ほこらさま

ぱのすけ

ほこらさま

 

 それはまだ、戦後間もない頃の話。


 A県A市にある漁師町には、「ほこらさま」と呼ばれる古ぼけた祠があった。曰くも由来もよく分からない。ただ海岸沿いにある小さな離れ小島にポツンとそれはあったという。


 「ほこらさま」の離れ小島は年に一度、大きく潮が引いて浜と地続きになる。

 毎年、その時期になると付近での漁が禁じられ、地元の町では「ほこらさま」をもてなす祭りが行われるのが常だった。


◇◆◇


 美代はぴしゃりと自分の頬を張ると、風呂敷包みを抱え直して網元の屋敷の門をくぐった。

 

 先月15になったばかり。産毛が光る少女の前に広がったのは、べろんべろんに出来上がった下帯姿の男達が敷地のあちらこちらで酒を酌み交わしている光景だった。


 酒臭さに鼻を摘まんで2、3歩後退りする。

 男達の狂乱に年頃らしい戸惑いと恐怖を感じて思わず足が竦む。帰りたい、と弱音が出る心を叱咤して美代は一歩踏み出した。

 

 「ほこらさま」の祭りの間、町の顔役でもある網元の家に住み込みのお手伝いを町内から持ち回りで出す事になっている。少女とはいえ美代とて地区の代表。我儘は許されない。やっとの思いで奥へと進むと、開けっ放しの玄関の向こうへと大声で訪いを告げた。


「美代さんだね。よういらっせたな」

「よろしくお願いします」


 恰幅の良い、見るからに親切そうな女性に促されて三和土を上がる。屋敷の中は強い香の匂いに満ちていた。

 家の匂いが全く違う。

 それがいっそう、勝手の知らない場所に来たのだという緊張感を強めた。

 

 年嵩の女性に着いてそのまま屋敷を奥へと進んでいくと、「ここを使っておくれ」と6畳程の真四角の小部屋へと案内される。


「布団は後で持ってくるから、とりあえず荷物はここに。元は茶室だったから手狭で申し訳ないんだけど」

「いえ、その、……却って申し訳ないです」


 小さく整えられた床の間の脇にはしっかりとした造りの組違い棚があり、すっきりと整えられた畳敷きの室内はほんのりと品がある。足元に備え付けられた低い障子窓に一瞬だけ首をひねるが、元が茶室だと言われれば納得も出来る。


「あの真ん中の板敷きの下は、もしかして炉が切ってあるんですか?」

「今はもう抜いちまってがらんどうさね。さて、私もそろそろお勝手に戻らんとね。朝からもうてんてこ舞いで」

「あの……私にも何かお手伝いさせてください」

「でも美代さんは……。 んー、でもお願いしようかね」

「はい」

「いやぁ、助かるよ。猫どころかネズミの手でも借りたいぐらいだからね」

 目をクルリと回してひょうきんに肩を竦めた女性に、少しだけ気持ちが、ほぐれて美代はようやく笑顔になった。


◇◆◇


「なんとか一山越えたね。みんなお疲れ様」


 目まぐるしさの中であっという間に時間が過ぎ、女衆がそれぞれに腰や肩をのばす。

 これは確かに大変だと、洗い終わった皿を拭きつつそれを眺めていた美代はふと、一膳だけぽつんと、まだ運ばれないままのお膳が残っている事に気がついた。


「まだお膳が……」

「あれは『ほこらさま』の分だね。美代さん、すまないがあれを持って、ちょいと着いてきてもらえるかい?」

「え、あ、はい」


 最初に美代を案内してくれた女性は昌子というらしく、屋敷のお手伝い頭のような位置付けらしい。美代は手にしていた食器を台の上に重ねると、お膳を抱えて昌子の後を追った。


