後編

 誠治と沙織、それにちょうど出かけようとした時に様子を見に来たがために道連れにされた和也の3人は、隆一が住むマンションの部屋の扉の前までやってきた。


 沙織が玄関を鍵で開けた。チェーンロックがかかっていて開かなかった。


「すみません」


と謝る沙織を横目に、誠治がインターホンを押した。チェーンロックがかかっているということは、在宅であるということなのだが、


「よくあることなんすか、ロックがかかっているのは?」


 和也の無遠慮な言葉に、沙織は小さな声で返した。


「……時々です」


「無意識に締めちゃっているんすかね~。大変ですね、奥さん」


 和也が能天気に言うが、沙織の表情は暗いままだ。つまり、隆一の無意識の手違いというわけではなく……。


『おい。なにしに戻ってきてんだよ。邪魔だから、しばらく外をうろついていろ!』


 ――意図的に締め出されていますね。


 インターホンにカメラは付いていない。けれど、インターホン越しの隆一の言葉は、チェーンロックの音で沙織の帰宅を知っていたものの無視していたことを意味している。


 誠治の心の中が不快感で満たされる。和也なんかは露骨に顔をしかめている。


 ――それにしても、品のない声ですね。

 ――外面と内面のギャップは誰でもあるのでしょうが、ここまで大きいとは思いませんでした。

 ――彼の外面の良さにだまされましたか。


 とはいえ、このまま黙っていても始まらない。


「商店街の者です。お宅の店について少し話がありますので、出てきていただけないでしょうか」


『……チッ』


 舌打ちとともにインターホンが切れた。


 しばらくして、チェーンロックが解除される音がして、玄関の扉が開いた。


 下はハーフパンツにサンダルをつっかけ、上半身は裸、という姿で隆一が現れた。腹部にタトゥーが入っているのは最初に気付いたが、それよりもしっかりと筋肉が割れている様子に誠治は少しだけうらやましさを感じた。少し前から、年齢のために代謝が低くなって、お腹が出てきたような気がしていたから。ちなみに、和也はとうの昔に諦めていて、今や立派なポンポコ狸腹である。


 隆一は不機嫌さを隠さず苛立いらだっていたが、誠治がいるのを見ると、面白そうなモノを見る表情に変えた。


「へー。何の用すかっ? いきなり自宅まで押しかけてきて」


「お宅が今度出す新商品、隣町の『パティスリー・ミツヤ』のオリジナル商品を真似たものですね」


「ふーん。そんな簡単に分かっちゃうんだ。だけど、何であんたがうちの新……チッ、お前か!」


 隆一が、舌打ちとともに、険しい表情を沙織の方に向ける。


 ――「余計な事をしやがって」とでも考えているのでしょうか。

 ――それとも「チクりやがって」でしょうか。


 舌打ちの音、彼の表情、視線、ひとつひとつが感情を逆なでしてくるから、誠治は少し違ったことを考えて、つのる苛立ちをやり過ごす。


「まあ、いいや。うちの新商品がお宅と何の関係があるの?」


「明らかな模倣商品を販売するのは止めていただきたい。これは商店街の組合員規則にも記されていることです」


 とはいえ、規則に書いてあると言っても、罰則があるわけではないし、強い拘束力があるわけでもない。信義則に近く、力ずくで止める方法があるわけでもない。


 だから、


 ――どうやって説得しましょうか。


 と考えていたのだが、


「じゃあ、商店街から抜けるわ」


 へらっとした顔であっさり言われた。


「ちょ、ちょっと、そんなことできるわけないじゃない」


 沙織が焦った顔をして、割って入ってくるものの、


「それが出来るんだな。まだ仮だしな。それに、抜けても、俺の店を今ある場所から追い出すことは商店街は出来ないのさ」


 得意げに隆一は言う。そして、彼の言うことは正しい。商店街には彼の店を今ある場所から追い出す権利も権限もない。


「商店街なんて言ったって、所詮しょせんは今ある店が集まってなんか意味のないことをやるだけ。力のない集まりさ」


 見下すような表情を浮かべる隆一の人間としての品位の低さを見て取った誠治は、


 ――この人を説得する時間も余力も必要ないですね。


 説得する気持ちをかき消した。逆に、怒りを爆発させたのは和也の方だった。


「君には職人としての誇りは無いのか!? 他所の店が心血を注いだオリジナル商品を勝手に真似て、恥ずかしくないのか?」


 怒りで顔を真っ赤にしている。彼は精肉を扱うスペシャリストとしての気高い誇りを持つ。客が求める肉を的確に提供することに日々精進している。だから、男の言葉に我慢が出来なかった。


