MiNE

蟻村観月

MiNE

 彼女に出会って俺の冴えない人生は激変したと言っても過言ではない。

 道を歩いているだけで舌打ちをされ、メニュー表を見て何を頼もうか選んでいるだけで蔑みの視線を浴びせられる。レジを待っているだけでも俺の悪口を言っている声が聞こえる。

 トイレに並んでいた時には、強面の俺とそう変わらない年齢のおとこに、どけよ、デブ! と、強引に最後尾に行かされる。彼らにとって、俺のような見下せてしまう人間は生きては行けないらしい。

 職だってある、学歴だってある。

 資産だってある。

 堅実に生活している俺が何故、俺より下の人間に蔑みの言葉を言われないと行けない。世の中は明らかに間違いだらけだ。

 おんなも寄って来ない。

 俺の顔を見た人間は揃いも揃って、うんこをまぶしにまぶした汚ねえ顔と揶揄する。流石に言い過ぎじゃないか。俺の親の顔を知っている奴らは口を揃えて、どうしてそんなフンコロガシを擬態化した人間が生まれるのよと言う。

 親にそのことを話すと申し訳なさそうに御免ねと謝る。

 謝って終わり。それ以上の言葉を掛けられたことは四十九年間一度もない。

 親にとって俺は失敗作と考えているのかもしれない。だからか、次々と子どもを作った。これみよがしに親の遺伝を受け継いだきょうだいが三人も生まれた。

 きょうだいたちは俺を蔑まないが、哀れみの視線を寄越す。その度に可哀想だねと肩を叩く。

 意味が判らなかった。

 どうして俺だけグルメタレントみたいに太っていて、不細工芸人と呼ばれる連中の仲間入りをしているのだろう。

 世の中は不平等だ。

 顔が良いだけでちやほやされる。顔が良いだけで楽な人生を生きられる。顔が良いだけで異性が寄ってくる。

 それに引き換え、俺は存在するだけで避けられる。

 忌避と言っても良い。

 勉強が出来たって、仕事が出来たって、お金を持っていたって、ポテンシャルがマイナスを向いていれば、プラスに働くことなどない。

 おんなを抱くことすら許されない。

 経験くらいはしようと思い、学生時代から仲良くしている友人にマッチングアプリを利用してみたらと勧められたことがある。友人によれば簡単にヤレると嘯いていた。やりたくてやりたくて仕方がない性欲の権化どもがアプリ内にたくさんいるのだそうだ。

 全幅の信頼を寄せるのは難しいがセックスは経験したい。どれだけ気持ちが良いのか知りたい。画面のなかでしか観たことのない世界を知りたいと思った俺はマッチングアプリに登録した。苦手な自撮りもした。

 ひとりが連絡をくれた。こんな俺でも興味を持ってくれる人がいるのか、優しいと思った。実際に会う日取りも決めて、当日、待ち合わせ場所に向かった。

 集合時間になっても彼女は現れない。

 一時間経っても彼女は姿を見せない。不審に思った俺は彼女に連絡をした。御免、今向かってると返信が来た。三十分待って姿を見せたのは、全身にタトゥーを入れた金髪のおとこだった。

 俺は裏路地に連れて行かれると彼女が待っていた。

 身包みを剝がされた。全裸姿の俺を彼女は高らかに笑いながら写真を撮り、オナニーしなさいと命令され、拒否をするとタトゥーおとこに顔面を殴られる。そんなやりとりを複数回行われた。

 性器をびんびんにした状態を見た彼女は思いっきり叩いた。痛かった。

 こんな仕打ちを受けるとは想像していなかった。ホテルに行き、気持ちいい世界を知っているはずだったのに。どうしてこうなった。放心状態になった俺を見かねた彼女は仕方なく俺のものを剝いた。醜いものを見せつけられた罰と言いながら彼女は剝いた。悲鳴をあげる俺を余所に彼女は愉悦の笑みをうかべながら、剝いた。

 前方から喘ぎ声が聴こえ出す。行われている催しに思考が追い付かない。

 彼女は金髪タトゥーとセックスをしていた。恍惚の顔を俺に見せつける。

 性器がまた勃つ。生理現象なんだから当然だろう? しかし彼女は汚物を見てしまった顔をして、俺の性器を強く握りしめた。悲鳴をあげているなか前方では喘ぎ声がする。異様な空間と化していた。

 ひととおり行為を終えたふたりは俺の服を持って行った。全裸で置き去りにされた俺は裏路地の晒し者になっていた。写真を撮る音、動画を回してせせら笑っている声、俺を侮蔑している声。

 巫山戯るんじゃねええ‼︎ 俺を見んじゃねえ‼︎ 晒し者にするなよ!

 警察が俺を保護する。

 惨めな俺は四十九になって親に迎えに来てもらう。なんて情けない。

 俺はセックスすらまともに経験出来ないのか。

 全裸で警察の事情聴取を受けている間、彼女と金髪タトゥーがセックスしている場面がフラッシュバックした。気持ちよさそうに喘いでいる彼女を空想しただけで忽ち俺の性器は大きくなり、白い液体が俺の顔面に掛かる。

 警察は射精してうっとり顔の俺を見て、気持ち悪そうな視線を向ける。

 死んだと思った。

 隣で親が申し訳ございませんと言って、何度も謝る。何に興奮したのか俺の性器は二度目の射精を果たす。

 もう帰っていいですよと言われた。交番を出る寸前で三度目の射精を果たした。俺の性器はぶっ壊れた。

 マッチングアプリはすぐさま退会した。あんな眼に遭うと知っていたら、連絡は取らなかった。このことを友人に話した。すると彼はあー、面倒な奴に絡まれたなと言われた。拷問されたことと射精したのは話していない。

 友人の話によれば、その人はその界隈で有名らしく、所謂ハニートラップを仕掛けて、自尊心を奪って優越感に浸るのに愉悦に感じる性癖で、界隈で《壊し屋》と呼ばれているらしい。甚大な被害が出ていて、俺みたいなおんな経験のないおとこのみを狙っているとも言っていた。

 恰好の餌食だったわけだ。

 彼女の狙いどおりに俺の自尊心は粉々に壊された。

 仕事は辞めた。

 SNSで動画が出回り、すぐに特定された。

 こんなことで職を失うと思っていなかった。

 貯金はふんだんにあるから仕事をせずとも生きては行けるが、外出は出来なくなった。一歩日の当たる道を歩けば、悪目立ちした俺を笑う奴らに出会すことになるからだ。そんなの死んでも御免だ。

 自然と引き籠もるようになった。

 毎日、動画を観る生活がはじまった。

 そのなかで彼女に出会った。運命だと思った。腐りに腐った俺の人生にひと筋の光が差した瞬間だ。

 冴えなくて、惨たらしい人生を送って来た俺にとって彼女は天から舞い降りた天使。

 その日から凡てがひっくり返った。

 俺は出会ったのだ。


 凛々宮凛々花に。


 アイドルグループ《ふらわーしすたーず》に所属する凛々花は、誰が見ても眼を惹く絶世の美少女だ。でもグループでは目立たない、地味な印象をファンに与えている。アイドルグループは非情なもので、どれだけ顔が可愛くとも目立たなければ運営に推されない。推されなければ他推しから評価されない。推されたら推されたで今度は親の敵みたいに叩かれる。ゴリ押しだと言われる。大人と寝て、仕事を獲得しているんだろとまで抜かす輩もいる。

 バカなんじゃないかと思う。お前の推しがブスで才能がないだけだろ。

 凛々花は列の端っこで燻っていていい存在じゃない。もっと売れて、脚光を浴びて然るべきアイドルだ。けどふらしすのファンは彼女を過小評価している。愚かだと思う。自分たちの見る眼の無さを自覚するべきだ。

 彼女以上に素晴らしいアイドルはこの世に存在しないと言うのに。

 こんなことを打ち明けられる場所は精々凛々花推しの集会くらいだ。彼らと夜を徹して語り合うのが何よりも楽しい。感情を共有出来る場所があるのは有り難く感じる。凛々花推しの会長は推しから認知をもらっていて、神と崇拝されている。

 推しから認知を得られるのはひと握りの存在だ。チェキ会や握手会に何度も足を運んだり、積まないと推しから存在を認識してもらえない。

 凛々花の認知が欲しくて堪らなかった俺は再就職を果たすことに成功した。五十手前の見窄らしさ全開の中年を採用してくれる奇特な会社が日本に存在していたことに驚きを隠せなかったが、社会復帰出来たのも凡て凛々花のお陰だ。

 馬車馬の如く俺は働いた。兎に角働いた。人間、目標があるとモチベーションになる。時に夢や目標を持つことをダサいだ、格好悪いだ、極め付けに夢を見てるんじゃねえと抜かす者がいる。以前の俺がそうだった。それは単に希望を持てなかったことに由来する嫉妬みたいなものだった。今の俺は大きくない野望と言えないけれど、目標があると声を大にして言える。

 俺は変わったのだ。五十路を迎える前に新たなフェーズに行き着いた。

 湿った空気を身に纏っていた、今までの俺はゴミ箱に捨て去った。

 凛々花がいる。彼女がいるから頑張れるし励みになっている。辛い毎日も乗り越えられる。そう、俺は最強になった。


 ふらわーしすたーずの単独公演が発表された。三百人規模の箱と過去最大のキャパシティを誇るライヴを3daysと運営も本気を出している。三日間のチケットを入手した。

 メンバープロデュースのグッズも購入した。凛々花プロデュースグッズは評判が悪いとファンの間で毎度話題になっているが俺はそうは思わない。悪態を吐きたい者や凛々花の評判を落とした奴は挙って、「あんなくそだせえグッズを買う奴はもう信者の域超えてるわwwwwww」と書き込んでいる。

 そういうお前の推しのグッズも大したデザインじゃねえじゃねえか。凛々花の悪口を吐きたいなら相応にてめえの推しの素行を考えろ。

 元ふらわーしすたーずの撫子雅の彼氏疑惑がネットで議論を呼んでいる。新規と言っても差し支えない俺が元メンバーのスキャンダルに首を突っ込むのもちがう気がする。凛々花推しの人から撫子は昔から自由奔放でスキャンダルが絶えない、問題児だと聞いた。古参のファンが言うのだからそうなのだろう。

 古参だからと凡てを鵜呑みにするのもどうかと思い、ネットで検索してみた。案の定と言うべきか矢張りなと思うべきかは個人のネットリテラシーに寄与しそうな記事で溢れていた。どれも似たような文章ばかりで斜め読みで済むのは有り難かった。

 調べて行くに連れて解ったことはみゃーはおとこ癖が悪く、男性アイドルグループと交際が発覚、ファンとセフレ関係が発覚、パパ活疑惑、二股疑惑、六本木のクラブで乱交パーティ疑惑、コカイン使用疑惑など枚挙に遑がない。調べれば調べるほど湯水のように沸く。

 問題児がグループ脱退させられたのは得心が行く。輪を乱す奴は要らない。とはいえ、問題児がひとりいなくなったところで秩序が取り戻されるはずがない。彼女と同等の素行不良者がグループに居座っている事実は拭えない。

 彼が言っていたことは正しかったようだ。終いにはハメ撮りの流出、フェラ画像の流出と眼に当てられない眼にあまる言動がネットに出回っており、童貞たちのオカズと化している。俺もそれらでオナニーをしまくったので彼らを非難する権利はないし、クラウドに保存している時点で立派な共犯者だ。

 おとこである以上、エロい動画と画像を見ちゃったら本能が疼いて仕方がない。

 このことを推しの凛々花に知られたら軽蔑の視線を向けられること間違いない。

 握手会、チェキ会の前日はオナニーをしないと固く誓っているが、その辺を区別出来ないファンが一定数いるのも知っている。待機列で下衆な会話をしているのが厭でも耳に入ってくる。なかには精液を手の平に塗りたくって来たと気持ち悪い笑い声を上げているのを聞いた時はそのファンを殴りたくなった。殴ったりしたら出禁になってしまうので我慢するしかない。

 凛々花に認知をもらえるようになるまで。

 仲良くさせてもらっている凛々花推しの人とライヴ行く約束をした。その人は女性だ。異性と推しを通じてライヴにこの人生で存在すると想像だにしなかった。

 ライヴ前に行きたい場所があるからと言って早めに待ち合わせた。

 女性を待たせるのは良くないと聞くので十分前に待ち合わせ場所に行くと文香さんは既に来ていた。

「時間間違えました?」

「いいえ、十分前ですよ」文香さんは微笑む。可愛い。こんなうら若き女性と俺は歩いていいのか。本当に俺でいいのか。「行きましょうか」

 女性とデート経験のない俺は終始緊張していた。デート慣れしている彼女は随所に余裕が感じられた。下世話な思考などしたくないのに頭は勝手に下衆なことばかり考えてしまう。

「どこに向かっているんですか」行きたい場所があることしか聞いていない。ライヴ会場は三駅向こうだ。場所が全然ちがう。

「欲しい服があるんですけど、ここ数ヶ月ずっと悩んでいて、小豆原さんに決めてもらえないかなあと思ったんです」文香さんは照れくさそうに言う。「普段は友達か彼氏に付き添ってもらうんですけど、彼氏とは今年の頭に別れちゃったんです」

「お友達は?」

「彼氏と旅行中です」文香さんは微笑む。

 彼氏がいないはずがないと思っていたが今はいないのかと淡い希望を抱いてしまう情けない自分がいる。彼女が俺に好意を抱くはずがない。そもそも地下アイドルを応援していること自体不自然に思えてしまうくらいに可愛い。その所為でとおり過ぎる人全員が隣にいる醜男に侮蔑が込められた視線が刺さる。

 耐えろ、俺。耐え忍べ。

「小豆原さん、あの人、りりちゃんじゃないですか?」文香さんが指し示す方角へ視線を向けると、黒いキャップを被り、髪の毛をポニーテイルにしている小顔のおんなの子が歩いていた。マスクしているのもあるが間違いなくあの少女は凛々花だ。こんなところで何をしているんだ。

 彼女の脇から金髪で長身のおとこが出てくる。

 鼓動が早鐘を打つ。いやいやいや、ナンパされているだけかもしれないだろ。なんて言ったって、凛々花は眼を引くほどの可愛さだ。軽佻浮薄を絵に描いたようなおとこに声を掛けられても不自然じゃない。彼女にすればいい迷惑だ。実際に厭な顔をしているように見える。

 落ち着けてって、俺の心臓。彼氏と決まったわけじゃないのに。何、気にしてるんだ。文香さんを見ると当惑した表情をうかべている。貴女までそんな顔しないでくださいよ……

「男性は誰でしょうか」推しの不測の自体に困惑が隠しきれない。唇がわなないている。「彼氏ではないですよね……? りりちゃんとあろう人が彼氏を作るはずがないですよね? ねえ、小豆原さん」

「そう、そうですよ! 凛々花ちゃんがおとこに現を抜かすはずがありません!」文香さんを拳ふたつを小さな顔の前に掲げる。俺と並べば誰でも小顔に映るから当てになりはしないが、彼女は芸能人並みに小顔だ。本当、どうしてこんな娘がアイドルを況してや地下アイドルと日の目を浴びないグループのファンなのか不思議で堪らない。彼女のような煌びやかで華やかな人は坂道を推したりするのが通例ではないのか。「凛々花ちゃんは心配ありません! グループを背負って立つに相応しい娘ですから」

「そうですよね! 私もそう思っているのですが、他のメンバーの推しのかたがたはそう見てくれないのが悔しくて仕様がないありません。冷笑を浴びせる人もいます。努力が足りていないんだとか、もっと媚びを売らなきゃと言う人もいます。でもりりちゃんはりりちゃんのやりかたがあるわけじゃないですか。彼女の努力を踏み躙る物言いをする人が許せないんです」ここまで熱心に応援してもらえる彼女は幸せ者だと俺は言う。そんな彼女がみゃーみたいにおとこに熱を上げるはずがない。「彼氏と別れた原因も私がりりちゃんに夢中になっているのが気に喰わなかったようで、一方的に別れを切り出されたんです」

 文香さんは聞いてもいないのに彼氏と別れた経緯を話してくれる。

 矢張りこれはそういうことと受け取っていいのか? いや、まだだ。性急だ。話しやすいだけの虞もある。浮かれるな。浮かれて、痛い眼に遭ったの忘れたか、俺。

 プライドをズタズタにされて仕事を辞めたのを忘れたのか?

