失楽園

咲月 青(さづき あお)

 

「今日は、大きな海老えびれたんだ。とても甘くてうまいから、食べてごらん」

 男が大きなバナナの葉に乗せて差し出した海老えびの丸焼きを、女は興味なさそうに受け取った。

「またこんなものなの。たまにはお肉が食べたいわ」

 女の不満声ふまんごえに、男は苦笑する。


 男と女の乗った旅客機りょかくきが海上に墜落ついらくし、2人がこの島に打ち上げられてからもう1週間になる。その間、2人は島中しまじゅうを探し回ったり、のろしを上げたりして懸命けんめい救助きゅうじょを求めたが、島内とうないに人の住んでいる形跡けいせきはなく、海にも船影ふなかげひとつ見えなかった。幸い島には果物くだものの木が多くあり、飲用に適したみずもある。また魚介ぎょかいるいも豊富にれるため、とりあえずえる不安はない。

 男は来る日も来る日も、食料の確保や雨風あめかぜを防ぐための住居じゅうきょ作りに、汗水あせみずをたらして働いた。男はこの状況をなげきながら、そのじつ喜んでもいた。あの旅客機りょかくき内で女の座っていたのは、ファーストクラスの広いシート。そして男の座っていたのは、すし詰めのエコノミー。そんな2人がなぜ共にほぼ無傷むきずで生き残ることが出来たのか、男にはわからない。だが本来なら話すことさえ出来なかった高嶺たかねの花である女と、ただ2人きりで共に過ごせる毎日は、えない男にとって思いがけない幸運こううんでもあった。


 一方、女は働きもせずに、始終しじゅう不平ふへいばかりをらしていた。

 この島ときたら、くさったようなにおいの果物くだものや、魚介ぎょかいるいしかない。調理法も焼くか煮るかしかなく、調味料は海水の塩だけだ。ここにはハーブを混ぜ込んだバターソースも、トリュフの香り立つクリームソースも存在しない。おまけにあの間抜まぬづらをした男と、常に顔をつき合わせていなければならないのだ。旅客機りょかくき墜落ついらくさえしなければ、今頃はリゾート地でお気に入りの男性にエスコートをされながら、面白おもしろおかしく日々を満喫まんきつしていたはずだったのに。

 生まれてこのかた、全て自分の思うままにふるうのが当たり前だった女にとって、この生活は地獄じごく以外の何物なにものでもない。とにかく一刻も早く助けが来ることばかりを願いながら、毎日を過ごしていた。


 だが女の願いもむなしく、1ヶ月が過ぎても助けは来なかった。おそらくあの事故による生存者せいぞんしゃは、すでに絶望ぜつぼうされているのだろう。男は相変わらず毎日働き続け、ついに蔓草つるくさと乾燥させた木の皮を使って、家を完成させた。ほんの30平方メートルほどの家は決して広いスペースとは言えないが、日射ひざしやあまけの小屋としては立派なものだ。男は女のために、簡単なベッドも作ってやった。

 家が完成すると、女はほぼ1日中その中で寝て過ごした。男があれこれと語りかけても、ほとんどまともな返答へんとうすらしない。それでも男は、ただひたすら女のために働き続けた。


 そんな生活が半年ほど続いた頃、女の心に変化がおとずれた。毎日のろしを上げて助けを求めているのに、いっさい反応がない。もしかしたら、このままこの島で一生いっしょうを送ることになるのではないか。そのおそれがようやく女の中で、現実のものとなってきたのだ。

 女は改めて、海岸にいる男を見やった。最初はたよりなく、弱々よわよわしくも感じられた男は、この半年で日に焼けて体力もつき、精悍せいかんかおちとなった。一方いっぽう自分はどうだろう。ここには鏡がないため細かくは確認出来ないが、水面にうつる姿は美しいとはがたい気がする。美容室びようしつに行くこともかなわず髪は伸び放題ほうだいつめにはもはや光沢こうたくもなくあちこち欠けている。日焼け止めなどあるはずもないから、自慢だった白い肌にはみが出来ているだろう。

 女はそれまでいだいていた自尊心じそんしんが、急激きゅうげきしぼんでいくのを感じた。そしてしばらく考えたのちに波打なみうぎわまで歩いていき、男に話しかけた。

「ねえ、魚というのはどうしたられるものなの?」

 それは、男に対して女がみずから語りかけた、初めての言葉だった。


 その日以来、女の態度は180度変わった。積極的に男の手伝いをし、料理は主に女の仕事となった。最初はれのため失敗も多かったが、男の熱心な指導により女はめきめきと腕を上げていく。またそのことが、2人の仲をより親密しんみつにさせることにもつながった。

 7ヶ月目のある夜、女はついに男に身をまかせた――。


 事故から1年後、男と女は相変わらず2人きりで、愛情あいじょう信頼しんらいに満たされた幸せな日々を送っていた。そんなある日、男は新たな果物くだものの木を探すため、島の裏側へと足を踏み入れた。

「やあ、この辺りには手付かずの木がまだたくさんあるな」

 男は持ってきたかごに、たわわに実った果物くだものを次々と入れた。小一時間こいちじかんほど作業をしていると、海の方向からエンジン音のようなものが聞こえてきた。男が急いで音の方に近付くと、しげる木々のあいだから人の顔がのぞいた。

「うわあっ、あんたここで何してんのかね?」

 そう叫ぶのは、麦藁帽むぎわらぼうをかぶり、真っ黒に日焼けした老人だ。男はおどろ戸惑とまどいながらも、老人に事情を話した。

「おやまあ、あの事故に生き残りがいたとはなあ。ありゃもうとっくに全員死亡ってことで、捜索そうさくが打ち切られとるぞ」

「やっぱりそうだったんですね……。あなたはこの島の住人ではないのですか?」

「わしゃ、ここから20キロほど行ったとこに住んどる。ここには、りょうで使うあみの材料を取りに来ただけだ。まあ何はともあれ会えてよかった。もう1人女がいると言ったな。早くここに連れて来るといい。2人くらいならこのボートに乗せられるから。うちの島に行って通報つうほうすれば、すぐに迎えがやってくるだろう」

「それは、ご親切にありがとうございます……」

 男はそう答えながら、しばし考えをめぐらせた。


 その日の夜遅くになって、男はようやく女の待つ家へと帰ってきた。

「遅かったのね。心配したわ」

 女は少し青褪あおざめた顔で、男を出迎えた。

「やあ済まなかったね。少し遠出とおでをしていたんだ」

「お願いだから、無理はしないでね。あなたがいなくなったら、私どうしていいかわからないわ」

 女が不安げに身震みぶるいすると、男は女のかたうでを回した。

「でも遠出とおでしたおかげで、いいものが手に入ったんだよ」

「あら、なあに?」

 女の問いかけに、男はかごの中から一塊ひとかたまりの肉を取り出した。

うさぎさ。今夜は久しぶりに、肉が食べられるぞ」

「まあ! うれしい」

 女は歓声かんせいを上げ、早速さっそくその肉を調理した。


「なんて美味おいしいんでしょう」

 女は久しぶりの肉料理を、ぺろりとたいらげた。

「あと数羽すうわ見つけたから、さばいて燻製くんせいにしておいた。しばらくは食べられるぞ」

 その言葉に、女はたのもしく男を見つめる。

「本当にあなたがいてくれて良かった。もし私がひとりでここに流されていたらと思うと、ぞっとするわ」

「なあに、愛する君のためならどんなことだってしてみせるよ」

 男は笑顔を浮かべながら、女をせた。

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失楽園 咲月 青(さづき あお) @Sazuki_Ao

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