 だが、その言葉は隆一には欠片も心に響かない。


「別に真似したっていいじゃん。リスペクト、リスペクト。職人としての誇り? そんなのあるわけないじゃん。誇りだけで食っていけるわけないし。売れればいいのさ、売れれば」


 隆一が馬鹿にしたような顔で言葉を返す。


 ――「リスペクト」という言葉がこれほど空虚に聞こえるとは思いませんでしたね。


「そんなこと言いに来たの、あんたら?」


 隆一が睥睨へいげいするように、和也、沙織と、顔を順番に見ていく。その顔には、馬鹿にするような、徒労をあざ笑うような、そんな表情を浮かべていた。


 そして、誠治に視線が止まる。


「あ、そっか。分かった」


 「事件はすべて解決した」と言わんばかりの表情に変えて、


「あんた、奥さんが俺に寝取られたから、こんなことを言いに来たんだ。ご苦労さん」


 「もう帰っていいよ」と手を振りながら言うが、さらに激昂げっこうする和也を抑えるためにも、何も言い返すことなく帰ることは出来なかった。


「それと今回の件は関係ありません」


「ふーん。そうなの?」


 隆一が誠治の目をのぞき込むように言い、次いで視線を下に下げた。


「あんた、ペニスが大きすぎるんだって? セックスするの滅茶苦茶大変なんだって? 奥さん、痛くて痛くて大変だって。チョー嫌だって言ってたぜ」


 わざとらしい同情の言葉を紡ぐ。


「知ってる? あんたの奥さんがセックスに狂う様?」


 「知らないだろ」「俺だけが知っているんだぞ」と言わんばかりに自慢げに胸を張る。


 が、


「つまり、あなたのナニは小さい、ということですか」


 誠治の返した言葉に、隆一はぽかんと間抜けな表情になった。


「とっても小さいと」


とさらに続けると、プッと吹き出す音が二つした後、隆一の顔がみるみる真っ赤になった。


「ぅるせぇっ!! おっさんには関係ないだろ、そんなこと!」


 怒鳴ってくるが、


 ――ナニが小さいことは否定しないのですね。


 誠治は心の中で思った。武士の情けで追及はしない。


「そうですか。わかりました。ひとつ、最後に、年長者として助言しておきます。奥さんを部屋の外に締め出すのはDVに当てはまりますよ。あんなに良い奥さんは他にいません。大切にしなさい」


 これは本当に老婆心からだった。だが、当然、この言葉は隆一の怒りに油を注ぐ。


「はっ! こんな女のどこが良いんだ? ああしろ、こうしろ、あれはするな、これはするな、て言うばかり! うるさすぎるんだよ! それでいて、こいつは愚図でノロマでとろくて。とっくの昔に愛想つきているんだ!」


 爆発してまくし立てていた隆一の顔に、その時「ひらめいた」という表情が浮かんだ。


「そうだ。あんた、この女、やるよ。俺のお古だけどな!」


 アヒャヒャヒャと品の悪い笑い声をあげた。「名案だ」「ナイスアイディア」と言わんばかりの顔。それを見て、誠治は、


「では、いただきましょうか」


 売り言葉に買い言葉。


 ――私もなかなかフラストレーションが溜まっていたようですね。


 言葉を口にしてから、そんなことを思う。が、覆水ふくすい盆に返らず。そして、こぼした水を元に戻すつもりは無かった。


「最後に確認しましょう。1つ、君は商店街から脱退する。2つ、奥さんとは別れる。彼女の今後の面倒は私が見ましょう。以上です。異存はありませんか」


 隆一の目を見ながらそう言ったのだが、彼の顔はそれまでの威勢の良さとは打って変わっていた。まるで蛇ににらまれた蛙のように、ただ頷くばかりだった。


 ――どうして、そんなに変わるのでしょう?

