二代目

真花

二代目

 炎の揺れるのより、その熱より、煙の匂いが頭から離れない。

 小学校に上がるより前、私はいつもトミーと一緒だった。どこへ行くのにも、ベッドの中でも、トミーを抱いていた。トミーは小さなクマのぬいぐるみだ。焦げ茶色をして、幼い私の小脇にフィットした。

 子供のコミュニティは存外閉じている。そこに、別の街から男の子が入って来た。私よりずっと大きくて、学校にも行っていて、なのに、私達の輪に入ろうとした。集団は抵抗をして、だから男の子は無理をしたのだと今なら思う、私に目を付けた。

「お前、そんな汚いぬいぐるみ持って、恥ずかしい奴」

 私は無視した。他の誰もが無視した。

 男の子はムキになって、私からトミーを奪う。

「こんなもの」

「やめて! 返して!」

 男の子は走って逃げた。足の速さは比べるべくもなくて、あっと言う間に見えなくなった。だが私は諦めない。親友のリリカも私に付いて走った。

 異様な気配がした。それは、悪魔に魂を売ったときのような取り返しの付かない過ちの気配だった。私達は走る速度を緩める。危険ににじり寄るように。まるで私達の方が獲物であるかのように。

 男の子は火をくべていた。どうやったのかは分からない。だが、火をくべていた。

 振り返った男の子の顔にはひきつれた笑いが乗っていた。

 火の中には、トミーがいた。

「これでお前も一人前になれるよ」

 私の耳には男の子の言葉は雑音でしかなかった。

 トミーを助け出そうと手を伸ばす。熱い。が、助けないと。

 その手をリリカが止める。

「ミオ。だめ。火傷する」

「でも」

「トミーもミオに火傷して欲しくないって」

「トミーは熱いよ」

 リリカは私を腕ごと抱き締める。

「それでも、ミオが焼け死んじゃダメ」

 私はリリカに抱かれたまま、炎がトミーを奪って行くのを見ていた。煙の匂いが、私の鼻の奥の、もっと奥の脳の裏側までも染めた。

 駆け付けた大人によって炎は消された。トミーの痕はびしょびしょになっていた。

 私達はトミーの亡骸を公園に埋葬した。男の子がどうしたのかは分からない。名前も思い出せないのは、思い出したくないからなのだと思う。

 リリカは家まで送ってくれた。だが私の脇にはトミーはいない。

「ミオ、また明日ね。私がいるから」

「ありがとう。でも、トミーはいない」

「私がいるから」

 家に押し込まれ、ひとりでとぼとぼとテレビの前に座る。いるべきトミーがいないことが急激に迫って来て、涙が出た。

「どうしたの?」

 ママの声。

「トミーがいなくなっちゃった」

「なくしちゃったの?」

「違うの」

 どうしてか、トミーが焼かれたと言えなかった。ママはそれ以上は詮索せずに、私を抱き締めた。胸の中で私は泣いて、たくさん泣いて、だがどこかで泣き止んだ。ママは夕食の準備を再開した。パパが帰って来た。

「あれ? ミオ。トミーはどうしたんだい?」

「いなくなっちゃった」

 パパは少し考えて、ミオ、ともう一回私の名前を呼んだ。

「じゃあ、同じぬいぐるみを買って来てあげるよ」

「同じ? トミーと?」

「そうさ。物はいつか朽ちる。だから次が常に必要だ。当然の摂理だよ」

 私はパパの言っている意味が分からなかった。だが、トミーが帰って来るらしいと言うことは分かった。

「パパ、ありがとう」

 パパは得意満面の笑みだった。

 次の日、パパはトミーを連れて帰って来た。

「ほら、ミオ。トミーだよ」

「わぁ」

 私は包み紙を急いで開けて、中からトミーを引っ張り出す。

「トミー。おかえり」

「正確には二代目トミーだね」

「二代目って何?」

「二人目の、最初のトミーを引き継いだ、って意味だよ」

 脳裏にトミーの墓が浮かぶ。確かに、同じトミーだけど、違うトミーだ。私はトミーを抱いて眠った。違うけどトミーだった。

 朝が来て、二代目トミーを抱えて遊びに出た。リリカが不思議そうな顔をした。

「これはね、二代目トミーなの」

「そうなんだ。そっくりだね、トミーと」

「うん。全く同じ。でもトミーじゃないの」

「そっか。……行こう、ミオ」

 私達はいつものように遊んだ。男の子は現れなかった。私はずいぶん大きくなるまでトミーを抱えて歩き、それから後はベッドに置くようになった。


 *


 ハジメと同棲を始めた。もちろんトミーはベッドに鎮座している。

「今日は俺が晩飯作るよ」

 ハジメは料理が好きだ。かと言って凝ったものを作る訳ではない。曰く、作ること自体が好き。

「ありがとう」

 私は言いながら背中からハジメに巻き付く。ハジメの匂いがする。自分の匂いは分からないが、ハジメのは分かる。この匂いだけでしばらく命が繋がれる気がする。

「はい、はい。危ないから下がって」

「はーい」

 私はダイニングテーブルに就いて、医療事務の資格の勉強をする。ハジメがくれた時間を無駄に過ごしたくない。

「今日は麻婆豆腐だよ」

 ハジメが自信ありげに皿を並べる。

「いただきます」

 声を揃えてから食べる。昼間はお互いに仕事をしているから、平日は夜だけが二人の時間だ。それでも、一緒に住んでよかったと思う。土日もそうだけど、少しずつ重ねる時間が愛おしい。