「ごめんね。美代さんには『ほこらさま』のお世話で来てもらったのに、他の事まですっかり手伝わせちゃって」

「お世話、ですか?」

「お世話といっても一日一回、こうしてお膳を運ぶだけなんだけどね。古くからのしきたりで、家の者が運ぶのは禁じられてるもんだから、こうして毎年、美代さんのように他所から誰かに来てもわらなきゃならなくてね」


「ほこらさま」と言えば、離れ小島にある古ぼけた祠の事だというのは美代も知っている。七日を通じて続く祭りの初日は、その祠から網元の家へと神輿を運び込む事から始まるのだ。


 男衆の酒盛りの声を遠くに、昌子は屋敷の奥へと向かって進んでいく。途中、男衆が運び込んだ神輿の横を通る時に、美代はそっと神輿から顔を背けた。昔から美代は、この神輿が好きではなかった。


 神輿と言えば普通、組んだ担ぎ棒の上には小さなお堂が乗っかっているものだが、この町の神輿はお堂の替わりに注連縄で括った大きな桶を担ぐ。それがまるで棺桶を担いでいるかのように思えて、不気味で仕方ない。


 神輿の置かれた部屋を過ぎると、そこで昌子がはたと足を止めた。


「ごめんね、私はここまで。その先が座敷牢になってて、そこにお膳を置いてくるだけでいいから」

「座敷牢、ですか?」

「心配しなくても中にはなんもはいっちゃいないさね。ただ、形の上では『ほこらさま』をお迎えしてる事になってるからね。お膳を据える所は、行けばすぐに分かるだろうから安心おし」

「は、はい。分かりました」


 美代は姿勢を正してお膳を抱え直すと、昌子に言われた通りに廊下を先へと進んだ。屋敷の中には他にも大勢の大人達がいるにも関わらず、その周囲だけはぱったりと人気もなく、どこか湿り気を含んだ重い空気の中に、強い香の匂いだけが立ち込めている。


