僕は見ての通り、ナイフだろうが、銀の弾丸だろうが死ねない身体だ。そこの夫妻と同じように殺すには体が足りないわけだけど」

 首から下の体があれば、人生三度目の斬首となるのかと頭の隅で考える。どうせ死なないなら、気が済むまで斬ればいい。

「……あ、あの! 私は殺してなどおりません!」

「じゃあ、どうして夫妻は死んでるんだ?」

「お二人もご病気で倒れられて……あれ」

 フローレンがヨハンソン夫妻のほうを見ると、きんと頭が痛くなった。



 ベッドの上にミシェルとフローレン様が寝ておられた。フローレンわたしは銀のトレーにお水のピッチャーを持って、明日の朝食の話をする。けれど、お二人は返事をくれなかった。息をしていなかった。起きてほしくて、名前を呼んだ。

 すると、大丈夫だと穏やかなミシェルの声がした。耳の奥からか、頭の中からか。ママや動物たちと同じようにはっきりと声がしたのだ。

 フローレン様はもうお食事はいらないと仰るので、部屋を出ようとした。でも、お二人は私の頬におやすみのキスができないと困ってしまわれた。私からおやすみのキスをした。いつもされる側の、私からキスをしたから、ミシェルは喜び、フローレン様もうっすら笑みを浮かべておられた。愛してるよ、フローレン。

 その言葉に満たされた。満たされていたはずなのに。



 フローレンは思い出した。少しずつ線が繋がり、動き始める輪郭に目眩がする。登場人物の一人なのに、遠くから見ているような嫌な感覚だった。どうしても目の前がぼやけて、頭の中には物語の続きが見えてくる。下を向いて大きく口を開けても、何も出なかった。床に涙がぽたぽたと落ちていく。吐きたいのに、なにもでない。


 フローレンはずっと前から声が聞こえていた。耳を塞いでも、聞こえる声だ。どうして、不思議に思えなかったのだろう。



「私はいつからおかしくなっていたのでしょう?」

「ようやく夢から覚めたようだね」

 フローレンを見上げるテオドールは優しく微笑んだ。憐れみだとしても、フローレンには暖かな笑みに映った。恐ろしい世界を照らす光に思える。

「どうして、こんなことに」

「悪いが、答え合わせは後回しだ。君が目覚めたなら、まず医者を呼んでおくれ。ナイフが刺さったまま、話をするのは美しくないだろう」

 目の下を人差し指で拭ったフローレンは畏まりましたと階段を駆け上がっていく。心当たりのある医者を呼んでくれるだろう。あとはヴェロニカを起こさなければ、催眠術がかけられない。深いため息を吐いて、またテオドールは声を張り上げた。

「ロニィ、もう起きてるだろう」

 盗み聞きに集中しすぎて、ヴェロニカはいつしか寝息を立てるのを忘れていた。

「相変わらず、お前は嘘が下手だな」

 いつもの調子で言われ、ヴェロニカは仕方なく身体を起こした。それにしても、フローレンとの態度の違いはなんなのか。少女か、女性かの違いだとしてもなんだか納得がいかない。しかし、今はフローレンも同じ吸血鬼になってしまった。もう自分を選ぶ理由はないのではないか。また自由への淡い期待をしかけて、頭をふった。

 契約解除をテオドールから言い出したことはない。どうして、自分と旅をすることを選んだのか。ヴェロニカにとっては不思議でならなかった。

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