 食後に観るテレビも、同じ番組を共有していることが嬉しい。

 同じ空間を吸っていることが喜びなのかも知れない。

 お風呂は別々に入る。

 私が上がると、ハジメはベッドの上に横になっていた。よっぽど眠かったのかな。珍しい。

「ハジメ、お風呂どうぞ」

 ハジメは応えない。疲れているならそっとするのもやさしさかな。先に髪を乾かすことにした。終わって見ると同じ体勢のままだ。

「ハジメ? 寝てるの?」

 近付いてみると、顔が茶色い。

「ハジメ?」

 揺するが反応はない。

「ハジメ!」

 呼吸をしていない。胸に耳を当てて聴く。いつも聴いている音がしない。私の心臓が早駆ける、呼吸が重い。

「……嘘でしょ?」

 私が言葉を吐き切ったところで、返事がした。

「嘘じゃないわ。ハジメさんは死んだの」

 その声はトミーから聞こえた。恐る恐る顔を上げる。トミーはいつもと変わらない姿をしている。

「トミー?」

「私はトミーに宿った、弁財天」

 やはりトミーからの声だ。

「弁天様?」

「奇跡。それを望むかどうかを答えなさい」

 期待している自分が奇妙だった。

「……いったい、どんな奇跡を?」

 トミーは一瞬黙る。

「新しいハジメさんを望むか、よ。もちろん、記憶も遺伝子も何もかもが今のハジメさんと同じ。その新しいハジメさんを望むか。それともハジメさんはこれで終わりにするか」

 私にとってハジメはなくてはならないものだ。かつてのトミーのように。だからトミーのときと同じ選択をするのがいい、はずだ。いや、そんな理性的なこと関係ない。

「新しいハジメを下さい」

「そう。ではこちらの古いハジメさんはこちらで火葬するわ。後で、新しいハジメさんが届くから」

 ハジメの亡骸が、トミーの口に吸い込まれるように消えた。

 取り残された私はハジメがいた場所を手で触れる。体温がまだ残っていた。呼び鈴が鳴る。

 覗き穴から見ると、ハジメだった。

 ドアを開けると、さっきまでと全く同じ格好をしたハジメが入って来た。

「ただいま」

「……おかえり。ハジメ」

「風呂に入ろうと思ってたところだったんだけどね」

「うん。お風呂あいたよ」

 新しいハジメはハジメの匂いがした。絶対に間違えるはずのない、匂いだ。ハジメは風呂に入り、いつものように風呂上がりにテレビを観た。いつも笑うようなところで笑い、文句を言いそうなところで文句を言った。限りなくハジメだ。

 違う。私は胸の中で首を振る。

 きっと職場だったら何の問題もないのだろう。だが、ここでは、少しの違和感が邪魔をする。それは私がこのハジメが二代目だと知っていると言うことだ。

「ハジメは、二代目なこと知ってる?」

「あー、知ってる。それだけがこれまでとの違いだよ」

「知ってるならいい」

 ハジメ二号は限りなく精巧なコピーだ。しばらくの時間を一緒にいて、全く違いを見付けられない。だが、その極まった精巧さが、本物に近づけば近づくほどに耐えられない不快感に昇華する。ベッドに入ろうとしたときに、それが理解された。

 ハジメが私にキスをしようとした。ハジメはいつも目を瞑るからかわすことは容易い。私はよけた。近付きつつある唇に触れたくなかった。その先にあるセックスをこのハジメとするのが信じられなかった。私はベッドから出た。

「どうしたの?」

「ごめん。あなたには何の罪もないことは分かっている。だけど、あなたはハジメじゃない。偽物ではないのかも知れないのだけど、本物じゃない」

 ハジメは黙っている。怒っているようには見えないが、困惑もしていない。ただ少し悲しそうだった。

「出て行って、もらっていい?」

 ハジメは目を瞑って首を振る。

「初めにした約束、覚えている? ミオが出てけと言ったら俺は出なくちゃいけない、だから、出て行くよ」

 荷造りをしている間、何も喋らなかった。それはハジメらしかった。

「さよなら」

 ハジメ二号はハジメがしそうな簡素さで去って行った。

 部屋には私だけが取り残された。私はハジメの痕跡を消していった。まるで最初から一人だったかのように部屋を整えた。いつかの煙より強く、ハジメの匂いが脳裏に残っていた。

 トミー二号はずっとそれを見ていた。


(了)

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二代目 真花 @kawapsyc

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