第30話 天地/雲壌



 この先は聞かなくともいい。だが聞きたくなくとも聞かせてやらねば、私の腹の虫が治まらない。

 まずは髪を洗った。あの恐ろしく長い髪をだ、ろくに手入れもされていない髪をだ。首が切りたがらないので切らないが、そのおかげで私がどんなに大変だったか。とにもかくにも大量の湯が必要だった。それから洗浄剤も。頭の先まで熱い湯に沈めて、まずは洗浄剤を使わずに頭皮をよく揉みこんだ。ああ、いきなり湯船でやるべきではなかったと後悔したとも。指先が皮膚をずるりと押し上げる感覚が、いまでも手に残っている。うっかり頭蓋の肉ごと削げ落としてしまったのではないかと思われるほどに厚い頭皮、もとい皮脂。そんなのが次から次に出てくるのだ。湯船に浮いて身体にまとわりつくのだ。おまけに湯は灰色に濁りきって、底には得体の知れない粒だの砂だのが沈んでじゃりじゃりしている。どぶ川だ。まったくのどぶ川だ。あんなものを肌身離さず持ち歩いていたのかと思うとぞっとする。ライナスの毛布だってもっとこまめに……まあ、私がこまめに洗ってやらなかったからだが。それもこれも首が洗うよう命じなかったのが悪い。両方悪い。湯を張り替えて再開する。洗浄剤を手につけて、これがまた泡立たない。髪の長さと量もだが、凝り固まった汚れがだ、洗浄剤を拒むのだ。私に目があれば泣いている。あまりにも地道な作業だった。貴族連中が洗髪用の従僕をつける理由がよくわかる。腰の長さまであるような髪を洗うのは、ひとりでは困難だ。自分で手入れできないなら伸ばすな馬鹿。切れ。と丁寧に揉みこむことを重ねて、ようやく満足に洗えるようになる。そうなるまでに洗浄剤を一瓶使い切ったし、湯を三回も張り替えなければならなかったが。

 さて、髪を洗っておしまいではない。私の献身はなおも続くのだ。髪が濡れている間に洗顔を済ませる。これも一度目はまったく泡立たないので二度三度と丁寧に、鼻の付け根に目のくぼみまで丹念に洗う。肌はまるで肌とは思われない、荒れ地そのものだ。耳の中もついでに洗うが、指が入ってすぐのところで不明な塊に当たったのでやめる、怖いから深くはやらない、今度でいい、医者にかかったほうがいい。唇の割れようもいい加減に見逃せない。だが保湿は後だ。先に髪の水気を取ってやらねばならない。無責任に伸ばすだけ伸ばした、この髪をだ。したたる水をまずは手でしぼり、それからタオルで吸ってやり、タオルを捨て、また新しいタオルを使って根元から毛先へと水を吸う。水気を落としたらオイルだ。肌が荒れ地なら髪は枯れ草。どちらもそう簡単に潤うことはないだろうが、肝心なのは諦めないことだ。指を櫛にして毛先までなじませるように。安心していい。私は器用だから丹念さに関しては得意だ。オイルの効能についてはよく知らない。使われている樹木はなんというのだったか、清き良き眠りという名の木だ。安眠作用があるのだと。なじませたところで残りを乾かしにかかってやる。


 ここまでだ。

 ここまでやって私はようやく、本来の髪が、外套の深い青と同じ色であることを知った。


 本当は知ったのではなく思い出したというのが正しい。忘れていたことを、思い出しただけだ。だがそのように思うには私は首とは分化しすぎていたし、一人歩きした私は灰まみれかつ砂まみれのほうを見慣れていたから、自分のものとして髪に触れて感じる言葉は、意外だった。これならば、そうだな、多少は見栄えがする。

 しかし私がこれだけ尽くしたというのに、首は礼ひとつ言いやしない。

 曰く、

「なに言うても独り言やし、自分と話すんは疲れる」

 また曰く、

「君は飽き性で、僕は面倒臭がりやから」

 だと。

 別にいいが。私が五秒後に首を見限ったとしても、それは私が飽き性だからだ。


 地は地である限り、天を被きてかずきてあり続ける。首は私になぜ捨てていかなかったのかと問うた。眠りたかった。今でもまだ恨みに思っているはずだ。私の結論は首にとって満足のいくものではなかった。自分のことだからよくわかる。天と地が地平線に重なるように、一度は分かたれたものが交わる夢を、私は望んだ。私は私以外の何者にでもなれるから、ただそうしたかったのだ。

 第一、首は勝手な理由で身体を捨てたのだから、捨てられた側の身体がなにをしようが勝手ではないか。なぜ捨てていかなかったもなにも、おまえが捨てたのが悪いんだろう。ただ元を正せば眠らてやらない身体も私も悪かった。両方悪い。だから互いに一落ち度ずつで両成敗だ。


 と、つくづく困るのはこの髪だ。

 鼻の下までかかる前髪は、歯を磨くには邪魔すぎる。せっかく乾かしたばかりの髪を不用意に濡らしたくない。

 髪を掻き上げる指先が硬直した。指先が、硬直した?

 鏡を見る。なるほどな、と私は笑んだ。

 目の下がくっきりと隈になっている。何世紀分の隈なのだろう。土気色の肌に険のある目つき、痣のごとき隈。どうりで隠したがるはずだ。

 鏡に映る。不器用な顔。下手くそな表情。だが私はそうやって笑うのだ。私はそうやって、誰でもない私として笑った。

 へったくそ!

 笑った頬を両手が張った。忌々しげに歯を噛みしめる。

 そうそう、私は私で、本来は平等だから、そうあるべきだ。


 だから私はしばし眠る。我が頭上が休みたがっているのであればそれに付き合う。ただいつかは目が覚める。夢とはそういうものであるし、首がどんなに眠りたがっても、身体はいつまでも眠っていられない。首が寝ている間も身体はちゃんと生きて、起きている。ただいまだけはゆっくり眠る。幸い、私は何かのふりをするのが得意だ。目の下の隈が取れるあいだは、眠ったふりをして、ふりをしていること自体を忘れてしまおう。



「あるとき、夢を見た。」

 とは始める。


 そこで、目が覚めた。

 と身体は終える。






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首の夢 深夜 @bean_radish

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