 ――全く心当たりがないのですが。


 その疑問は脇に置いて、


「奥さんはそれでよろしいですか? あるいは、この男とやり直すなら今ですよ」


 視線を転じて、沙織に向かって言った。口をポカンと開けていたが、直ぐに気を取り直して、はっきりと頷く。そして、


不束者ふつつかものですが、これからよろしくお願いします」


 そう言って、深々と頭を下げた。


 ――彼女が「不束者」なら、どれだけ多くの方が「不束者」なのでしょう。


 などと関係のないことが頭に浮かんで、直ぐに打ち消した。


 ちなみに、和也は「あーあ、やっちまいやがった」と言わんばかりの表情を浮かべていた。


「では、失礼します。帰りますよ」


 最初は隆一に対して、後半は沙織と和也に向かって言うと、歩きだした。後から、二人分の後を付いてくる気配を感じる。


「あーあ、あいつはこいつ誠治を怒らせちまいやがった。知らないぞ、俺は。奥さんは知らないでしょうが、いや、さっきのこいつの顔を見たら、大体想像がつくか。つまり、こいつ、怒ると滅茶苦茶怖いんすよ。以前、商店街の金を持ち逃げした馬鹿がいたんですがね。それを……」


「少し黙っていてください」


 余計なことを話しそうになっていた和也に、振り向かないまま、釘を刺す。それから、ポケットからスマホを取り出して操作しながら、これからのことを考えた。 商店街に隆一の店と無関係になったことを伝える。店とマンションを貸している高木に話を通すこと。その契約の保証人に商店街がなっていたが、隆一が抜けたから、そこをクリアにすること。沙織の離婚について弁護士に依頼すること。その際、慰謝料を自分の分を含めて彼女に行くように頼むこと。隆一の店の取引先に謝罪に行くこと。など。


 ――ともかく、ご迷惑をおかけするから各所に頭を下げに行きましょう。

 ――あとは……。

 ――さあ、忙しくなります。

 ――彼はいつまで持つでしょうか。







「てめぇ、これはどういうことだ!」


 怒鳴り込んできた隆一に、誠治たちから「高木のばあさん」と呼ばれている彼女は、


 ――おうおう。早速来たね。地が出ているよ。


 心の中だけで突っ込みを入れる。


 ――店番を代わってもらったけど、こんなに早く来るとはね。

 ――ま、詰めが甘い男の相手は楽だね。


 隆一の手には先程孫に届けさせた書類が握られていた。


「1ヵ月以内に出て行けとはどういうことだ!」


「書類は読んだんだろ? そこに書いてある通りさ」


 怒鳴り散らす男を前にしても、高木は冷静さを保つ。欠片も怖さが感じられない。


 ――細谷生花店のボン誠治と比べたら全然大したことないね。

 ――月とスッポン。そんなこと言ったら、あの美味いスッポンに悪いから、スッポン以下だわ。


「読んだから、言ってんだ!! このふざけた書類はなんだ!!」


 簡単に言えば、隆一が交わしていた店舗とマンションの賃貸契約が破棄されたから、新しい保証人を用意して再契約してくれ、それが出来なければ出て行け、ということ。


「だから、新しい保証人を1ヵ月以内に探してきな。新しい契約を結ぶ必要があるからね。出来なければ、引き払ってもらうよ」


「だから、どうしてそんなことになるんだ、て言ってんだ!!」


「だって、あんた、商店街から脱退しただろう。だから、これまでの賃貸契約が解除されたんだよ」


「意味わかんね。どうして、そうなるんだ?!」


 ――契約結んだときにちゃんと説明したはずだよ。


 という心の声を高木は口に出さない。 代わりに「優しく」説明する。


「あんたとの契約の保証人が商店街だったんだよ。だが、あんたが脱けたから、商店街はあんたの契約の保証人から外れた。同時に契約も解約された。そういう契約だったんだよ」


 隆一が商店街の組合から脱退したら、組合は保証人から外れ、同時に契約そのものが解約される、という特約が組み込まれていた。


 商店街の組合員規則はしっかりと読みこんでいたのに、他人から聞かされた契約の時に説明された賃貸契約の特約に関しては、頭からしっかり抜け落ちていた。そんな隆一の様子を高木は簡単に見透かす。