 浮かれるな、小豆原大福!

「それは気の毒でしたね」おんなの子と恋愛話を交わした経験がない俺はこういう場面でどんな言葉を掛ければいいか判らない。下手なことを口走って、逆鱗に触れてしまったら、二度目はない。慎重に行かなければ。

「別れて半年近く経ちますし、うじうじしていたって仕方ありませんから。それに今は小豆原さんもいますし、何よりりりちゃんが生きる糧です」文香さんは言った。その言葉を素直に受け止められない自分がいる。彼女が口にする言葉に裏がないと言い切れるか? 俺を気持ちよくさせようと思って、彼女は文香さんは言っているのではないかと勘繰ってしまう。器量の狭い自分に嫌気が差す。

 少しくらいは希望を抱いてもいいだろうか……

「アイドルを応援しているとああいう場面に遭遇するんですね」笑顔に裏打ちされた戸惑いまでは隠蔽出来ていない。かくいう俺もそうだけど。ライヴ前に下衆の勘繰りの標的にされるようなところにエンカウントするとは。

 気まずい雰囲気のなか文香さんにどちらの服が良いと思いますかと請われても、思考が推しに向いてしまって碌な返答が出来なかった。購入せず先送りになった。店を出て、謝罪をした。

「気にしないでください。モヤモヤする場面を目撃してしまうと誰も予想しません。小豆原さんが悪いわけではありません」気遣ってくれる優しさが沁みる。「行きつけのカフェがあるので休憩がてら時間を潰しましょう」

 お洒落なカフェだった。ひとりで絶対這入れない。店内は若い女性が多い。なかには男性同士で来ている猛者がいた。おとこふたりでこんな女性人気の店に来られるものだ。ふたりだから良いのか。この年になると友達と外出することは減る。同級生の殆どは家庭を持ち、子どもがいる。家族サービスをしなければならないから独身で実家暮らしの人間と遊んではくれなくなる。

 年齢もそうだが立場も環境が変われば人付き合いに変化が訪れるのはあたりまえの話だ。家に帰れば温かいご飯が勝手に出て来て、風呂に入り、好きなことをして生活している自分とはちがう。

 アイドルに夢中になっている人間は気味悪がられる。肩身が狭いのではなく、自ら望んで肩身を狭くしに行っているだけのこと。それでいて自分はちがうとネットで呟いている奴を見掛けると滑稽に思う。お前自身がその方角に歩いているだけだろ、世間の所為にするなよ、女々しいなと思うが呟いたら炎上したことがあり、火に油を注ぐような呟きはしないとその時に決めた。

 そいつも自分が情けないと自覚しているから俺の呟きに喰って掛かって来た。他人から指摘されるものほど不愉快なものはないからな。自己正当化したいだけの人間があまりに多過ぎる。それでいて、他人の失敗には大いに笑い転げる。自己矛盾もだが、集団矛盾のような哀れさも感じられる。

 自分の考えが正しいと思っていないけれど、ネットで発言権が高い人に接触してはならないのに気付くのにだいぶ時間が掛かった。誰しも自分が正しいのだと思い込みたいし、他者から認められたいからこそ一見「正しい」、「正論」のように思わせる書き込みをする。

 流されやすい人間は彼らの放つ言葉を信じ、次第にその人をも信用し出す。この流れは宗教を思わせる。こうやって人は偶像を信仰しはじめたのかもしれない。

 応援する対象に入れ込み過ぎると「信者」と揶揄するように何事にも適度な距離を保つのは大事なのかもしれない。「推し」という大義名分で何しても良いと思っている節もあるし、「推し」を免罪符にする人も少なくない。

 俺が学生の頃は親衛隊とか存在していたし、応援の仕方が変わっただけで本質自体は変化していないのだろう。

 そういう俺も彼らを悪く言える立場になく、同類だ。

 純粋に凛々花を応援していると自分では思っていても人から見れば不気味に見えるのも真理だ。

 カフェで他愛ない会話を交わして会場に向かう。

 電車にライヴに行くのだろう、ふらしすのグッズを身に纏ったファンが乗っていた。離れていたし人も多かったから話し掛けに行かなかったが、電車で遭遇するとライヴがすぐそこに待っているのだなと実感する。

 会場周辺はりとるふらわーで溢れていた。生写真の交換をする者、交流を図る者。グッズ列は盛況のようで安心した。前回ライブはグッズが不評だったのもあり、売れ残りが多く、赤字だったと聞く。反省を活かした今回は高評価で事前販売の売れ行きが好調で完売する商品があったほどだ。メンバープロデュースの商品は毎度ながら飛ぶように売れる。凛々花のグッズの売れ行きは伸び悩んでいる。人気不人気が如実に表面化する。売り上げに貢献したつもりだが至らなかったようだ。

 文香さんにグッズ買い足して来ますと言うと彼女も私も行きますと言った。

「りんちゃんが悪く言われるのは応援している身として我慢なりません。況してやあんなところに出会してしまったのですからさらに応援に身が入ります」ご自慢のガッツポーズを披露する文香さん。可愛い。貴女がアイドルになったら、迷わず応援するだろう。そしてガチ恋に陥っているにちがいない。

 最後尾に並ぶと前に並んでいるファンの会話が耳に入ってくる。

「お前さ、見た?」

「何が?」

「りんりんがさ金髪のおとこと歩いていたとか」

 俺らはお互いの顔を見合った。

「なんだそれ。凛々花がおとこと遊ぶはずないだろう。みゃーでも春ちゃんでもないんだから」

「あのふたりは手に追えない問題児だけど、実際にふたりが歩いている姿を見掛けたファンがいるんだよ」

「見掛けたって、マネージャーかもしれねえだろ。どうせあのいつものイケメンマネじゃねえの?」

「どうもちがうらしい」そう言っておとこは画面を見せる。「な? ちがうだろ」

「確かに池澤じゃねえな」池澤というのはふわしすの名物マネージャーでイケメンとしても知られている。みゃーと交際疑惑が出ていた相手でもある。実際はデマで既婚者だ。その相手も元キャバ嬢との噂だ。

「じゃあ誰だ」

「わからん。物凄い勢いで拡散されてる」

「そりゃそうだろうな。不人気がスキャンダル起こしたとなったら愈々だからな」

「愈々っていうか、解雇案件だろ」

「凛々花は在籍していようがいまいが影響ないからなあ」おとこは言う。

「その言いかたは良くないんじゃないですか。必死で頑張っているおんなの子を貶せますね。貴方の推している子も裏では色々しているかもしれないですよ」

「は? 何、あんた。不人気の凛々花推し? 不憫だな。負け馬に乗っている奴は卑屈になるんだな。それとも自分より下の人間を推すことで上位になった気分になってるの? そうだとしたらくそだせえ」

 耐えようと思っていた俺の沸点は治ってくれず気が付けば眼前にいるおとこを正面からパンチを喰らわしていた。デブだからブスだから舐めて掛かると痛い眼に遭うことを思い知らせてやる。

 学生時代は柔道部で日々鍛錬を積んでいた俺のパンチは年季がちがう。

 おとこは派手に吹っ飛ばされた。質量が軽かったようだ。ざまあみろと思っているとスタッフに出ていくよう言われてしまった。釈明しようとしたが大勢が俺が殴った場面を見ているので言い訳のしようもなかった。

 文香さんにまで迷惑を掛けてしまった。

 警察沙汰にしないと言われたのは僥倖だった。

 ライヴは観られなくなってしまった。文香さんは観られるようにお願いすると今般だけと許可してもらった。もし次、今回みたいな事態が起こったら一緒に来ている文香さんも出禁と勧告を受けた。

 文香さんに俺の分まで楽しんで来てとタオルにペンライトを渡した。彼女は解りましたと受け取ってくれた。

 推しの悪口を言われて正気でいられるはずがない。疑惑の眼を向けられていたらなおさら。誰だって俺とおなじことをしただろう。

 行け好かないふたり組は問題児を推していることをライヴ終わりの文香さんから聞いた。お前らも大概じゃねえかとこの抑えようもない気持ちをぶつける場所はなかった。書き込もうと思ったが止めた。凛々花推しは野蛮だと思われたくない。ファンが推しのイメージを上げ下げする。だから気を引き締めて応援しなければならないのだが、自分の推しが世界でいちばん可愛く完璧だと思っている。欠点のない、パーフェクトヒューマンだとひと昔前に流行ったコミックソングに擬えてしまうのがアイドルヲタクの悪癖だ。

 ライヴでシングルとミニアルバム発売が発表された。シングルのセンターは不動の松葉蓮。ミニアルバムはメンバー全員がセンターに立つことも発表された。

 話を文香さんから聞いた時、その場歓喜の雄叫びを上げてしまった。周囲の人から訝しげな眼を向けられたがどうでも良かった。

 凛々花が日陰にいたあの凛々花が日の眼を見る! 喜ばしいことこの上ない。今すぐにでも赤飯は大嫌いだが炊きたいくらいだ。

「凛々花のセンターを祝して乾杯しませんか?」勢い任せに俺は文香さんに言った。断れること前提での発言だった。彼女も立ち上がり俺の熊みたいな手を取り、キラキラと輝かせた眼で「はい! 是非ともお祝いしましょう!」

 俺が最終的に漂着した場所というのが、文香さんの自宅。

 確実に俺の人生は華やいでいる。失ったはずの輝きを取り戻しつつある。

 その日は深夜遅くまで派手とは行かなくとも細やかなパーティが催された。


 朝、ベッドで目醒めると一糸纏わない布迫文香の姿があった。


 彼女より早くて起床した俺は洗顔を済ませる。

 充電を終えた携帯を開くと幾つか通知が来ていた。それらをタップすると眼を疑うような文章が飛び込んで来た。


「凛々宮凛々花(17) 人気男性アイドルグループ『スーベニア』、望月大樹(27)、若い女性に人気を博するイケメンボーカリスト『Blood on the Destiny』、大隈流星(35)と二股交際が発覚‼︎」


 強烈で苛烈な熱愛記事が出ていた。唐突の出来事に唖然としてしまい声が上手く出せなかった。どれくらい画面を眺めていただろう。裸の文香さんが起きて来た。

「どうされました?」彼女は不安な表情で俺の顔を覗き込む。「何かありました?」

 画面を彼女に見せる。まじまじと見凝みつめる。記事を読み終えたのだろう、声帯が引き攣ったのが聞いていて解った。その反応をするのも当然だ。

「嘘ですよね……?」文香さんは訊く。「嘘だと言ってください」

「判りません。ここの週刊誌は良く記事を捏造することで有名だと越境谷さんが言っていたので、今回も恐らく飛ばし記事だと思うのですが」

「ツーショット写真がないのでそんな気配はありますけど、えっと、昨日見た人ではないですよね?」不安が思いっきり声音に現れている。彼女の言うとおり、金髪のおとこにふたりは該当しない。

 ……ということはつまり、記事に上がっているふたりとは交際していない?

 もうひとつ考えられるのは金髪おとこと付き合っているのを隠匿するためにふたりは利用された。凛々花と当該ふたりは知り合いだった、あるいは交際していた過去がある。

 年齢を考えろ。未成年にアラサーとアラフォーが手を出すか?

