第一章 恋愛至上主義へのささやかな反逆③
深夜、日付が変わりしばらくしたころ。
ひんやりとした空気の中、夜を
「おかえりなさいませ、
「あぁ……戻れたのはひと月ぶりか? 変わりはないか」
レオンが
「
「クリスティーヌがどうした?」
「お疲れのご様子です」
「──ははっ、まぁそうだろうな。慣れないうちも大変だが、慣れてからはさらに大変だ」
「お食事は」
「簡単に済ませた」
二人は本邸をそのまま通り
「
「この時間に彼女を起こせと? 楽しんで仕事しているのだろう?
「無駄……でしょうか」
アルバートの言葉に、屋敷の主人は答えることはない。
毎日寝落ちするほど疲れながらも、朝になると元気に仕事に行く若く美しい公爵夫人を、屋敷中が
この銀髪の当主は小さいころから何をするにも
それが結婚前後から、ふと何かを思い出し楽しそうに微笑んだり、張り合いのある生活を送っているかのように
生き急ぐかのように……ただひたすらに
それはまだきっと愛と呼べるようなものではないのだろうけれど、屋敷の者たちは──それだけのことがたまらなく
元より主人は結婚すらしないかもしれないと思っていたのだから、フォロー体制はすでに確立している。
そんな公爵夫妻がもっと親密になってくれれば、と思わないわけがないが……何か考えがあるのだろうと、アルバートは今日もまた言葉を飲み込むのだった──。
● ● ●
「本日は入浴中に寝ておられました」
「相変わらずだな」
くすりと小さく笑えば、ターニャが目を細めた。
公爵邸には月に一回
交流を持つ機会がまったくないが、こればかりは
ベージュカラーで統一された部屋はラベンダーの
「──ただいま、クリスティーヌ」
すると寝ているはずの彼女は、ニヘラッと笑いレオンの
クリスティーヌは
「おやすみ」
目を細め微笑む銀髪の男には仕事中の
● ● ●
半年後。つまり文官として勤め始めて一年半。
財政省九課から異動の辞令をもらい、財政省の花形、一課へ。
「主任。この案件ですが、二か月前に運輸省四課が始めたこちらの企画と合同で協力するのはどうでしょうか。立地も良く、予算も折半できますし」
「……なるほど。運輸省の案件までよく
運輸省四課の
どうやら、今まで省をまたいでの交流や合同での企画はあまりなく、お
速読と
進言をし始めた最初こそ「
もちろん他省との仕事となるので、
「やっぱりミュラーがいると会議がスムーズに進むな」
「後ろで主任や課長が
うまい具合に適材適所といったところだろうか。
実際自分一人だと
一課の中でも私は各案件の主要メンバーというよりは、多種多様な案件を広く浅く
一課に異動して、しばらくしたころ。
とある民間業者たちとの打ち合わせの際に、彼らが話していた言葉が気になった。
「この資材はもともと
「それ、うちの商会もです。コマニ
「パトリック宰相が新しく結んでくれた取引先とは円滑に進むのですが、昔から付き合っていたところが特に……なんですよねぇ」
ここ最近の新規の取引先を除き、以前の取引量と現在の取引量を比べた資料をもらったところ……この二十~三十年近くで
私が入省してまだ二年。国全体の貿易額が多少減少しているのは聞いていたが、各商会の実際の貿易減少率とどうも合っていない気がしてならず、首をひねる。
「取引量を削減された理由はなんと言っていましたか?」
「うちはもともと隣国ファルマの五つの商会と父の代から四十年にわたりやり取りをしていましたが、削減は一気にという形ではなく……なんというか、徐々にといった感じで。削減理由も言葉を
「うちの商会は……そうですねぇ。きっかけといえばコマニ帝国に送っていたうちの従業員が、先方の
苦笑する中年の商会長は
この日はそのままお帰りいただいたが、疑問は残った。この二つの商会だけが取引量が
そうでなければ、貿易省から公表されている数字と合わなくなってしまうのだが……貿易省の細かな資料は閲覧権限を必要とし、私にはその権限がなく資料を見ることができない。
下がった貿易額について財政省の