「……くそっ!!」


「新しい保証人を用意してくれたら、これまでのとほぼ同じ内容で賃貸契約を結び直すことができるよ。もちろん、契約解除の所は削除するから、安心しな」


 それと肝心のことを告げる。


「ただし、毎月支払ってもらう賃料は、届けた書類にある額になるよ」


「それもだ! これまでの1.5倍とかぼったくりだ!」


「不満があるなら、他の部屋を探しな」


 ――もっとも、実際に貸し出すヤツがこの辺りにいるとは思えないけどね。

 ――もう、この子の悪評は辺り一帯に広がっているから。

 ――それに新しい金額がこの辺りの相場で、これまでが異常に安かったんだよ。

 ――商店街を盛り上げるために、度外視して貸してやってたんだよ。

 ――気付いてんのかねー。気付いていないだろうね。


 高木の人好きの良さそうな笑顔が、どんなに声を張り上げてもピクリとも動かないのを目にして、隆一はこれ以上は時間の無駄と考えた。


「……くそっ!!」


と捨て台詞を吐き捨てて、店から出た。


「あんたに用事がある人が待っているようだよ」


 店の外の様子が見えていた高木は小さくつぶやく。古い友人で商店街の店主仲間の一人が動いた成果が早速出たのを知り、隆一の後姿に向かってニヤリと笑みを浮かべるのを抑えることができなかった。



 *



「くそっ! くそっ!! くそっ!!」


 外に出た隆一は、悪態をつきながら、今後の算段を頭の中でめぐらそうとするが、


『お前は詰めが甘いんだよ』


 地元で世話になって、だけど裏切った人の声が脳裏に響いていた。


 その人は、製菓学校を卒業した直後就職先が倒産してしまったために働く先を突然失ってしまった隆一を拾ってくれた洋菓子店のオーナーだった。店も客が絶えない地元では定評がある。オーナーも、面倒見がよく、どんなミスをしても怒らない人としても地元で知られていた。


 だが、隆一は知っていた。裏切った相手にはとことん復讐する暗い一面を持っていることを。若い頃はかなりヤンチャしていて、今もその頃の縁が途切れていないことも。その流れ、不良、ヤンキーと言われるたぐいの、に隆一もいたから知っていた。


 だから、ちょっとだけ魔がさして店の金をくすねた時、オーナーが怒髪天を衝いて激怒したのを見て、逃げ出した。その足で東京へ向かった。


 東京を離れたのも、オーナーに居場所を突き止められたことに偶然気が付いたから。働いていた食品系の会社にいられなくなっただけだったら、また別の東京の会社に転職していた。 なお、居場所を突き止められた理由は、自分が起こした醜聞が働いていた会社の外のどこまで広がるのか、そして、オーナーがその業界にどれだけ耳をそばだてていたのか、を隆一が知らなかったから。ある意味、自業自得なのだが、知る由もない。


 とはいえ、今いる場所も居心地を悪く感じ始めていた。地方特有の異分子を排除しようとする空気がまとわりつき始めているように感じた。


 ――だったら、今度はどこに行くか。

 ――オーナーに勘付かれている感じはないから、ちょうどいいか。

 ――またここと同じようなところ地方都市に行くか。

 ――大阪とか福岡とか人が多い都会に行くか。

 ――どちらにするか。


 その結論が出る前に、


「よー、久しぶりだな」


 肩を組まれながらかけられた聞き覚えのある声に、隆一はピシリと固まってしまう。


「探したぜー」


「……お、オーナー。ど、どうしてここに」


 ――ヤバい! ヤバい! ヤバいっ!!

 ――最悪だ!!


「別にどうしてだっていいじゃねえか。ま、種明かしをすればな、親切な人が、とっても親切なことに、お前の居場所を教えてくれたんだ」


 冷汗がダラダラ出てくる。


「まあ、慌てんな。落ち着け。取って食おうなんかしねーから」


 視線が定まらなくなる。逃げ出したいけれど、身体をしっかりと抑え込まれているから出来ない。


「まあ、まずはお前に貸した金隆一が手を付けた店の金を返してもらおうか。もちろん、利子込みでな」


「いや、あの、その」


「大丈夫。お前の財布事情は大体察しているから。今ここで全部返せ、なんて無茶なことは言わねーよ」


「あ、あの、いい女がいるんです。そいつに稼がせたら……」


「なあ、なんで、そんなまどろっこしいことに付き合わねーといけねーんだ」


「……」


「お前が自分の身体を使って稼げばいいんだよ。人間、やろうと思えば1日30時間でも働けるぜ」


「……」


「そっちが手っ取り早いし確実だ。もちろん、今度は逃げないように監視は付けさせてもらうがな」


「……」


「なあ、そうだろ」







 誠治の耳に、遠くから、太鼓と笛のお囃子の音色が届き始めた。商店街の夏祭りのフィナーレを飾る盆踊りの音色だ。


 それを合図にして、薄暗い街灯の下で広げていた出店を片付け始める。


 少し前まで、肝試しに来た近所の悪ガキたちがいたのだが、みんな盆踊りの方に行ってしまい、いるのは誠治一人。


 のはずだった。


 カランコロン。


 下駄の音がお囃子の音色に重なる。しかも、次第に近づいてくる。


 ――誰でしょう?