 ……出すか。芸能人は歳の差婚が多いし、特に若い子は食い物にされがちだ。地下アイドルに所属しているアイドルは余計に。掃いて捨てるほどいるし、悪い大人に唆されれば、有り得なくもない話だ。実際、みゃーも未成年で会員制のクラブで出入りしていた。悪い噂が絶えないメンバーがいれば影響受けるのも頷ける。

 一種のグルーミングと捉えても良い。だからこそ運営がきちんと導かないとこうして取り返しの付かない事態に発展するが、アイドルグループの運営は何処もかしこも似たり寄ったりだ。メジャーアイドルグループでさえもそうなのだから。

 集団で年頃のおんなの子を統制するのは難しい。

「トレンド入りしています」文香さんは画面を見せる。

 悪いほうで目立ってしまった。

 昨日のあいつらが言っていたことが映像で再生された。

 −−そりゃそうだろうな。不人気がスキャンダル起こしたとなったら愈々だろ。

 −−愈々っていうか、解雇案件だろ。

 解雇。即ち、グループからの卒業を意味する。

 そうでなくとも凛々花は目立たず地味で華がないと散々扱き下ろされている。ファンから見放されたらもう彼女に居場所などない。みゃーとはちがう。開き直って、堂々と遊ぶ宣言をMCでするほどの度胸もない。ルックスがどれだけ良かろうと人気が無ければ淘汰されるのがアイドル。

 不人気のスキャンダルは嘘だろうと事実だろうと損切りに絶好だ。

「ミニアルバム発売を発表したからでしょうか?」文香さんは言う。

「昨日のきょうですからね、タイミングは良過ぎます」裏で見えない力でも働いたのだろうか。そうとしか思えない。もしくはメンバーの誰かがリークした? 中身に説得性が無かろうと向こうにすれば、今をときめくバンドと天下のアイドルグループの人気メンバーを記事に出来るのだから便乗するのは当然だ。

 凛々花が炎上しているのを傍でただ指を咥えているなんて出来ない。


 俺は新たな誓いを立てた。

 推しを守ると。

 そして最後まで凛々宮凛々花推しでいると−−


 凛々花の炎上は一ヶ月経っても止まない。週刊誌はあることないことを次々と書き立てた。その度にネットで炎上した。彼女は汚い大人たちの格好の餌食になってしまった。

 一極に集中砲火を浴びせなくてもと思わなくはないが叩ける人をひと度見付けるや否や気が済むまで袋叩きにする。

 凛々花が謝罪のブログを更新しないからだろう。運営に止められているのかもしれない。そうだとしても一ヶ月音沙汰ないのは不可解だ。事実確認しているにしても時間が掛かり過ぎている。

 凛々花推しの神こと板池さんによればメンバーがリークしたのではないかと囁かれているらしい。リーク主を特定するのに時間を要していると見ているようだ。

 内部告発によるものであるならふらわーしすたーずの存続が危ぶまれる事態に発展しかねない。研究制度を採用していない上に新規メンバーの募集すらしていないふらしすはデビュー当時からずっと現在のメンバーで活動している。創設時から変わらず今のメンバーで頑張って来た。

 初期を知らない俺が頑張って来たなどと薄くて安っぽい言葉を使うべきではない。

 どの口が言っていると古参ファンに糾弾されかねない。

 凛々花のスキャンダルでシングルとミニアルバムの発売が延期になった。さらにミニアルバムの目玉企画だった「全員センター」は白紙となった。

 文香さんから電話があり、残念でしたねと慰め合っていた。交際しているわけではないのだが、空気は悪くない。彼女がどう思っているか判らないし、あの日のあの出来事も行きずりだったから下手に踏み込んでド派手に振られる未来が想像出来てしまう。向こうだって、五十目前の冴えないおじさんと付き合いたいと思っていないだろうし、告白するのは思い上がりにもほどがある。

 今はとにかく凛々花の名誉回復を優先すべきだ。


 騒動から二ヶ月経った日に運営から凛々花の処分は行わないと発表された。

 事情を聞き、徹底的に調べた結果嘘であったこと、凛々花は報道されたふたりと面識がなかったと説明された。内部によるリークでもないことも発覚した。今回の件を受けて、報道した週刊誌を訴えることも書かれてあった。

 大本営の発表もあり、ひと先ず決着は着いたと言っても過言ではないだろう。しkし問題は解決していない。いったい誰が嘘の情報を週刊誌に売りつけて記事を書かせたのか。内部告発でないと発表があった以上、グループ内の確執はないと言ったようなものだ。素直に運営からの発表を飲み込めないファンのほうが多かった。

 あれだけの騒動を起こしといて無実でしたとほとぼり冷めた時期に発表するのは、確かに怪しい。凛々花にブログを書かせなかった理由は説明されていない。

 裏で何かしらあったのだろう。

 今回の運営の動きかたはファンの反感を買う羽目になってしまった。信頼は一気に落ちた。あれだけ有能運営と持て囃していたのに手の平を返す辺りはどの界隈でもそうらしい。凛々花推しとしては白であることが判明しただけでもひと安心だ。

 板池さんと文香さんから連絡が来た。

 板池さんとは後日飲み会の約束をした。文香さんはというと、彼女の家にお邪魔することとなった。祝杯を交わしたいという名目で。

「ネットは依然として荒れていますね」裸姿の文香さんを至近距離で拝める特等席にこうして寝られて−−座れて?いることに感謝しかない。賽銭箱に諭吉を十枚投げ入れてやりたい気分だ。定期的に彼女の家で過ごすことがあたりまえになっている。おまけにセックスまで出来る。凛々花に出会えていなかったら、実家の自室で朝昼夜問わずひとりで慰めていたと思うと、彼女は俺の赤錆の人生を変えてくれた。

 正に運命の人。

「鎮火する気配が無さそうなのがまた」運営の発表に文句をファンが多く、収拾付かない状態と化している。ファンでもない外野が参戦してきて事態は混沌となっている。終いには専門家を自称する人がどうすれば事態が治るのかをくどくどと説明し出す始末。報道出た時点で凛々花にブログなり公式の文書を出していればここまでの事態にはならなかったと思う。運営の判断のミスと言わざるを得ない。

 二ヶ月も引っ張っておいて凛々花は潔白でしたとされても当惑するだけだ。

 ファンとしては潔白だったと証明されたわけではないが裏付けられたことに安堵の気持ちで一杯だ。祝杯を上げてしまうくらいに浮かれている。浮き足立っている。

「りりちゃん、辞めないですよね?」

「彼女から一切音沙汰ないのが不気味ですからね。運営と揉めていると勘繰るファンもいるようです」

「対応が遅いですもんね。りりちゃんに辞められたら私……」文香さんは泣きそうな顔をする。俺はそっと彼女を抱き締める。「大福さん」

「凛々花は辞めないですよ。俺たちが応援する限り彼女は最強のアイドルです」


 その最強のアイドルは無期限の謹慎処分を受けた。


 ふらわーしすたーずの活動休止が発表された。

 スタッフを刷新することも発表された。

 ファンは不安に駆られる事態となった。

 ひと晩にして手の平を返された。

 板池さんに招集を掛けられた俺はいつもの居酒屋にいた。

 ひと先ずのお疲れ様会が催された。文香さんを誘おうと思ったが連絡が出来なかった。寝込んではいないと思うが相当落ち込んでいるだろうと容易に想像出来た。友達とハメを外すほうが今の彼女に相応しいと思った。彼氏ではないから関係のない話と言えばそれまでだが。

「小豆原さんはこれからどうするんですか?」正月崎さんに訊かれた。

「ファンを辞める予定ないので活動休止ですかね」笑いを誘ったつもりだったが、場は凍てついてしまった。盛大にスベッてしまった。この歳でワードセンスが壊滅的は手に負えない。もう少しお笑いを勉強してきたほうが良かったか?

「そうですか。僕は引退ですわ」正月崎さんは神妙な顔で言う。

「どうしてですか」

「そりゃあ、小豆原さん、推しが無期限の謹慎処分ですよ? あれは事実上の卒業みたいなものでしょう。凛々花は高校生だからこの先にまだまだ明るい未来が待っているから、アイドルにしがみつく必要はないでしょう。人生で躓いても取り戻せる年齢だ。でもさ、僕らはちがうじゃない。一度でも蹴躓いたら終わりなわけ。お先真っ暗の人生を歩むほど僕は博打しないのよ。小豆原さんほどの有能なかたなら輝きを取り返せるのかもしれないけどさ、僕はちがうのよ。アイドルに現抜かせる境地にいねえのよ」正月崎さんは言う。手元を見れば随分とお酒を摂取しているようだ。飲んでないとやっていられないようだ。翻って俺は飲む気になれず、最初に頼んだビールをちびちび飲み進めている。普段はこうではないのだが精神的に参っているのだろう。

「正月崎さんは太客でしたよね」

「そうだけどさ、関係ねえよ。ありゃあただの自己満足だ。自分が推しのアイドルに近付きたいだけのエゴでしかねえのよ。大体がそうだ。推しにお金を積んでもな推しと付き合えるわけじゃねえ。どれだけお金を使っても手元に残るのはな、二千円の堆く積もったCDなんだ。我に返って思うのは虚しさだけ。そりゃあ、CDを不法投棄するさ。割れと言うけどな、割れではなく愚かと呼ぶべきじゃねえのか」

 どんなにアイドルに大枚叩いても見返りは自己満足でしかない。俺は彼らほどお金を使っていないが冷静になった時にどう思うかは考える必要がない。正月崎を見習って俺も引き返すほうが賢明なのかもしれない。

「聞いたぜ、小豆原さん。いるんだろ、これがさ」小指を立てる。今日日すっかり見なくなった。正月崎さんの年齢を鑑みればそうか。俺とそう変わらない。老け顔ではあるが俺より五つ下だ。「噂になってるぜ。みゃー推しを殴ったとかで」

「あの件を思い出させないくださいよ。黒歴史にしたいんですから」俺は言う。「手を出したのは良くなかったと反省しています」

「推しを莫迦にされたら誰でも腹立たしく思うわな」正月崎さんは言う。「だがな、怒りを鎮める能力を身に着けるのもアイドルを推す上で必要不可欠だ。僕も色々言われて来たから気持ちは解る。でもぐっと怺えるのも大事だ」

「そうですね」俺よりずっと大人だ。アイドルファンを長いことやっているからこそ言える言葉でもある。歴が浅い俺は対処方法が判らなかったから感情任せに若人を殴ってしまった。柔道を免罪符に。恥ずかしいったらありゃしない。それでも文香さんだけは味方でいてくれた。「付き合っているわけではないですよ。仲良くしてもらっているだけで。それに俺と彼女の年齢差を鑑みれば結ばるはずのない恋愛をしているようなものですから」

「諦めちゃダメだろう。最初に会った頃より小綺麗になったじゃねえか。僕より断然に清潔感がある。醜男だったおとこがここまで変われるんだから大したもんだよ。仲良くしてもらっているのならなおさら関係を大事にしろよ」正月崎さんは言った。年下とは思えないくらいに人間が出来ている。もっと早く凛々花に出会っていれば正月崎さんに会えたと思うと、後悔はあるがこうして彼に会えただけでも俺は恵まれている。

 正月崎さんと連絡先を交換した。次に会う時は飲み友達だろう。

「正月崎さんは完全に引退するんですか?」

「今のところは。気が変わって別のアイドルを推してるかもしれねえな」

 そんな話をしていると板池さんと園馬さんが会話に入って来た。

「正月さんは乃木坂に戻るんじゃないですか?」園馬さんは冗談混じりに言う。

「乃木坂なぁ。推しが数年前に引退しちゃってから追い掛けてねえんだわ」

「あー、そうなんですか」園場さんは頷く。「板池さんは清掃員ですから、現場は行くんですよね?」

「解散発表しちゃったからねえ。まあ最後まで追い掛けますよ」板池さんは言う。「あの事務所は本当何考えてるんでしょうねえ。でも言い分は理解出来るんですよ。絶頂期に解散するのは」

「いちばん奇麗な状態で解散するのがいいですからね」園馬さんは頻りに頷く。「ふらしすはどうなるんでしょうね」

「凛々花のスキャンダルが発端ではないでしょうから、みゃーの件も蒸し返されてますよね」俺は言う。みゃーの過去に起こした騒動というかスキャンダルが凛々花の一件で掘り返されてみゃー推しもまた肩身狭い思いをしている。彼女の場合は問題行動が多過ぎて擁護し切れない。

「春に標的が向くのも時間の問題でしょうね」板池は見解を述べる。

 春こと春風春香もまたみゃーと肩を並べる問題児。

 二大問題児がふらしすに在籍している。今となっては三大と揶揄する人もいるが。

「あの娘はみゃーと別ベクトルで問題行動多いですしね。今回の騒動が契機になり、自浄作用が働いてくれると良いと思っているんですけどね」園馬は苦笑いをうかべながら砂肝を行儀悪く食べる。

「活動休止を前向きに捉えているんですね、園馬さんは」間違った解釈かもしれないが言うだけ言ってみる。意見を述べるのは大事だ。

「立場で言えば中立だと思って発言してるつもりでいるけど、肩入れはしちゃうよね。前向きかもなあ、ある種。後ろ向きでもあるよな。活動休止の期限が設定されていない以上、フェードアウトする可能性も大いに有り得る」

 活動休止から復活するグループは稀だ。アイドルグループだろうとバンドだろうと関係ない。いっそう、無期限としてくれればこちらも実質の解散なのだろうなと腹が括れる。フェスばかり行って、暴れ狂っていた時期があるから活動休止は心臓が縮まる思いになる。俺が好きになったバンドは何故か休止しのちに解散する謎のジンクスがあった。偶然に過ぎないと理解していてもたらればが脳裡を過ぎる。

 誰しも一度は経験したことがあるはずだ。

 活動休止に限らず、推し出したら程なくして卒業発表した、漫画の好きなキャラが死んだ、悉くスキャンダルを起こす、引退するなど思い返せばあるはず。

 バンドメンバーが減るもあるな。そういうのはあるある過ぎて勘定に入れていなかった。活動休止に連なる現象のひとつに興味が失せはじめた数ヶ月後に、があるが、それも経験している。あとで絶対後悔するので控えることを強く勧める。

 推しは推せる時に推せ! はあらゆるコンテンツに言える汎用性が高い名言だ。

「活動休止中にメンバーの誰かが問題を起こすようなことがあれば、運営は解散を視野に入れるか空中分解を切望するでしょうな」正月崎さんは言った。「掲示板で騒ぎになってましたでしょ。凛々花の彼氏疑惑」

 正月崎さんの発言に心臓が小ジャンプする。ブロックなどないと言うのに。

「誰が言い出したか判らないんのだけどね。妄想だ、妄想だとまったく相手にされていなかったけど、こないだのライヴの日に金髪の若いおとこと歩いてたと目撃証言が出てるらしいと。そこら辺かな、じわりじわり拡散されて行ったの」

「板池さん知ってました?」園馬さんは話そうとしない板池さんに振る。

「私は掲示板見ないですよ」板池さんは首を振る。「まとめサイトも見なくなりましたね」

「まとめサイトは覗くだけ時間の浪費ですなあ」正月崎さんは顎を撫でる。「妄想の虜囚があまりに多すぎる。精神異常者の集会所ですよ、あそこは。カウンセラーがいない所為で惨憺たる結果を招来してしまっている。おぞましい話ですよ。コメント欄に戸籍を置いている人はもっと救いようがない。おとこがいるだとか妄想をひけらかして、興味を唆らせ、恰もそれっぽい情報だけを与えてあとは好き勝手に議論させる。普通に考えればその人の発言が嘘であると解るはずなんですがね」

「証拠も無ければ裏付けもありませんからね。匂わせをこじつけるのに似ています」

「れんれんのセンターは事務所の社長と寝ているからと真実かのように話して、運営が否定の文書を出していましたね」板池さんは言った。「枕営業が蔓延っているとまことしやかに囁かれている弊害なのでしょうね。実態を知らない我々が面白可笑しく言うのが行けないと解っていつつも、矢張り成功している人間には裏側がある裏柄だと思いたいのでしょうね」

