彼方へと悪夢を

紫鳥コウ

彼方へと悪夢を

 一盞いっさんを傾ける相手が恋しい――色街に繰り出してみたが、今日は平生の「好色一代男」は鳴りを潜めてしまう。色街から引き返し馴染みの店の暖簾のれんをくぐると、お雪に奥へと通される。霖雨りんうの時のような憂い顔をするお雪に「どうしたんだい?」とくと、「ちょっと、考え事」とすげなく返される。


 床の間に珊瑚さんごの念珠が放りだされているのを知って、なにがあったのかを察した。朝日あさひの煙を天井へ吐きだしながら「今日はもうお上がり」と言うと、お雪は下を向いてしまう。「京浜電車がいつもより混んでいたから、疲れただけ」と寂しく左手を重ねてくる。


 つややかな双眸そうぼうがうるんでいる。無理に微笑んで見せようとしている。「蒲団に入ろうか。灯りを消してくれ」「お酒はいりませんの」「眠りたくてね」――蒲団に入り床の間の方へ身体を向けると、灯りがふっと消えて、お雪がそっと音を立てぬように中へと入ってきた。「私もそっちの方を向いてる」という彼女のか細い声からして、きっと振り返ってほしいのだろう。だがそちらへ身体を回すには、相応の覚悟が必要な気がした。「誰が鬼籍に入ったの?」と率直に聞いてみると、少し間があいてから、「弟」という答えが、襦袢じゅばんに染み入ってきた。


 佐助は、このお雪のことを「外面似菩薩内心如夜叉げめんじぼさつないしんにょやしゃ」だと評して、近づく勿れと言うけれども、雀色時すずめいろどきになると、どうも彼女が恋しくなることがある。酒も飲まず、色に沈湎ちんめんせずとも、こうして一緒の蒲団に寝入ることは、如何なる品隲ひんしつをも呼び起こさせぬ。紛紜もめごともあれば和睦わぼくもある、世間一般の男女の関係と変わらぬ。寝息を立てているお雪のぬくもりを感じながら、床の間の下へと垂れるインバネスを薄れゆく視界へと捉える。


 朝日の煙に眠りを破られたお雪は、目をこすりながら起きあがった。「もう朝ですの」と聞く彼女をそっと抱き寄せて、「まだ夜更けだよ」と囁いた。「じゃあもう少し寝ようかしら」「それがいい」「あなたは寝ませんの?」「これをんでしまったらね」――床の間の掛軸に「百尺竿頭一歩進ひゃくしゃくかんとういっぽをすすむ」と書かれてある。


 嫌な夢を見たのだと彼女は言う。しかしどういう夢だったのかは、すぐに忘れてしまったのだという。床の間の珊瑚の念珠に目をやる。今度こそ良い夢を見るのだと彼女はうけれど、きっとしばらくは、良くない夢に脅かされるに違いない。自分にはそうした経験がある。


 自他ともに認める色男といえども、実の兄の妻にまで手を出したら勘当かんどうされてもおかしくない。しかし義姉あによめといえば、とことん堕落して、最後は駆け落ちをしたいという。「お兄さんじゃ、満足できませんの」と歔欷きょきしすがりついてきた。まだ若かった自分は、それにほだされてしまった。


 だが、その策謀は瞬く間に兄の知るところとなり、散々打擲ちょうちゃくされただけでなく、義姉までもが折檻せっかんを受けた。自分はともかく、愛した女性までも――このことは、兄を憎悪するには事足りることだった。しかしそんな兄がやまいで死んでしまうと、なにか目に染みる感傷めいたものにあてられてしまった。それからというもの、兄が自分をつ場面が、やたら夢となって現れるようになった。


 朝日を吸いきると蒲団にもぐりこみ、お雪を後ろから抱いた。こうすれば、いくらか悪夢もやわらぐだろう。事実、あのころの自分は、女性と何度も肌を重ねながら、悪い夢を眠りの中から追い払っていた。義姉はいま、なにをしているのかしら。そういうことを想うと、また良くない夢を見てしまう。だから「好色一代男」を止めるわけにはいかない。


「うちの実家に、猫がいるの。白と茶と黒の毛色をした、ちいさくて大人しい猫。その猫がね、もう助からないって分かってから、弟に、ぴったりとひっついて離れなかったらしいの。ずっと、弟の病床ふとんの周りにいるの。むかしは、しょっちゅう喧嘩をしていたのに……」


 次の間へと続くふすまの方を向いたまま、ひとりごとのようにお雪は話し始めた。あの向こうでは昨晩、彼女の朋輩ほうばいと客が遊び興じていたことであろう。


「ふたりは、喧嘩をすることでしか、愛し合うことができなかったのかもしれないわね。弟のいなくなったあと、うちの猫は、だれから愛を受けとることができるのかしら……」


 少しの打撃で消え入りかねないほど、もろい声をしている。両手で大切に持たなければ、瞬く間にくなってしまいそうだ。


 そのとき、障子しょうじの向こうからドッと笑い声が聞こえてきた。しかしそれは、鳥が二匹、外庭で一斉いっせいに鳴いただけであるらしかった。どの部屋でも、男女が寝息を立てているのが自然な時間である。この店は、夜深くまで賑やかで、朝遅くまで静かだ。


「憎しみあいながら、愛しあうくらいが、ちょうど良いのよ……」


 お雪の肩が震えているのが伝わってくる。それを抑えこむように、このまま抱きしめてもいいのか、それとも背中を向けて放っておくべきなのか、すぐには判断がつかなかった。


 さきほどの鳥の声が、兄と義姉あいじんののしり合う声に思えてきた。明け切らぬ静かな夜の妙な寂しさのなかで、共感の涙をこらえながら、決してくることはないであろう眠りを、いつまでも黙然もくぜんと水平線を眺めるように待っていた。

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