 誰かが来る予定は誠治は聞いていなかった。


 ――この辺りに不慣れの方が道に迷ったのでしょうか。


 下駄の音が止まった。その方向に、片付けの手を止めて、振り返った。


 誠治の出店から少しだけ離れた街灯の下に、浴衣姿の女性が立っていた。一時よりも、はるかに顔の血色は良い。青の朝顔の柄を大きくあしらった布地に、手に持った赤い巾着が映えていた。


「おや? 森下さん、こんばんは。盆踊り会場への道はこちらではありませんよ」


 森下沙織。隆一との離婚が成立して旧姓に戻っていた。隆一は店を畳んで地元に帰って行った。彼がというよりも、彼の地元で世話になっていた兄貴分という人がやってきて、店仕舞いを始めたから、その人に誠治が状況を説明したら、


「それはそれは。こいつが皆様に大変な迷惑をかけていたようで、本当に申し訳ありません」


 あっさりと非を認めて、頭を下げてきた。


 ――随分と物分かりがいい人ですね。


 そして、誠治が考えていた謝罪行脚にも一緒して、頭を下げて回った。


 先日の様子とは一変して、おとなしく、どこか怯えた様子を見せる隆一に、誠治は、


 ――本当にこの兄貴分の人には頭が上がらないんですね。


 どんな弱みを握られているのかは考えないことにした。


 だから、隆一たちが開いていた店を畳むのもあっさりと終わり、沙織との離婚も簡単に成立した。そうして、隆一は兄貴分と一緒に商店街を去った。


 隆一たちを見送りに来たら、彼らが乗った車が走り去る姿を一緒に見ていた和也が口を開いた。


「なんか拍子抜けだったな」


「そうですね」


「泥沼の長期戦になるのも覚悟していただろ」


「まあ、その覚悟は一応」


 賃貸契約を解約されても隆一に居座られてしまう可能性もあった。SNSで商店街の悪評を広げられる可能性もあった。


「裏で組合長が動いたのは知っているか」


「聞きました」


「結局、彼らも俺たちも『組合長の手のひらの上だった』ってことだよな」


 一方で、沙織はこの土地に残った。


「行く場所なんかありませんから」


と寂しそうに言っているのを見て、


 ――そんなことはないと思いますが。


 誠治は思ったのだが、「余計な事」と口に出すことはしなかった。


「おい! なんか言うことあるだろ!」


と和也に背中は叩かれたが。


 今は商店街の組合で事務の仕事をしている。これまでしていたおばちゃんが旦那と一緒に半年間の世界一周旅行に出かけると言うので、そのピンチヒッターに。和也からは、沙織が商店街の女性陣から「かなり可愛がられている」と聞いていた。


 閑話休題。


「……細谷さんは盆踊りの会場の方には行かないんですか」


「ここの片づけをしてしまわないといけないんです」


 様子をうかがうように沙織が聞いてきたから、誠治はそのように返すと、止めていた手を動かし始め、片付けを再開する。


「えっと。高木さんから『片づけは明日でいいから、盆踊りの会場に行きなさい』という言伝を預かっているのですが……」


 ――「エスコートしなさい」ということですか。


 沙織のバックにいる人物たちの意図を正確に把握して、片付けの手を再び止める。


 隆一に対して売り言葉に買い言葉で返した言葉は、和也によって商店街中に知れ渡ってしまった。以来、とりわけ沙織の離婚が成立してからは、誠治と沙織をくっつけようと商店街の女性陣が動いている。


 ――私相手なんか彼女に失礼でしょう。

 ――今度、女性陣に説明と説得しに行かないといけません。

 ――非常に困難なミッションではありますが、彼女のためにもやり遂げないと。


 と考えるものの、今日の所は沙織を放置するわけにもいかない。


 ――仕方ありません。


 年のせいか、「よっこいせ」と掛け声をかけようとするのを辛うじて留め、立ち上がって、


「それでは行きましょうか、森下さん」


「……はい!」


 そうやって二人並んで歩き始める。誠治は浴衣姿の沙織の歩幅に合わせて歩くスピードはかなりゆっくりと。


 チラッと辺りを見回しても、近くにいるはずの駐在所の警官の姿は見当たらない。


 ――彼はどこに行ったのでしょう?