「そうかもしれないですね」れんれんも被害に遭っていたのか。俺らはいったい何を応援しているのだろう。本当に実体を持つ生身の人間を心の底から応援していると言えるだろうか。アイドルと剰え付き合えるなどと夢のようなことを思っているから、莫迦な行動に出たり、ガチ恋勢が生まれてしまう。

 悪しき風習かもしれない。

 Idolを日本語訳すれば偶像になるけれど、俺らが真に追い求めているのは虚像−−実体の伴わない妖怪変化なのではないだろうか……


 ふらしすが休止して三ヶ月経過した。

 仕事に追われてネットを見る余裕がなかったのだが、一段落したので一ヶ月振りに浮上した。ふらしすの公式のフォロワー数が一万人近く減っていた。それもそうか。あれだけのことが起こってフォローしている人は変わり者と言われても仕方がないか。

 メンバーのフォロワー数も激減していた。凛々花のフォロワー数に到っては一桁になっていた。騒動でここまで落魄れるのかと唖然となった。文香さんがフォローを外していないのは救いだった。

 他グループ推しの人は挙ってふらしすはオワコンと呟いている。

 現状を鑑みればふらしすの再起は不可能に近い。

 空中分解しているようなもの。仮に活動再開しても上り目は見当たらない。ファンを獲得する見込みもない。ふらしすは終わってしまう。いや、終わっている。

 それでも俺は変わらずふらしすを応援する。

 凛々宮凛々花を応援する。


 一向に潮目が変わる気配がないまま年が明けた。

 世間は元号が変わると色めき立っている。元号が変わるのを経験するのは二度目だから、然程感動したりの感情は湧かない。

 文香さんははじめてのこともあるのかワクワクしていると言っていた。

 昨年にひとり暮らしをはじめた。活動資金が引っ越し費用に転用されただけなのだが、ありあまるお金でマンションに引っ越した。ふらしすに使うはずだったお金が実用的なものに消えたと思えば悪くない。

 家具は文香さんに頼んで選んでもらった。

 交際に発展しないのは変わらずだが距離はぐんと近付いた。

 大晦日からふたりで旅行に行った。

 カウントダウンの花火を堪能した。新年を迎え、俺たちは正式に付き合うことになった。夢じゃないかと思った。夢を見ているのだろうと思った。目が覚めると可愛い寝顔で寝ている文香さんの顔が眼前にあった。頬を抓ってみた。痛覚を感じたので夢ではなく現実だった。

 付き合うことになったとは言え、俺は五十を迎える年齢だ。それに引き換え文香さんはまだ二十代。歳の差があり過ぎる。ずっと付き合うわけには行かないだろう。結婚は夢のまた夢。彼女の人生を背負うことは俺は出来ない。

 期限付きの恋愛だ。


 元号が変わり、新時代が到来したことを告げる番組が乱立する。

 長らく活動休止していたV系バンドが解散を発表した。学生時代に聴いていたバンドで社会人になってもライヴに足を運んだりしていただけにショックだった。

 ボーカルのソロプロジェクトも追い掛けていた。細胞に刻み込まれたサウンドがもう聴けないと考えただけで落胆する。

 ふらしすにも動きがあった。

 SNSの閉鎖が発表された。

 ふらしすは終わりを迎えるのかもしれないと遺伝子が饒舌に語り出した。

 閉鎖を受けて凛々花以外のメンバーのコメントが載せられた。この仕打ちに凛々花が怒り出すのも当然だ。騒動を起こしたのは彼女だ。だからってここまですることはないだろうと。俺もそう思う。案の定、リプ欄は大荒れの様相を呈した。心ないリプライを送信してしまった。

 大人げないと思いながらも凛々花の扱いを目の当たりにして自然と怒りが沸き起こった。炎上すると判っていてするのだから運営側は凛々花を外したいと根底で考えていたのだろう。スキャンダルを起こしてくれたのでこれで思いっきり彼女を排除する口実が生まれたと欣喜雀躍していたのかもしれない。そうだとするなら最低最悪の行為だ。

 凛々花を泣かす奴は誰であろうと許さない。

 赦さない。


 赦さない。


 ネットに入り浸るようになった。

 運営を燃やすに価する情報はないか探すようになった。

 凛々花。凛々花。凛々花。凛々花。凛々花。

 仕事中も情報収集を欠かさなかった。なんでもいい。運営の考えを変えさせる情報が欲しい。欲しくて堪らない。

 何も出て来なかった。

 板池さんに連絡して何か情報がないか尋ねたが有力なものはないねと言われた。

 文香さんには非人道的な行いを止めるように説得されたが拒否した。凛々花を悪者にする奴は俺が赦さない。

 俺の凛々花だからと言うと、文香さんは絶句していた。

 別れを切り出されたりはしなかったのは奇跡だ。

 凛々花に感謝しないと。彼女がいなくなってしまったら、俺という人間は終わる。

 凛々花が存在してくれているから俺はこうして日々を生きているし、彼女が出来た。この感謝を伝え切るまで俺は凛々花のファンでありいちばんの理解者だ。

 俺以外に君を愛せる者はいないし愛し続けられる者はいない。それをこれから証明して見せるよ。

 待っててね、愛しの凛々花。


 新時代と期待を膨らませている奴らを尻目に俺は只管に情報収集に励む。運営を炎上させたところで凛々花の処分が軽くなるわけもなければ、厚遇されるはずもないと気付いた俺は別の策を講じることにした。


「《速報》ふらわーしすたーず、松葉蓮(22)本名・世古田清羅、44歳会社経営者と結婚前提の交際中‼︎」


 そんな内容の呟きを全世界に向けて公開した。

 拡散希望を追加せずとも瞬く間に海洋を泳ぎ出した。長距離移動など容易いと言わんばかりに。別垢を用いることでより拡散されやすくなる。さらに情報通を気取ることで神格化もされやすくなるように振る舞うのも大事だ。

 ネットのなかでくらいキリストになることは許されるだろう。

 唯一にして無にの存在になるのはネットほど簡単なものはないと思っている。思う存分利用させてもらうとしよう。

 すべては凛々花のため。

 何度でも口にする。言葉にすることで現実になる。現実になるまで言葉にする。

 れんれんの情報はまったくの嘘だ。彼女は彼氏はいないし、過去にもいたことはない。プロアイドルとして徹底していた。だからこそこうして松葉蓮の虚偽の情報を流すことで彼女を神格化していたファンの幻想を打ち砕く。

 案の定、ファンは大騒ぎしていた。

 自分の推しにそんなことがあるはずがないと思い込んでいたファンたちの悲鳴を聞くのは最高に心地良かった。れんれんを毛嫌いしていた他推しにすれば不動のセンター・松葉蓮のスキャンダルを目にして喝采を叫んだことだろう。

 しかし。炎上はたった一日で鎮火した。

 公式から松葉蓮の声が公開された。本人が否定したことでファンは安心した。矛先は一瞬にして俺に向けられた。

 この動きは予想していなかった。エゴサーチに余念のない人ではあるけれど、活動休止中であること、個人のアカウントが存在しないことを良いことに噓の情報を流したのに素早く火消しに来るとは思っていなかった。

 松葉蓮だから運営は動いた。凛々宮凛々花の時は動かなかったのに。これが不動のセンターと万年補欠のちがい。

 グループの闇を見た瞬間。

 捨て垢だから構わないがアカウントをひとつ失うということは残機を喪失するに等しい行為だ。それでも敗北者であることを認めざるを得ない。

 次の策を考案しなくてならなくなった。


 交際半年記念を祝して関西地方に旅行に出掛けた。

 ふたりで過ごすのは久し振りだったのか、人見知りをしてしまった。彼女は笑ってくれたから良かったものの初対面ではないし、付き合いで言えば一年は経っているにも拘らず人見知りを発症するのはダサい。

 観光地を巡ったり、買い食いをしたり、学生に戻った気分を味わえた。俺が文香さんと同級生だったら肩を並べて歩いたりすることはなかった。奇跡を台無しにするのは良くないと思いつつも彼女と推しを天秤に掛けた時に俺は果たしてどちらを選ぶ。

 宿で懐石料理に舌鼓を打つ。お酒を嗜みながら景色を望む。

 幸せな空間が確かにあった。

 部屋に露天風呂が付いているので一緒に入ったりもした。当然、夜も盛り上がった。気が付けば朝になっていた。一年前はセミロングだった髪がこの一年で背中まで伸びている。ロングヘアが好きだと言ったら彼女はその日から伸ばしはじめた。

 こんなに素敵な女性と付き合えているのに俺は推しばかり考えている。

 文香さんは俺がいるからと言ってファンを降りた。活動再開する気配がないのに気持ちを保つのは容易なことではない。正月崎さんはアイドルヲタク自体を引退した。板池さんもだ。凛々花を推しているのは今となっては俺ひとりになってしまった。

 箱推しは随分前から絶滅した。単推しも騒動前に比べて目に見えて減った。

 松葉蓮の騒動以後も徐々に人数が減っている。ふらしすは忘れ去られたと言っても過言ではない。ふらしすの復活を望んでいるファンは凛々花を毎日非難の呟きをしている。見ていて泣きそうになる。彼女の潔白は証明されたじゃないか。

 それでも赦されない。

 一度でもしくじれば村八分にされるのが現代だ。

 ああ、ダメだ。今は旅行中だ。

 頭を冷やそうと思い、浴衣に袖をとおして部屋を出る。朝一の大浴場を独占するのは最高の気分だ。先刻まで莫迦げたこと思考がリフレッシュされた。気分転換するのは人間矢張り大事だ。

 旅行中は推しのことは忘れて彼女だけを考えると誓いを立てて、大浴場を出る。廊下を歩いていると前から歩いて来る若い女性とお見合いをしてしまった。

 お互いにすいませんと謝る。顔を見て硬直した。

「……凛々花」

「いや、人ちがいです」顔を逸らして俺の横を駆け足で去っていく。あとを追い掛けようとしたが迷惑になるだろうと思って止めた。

 推しに出会えたことよりも何故ここにが勝り妙な冷静さを取り戻していた。

 部屋に戻ると文香さんは露天風呂に入っていた。

「おかえりなさい。一緒に入りませんか?」大浴場に行ってきたことを伝えると頬を膨らませたのでご相伴に預かることにした。景色に集中したいなら露天風呂、さっぱりしたいなら大浴場だ。「何かありました? 顔色良くないように見えますけど」

「凛々花に似た人に会いました」噓を吐いても仕様がないので打ち明ける。

「本人ではなかったんですか?」訝しげな顔をする。

「本人だと思うんだけど、人ちがいと言われて」

「なる程」文香さんは頷く。「大福さんは本人だと思ったんですよね」

「俺はそうだと思いましたけど、良くあるじゃないですか、好きが高じて他人の空似なのに本人と錯覚してしまうような現象が」

「経験はありませんが良くある話とも言えないですね」冷静だ。引退した人間はこうも冷静になれるようだ。人間擬きから人間になったのだから当然か。「彼女が平日に地方の旅館にいるでしょうか? 彼女、学生ですよまだ」

「そうですよね。サボった可能性はないですかね?」

「流石に凛々花ちゃんが恥ずべき行動を取るとは思えません」文香さんは言う。「しっかりと顔を見た上で本人か誰何したんですか?」

「はっきりと見ました」

「断言出来るんですね」文香さんは詰め寄って来る。「遭遇したうら若きおんなの子が凛々宮凛々花だと」

「はい。断言出来ます」

「解りました。大福さんを信じます。もしちがっていても信じた私の自己責任です。大福さんに責任はありません」文香さんは言った。「本物か偽者かにこの言葉を言うのは憚れるんですけど」

 そう前置きして文香さんは実直な眼差しを俺なんかに向ける。


「私と結婚してくれますか−−」


 彼女は知っていたのだと思う。俺がしたことを。そしてしくじったことを。

 だからあの言葉を口にした。

 そうすれば俺を食い止められると。

 そんなはずがないだろう。

 俺には凛々花が必要なんだ。

 彼女がいないと小豆原大福は存在する意味がない。地獄の淵で石を積んでいるだけの中年童貞を救ってくれたのは布迫文香ではない。

 ふらわーしすたーずの凛々宮凛々花だ。

 アイドルとしてステージに立つ彼女が俺を救い出してくれた。彼女だけが俺という存在を認めてくれた。

 

 健闘虚しく文香さんは見付けられませんでしたと悔恨の表情で部屋に戻って来た。

 思い詰めなくてもいいですよと声を掛けたが彼女は首を横に振るばかり。逆プロポーズをした手前、何としてでも見付けなければと自らに至上命令を課していたのだろう、結果を出せなかったことに恥じている。

 そこまで気に病む必要ないのにと個人的には思うが課したものが大きいだけに悔やんでも悔やみ切れないのだろう。

「プロポーズの件は無視してください」文香さんは言う。「出過ぎた真似をしました。大見得を切られなければ良かったです」

「文香さんを責めていませんよ。俺の見間違いだと思います」

「気を遣わないでください。大福さんの唯一になれない自分を恥じているのに、配慮をされてしまったら恥辱を受けている気がして、余計に自分を責めてしまいます」

 何と声を掛けるべきだっただろう。

 経験の少なささが如実に出てしまった。経験が豊富なおとこだったら、気を遣う言葉を発さないのだろう。むしろ相手を思い遣れる言葉を与えてやれる。

 不甲斐ない。

 楽しい旅行のはずが一変してしまった。

 仲たがいしたわけでも些細な言い争いしたわけでもないのに、旅行最終日まで気まずい空気のなか過ごした。新幹線では終ぞひと言も口を利かなかった。

 このまま会話が無ければ別れを切り出されてしまうかもしれないと考えるだけで話し掛け難くなる。彼女も話の契機を作り出そうとしているのが見え透いていて、会話にまで到らないまま東京に着いてしまった。

 痼りが残った状態で文香さんとホームでそれぞれの家路に着いた。

 それから三ヶ月、文香さんから連絡は来ていない。俺からも出来ずにいる。


 ふらわーしすたーずに続報が出ないまま半年が経過した。


 ふわらーしすたーずが活動休止して一年半。

 松葉蓮は役者として活動をはじめた。

 宮森美也子は妊娠が発覚し、ふらわーしすたーずを脱退し、身柄を拘束。

 春風春香はコカイン所持で逮捕。余罪は計り知れない。

 隅浦珠子は海外留学。

 久哉真心はAV女優デビュー。

 そして−−

 凛々宮凛々花は殺害された。


 過激なファンによって。

 

 情況が目まぐるしく変化することについて行けなくなった。

 何時からだろう。

 五十を過ぎてからと言うもの、身体も心も自分で制御がするのが難しくなった。

 この年になって、しては行けないことに手を出すとは思わなかった。

 軽々に口に出すものではない。

 占いを心底から信用しない俺でも言霊は信じてしまうほどに怖しいものだ。

 言霊が存在するなら、山彦も存在するのだ。鳥山石燕によれば、かの現象は妖怪変化の類らしいが。

 そんなことはどうでも良い。いや、どうでも良くはないのか?

