或ル小説家

あにょこーにょ

 私は売れない小説家である。


 私はよく本屋に行くのであるが、本屋に入るといつも感じることがある。嫉妬のような、苦い苦いエスプレッソのような気持ち。

それは、私が売れない作家であるため起こるものであり――本への愛情がねじ曲がってしまったために起こっていた。私は本屋へ行くと、整然と並んだ本棚を眺める。紙特有の不思議な、懐かしい匂いをかぐ。そうして体がぬくぬくとして、気が抜けたとたんに「ワアアア」と叫びそうになるのであった。


 本屋には平積みにされた本やら、棚にギッチリと並べられた本やらが一面に広がっている。本は様々な顔をして、持ち場でじっとしている。黄色い顔、黒い顔、白い顔。大きな顔のもいれば小顔のものもいる。化粧をしてキラキラと光っているものも在った。

 私はその本の全部を吸収するかのように大きく鼻から息を吸う。かすかな本の呼吸を、耳をすまして聴く。そうすることで私はまた小説がよく書けそうな気になって、満足して帰るのである。


 本屋で叫びそうになる私であるが、ほそぼそと小説を書いて生計を立てているように、本当に本というものが大好きだった。しかし、本を読むことは得意なことではなかった。ふぅん、おもしろいじゃないか、と思って読んでいても、その数ペエジ先では「あと何ペエジあるのか」ということを気にして読んでいる。小説の中で悲しい気持ちや苦しい気持ちが蔓延している時は、私までその気持ちに感染してしまう。

「だから、おまえの小説はいつまで経っても売れないままなのだ。」と、私の担当編集は言葉を投げつけた。

「そうは言っても、治らないからしょうがないじゃアありませンか。」

「いいや、おまえが悪い。こっちも売れない小説家は求めていないんだ。」

「私が悪いンですか。」

「そうだ。次売れないものを書いたら、お前の作品は我々の出版社からは絶対に出さない。永遠にな。」

 売れなければ来なければいいのに。自分が困ることになるとわかっていてもそんなことが言いたくなった。すんでのところで心の中にとどめる。「おまえ」と言われるような自分が情けなくて、悔しくて、ベソをかいていたからである。


✳︎✳︎✳︎

 最初に本屋で「ワアアア」と叫びそうになったのは、15の春だった。本についているタイトルがみんな違っていて、急に不思議に思ったのである。なぜなンだろう。そう考えていると、本が生きていることに気づいたのである。


 ――屹度、だアれも気づいちゃ呉れない。頭がおかしいと思われるだけだ。

 そう思い、これまで黙っていた。然し、もしかしたら作家人生最後になるかもしれない、それならば思い切り書いてやろう、と思い、ここに告白することにしたのである。


 本が生きているということを忘れよう、そう思ったこともあった。忘れてしまえばいいのだ。忘れてしまえばこれまでと同じように生きていけるはずだ、と思った。これまで?その言い方は、いかにもこれまでがすごくよかったみたいではないか。――違う。全然よくなかったじゃアないか。頭を叩かれて、「お前は駄目な奴だ」と散々言われていたじゃないか。

 ならば、忘れるべきでない。

 もし、忘れたならば、それは神経が腐りきってなにも感じなくなったからだ。

 そう、思うようになった。


✳︎✳︎✳︎

 明日は担当編集が来る日だ。ちょっとでも気を紛らわすために、とその日も、私は行きつけの本屋に行った。

 しかし、その日は本を見ると人の脳みそを見ているような気持ちになった。本を書いた人間の脳みそが、瓶詰になっているように思えるのである。

 アア、気持ち悪い。

 酒を飲みすぎた日のようである。頭ががつんがつん痛む。視界が揺れる。「ワアアア」と叫んでしまいそうだ。

 ――落ち着け、本の呼吸を聴け。本の香りで呼吸しろ。

「わ 」、……???

「ワァ」……。

 駄目だ。もう出よう。

 みんながこちらを向く前に。思った時にはもう家に向かってなりふり構わず走っていた。わアアああアワああアアわあゝあわアあわあわあ。

 選挙カーのうぐいす嬢の声がとおくで聞こえる。「ありがとうございます。ありがとうございます。車からの応援を頂きましたァ。ありがとうございます。」

 ………………?くるま……???

 売れない小説家は立ち止まった。

 歩行者の信号は赤になっている。今、その小説家が立っているのは横断歩道。


キイイイイイイゐ、どン。

 小説家は甲高い「キャアアアアア」という声のような音を聞いた。その音を聞いて初めて、自分がはねられたことに気づいた。


 あとには白いボオダアの上に骸が横たわっているばかりである。

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或ル小説家 あにょこーにょ @shitakami_suzume

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