そもそも我がスラン王国の財政省は基本的に国内のみを
レオン様は確かに新しい販路をいくつか
さらに公表されている貿易額の書類も毎年必ず回収され、年ごとの推移や合計などは算出されることがないという
──財政省一課に
「ミュラー……きみ……辞令が出てます……」
「え……私、一年前に来たばかりですよ?」
「えっ!? ミュラー、一課から異動!? 降格なわけないだろうし……てことは別の省に?」
「それは
うんうん、と
省を
「で、ミュラーはどこに異動ですか? どこにしても出世
「いえ、どこかはまだ……先輩、私はどこに異動ですか?」
通知の回覧に目を向けたままの先輩に声をかけると、なぜか彼はどんどん青ざめ、ゆっくりとこちらを
「……補佐室」
「え? どこの補佐室ですか?」
「……宰相」
「──え?」
「宰相補佐室に、異動です……っ!」
珍しく大きな声をあげた先輩の声で、辺りはしんと静まり返った。
それは先輩の大きな声が珍しかったのではなく、行き先が『墓場』と名高い『宰相補佐室』だからに他ならない。
『宰相補佐室』
文官の『墓場』と呼ばれるそこは、
各省から送られてくる宰相案件書類を
深夜残業当たり前。
精度も
そこには生ける
──まぁそれよりも、その宰相は私の夫なんですけど……。形式上は。
本来なら気まずいはずだが、多分レオン様は私の顔ももう忘れているのではないだろうか。彼は私が
──せっかくもらった精鋭軍団への異動。
『墓場』とは呼ばれるが、仕事ぶりを認めてもらえたことの証明には違いないし、私はむしろ
ここはありがたくお受けすべきだろう!
(
──なんて、意気込んでいた時期が私にもありました……。
「ミュラー! それあと三十分で仕上げて!」
「はいぃっ!!」
「ミュラー。それ終わったらこっちの集計、全部確認してくれる?」
「はい! いつまでですか!?」
「そっちの仕事終わってから一時間後までに」
「は……はいっ」
パチパチと高速で計算機が鳴る音と書類をめくる音、ガリガリと書き込むペンの音が部屋に
宰相補佐室に勤務し始めてから、早二か月。
『手が止まった時点で死ぬと思え』
『回ってきた書類は大体間違っていると思って宰相に回す前にチェックをしろ。間違ったまま宰相に
『すべての想定パターンを考えろ。答えられないとヤられるぞ』
宰相補佐室に異動したその日に、
──ちっとも
その死はどうやら夫である宰相閣下からもたらされるらしいが、とりあえず私はこの二か月、職場でまだ宰相閣下に会ったことはない。今は仕事内容が補佐官の補佐のため、直接書類を届けることがないからだ。
食事の時間すらなかなか取れない。先輩補佐官たちは合間を見つけながらなんとか食べたり食べなかったりしているらしい。あまりに時間がなく食べていなかったら一か月で激ヤセしてしまったため、
──生きるために、貴族としてのマナーは捨てた。
それを見た周りの補佐官たちも「なるほど」と思ったようで、昼と夜は片手で食べながら仕事をするという風景が補佐室の定番となりつつあった。
これほどの
文官たちに、爵位や身分差はまったく
仕事ができるかできないか。ただそれだけ。
これは、現在の
私がどこの家の者かなんて聞かれたこともない。もちろん、私が公爵夫人だなんてことは誰も知らないし、ついでに自分でも自覚はほぼない。
社交の場に出ない公爵夫人など本来なら非難の対象だが、『宰相閣下の
──毎日朝から晩まで外に出ていますが。公爵家には、
とにかく文官とは、誰がどこの家門だろうと爵位の高い人だろうと、生ける屍になるときはなるし、
ぐったりだ。
そんな激務の生活が続いているが、このペースにも慣れてきたのか、自分も同じ屍の一員になったのか。
──
契約婚した相手が鬼宰相でしたが、この度宰相室専任補佐官に任命された地味文官(変装中)は私です。 月白セブン/角川ビーンズ文庫 @beans
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