 いや、矢張りどうでも良いのだろう。

 今の俺には時間がたっぷりある。むしろ、有り過ぎるくらいだ。

 会いに来るのは別れてしまった元婚約者くらいだ。彼女だけが唯一、俺の世界に存在してくれている。可笑しな話だ。笑い話だ。

 きょうも暗い部屋で一日を過ごす。

 今は何月何日だろう。

 西暦も判らなくなってしまった。

 暗い。

 兎に角暗い。

 視界がぼやけているのは何故だろう。


 逆プロポーズを受けることにした。

 決して軽い気持ちで彼女の気持ちを受容したわけでも気まぐれでもない。自分の意志で決めたことだ。それに何時までもアイドルのお尻を追い掛けるのも可笑しな話と思うようになった。それでも凛々花が大事であるのに変わりはない。

 旅行先で凛々花らしき人と遭遇したのは妄想だった。

 あの日、彼女は……


「《速報》ふらわーしすたーず、凛々宮凛々花(18)活動休止中を良いことにおとことアミューズメントパークで複数の男性とデートしていたことが発覚‼︎

 その後、六本木の夜景が拝める高級レストランで本命と思われる男性と食事していた‼︎」


 情報の出所は大手まとめサイトで元を辿れば、某掲示板。

 噓と虚飾しかない書き込みをいったい誰が信じる。一笑に付して終わり。それがあるべきネットの姿ではないのか。凛々花を苦しめて何が楽しい。苦しんでいる様を見て、ゲラゲラと画面越しに笑っているおぞましさに震え上がる。

 矢張り俺が凛々花を守ってやらないと。俺だけが凛々花を守ってやられる。

 文香さん、御免。


 辻斬りに遭遇するかのように次々に情報がネットに流れる。


「《速報》ふらわーしすたーず、凛々宮凛々花、高校の同級生と食事したあとラブホホテルで朝まで楽しむ」

「《続報》ふらわーしすたーず、凛々宮凛々花、五日連続で高校の同級生と食事をした後、『スーベニア』望月大樹の家に向かう。ふたり仲睦まじく肩を寄せ合いながらコンビニで買い物をしていた! 自宅マンション前で濃厚なキスを交わし合う。

 ※以下のURLに詳しい記事が載っています(画像あり)」

「《悲報》ふらわーしすたーず、凛々宮凛々花さん、ヤリマンだったことが発覚!」

「《悲報》ふらわーしすたーず、凛々宮凛々花さん、無類のおとこ好きであることが判明し、ファンが発狂中‼︎ 疑惑が他のメンバーに飛び火!」

「ふらわーしすたーず 凛々宮凛々花、今度は妊娠が発覚! 活動休止中にも拘らず、運営の反対を押し切り結婚か?」


 ……デマだ。

 それらを見て最初に思ったことだった。誰も彼も好き勝手なことを言いやがる。反論出来ないのを逆手に取って、噓を吹聴し回る。悪逆の限りを尽くしている。

 いったい誰が自分の妄想を垂れ流したのか気になり、ネットサーフィンをしまくったが発端となる書き込みを見付けられなかった。というのも、それらしきものが夥しくあり、どれが糸のはじまりか手繰り寄せられなかった。

 絡みに絡みまくった糸はアリアドネの糸と化してしまった。

 はじまりを探すのを諦めた俺は終わらせることにした。

 デマをデマであることを認めさせる。もうそれしか彼女の汚名を晴らす術はない。

 妄想を正当化しているのだ。俺も以前と変わらないことをすればいいわけではないが、より信憑性のあるデマを流す。

 そのための情報収集が必要になる。

 絶滅に等しいと思うが情報を持っていそうな太客と嘗ての疑惑を掘り起こし、白黒はっきりさせる。これくらいの所業は神様も許してくれるだろう。文香さんに知られたら、婚約は破棄となるだろう。人は神様ほど寛容ではない。

 善は急げ、俺が知っている範囲になるが太客と自称情報通にダイレクトメッセージを送った。

 返事が来るかは運次第。


 マルガリータ味噌からダイレクトメッセージが来たのは、一週間後だった。

 この人はふらわーしすたーずに留まらず、色んなアイドルの情報を握っていると言われている、界隈ではちょっとした有名人だった。業界と繋がっているなどと噂されている。自称情報通のなかでは一線を画した存在と言って良いだろう。

 近々では、ラムライムのメンバー全員に彼氏がいることを書き込んだところ、公式がいち早く反応をし、認めたのちに解散発表をした。

 解散ライブではメンバーの彼氏がステージに登壇したことでも話題になった。ネット記事にもされ、華々しく散ったと揶揄されていた。

 一方で運営がマルガリータ味噌にリークし、書き込ませたのではないかと憶測の書き込みが相次いだが本人が否定した。ではどうやってその情報を手にしたの就いての言及はなされなかった。

 俺がマルガリータ味噌に目をつけたのもそこが理由だった。手品のタネを教えない徹底振り。それ即ち、口がピスタチオ並みに硬いことを意味する。裏で暗躍する人間がいてくれれば、立ち回りやすくなるし、共謀することで憶測に憶測を重ねやすくなる。リスクとリターンもそうだが、ファンを惑わせるには持って来いと思った。

 何より情報の出所を分散させるのに丁度いい。

 マルガリータ味噌と話し合いを踏まえ、捨て垢の共有と繋がりがないことの徹底を規約に盛り込み、盛大に暴れる算段を立てた。

 まずは松葉蓮の評判を落とすことを取り決めた。彼女の情報など何もないと思っていたから意外だった。どうして彼女か尋ねると実に簡単な答えが返って来た。

 何もないからこそ、説得力のある捏造の情報を出すことで本当になるとマルガリータ味噌は言った。

 飛ばし記事を擦り続ければ、ひとりくらいは真実だと思い込むようなものか。

 何が真実で何が嘘であるかを測る手立ては皆無に等しい。そこを利用する。特にアイドルファンは押し並べて自分の推しはクリーンで恋愛などしない、おとこと遊ばない、セックスしない、恋愛しないと思い込んでいる。処女信仰の集まり。

 そんな人が存在するわけがないのに。


 松葉蓮の身辺調査に一ヶ月掛けたが面白いものは何ひとつ出てこなかった。つまらない毎日を送っているらしい。俳優業に専念したいのか、ワークショップに積極的に参加している。舞台の観劇に時間を惜しまず使っては、映画館に足繁く通っている。

 真面目を絵に描いたような真面目っぷりに反吐が出そうだった。それだけストイックでないと不動のセンターでいることなど容易ではないのだろう。

 それにしてもマルガリータ味噌の情報収集能力はどうなっているのだろう。

 松葉蓮が何時に何処にいるのかドンピシャで言い当てたのもさることながら、そのあとの動向すら当たっている。スケジュールを知っていないと出来ない芸当だ。しかも子飼いがいるのに驚いた。

 普段からこうやって情報を得ているのだろうか。

 さりげなくひとりの子飼いに尋ねてみたが禁則事項なので話せないと言われた。この徹底振りよ。どっかの週刊誌も見習って欲しいものだ。

 興味本位で週刊誌に情報を渡すのか訊いてみた。

「渡しません。味噌さんに禁止されています。もし情報を与えたことが発覚したら、僕たちは即刻刑務所送りになります。罪状は適当に捏ち上げられます」と子飼いは言った。「過去に何人か金銭目的で週刊誌に売った人がいたのですが、半日もせずずに味噌さんの耳に入りました。その人は警察に逮捕され、今は服役中です」

 おぞましい話を平然とする彼にも驚くが、警察と緊密な関係を築いているマルガリータ味噌にも驚きだ。本当に彼はいったい何者なのだ?

「ネット上でしかやり取りをしないので顔はおろか性別も判りかねます。大方の予想は男性と目されていますけど、性別を誤認させるなんて容易いですからね」

 ネットだけでなくオンラインゲームでも性別を変えてプレイしているユーザーはいるわけだから、マルガリータ味噌が男性である可能性を肯定も否定も出来ない。

 仮にオフラインで会ったとしてもその人が本人であると証明することも難しい。

「そうですね。僕とつぶこしあんさんは顔を突き合わせていますけど、本名は知りませんから。本名を名乗ってはならないと規約で決まっていますから。知ろうとすること自体が御法度ですからね」と漸く苦笑いをする。感情を表に出してはならないと決められていないだけ良心的と言えなくもないが、あの人のことだから、一定の距離を保持し、馴れ合わないと規約に盛り込んでいても不思議ではない。

「ターゲット、動きました」子飼いは言う。松葉蓮が映画館から出てくる。きょうもひとりだ。映画はひとりになりやすいと同時に連れと接触しやすい場所でもある。密会相手と時間差で出てくることも可能だ。「ひとりみたいですね」

「彼女は基本的にひとり行動が多いんですね」俺はありきたりな感想を述べる。

「そうですね。面白いのは恐らくここからだと思います」

 子飼いの発言どおりの場面に遭遇した。

 映画館をあとにした彼女が向かった先は六本木のとあるラウンジだった。松葉蓮とラウンジはまったく結び付かないが、こうして彼女がいる時点で紛れも無い事実で現実。

「言うまでもなく芸能人御用達の会員制ラウンジです。芸能人以外もいますけど、割合で言えばの話です。彼女が出入りするようになったのは、グループ活動休止してからです。言いたいこと、判りますよね?」子飼いは俺の顔を見ずに話す。

「バイトか」

「正解です。噂程度で耳にしたことがあるはずです。仕事の無くなったアイドルやタレントがラウンジでバイトするなんて話を。噂でも何でもなく事実です。地下アイドルとなると給料も少ないですからね。生活して行くためにはああいう場所で齷齪働いて稼ぐしかないんです。たまに売れない俳優が働いていたりしますし、それでもダメな場合は水商売をはじめます。華やかで煌びやかな世界のように思いますが、ああいう姿を目の当たりにすると、厳しい世界でありどす黒い世界でもあることを見せつけられます」子飼いは言った。「つぶこしあんさんが推しているアイドルもああいう場所に辿り着くと思います」

 そんなわけないだろうと反論したかったが不動のセンターを張っていた松葉蓮の現在の姿を目撃して、反論は虚しく現実逃避に等しいことに気付き諦めた。

「宮森美也子と春風春香のふたりは別のラウンジで遊び呆けています。摘発するのであればふたりが簡単ですが、松葉蓮の裏側を暴くほうが先決というのは頷けます」

「不動のセンターの現在を暴くにはこれ以上ないからか」

「そういうことです。おふたりの素行の悪さは周知の事実ですから、いまさらふたりを暴いたところでダメージは与えられない。何なら後回しにしても構わないと踏んだのでしょう」

「松葉蓮のもうひとつの顔ですが」子飼いが何か言い掛けたところで口を噤んだ。「味噌さんに連絡して来ます。あのラウンジを摘発してもらいます」

 そう言って子飼いは携帯を取り出し、会話が聞き取れないように離れる。いったいどうしたと言うんだ。別段、怪しい部分は無かったように思うが……

 子飼いは終わりましたと言って戻って来た。

「きょうじゅうにあのラウンジ内で行われていた悪事が明るみに出ると思います」

「教えてはくれないのか?」

「そうですね。知らないほうが貴方のためです」子飼いは言った。

 その日は警察がラウンジを訪れたところで切り上げた。

 翌日に報道されると思いますと子飼いは言っていたが、どのニュース番組でも報道されなかった。マルガリータ味噌にラウンジの一件を訊いたが教えられないの一点張りで聞き出すことは終ぞ叶わなかった。

 その代わりなのか判らないがマルガリータ味噌は松葉蓮がパパ活を常習的に行なっていたこととメンバーに周旋していたことを教えてくれた。

 すかさず俺は捨て垢に投稿し、複数のアカウントで拡散させると絶滅したはずのファンが続々と反応を示し、広めてくれた。効果は絶大だったと言える。

 松葉蓮の所業は瞬く間にファン以外に視覚情報として伝播した。

 前回は無風に終わったが今回は最大瞬間風速を観測した。確実な証拠を添付することで信憑性が格段に跳ね上がる。捏造をすることなくただただ真実を載せる。それだけで人は飛びつく。

 ゴシップに興味がないと言いつつも人は人の“やらかし”を遠くから眺めるのが好きで堪らない。

 愉悦を感じてしまうのは仕様がない。

 凛々花を貶めた人間が今度は松葉蓮を標的にする。

 何て気持ちいいんだ! 絶頂もんだ! ちんこを握らずとも射精してしまいそうだ。セックスなど必要ないくらいに俺は快感で武者震いを抑えられない。

 さて、次は誰を陥れてやろう。


 松葉蓮の炎上は止まるところを知らない。嗾けたのは俺だが、マルガリータ味噌の提供があってこそなので、素直に喜べないが、人が炎上する様をリアルタイムで観察出来るのは楽しくて堪らない。この調子でどんどん凛々花を小馬鹿にして来た連中に本物の地獄を見せてやる。

 マルガリータ味噌の次の通達は久哉真心が不穏な動きをしているとのことで、早速仕事終わりに所定の場所に向かった。

 前回一緒だった子飼いではなく、別の子飼いが待っていた。

「はじめまして。聞いていると思いますが、久哉真心に怪しい動きがありましたのでご同行願いました」子飼いは言った。

「怪しい動きというのは」正直、真心にスキャンダルめいた事情があるとは思えないのだが、マルガリータ味噌が言うのだから確実なのだろう。

「オーディションを受けているようなのです」それの何処に懸念すべきポイントがあるのか俺は不思議でならなかった。彼女は松葉蓮に異様なまでに敵愾心を燃やしていた覚えがある。松葉蓮からセンターの座を奪うと豪語していた。しかしファンからはビッグマウスが非道いと誹謗中傷が相次いでいた。実力に見合わないのにセンターはちゃんちゃらオカシイと言う輩までいたくらいだ。

