これが武士のやることか

一齣 其日

本編

 武士として、正々堂々の生き様を。

 坂口金吾は名誉も功名もいらなかった。

 誇りさえ抱いて生きていければ、それで十分だった。

 ささやかな願いだったが、幕末という時代はそれすら許しちゃくれないらしい。

 金吾は、影に息を潜めて待っていた。

 京の裏長屋、その一室に冴えない顔つきで顎を撫でる男が戸をガラリと開けて入っていく。

 戸に書かれた名は、弥兵衛。

 日中は飴を売って洛中を練り歩いている男だ。よく通る声と面白おかしい話が持ち味で、京都人からも評判がいい。

 しかし、実態は長州派の不逞浪士に洛中の情報や、潜伏先を提供している間者のような男だった。

 昨今流行りの尊皇攘夷思想にかぶれている、というわけではないらしい。

 目当ては金。どうも長州の浪士たちは気前がいいらしい。懐にさっと報酬以上の金を握らせてくれるらしい。

 弥兵衛のように、長州派の不逞浪士を手助けする京都人は多い。弥兵衛のように金を目的としている者ばかりでなく、心から手助けしようとしている者もいた。京都人の心情は、長州をはじめとする尊王派の浪士たちに寄っていたからだ。

 浪士たちを取り締まる幕府側としては、厄介な存在だった。

 地の利、情報の筋、そのほか諸々、全て京を地元としている者達の方が遥かにあった。新撰組や京都見廻組などが浪士狩りを熱心に行っているが、京都人たちの手助けによって討伐を阻まれることも少なくない。

 見せしめが必要だった。

 不逞浪士に手を貸す者がどのような末路を迎えるのか、見せしめる為に贄が求められたのだ。

 弥兵衛は、運悪くその贄に選ばれてしまった。

 たまたまひっ捕えた浪士が、拷問の末弥兵衛の事を吐いたのが彼の運の尽きだった。

 弥兵衛が長屋に帰って半刻もせず、いびきが聴こえてきた。

 金吾は、鯉口を切った。

 羽織を翻し、足音も立てず弥兵衛の戸の前に立つ。往年の忍びのようであった。

 実際、金吾は忍びのようなものである。

 公儀隠密──そのさらに闇深い仕事を請け負うが金吾の役目だった。


 これが、武士のやることか


 胸中で金吾は苦々しく呟いた。

 坂口金吾──彼は旗本の家の長男として生まれ落ちた。

 貧乏ではあったが、幼い頃から朱子学をはじめとする教養を学び、武士とはかくあるべしと叩き込まれた男だった。

 旗本として立派に生きる父の背中を手本に、己もああ生きるのだと勝手ながら金吾は思っていた。

 安政の大獄で、全てが暗転した。

 混乱に金吾の父は巻き込まれ、獄中に繋がれて程なく死んだ。

 坂口家はお取り潰しの憂き目に遭ってもおかしくなかった。

 金吾は奔走した。残った母と妹を守る為に、父や己が紡いだ伝手に頭を下げて頼み込み、なんとか家を繋いだ。

 己が手を汚す事を引き換えに、だ。

 金吾は剣の腕が立つ。その腕を見込まれて、公儀による人斬り仕事に金吾は付いたのだ。

 正々堂々、正面から剣を交えるのならば金吾も文句は無い。

 しかし、この汚れ仕事は正々堂々という四文字からあまりにも縁遠すぎた。

 闇討ちに不意打ち、背中からばっさりと斬りつける事も珍しくない。

 斬ればいい。真っ当な誇りも自負も、何一つ必要とはされなかった。

 斬るのは武士だけではない。

 町人。

 農民。

 僧侶。

 果ては遊女。

 公儀に仇なす者とされた者は、全て対象となった。

 もう何人斬ってきたのだろうか。

 指じゃ足りなくなった頃から、金吾は斬った数を数えるのをやめた。

 なのに、命を絶つという感覚に未だに慣れない。

 人を斬った夜は目がやたらに冴えて、酒を煽っても眠れない日すらあった。きっと、今日も目は冴え続けたままだろう。


「これが、武士のやることか」


 今度は、言葉に出てしまっていた。

 幼い頃に憧れた父の背中から程遠いところに立ってしまった己に、嫌気がさす。

 誇りなんてあったものじゃない。

 武士でもない者を、寝静まったところを闇討ちまがいに斬る己に、誇りなどという言葉を口にする資格は無い。

 そう断じてしまうくらいに、男は生真面目すぎた。

 無念が、腹の底から込み上げる。

 それを必死に飲み込んだ。

 残された母と妹の顔が脳裏に浮かぶ。

 家族を路頭に迷わすわけにはいかない。今、坂口家の大黒柱は金吾しかいないのだ。


 もう、今更だ

 数えるのもやめたくらいに人を斬ったんだ

 己の自負だって斬ってみせろ──坂口金吾よ


 金吾は刀を抜いた。

 弥兵衛の戸に手を掛ける。

 噛み締めていた口が、開く。

「──御免」

 思わず月も雲間に隠れてしまうほどの冷たい言葉が、夜の帷へと落ちていった

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