 そんなことを考えるのは、会話のネタが見当たらないから。


「……浴衣、綺麗ですね。とても似合っています」


「ありがとうございます」


「……」


「……」


「……お祭り、楽しめましたか」


「……えっと。運営本部の方にずっと詰めていたので、屋台とかはほとんど見られませんでした」


「っ! すみません。手伝わせてしまって」


「いいんです。私から『手伝わせてください』って申し出たんです」


「ですが……」


「それに、そのおかげで、こんな素敵な浴衣を貸していただきました。これ、柄が手描きなんですよ」


 そう言って、沙織がくるっとその場で回ってみせる。


「とてもお似合いです」


「ありがとうございます」


「……」


「……」


 再び歩き始める。


「……」


「……」


「……えっと、最近、お店の来た若い女性のお客様に『カワイイ』と言われることがあるんですが、どうしてか森下さんはわかりますか」




 *




「……っ!」


 誠治の言葉に、沙織は歩みを止めて、口を押えて笑いをこらえようとするが、すべては抑えきれない。


 ――このタイミングでその話はないわー。


 心の底から思う。だが「彼らしい」とも思った。彼が会話のネタを探しあぐねて四苦八苦しているのは、手に取るように分かっていた。表情から見て取ったのではない。夜の帳の下で、ほとんど動かない彼の表情から見て取るのは不可能だ。でも、視線やまとう雰囲気から感じ取ることは、沙織には出来た。


 ――結構分かりやすいと思うんだけどな。


 誠治の元妻、美里が「彼の考えていることが全く理解できない」ことが一番不満だった、と主張していたのは、沙織の耳にも届いていた。


 結局、美里も、実家に居場所を見つけられなくて、隆一の後を追って、出て行った、とも聞いていた。


 ――自分が言うのもあれだけど、隆一の方がはるかにダメ男だけど、どうなんだろ?

 ――細谷さんと比べること自体、細谷さんに失礼だと感じるレベルで。


 高木を筆頭に、周りにいる商店街の女性陣が寄ってたかって、自分と誠治をくっつけようとあれこれ動いているのは、沙織も気付いていた。自分の実家に戻ることも無く、元の職場がある東京に戻ることも無く、この地にとどまったのは、そうするだけのエネルギーが無かったから。今は、それなりに回復できたから、周りを観察する、将来のことを考える、その余裕が出てきた。


 ――悪い人ではないんだよね。


 見た目よりも内心が分かりやすい人だとも思った。そこにギャップが生じていることに魅力を見出せることも。


 誠治の店のSNSも見たことがある。「カワイイ」と呼べる要素があったことも知っている。だから、


「……わかる気がします」


「……!」


 沙織の言葉に、誠治が表情を全く変えずに驚いていることも分かった。ただ、素直に伝えるのは面白くないと感じたから、ちょっと自分なりに「カワイイ」アレンジをすることにした。


「恐らく、細谷さんの中に『クマさん』を見たんだと思います」


「……『クマさん』ですか?」


 意表を突かれて、表情は全く変わっていないが、キョトンとしている。そこもまた「カワイイ」と感じた。


「もちろん、野生の熊ではなくて、キャラクター的なものです」


「……はぁ」


「見た目の怖さとは裏腹に、内面はとても誠実で優しさにあふれている、そんな人だと見たから、『カワイイ』って言ったんだと思います」


「……あ、ありがとうございます」


 こんなことを言われて、一応の礼は返ってくるが、予想外の言葉に誠治の心の中が絶賛混乱中なのは手に取るように分かる。


 ――わかりません!

 ――私が「カワイイ」? 「クマさん」?

 ――若い人の感性は全く理解できません!


 こんな感じで。


 だから、またクスクス笑ってしまう。それを隠すように、


「さ、行きましょう。急がないと、お祭りが終わってしまうかもしれません」


と歩き始める。


 「クマさん」が後ろから付いてくるのを背中に感じる。


 歩くのがとても楽しい。

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