 勝ち気な性格が災いしアンチの怒りを買う羽目になったのは間違いない。

 松葉蓮が俳優になると目標を口にした日から負けたくない彼女もまた役者になると言いはじめた。そこまで対抗意識を燃やさなくてもと傍から見ていてヒヤヒヤした。

「オーディションに怪しい怪しくないとかあるんですか? 枕営業的な?」

「ドラマ・映画のではありません。味噌さんから聞いていると思っていたんですが、そのご様子ですと聞いていないんですね」子飼いは言った。

「不穏な動きをしていることしか聞いていないです」俺は言った。

「簡潔に言いますと、AVプロダクション所属のオーディションです」子飼いは言った。

「女優は女優でもそっちのですか」これは不穏と言わざるを得ない。「あれだけ啖呵を切っておきながら、おとこの楽園の一員になろうとしてるんですか」

「嬉しそうですね」子飼いは口角を上げる。「かく言うわたしも嬉しいですが。ネットで水着の写真があったので、あのプロポーションを生かさないのは勿体無いです」

 前回の子飼いより私情を挟むタイプらしい。

 俺の視線が気に障ったのか、子飼いはすぐさま、なんでもありませんと取り繕う。

「このまま見張りですか?」

「そうなります。我々は関与を許されていませんから」子飼いはバッグから双眼鏡を取り出した。使うか問われたがふたりで見張るのはちがうような気がしたので断った。先日の子飼いは凡て自分で執り行っていた。

「信憑性薄い情報ですけど、彼女、番組プロデューサーと寝ていた話がありまして、少しだけ調べてみたのですが概ね正確な情報でした」

「真心がですか?」

「はい。そのかたしかいらっしゃいませんよ」まあそうなのだが。このおとこ、風呂に入っていないのか、元々の体臭なのか判らないが臭う。何日張り込みをしているんだ。「彼女が運営に相談したところ、差し向けられたそうです」

「運営主導だと?」俺は訊いた。事務所がタレントにという下衆な話は小耳に挟んだことがあるが、眉唾だと思っていたのだがそうではないようだ。芸能界は特殊も特殊な世界であるのを思い知らされる。

「松葉蓮を追い越すためにはヨゴレも厭わないということでしょう。春を鬻いだわけですから」

「あんた何を言っているのか解ってるのか」

「ええ、解って発言していますよ。体を売るとはそういうことでしょう? ライバルに負けたくない。そのためであるなら、自分の体を仕事にする。懸命ではないですか。賢明とは言えないですが」子飼いは言った。「オーディションもたくさん受けたようですよ。ですがどれも箸にも棒にも掛からなかったそうですが」

 真心も彼女なりに頑張っていた。結果に結び付かなかっただけで。他のメンバーも似たような境遇にあったのかもしれない。圧倒的存在がグループにいて、煌めきに打ち勝とうと足掻いて藻掻き苦しんで自分の居場所を獲得しようとしていた。

 松葉蓮がいてこそのグループだったふらわーしすたーずはひとりのスキャンダルによって、空中分解した。メンバーの恨みは松葉蓮から諸悪の根源の凛々花に向けられたのではないだろうかとふとそんなことを思った。

「ドラマの世界がダメでも舞台があるじゃないですか」俺は言う。舞台だってキャリアを積むことは出来る。決して華やかと言えないが演技をするに重点を置けば、舞台で演技力に磨きを掛け、映像の世界へ羽撃くプランだってあった。

「舞台は苦手だったのでしょうね」子飼いは見解を述べる。「舞台は観客の前で稽古で培ったものを披露する場です。言うなればミスが許されない過酷な現場です。重圧すら感じるでしょう。その重圧に耐えうるだけのメンタルを彼女は持ち合わせていなかったのではないですか? ライヴ映像を味噌さん経由で拝見させてもらいましたが、彼女、ライヴとなると萎縮する傾向にありますね。勝ち気な性格をしておられる割に本番に弱い。それでは舞台の世界で生きることは難しいでしょうな」

 事務所内で何が行われているのか俺は判らない。それでもAVの世界に足を踏み入れなくても良かったではないか。松葉蓮に敵わずとも別の生きかた、キャリアの重ねかたがあったろうに。何が彼女をあそこまで突き動かしているのだろう。

 俺にはまったく判らない。理解しようにも理解しがたい現実が目まぐるしい速度で進行している。

 アイドルの裏側はこうまで惨いものなのか。

 見張りをはじめて二時間。真心が事務所から出て来た。玄関先で誰かと談笑している。プロダクションの社長か? 名刺交換までする始末。良い返事が聞けたのか。真心が笑っている姿など、ステージ上でも数えるほどしかない。

「動きますよ。我々の仕事はここからが本番です」子飼いは双眼鏡を鞄に仕舞う。

 真心はタクシーを拾う。何処に行くのだろう。案山子みたいに立ち竦んでいると胸を叩かれ、突っ立ってんなと咎められた。

 黒いステーションワゴンが何処からともなく現れる。運転席には先日の子飼いが乗っていた。横の繋がりはあるらしい。

 後部座席に腰を据えると車はタクシーを追い掛けた。

「行き先は判っているんですか」頭の悪い質問申し訳ないと思いながら尋ねる。

「いいえ。味噌さんから情報はもらっていません」子飼いは言った。

「ではただ尾行するだけですか?」

「そんなところです。味噌さんでも知らないことはあります」

「情報の断片を繋ぎ合わせて、パズルを作り上げるのも我々の仕事ですから」どっちが話しているのか後部座席からでは見分けられない。双子かと勘繰ってしまうほどに声が似ている。「出来上がったパズルをどう使うかはつぶこしあんさん、貴方次第」

「…………」

「それにしても彼女は何処に向かっているんだろうな」

「さあ。追い掛ければ判るんじゃないですか」

「そりゃそうだろうが」

「面接はどうだったんだろうな」

「上手く行ったようだよ」ハンドルを握っている子飼いはそう言った。

「潜入していたのか」つい口を挟んでしまった。

「盗聴していたんです」

「犯罪じゃあ」

「僕らのしていることは犯罪に近しいですから。芸能人の裏側を暴く週刊誌だって、犯罪行為と変わりありませんよ。マスコミという免罪符だけで動いているのでえすから。一般人にしろ、報道機関であれ、遜色ありませんよ」子飼いは言った。

「暴くという観点から見れば俺らのしていることは最低最悪の行為だ。そのことを承知の上であんたは噛んでいるんだろ? 大事な大事な推しの名誉を守るために」

 動機は何であれ、変わらねえよと助手席に深く座っている子飼いは言った。

 そう言われてしまえば反論は虚しいだけ。

「タクシー止まりましたよ」スピードを緩める。タクシーから降りた真心は道なりに歩いて行く。

 この先にあるのは……

「ラブホ街に向かうようですね」運転席にいる子飼いは言った。

「わたしらも行きますか」助手席に座っていた子飼いが肩をぐるんぐるん回す。カチ込みに行く前のヤクザじゃないんだから。カタギの仕事をしている風貌ではないが。腰にチャカを仕込んでいても不自然さはない。

 車を降り、カタギに会釈する。ヤクザは行きますよと胡散臭い笑みをうかべる。本当に反社の人間にしか見えなくなって来た。歌舞伎町に入り浸っていそうだ。

 適度な距離を維持しながら尾行する様は張り込み中の警察を彷彿とさせる。俺らのしていることは正規なものではないから、本職に見咎められたら一発で手錠を掛けられる。

 ストーカーと断定されてしまうのがオチだ。

 真心の足取りは軽く、ラブホ街を自分の家の庭みたいに歩く。あまりに軽やか過ぎて行き慣れているのだろうと推察される。

 一件目のラブホの前に若いおとこが立っていた。俺はそのおとこに見憶えがあった。思い出しくない記憶が強制的に再生される。

「あの、」俺はヤクザに話し掛ける。

「どうした。しょんべんか」ヤクザはニヤついた顔で俺を見る。

「そうではありません。金髪のおとこ、俺、知ってるんです」

「は? どういうことだ。説明しろっ」

 説明しろと言われた以上、忌まわしい記憶を話さなくてはならなくなった。黙っていれば良かったものの、縮み上がり震え上がっている俺を見れば、勘繰られる。そうなる前に機先を制して開示するほうが傷口は浅い。

 ヤクザは黙って俺の話に耳を傾けてくれた。

「……なる程。そんなことがあったんですか」ヤクザは電信柱に隠れ、鞄から双眼鏡を取り出す。「あー、確かに金髪に柄物が入ってるな」

「間違いないと思います」

「そんな人がどうしてアイドルと……」ヤクザは少考する。「つぶこしあんさんの時はハニトラな具合でしたけど」

「売春斡旋ですかね?」俺は舌に乗せて発音したくない単語を口にする。

「可能性を否定することは出来ませんな」ヤクザは言う。「つぶこしあんさん、貴方の推測、残念ながら当たっているようですぜ」

 心臓の鼓動が速くなった。金髪のおとこが誰かと電話しているととおりの向こう側から、その年齢で高身長を維持しているロマンスグレーの還暦間近のスーツ姿のおとこが手を上げて現れた。

 金髪野郎は会釈し、真心を紹介する。

 真心とおとこはハグをする。アイドルファンが見ていい光景ではない。発狂ものだ。刑事事件に発展しかねない。それほどまでに刺激が強い。

 真心はおとこと腕を組んでラブホテルのなかに消えて行った。

 地獄の門の入り口に過ぎなかった。踵を返す瞬間は何時でもあったのに俺はそのまま進み続けた。凛々花の名誉回復のためと自分に言い聞かせて。

 ラブホ街を見張り続けること五時間。その間に真心はラブホを十ヶ所、出入りした。金髪の全身タトゥーのアテンドによって。

 推しではないのに涙が止まらなかった。アイドルの裏側を見たくなかった。見ざるを得ない矛盾に耐えながら俺は週刊誌の記者の如く、決定的証拠となる写真を撮影した。

 ヤクザは見張りをしながらシコっていた。荒い息遣いの最中に喘ぎ声が混ざり、居心地が悪かった。辺り一面は白い液体塗れで視線を逸らしていた。

 見張りを終え、疲れ果てた身体で自宅に帰る。ベッドに飛び込みたかったがマルガリータ味噌に報告しなければならないので手短に見たものを伝えた。

 返信はすぐにあった。

 マルガリータ味噌の素性が段々気になってくる。性別くらいは訊いても問題はなかろうと思って、それとなく訊いてみたのだが、叱責を受けた。依頼と関係のない話以外は受け付けていない。仲良くなったつもりかもしれないが、親切心で君の手伝いをしているだけに過ぎない。もし次、素性を知ろうとするような質問をすれば即刻、警察に差し出すと忠告を受けてしまった。

 そこまで言われたらもう何も聞けない。

 子飼いたちもマルガリータ味噌のパーソナリティを知らないので訊くに訊けない。

 仮に信頼されようと密な関係を築くことは難しい気がする。

 真心に関する投稿をするように言われたが睡魔に勝てず、寝落ちしてしまった。

 早朝、捨て垢に久哉真心がAVプロダクションの面接を受けた後にラブホ街に足を踏み入れ、ひと晩で十五人のおとこと関係を持ったことを写真付きで投稿した。

 グループ内でも信頼が厚かった真心のスキャンダルはファンの脳を焼き切るまでは行かないもののダメージを与えたことは言うまでもない。りとるふらわーが死滅したとは言え、応援していた事実は変わらない。

 真心が裏で春を鬻いでいたのはショッキングであったろう。その光景を遠くから眺めていた俺ですら心臓を絞られているような感覚を覚えたくらいだ。文章と写真付きと言い逃れが出来ない証拠が出揃っている。否定のしようがない。

 真心は沈黙を貫いたまま。公式のアカウントからの反応もない。

 松葉蓮に続き、久哉真心とふらわーしすたーずの裏側を暴く謎のアカウントに誹謗中傷が寄せられるようになった。


 マルガリータ味噌に次に与えられたミッションは、隅浦珠子の海外留学を阻止することだった。

 これまでと毛色がちがうことに戸惑った。

 海外留学を阻止するってなんだ?

 裏側を暴くだけではないのか。マルガリータ味噌の最推しが珠子で、日本を離れてしまう情報をキャッチした。私情に思えるがどうなのだろうか。

 でも待てよ……

 いや、そんなはずはない。

 味噌から送られて来た住所に赴くよう指示を受ける。子飼いの介入はないと味噌は言っていた。カタギとヤクザは関わりがないのか。少し寂しく感じるがひとりでの指図なので、素直に従うとしよう。

 送られて来た住所は個人経営のカフェだった。昼時だからお客がいると思っていたが、人っこひとりいなかった。繁盛していないお店に珠子は通い詰めているのか。

 マスターらしき人物が好きなところに座りなと言うのでカウンターにした。

 注文を聞かれたのでコーヒーとマスターオススメのフレンチトーストを頼んだ。

 コーヒーとフレンチトーストが出されたと同時に誰かが店内に入店して来た。マスターが遅かったねと棒読みで言う。


 入り口に視線を向けるとそこに立っていたのは、凛々宮凛々花だった。


「こしつぶあんさんですか?」

「ふらわーしすたーずの凛々宮凛々花さん、ですか?」

 発した言葉はちがえど、ほぼ同時に俺と凛々花は口を開いた。

「あ、すいません、被ってしまって」

 謝ると凛々花は照れたように顔を背けながら、自分こそと言った。

「俺の前で話すのもあれだろ、席、変えな」マスターの助言どおりに窓際の席に移動する。凛々花は何も頼まなかった。俺だけ軽食を摂るのは気が引けたので、飲み物だけでもどうかと勧めたのだが頑として、気にしないでくださいと断れた。

 強制は良くないが自分だけというのも落ち着かない。

「……お話なのですが」沈黙に耐えられなかった凛々花は自ら切り出す。

「あ、はい」窓硝子に映る自分を恥ずかしく思った。五十を過ぎて猫背は情けなく見えてしまう。いずれ文香さんと籍を入れるのにこのままで良いはずがない。背筋くらい伸ばせと窓硝子のなかの俺に叱咤される。

「マルガリータ味噌というかたからも聞き及んでいると思いますが、私から改めてご説明させてもらえないでしょうか」凛々花は言った。彼女の口からマルガリータ味噌の名前が出てくると思わず、咽せてしまった。しっかし、間近で見る推しは一際神々しく映る。天使はきっと彼女みたく奇麗なのだろうと関係ない想像をしてしまった。シングルCDを積まずとも対面で会えてしまうとはいったいどんなスペシャルイベントだ。板池さんや正月崎さんにこのことを話したら羨ましがるだろうか。

「お願いします」

「グループでいちばん仲の良かった、珠ちゃんが海外留学するんです。視野を広げたい、日本以外の国を知りたいと言って。殊勝な心掛けだと思います。聡明な人です。今以上に経験を積みたいと考えての選択だと思います。でも、今じゃなくても良い気がするんです」凛々花は真っ直ぐに俺の眼を見て言う。

「今じゃなくても良い、と言うのは?」

「彼女が居なくなると私の居場所が失くなってしまうからです」

「要するにグループが活動再開するからですか?」

「そう受け取って戴いて差し支えありません」

「なる程。ですが、最近ネット上でメンバーのスキャンダルが囁かれていますけど、そんな情況で再開するのはリスクが大きいように思います」自分で言っていて白々しいにもほどがある。どの口が言っていると。元凶はお前だろうと。

「そこなんですよね」凛々花は同意する。「スタッフさんは今、事実確認に東奔西走しています。事務所の社長は怒り狂っていました」

 そりゃそうだろうな。活動再開することを妨害されていると思われても仕方がない。マルガリータ味噌はその情報を摑んでいた? 再開を阻止しようと企てていたところに俺が現れた。またとない機会が到来したのだ。使わない手はない。

 この推測に何処まで真実が隠されているか見当がつかない−−真実など隠されていないかもしれない−−が、マルガリータ味噌は少なくともふらわーしすたーずの復活を歓迎していないのは間違いない。そうなると正体は事務所のスタッフはないだろうか。グループを近くで見ているマネージャー。

 そうなると今回の珠子の件は腑に落ちない。

「グループの活動再開を良しと思っていない人がいるのではないですか」

「そんな人いないと思いたいです」思いますと言わない辺り、思い当たる人が存在するのかもしれない。「ですが、私の、その、スキャンダル記事が出てからというものグループへの風向きが変わったのは確かです。ファンのかたからも心無い言葉をたくさん掛けられました」

 あの騒動は眼を覆いたくなるほどに非道いものだった。あれから半年。俺の環境もそうだが、メンバーの環境も目まぐるしく変わった。真逆、グループの活動が止まるなど誰も思っていなかっただろう。

「こんなことを聞く場面でないのは百も承知しているのですが、その……」推しが目の前に存在しているのだ。訊かずにいられなかった。

「事実ではありませんと言ったとしても納得してもらえるとは思っていません。ではあの報道は正しかったのかと問われれば、そうですね」凛々花は言葉を切る。「あの報道は概ね正しい。そうです、私はこう見えて尻軽なんですよ。そのあとに掲示板に書かれた情報も寸分たがわず正しい情報です。本当にびっくりしますよね。彼処まで正確無比に真実を書き込まなくてもいいのにとスクロールしながら笑ってしまいました」

 二の句が継げなかった。なんと言えばいいか、判らなかった。

 報道に真実味は無く、まったくの虚偽報道でしたと言ってくれるとばかり思っていた。凛々宮凛々花は軽率な行動に出ないと。ファン想いで誰よりもファンを大事にしてくれるスーパーアイドルだと。けれど真実はちがった。

 俺が彼女に抱いていたものは幻想に過ぎなかった。

 彼女は俺だけでなく応援してくれるファンを裏切っていた。

 そんなのあってはならないことだろう。ファンがあってこそのアイドルじゃないか。俺たちの思いを踏み躙った彼女を俺は許さない。赦してたまるものか。

 愛は憎へと変わる。

 些細なことで。

 あまりに無慈悲で救いがない。

 救われたと思っていたのは勘違いだった。

 完全に騙された。詐欺に悖る行為だ。

 勝手に期待して、勝手に幻滅して、勝手に失望する。

 アイドルヲタクはあまりに身勝手で救われない存在であることにこの時になって漸く俺は気付いたのだった。


 凛々花の依頼−−そう呼んでいいか不明瞭−−を受けなかった。

 マルガリータ味噌に辞退すると告げた。彼(若しくは彼女)は了解した、次まで待機してくれ、恐らくラストになるだろうと返信が来た。

 最後。大詰めまで来ているのか。後回ししたふたりの闇を暴くことで何が表面化すると言うのだろう。ふらわーしすたーずの良心は隅浦珠子だけと発覚した。それ以外のメンバーは好き放題していた。松葉蓮は活動休止までアイドルをまっとうしていたから例外か。

 軽はずみな行動に出る者は往々にして清楚さを演出したがることが判明した。それは一般人でもそうだ。マッチングアプリで出会ったあの娘も清楚な見た目をしていた。しかし実態は外見を伴っていなかった。春風遥香、宮森美也子のふたりもそうだ。このふたりは突き抜けた清楚感を漂わせていた。あれも演出だったのだろう。アイドルでいるには“清楚”のふた文字は必須条件だからだ。

 清楚でないとファンに振り向いてもらえないし、認識すらされない。外見と中身が合致しないアイドルが誕生する。最初からその“絡繰り”に気付いているものアイドルを応援しなければ特定のメンバーを推したりなどしない。

 哀れで愚かなおとこが縋り、異性と触れ合うのがアイドルという虚像。

 女性経験の有無で篩に掛けられる。

 分水嶺はそこだ。

 騙されたと感じた俺は怒りに打ち震えていた。

 マルガリータ味噌から連絡が来るのが待ち遠しかった。


 隅浦珠子を失った凛々宮は失意の日々を送っていると思いきや、開き直ったようにおとこを取っ替え引っ替えして毎日遊び呆けていた。

 ヤクザを無理矢理連れ回して、マルガリータ味噌に怒られるかと思っていたのだが、注意されなかった。黙認しているのかヤクザが報告していないだけなのか。そこまでは判然としなかったが、カタギであれば即座に密告されていただろうから、ヤクザを選択した。

 来る日も来る日も凛々宮はおとこと日課みたいにデートに明け暮れていた。年齢を加味すればそんなものと言われてしまえばそれまでだが、それにしても毎日ちがうおとことデートは尻軽過ぎる。尻軽と自己紹介していたが本当だったことにショックが隠せない。

 あの様子だとおとこ遊びしたくてアイドルになったと懐疑的な眼で見られても仕方ない。ラブホに通い詰めているくらいに性欲がありあまっているのも解せない。性欲解放と標榜しているみたいだ。生々しさに俺のちんこが反応する。手に負えない。

 犯したい衝動に駆られたが性犯罪は犯したくない。それだけはしてはならない。トラウマだろうと自分に言い聞かせる。

 マルガリータ味噌から連絡が来たのは凛々宮をストーカーしはじめて十日後だった。


 愈々、春風遥香と宮森美也子のご両人を摘発する日が訪れた。

 最後の審判。

 この日が来るのを心底から楽しみだった。

 マルガリータ味噌から下されたミッションは数分で済むものだった。写真と文章が送信されて来た。以前までのように足で調査するものでは無かった。家で完了する簡単な代物だった。拍子抜けしたが、マルガリータ味噌がふたり後回しで構わないと言っていたのを思い出した。

 摘発するというのはつまりふたりのそれまでの悪行を暴露するものと同時にアイドル史史上最大級の爆弾を落とすものであったことを送られて来た写真と文章に眼をとおして思った。

 こんな爆弾が投下されれば、グループ活動は出来なくなってしまう。それほどまでに迫力があり、衝撃を与える。

 コピペで済むので一分も消費せずに成し遂げた。捨て垢ひとつでは信憑性に欠けるかと思ったが、条文にひとつのアカウントで行うことと記載されていたので敢えなく断念。

 複数のアカウントで拡散作業に入る。

 春風遥香、コカイン所持及び使用が判明。毎晩、会員制バーや都内のクラブ、暴力団彼氏の家で覚醒剤、コカインなどの薬物を使用。仲の良い宮森美也子にも勧めていた。さらに薬物汚染はグループに留まらず、他のグループにまで波及していた。

 証拠の動画、画像は下記URL参照。

 宮森美也子、妊娠が判明。グループを脱退する方向。宮森の素行の悪さはかねてよりメンバー、スタッフ、ファンから問題視されていたが、グループ活動休止に託けておとこ遊びは激化。過去に妊娠疑惑、中絶疑惑が噂されていたが、どうやら噂は本当のようだった。宮森は重度のセックス依存症でコンドーム使用を拒否するほどに生ですることを好み、必ず中出しさせる。未成年喫煙の疑いもあったが、この話を事実で春風とドラッグを使用していた可能性が浮上した。ドラッグ使用に関しては疑惑に過ぎない。今般の妊娠は通算で三回目。二度の中絶の果てに三度目の妊娠を果たした彼女は出産を決意。グループは脱退する方向で話し合いが行われている。

 証拠の画像は下記URL参照。

 そのような内容の書き込みは風を切るように色々な人の視界に入った。

 これまで不祥事を起こし続けたアイドルが未だ嘗て存在しただろうか。

 俺は知らない。

 今となっては未成年喫煙でグループを辞め、芸能界から干された元アイドルの言動が可愛く思えた。


 マルガリータ味噌に与えられたミッションを凡て遂行した。

 そのご褒美ではないのだろうが、マルガリータ味噌と会う機会を得た。

 あれだけ素性を聞くなと言っていた本人からの申し出に俺は驚いた。当然、申し出を受けた。黒幕と呼んでも良い人間が下界に降臨すると言うのだ。受けないわけがない。送られて来た住所に来て欲しいと言われた。その住所を目の当たりした瞬間、俺のマルガリータ味噌に対する評価は一変した。

 何せその住所は布迫文香のものだったからだ。


 東京駅のホームで別れて以来会っていない彼女にこんな形で再会すると露ほども思っていなかった。

 タワーマンション、四十二階の一室に招かれた俺はさらに驚くべき光景を瞳に焼き付けることとなった。

 彼女が住処としている部屋に凛々宮凛々花が監禁されていたのだから−−


 日付が変わろうとしているのに陽射しを目一杯浴びているような眩しさを醸していた。散文的な言いかたは良そう。

 ひと言で言おう。

 宝石のように奇麗な文香さんが一糸纏わぬ姿の凛々宮凛々花を愛ていた。

「久し振り、大福さん」艶しかない声で文香さんは歓迎した。

「文香さん、奇麗だよ」慎ましいことしか言えない自分に苛立つ。建前でもなんでもない。紛れもなく本心だった。奇麗過ぎて、推しが視界に入らなかった。思い出したのか、勃起する。本能が彼女を希求している。敏感になっているのを現認した文香さんは赤いドレスを脱いだ。そして口付けをする。

 興奮が臨界点をお互いに突破し、生まれたままの姿で愛し合った。たくさんの種子が彼女のなかへ入って行く。興奮は増幅して一方。どれだけセックスをしただろう。凛々宮凛々花は黙って、男女がまぐわう様を凝視していた。

 果てて、フローリングに倒れ込む。肩で息をするふたり。互いの性器を触り合い、また果てる。辺りはびしょびしょに濡れている。体液という体液が一万円札に見える。この数時間は大金を手にした気分だった。宝くじ売り場の列に並ばずとも、年末ジャンボ一等を当てた感じがした。

 呼吸出来る段階まで戻って来た。

 仲良く手を繋いでシャワーを浴びに行った。

 シャワー室でもまぐわった。これでもかと言うくらいに。シャワー室を出ると着替えが置かれていた。誰が用意したか疑問に思っていると家政婦さんと文香さんは言った。身の回りを手伝ってくれる人いたかなと尋ねると最近雇用したのと教えてくれた。まあこれだけ広い部屋に住んでいるんだ、お金は持っている。

 リビングに戻ると熱い時間がリセットされていたことが悲しかった。

 テーブルにたくさんの美味しそうな料理が均等に置かれていた。

「食事にしましょう。訊きたいことあるでしょうから」文香さんは言った。

 そこで俺は訪問した理由を思い出した。

「最初の質問だけど、文香さんがマルガリータ味噌さんでいいの」

「そうよ。嘘偽りなく私がマルガリータ味噌。貴方を裏で操っていた張本人」

 いざ、正体を明かされると案外、驚かないものらしい。ミステリで犯人が判るのとわけがちがうようだ。黒幕が判明したのだからもう少しリアクションすれば良いのにと思うが、その前にネタバラシされているし、ファーストリアクションの時のようには行かない。

「動機は尋ねていいのかい?」俺は監禁−−軟禁されている元推しを盗み見る。

「知りたいでしょうから、話してあげる。実にシンプルなものよ。貴方を手放したくなかったから、貴方が大好きなふらわーしすたーずもとい凛々花の化けの皮を剥がせば、私だけを見てくれると考えた」

「それだけの理由? ふらわーしすたーずが憎いとか」

「無いよ。大福さんだって知っているでしょ? 凛々宮凛々花推しを」

 知っている。

 文香さんとの出会いが推しが一緒だったからだ。

「推しに嫉妬した」

「一理あります。推しがいる生活に満たされていたのに何時しか推しが憎くなった。愛憎は些細なことで逆転する。リバースのようにね」文香さんは言った。「自分のものにならないであれば、自分のものにしてしまえばいいと私はあの時に思いついた」

 あの時……?

「旅行に行った時」

「正解」ワインをひと口喉に流し込む。真っ赤なワインが彼女の喉仏を揺らす。「大福さん、彼女らしき人物と遭遇したと言っていたでしょ」

「他人の空似だった」

「そうではないとしたら貴方はどう解釈しますか?」

「本人だったと?」

「そのとおりです。あの日、彼女は彼氏−−ではないのよね? 複数の男性と旅行に来ていた。報道された相手ではなく、まったく別の人たちと」文香さんは唇を舐める。「肝が据わっていると思いました。だってそうでしょう。彼女、堂々とセックスをしていたんですよ」

 凛々花は何か言いたそうにしているが口を封じられているので反論が許されない。

「これを上手いこと利用すれば、大福さんを我がものに出来るとアイデアが思いうかびました」文香さんは楽しそうに話す。「大福さんが出会ったあのふたりね」

 止めてくれ。

 俺を追い込むようなことをしないでくれ。

「彼女と旅行に来ていたうちのふたりでした。他のかたにも協力してもらいました。大福さんは顔を合わせる機会がないままきょうを迎えましたけどね」

「そうまでして俺を手にしたいと思ったんですか」

「信じてもらえていないようなので、もう少しお話しをしましょう」文香さんはフィンガースナップをする。リビングにひとりのおとこが這入って来た。

 絶句した。

 金髪に全身にタトゥーが施されていた。

 厭な記憶が否応なく喚起される。

「よう、久し振りだな、おっさん」おとこは俺を視界に入れるなり気さくに挨拶をしてくる。過去の出来事など無かったみたいに。「文香に呼ばれて来たんだが、あんたもいたのか」

 情況を読み込めない俺はだらしなく口を開けることしか出来なかった。

「彼をご存知ですね?」文香さんは訊く。

「忘れるはずがない。俺を虚仮にした。尊厳を奪い去り、とことんまで辱めた」

「そうです。あの彼です」文香さんは言う。「彼は優秀な案内人として重宝しています。彼のコネクションは多岐に亘るものですから、実に役に立ちました。マルガリータ味噌を都合良く操るのに」

「……え? どういうことですか」

「俺が仲介人とアテンドの役割を担い、文香にふらわーしすたーずの情報提供していた。マルガリータ味噌を装い、本物を裏で文香自身が操っていた。そういうことだ」

 おとこはリビングを散歩しながら説明する。軟禁されている凛々花の近くに寄る。

「それも俺のためと言うのか?」

「凡てあんたのためだ。いったいこいつの何処がいいのか俺はさっぱり判らねえが、文香はお前に心底から惚れてる。そんなあんたが夢中になっている小癪なアイドルとグループが気に食わなかった。だから壊すことにしたんだよ」おとこはしゃがみ、凛々花の真っ白な頬を触る。「アイドルは裏切る生き物だ。ファンを虜にするためなら平気で噓を吐く。そしてその噓をも利用する。それがこいつらの商売であり性分だ。大抵の奴は噓に気付いて、そっと離れるものだが、一定層はそうじゃない。応援しているアイドルは噓は吐かない、おとこ遊びなんかしないと言い張る」おとこは真っ白な頬の舌で味見する。抵抗出来ないのをいいことに横暴を働く。文香さんは彼の行動を咎めない。むしろ容認している。「そんなわけあるか! アイドルほど裏でおとこで遊んでいる人種はいねえんだぞ! なあ! いい加減、夢から覚めたらどうだ? こいつも例外じゃねえんだぞ。況してやこいつは学校に碌に行きもしねえで遊び呆けてるような糞野郎と来たもんだ。ヒエラルキーが低いことを利用して、メンバーに斡旋してたくらいだ。売春、枕、ギャラ飲み。凛々宮凛々花はあたりまえのように行なっていた。それでも赦せるのか? あんたらを弄び、ステージの上では一端のアイドルとして踊って歌い、客を惑わせる。その裏では稼いだお金で遊ぶ。大したもんだよ! 俺も色々な奴らを見て来たがなここまで世の中を舐め腐ってるアイドルを目の当たりにしたぜ」

 おとこは凛々花の頬を引っ張る。呻き声を上げる、凛々花。いったい彼女が何をしたって言うんだ。

 そんなの簡単じゃないか。俺らを裏切った。女性に蔑まされる。相手にされない俺たちを心の奥底では笑って見下していた。

 アイドルはファンを笑顔にさせる素晴らしいお仕事です。

 嘗て、凛々花はMCでそう言っていた。汗がライトに照らされたステージの上で。その言葉に感銘を受けた。アイドルはなんて素晴らしいんだと。虜になった。夢中になった。ふらわーしすたーずの凛々宮凛々花に凡てを捧げるつもりであった。蓋を開けてみたら、裸にされ、オナニーを強要されたみじめな頃とまったく変わりがない。

 尊厳はあの時から奪われたままだったのだ。

 みじめで情けない中年童貞野郎に過ぎない。

 俺という人間は一切成長していなかったんだ。

 虚無だ。これは虚無。大きく空いた穴。埋めようもない穴。

 気が付けば俺は銀色に輝く先端が尖ったカトラリを手にしていた。文香さんは止めようとしない。おとこは俺の起こす行動に頷いた。凛々花は怯えた表情で先端を見る。先端恐怖症かなと一瞬考えたけれど、そうではない。これから訪れる未来に畏怖しているだけだった。こんな結末を迎える選択をしたのは他ならぬ彼女自身だ。


 ……俺は何も悪く無い。


 理性を失った俺は身動き取れない凛々花を気が済むまで痛めつけた。痛いの声が聞こえたような気がしたけれど、口を塞がれている彼女に声を発するなど出来ない。

 出来ようはずがない。

 両目を刳り貫き、両耳を切断した。歌おうなどと二度と思わないように声帯を取り除いてあげた。なんて優しいんだ、俺は。自分に惚れ惚れする。踊れないようにしよう。小さい銀食器では願望は叶わない。キッチンに行けばよりよい得物が手に入るだろうと立ちあがろうとするのをおとこが止めた。おとこの手には斧があった。何処から取って来たのだろう。どうでもいい。

 心のなかでスリーカウントする。

 文香さんの姿が見えた。彼女は心行くままに食事を楽しんでいる。

 四肢を切断するのに時間は大して掛からなかった。

 凛々宮凛々花だったもの。もう原型を留めないほどに解体されている。

 おとこが拍手した。俺を称賛してくれた。褒め称えてくれた。気持ち良かった。

 気分が昂揚した状態で食べるご飯は頗る美味しかった。もう二度と味わえないだろう。そんな予感がした。

 おとこは肉塊を黒いビニール袋に放り込んだ。

「片付けて来る。あとはふたり仲良くな」そう言っておとこはリビングを出ていった。「あ、子ども作れよな。少子化がひでえからな」

 名残惜しそうな顔をしておとこは品性の欠けた言葉を言い残して去った。

「終わったわね」文香さんがグラスに入った残り少ないワインを飲み干した。

「そうだね」俺は言った。「マルガリータ味噌を操っていたと言っていたけど、本物のマルガリータ味噌は誰なの?」

「凛々花ちゃんよ」

 ……は?

 意味が判らなかった。てっきり別の人間とばかり思っていた。

「凛々花なの?」

「ええ。間違いない。本人がそう言ったから」文香さんはナプキンで汚れた口を拭く。「凛々花ちゃんの言い分によれば、グループ活動したかったけれどメンバーは反対していた。特に春とみゃーは猛反対だったと言っていた。れんれんは活動出来ればきちんと活動する。本心は役者の道に進みたい。真心も同意見だった。珠子は活動するのは問題ないけれど、一年後に脱退して海外へ行きたいと希望したそうよ」

 ……は?

「凛々花はグループ活動を切望していた?」

 ちょっと待ってくれ。

 その話は噓だと言ってくれ。

「ええ、彼女はね。でも他のメンバーは乗り気では無かった。解散する話すら出ていたと彼女は発言していた。アイドルでいる時間は長くない、今の時間をみんなで共有したいと願っていたけれど、他のメンバーは自分さえ良ければいい。温度差を痛感した彼女は途端にアイドルでいる自分を恥じるようになった。私と大福さんが見掛けたあの日、彼女は彼と会っていた」

「あの金髪は彼だったの?」あいつは神出鬼没だ。深く関わり過ぎではないだろうか。「相談していた?」

「それもあるけど、熱愛記事をリークした人間を探って欲しいと懇願した」

「あの報道はメンバーの誰かによる情報提供だったと?」

「記事が出るのは事前に知らされるようだしね。報道は真実。だからこそ彼女は犯人を突き止めることを選んだ。自分だって似たようなことをしているのに私だけ悪者にされる。凛々花ちゃんは赦せなかったのね」文香さんはワインを注いだ。飲むと聞かれたので御相伴に預かることにした。今は飲んでいないとやってられない。

「それであの人に相談した。凛々花は何故彼を知っていたんですか?」

「判らない。誰かの紹介かもしれないし、自分で見付けたのかもしれない」

「文香さんは何処で彼と知り合ったんですか?」安易に尋ねなければ良かったと思った。「自棄に親しかったですけど」

「あー、マッチングアプリで近寄って来る男性を辱めるのを手伝ってもらっていたのよ」文香さんは乾いた笑い声をあげた。「言っちゃ行けないの忘れてた」

 救いなど最初から無かった。

 運命の人だと思っていたのに。

「騙していたんですか」俺は言った。「最初から俺を騙していたんですか」

 自分の発言の危険さに漸く気が付いたらしい文香さんは口をゆっくりと閉じた。

「騙していたつもりはないです」

「俺が彼に何をされていたか知っていての発言ですか?」

「……そうね。あの時の私は最低だった。許してもらおうとは思っていません。それでも貴方への気持ちはと言っても意味は無いわね」文香さんは言葉を紡ぐことを諦めた。どれだけ思いを吐露しようと無駄であることに気付いた。揺らいだ信用が再び得られるはずはない。容易いものではないのを彼女は知っている。

「凛々花を陥れたのは俺が欲しかったからも噓ですか?」今となっては凡てが欺瞞に映る。体のいいことを言って、俺を弄ぼうとしていたのではないかと。金髪おとこが軽薄にリビングに這入って来た時に勘付くべきだった。俺も悪い。

 と、言うことは、俺は、推しを殺したのか?

 文香さんの策略に嵌り、おとこの計略にまんまと躍らされた……?

「噓ではないです。心の底から貴方を愛していました。だからプロポーズをしたんです。婚約を確約すれば貴方はアイドルに現を抜かしたりしないと思ったから。でも貴方は私より彼女を選んだ」

「そりゃあ、彼女も大事ですが、推しだって同等に大事です。天秤を掛けろと言うこと自体可笑しい。文香さんだって、彼女を応援していたじゃないですか」

「そうすれば貴方は私を好きになってくれると思ったからです。反省したんです。卑劣な行いを貴方にしてしまったことを深く反省しました。もし許されるのであれば、貴方を愛する許可が欲しいと思いました。貴方が好きなものを好きになれば、近寄れる。そうなれば貴方は私を同様に見てくれると」

「別段、凛々花が好きではなかったんですか」視界がぼやける。

「好きでしたよ。ライトに照らされた彼女は誰よりも輝いていました。スーパーアイドルだと思いました。でもそれ以上に大切なのは大福さん、貴方でした」

「凛々花を貶め、グループを貶めたのは俺が冷めるように仕向けるためだと」

 もしそうなら、文香さんの企みどおりだ。

 俺はアイドルの裏側を目撃して失望した。どれだけ推しに愛情を注ごうと彼女たちに届かないことを知ってしまった。意味のある行為と思って、今までしていたのは間違いで愚かだった。愛などありはしないのだと。

 私利私欲に塗れた彼女たちには。

「言ってしまうとそうです。言い逃れは出来ません」文香さんは言った。「先刻も言ったように、彼女自身、グループの崩壊を望んでいました」

 言っていた。誰よりもグループ活動を熱望していたと。しかしメンバーはグループよりも自分の未来を案じていた。地下アイドルの売れないアイドルでいるより、メジャーに進出して、自分が思うがまま、あるがままに活動したいと。

 歩みは最後まで揃うことがないままに彼女たちのアイドル人生は幕を引く羽目になった。

「旅行の日に凛々花から話を聞いて手伝う決意をしたんですか」

「はい。協力することで貴方を自分のものに出来ると踏んだのもあります」

「珠子に関してはちがいました。本気で引き留めようとしていた」

「グループでいちばん話していたのが珠子さんでした。凛々花は彼女だけは失うわけには行かなかったのです。だから第三者に説得してもらおうと考えた」

「俺は拒否した」

「大福さんが説得してくれればグループは期間限定でも存続したかもしれない」

「俺に責任の一端があると?」

「そうとは言っていないです。珠子さんを引き止めるのは容易ではないと凛々花ちゃんは言っていました。一パーセントの可能性に賭けて、負けたんです」文香さんは言った。「野心が強い、松葉蓮と久哉真心。遊びたい、春風遥香と宮森美也子。凛々花ちゃんは四人をどん底に突き落とす算段を立てました。グループが空中分解している今を狙って。内情を明るみに出せば引き返すことは無理と承知の上で」

 マルガリータ味噌は誕生したのか。

 ひょんなことから俺はマルガリータ味噌の出すミッションに協力していた。図らずも利害は一致していた。

「軟禁していた理由を聞かせてもらっていいですか」

「彼女の提案です」文香さんは言った。「自分がマルガリータ味噌ではないことを証明するにはこの方法しかないと凛々花ちゃんは言いました。提案に乗った私も同罪です」

「結局、リークしたのは誰だったんですか?」

「珠子さんを除いた四人です」

 非道い話だった。

 四人は凛々花を嫌っていた。四人の悪事を暴露することは復讐も兼ねていたのだろう。自分を追い込んだ四人への当て付け。そのこと知らない彼女たちはただ裏の顔を暴かれた。

「話を聴いて、大福さんはどうされますか。婚約破棄は承知ですが、貴方の口から聴かせてもらえますか」

「俺は……」


 自首することを選んだ。

 おとこに焚き付けられたとは言え、推しを殺そうと考えていたことは否定出来ない。愛情は憎悪の裏返しだ。愛憎劇を演じたんだ。けじめは自分で取る。

 俺のしたことは犯罪だ。

 ひとりの命を無惨に奪ったのだ。呑気に生きるなど許されない。

 カトリックではないが、神は許してくれない。

 俺個人の思想は無神論者だ。神など存在しない。

 凛々花の死は大々的に取り上げられた。ニュースは如何様にも操作出来るようだ。俺の意向が色濃く反映されていた。

 凛々花は過激なファンに殺害されたと報じられた。盲信者であった小豆原大福は凛々宮凛々花にガチ恋をしており、本気で付き合えると思い込んでいた。しかし、熱愛報道が出るや彼は狂ったように、脅迫文や誹謗中傷するような書き込みをネットにするようになった。終いにはストーカーをはじめた。そして正義を振り翳してメンバーの暴露までしはじめた。

 苛烈になっていく様子がテレビで流れたと面会に訪れた文香さんが教えてくれた。

自分で望んだことと雖も流石にやりすぎたかもしれない。

 報道を目の当たりにした視聴者は凛々花に同情したことだろう。そして俺を非難したにちがいない。悪逆の限りを尽くしたおとこが非難されないはずがない。うら若き少女の命を奪ったおとことして俺は名前を刻まれてしまった。

 親に悪いことしてしまった。謝れるだろうか。判らない。

 板池さん、正月崎さん、園馬さんが肩身狭い思いをしていなければ良いが、アイドルヲタクが最低の人種であることが世間の眼に映ってしまったことは猛省する必要がある。

 みんながみんな、俺みたいな奴ではないと声高に言いたいが俺が言ったところで説得力は皆無。 

 今回の事件でより彼らは白眼視されることになるだろう。

 凛々花を悲劇のヒロイン、スーパーアイドルとして奇麗な思い出とするにはそれしか思いつかなかった。

 俺にとって彼女は最初から最後までスーパーアイドルだ。


 彼女の墓標にはスーパーアイドル、凛々宮凛々花と刻まれているらしい。

 何時か墓参りが出来るといい。

 その日まで俺は生きられるかどうかは運次第。

 きっと大丈夫だろう。

 大丈夫と思って、きょうも暗い部屋で過ごす。

 視界がぼやける。

  

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MiNE 蟻村観月 @nikka-two-floor

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