 進んだ先で襖を開けた美代は、そこでつと足を止めた。


「もしかしてこれが、……座敷牢?」


 仄暗い中に板張りの床が続いており、その先の真っさらな壁に申し訳程度に小窓が付いている。

 座敷牢というからには格子状に組まれた檻があるものとばかり思っていた美代は、かすかに小首を傾げる。だがすぐに、目の前の壁がそうなのだと気付いた。


「あの壁の向こうが……。ちょっと変わってるけど……中が見えないのはありがたいかも」


 天井が低く、それが却って壁を威圧的にも見せている。美代はその壁の前で膝を揃えると、造り付けられている小窓をそっと開いた。


 途端、中から漂う深く沈んだ濃い潮の臭いに、思わず顔を背けて口元を覆い隠した。

 生臭さに鼻が歪む。長居をしたいと思える場所ではない。美代はどうにかお膳を小窓の奥に置くと、昌子のところへと足早に戻った。


◇◆◇


「美代さんは来年にはもう卒業かい?」

「はい。卒業したら、兄の缶詰工場を手伝う事になってます」


 屋敷に来て2日目。

 一日一回お膳を運ぶだけでは何かと手持ち無沙汰になるからと、美代は昌子について家事を手伝う事にした。そうすると決めてしまえば、逆にやる事は山のようにある。


「美代さんはしっかり者だね。偉いもんじゃないか」


 洗濯板でしごいた肌着を昌子がぱんっとはたく。洗い皺を伸ばしながら重ねた衣服を物干しにかける美代に、昌子が「そういえば」と声をかける。


「今日は公民館で映画がかかる日じゃなかったかいね。えと、『青い山脈』だったか。行きたければ行ってもいいんだよ」

「いえ……あの。去年見たから……」

「そうかい! 私も見たけどさ、女優さんつうのは綺麗なもんだねぇ。ホラ、あの原節子だったか」


 いいねぇ、あんな美貌に生まれてみたいもんだよ、と昌子はカラリと笑う。


「あん位の美女に生まれたんなら、人魚の肉を食らう価値もあるってもんだね!」

「人魚……ですか?」


 唐突な単語に戸惑いが隠せない。昌子は、うふ、と少女みたいに笑うと、いやさねぇと言葉を継ぐ。


「昔ね、ここの先代から聞かされた事があってね。この家の何代か前だかに、人魚の肉を食べた男がいたっていう話でね」

「この家って、網元の?」

「そうそう。ほらぁ、人魚の肉は不老不死の力があるっていうだろう? 嘘か本当か、肉を食べたその人は今でもどこかで生き続けてるって話」

「へぇ……」

「まぁ、そんな話があるような、ないようなってね。さ、あらかた済んだし、私らもお昼にしようかね」

「はい」


 ◇◆◇


 一日を忙しく過ごし、再び座敷牢へとお膳を運んできた美代は、よしっと気合を入れて襖を開く。一日一度の、「ほこらさま」への上げ膳。


 美代が上げたお膳は網元が直々に下げると聞いている。言葉通り、美代は一日に一度お膳を上げるだけだ。


 息をとめ、中からの強烈な臭いを覚悟して小窓を開ける。不意をつかれた初日とは違い、生臭いと分かっていればなんとか耐えられない事もない。

 昨日中に置いたお膳がなくなっていたので、同じ場所に再びお膳を据える。


 きっと網元もこの臭いに耐えながらお膳を下げたのだろう。

 そう思うと、普段は雲の上の存在であっても少しだけ親近感が湧いてくる。気軽になった心のままに、美代はそっと呟いた。


「『ほこらさま』美味しい美味しいご飯ですよ。たぁんとお召し上がりくださいませ」


 そうして小窓を閉めようとして、美代は途中で手を止めた。小窓の奥の真っ暗闇の中で何かが反応した、そんな気配がしたからだ。


「……気の所為、だよね」


 昌子は中には何もいないと言った。このお膳も形だけのもので、単なる備え膳なのだと。


 改めて中の様子を伺おうとするも、奥は真っ暗で何も見えず、先程一瞬感じた気配も、すでにしんと静まり返っている。

 その不気味な程の静けさが今度は逆に怖くなり、美代はそっと小窓を閉めると、急いでその場を後にした。


◇◆◇


 その日の夜、美代は物音の気配にふと目を覚ました。暗がりの中ですっと身を起こす。屋敷の中にはまだ人がいて、時折遠くの方からかすかにどっとした笑い声が届く。


 けれども美代のいる部屋の周りはしんと静まり返っており、誰かが通ったような様子もない。家鳴りか何かかと眠たい目をこすり、再び布団に入り直すと、やっぱりどこかから物音が伝わってきた。


 ずざ、ずざざ、ずざ、ずざざ


 それはまるで、何か重いものを引きずるような音だった。

 美代は布団にくるまったまま、用心深く部屋の中、畳の縁、襖の向こうの廊下の様子を伺う。外からの明かりがもれる暗がりの中であっても、周りで何かが動いているような様子もない。


 ふと思い立ち、四つん這いになって布団に耳をつける。それはどうやら床下から聞こえてきていた。


「嫌だな。……気味が悪い」


 布団の下。床板1枚隔てたすぐ足元から、何か湿ったものが地面を引きずるような音が、かすかに伝わってくる。


 古い家屋の床下にはヌシがいるという。それは蛇かヒキガエルか。

 一度、自分の家の床下から漬物石程のヒキガエルが出てきた経験のある美代はその事を思い出し、嫌な気分に背筋を震わせた。


 幸い、網元の屋敷は美代の家と違ってとにかく広い。放って置けばその内にどこかへと離れていってくれるだろう。

 美代は頭から布団をかぶり、無理やり眠りについた。


 だが次の日の夜も、美代はその物音を聞いた。


 ◇◆◇


 夜になり、布団の中でうずくまる。

 音の正体は分からないまま、4日目となった。

 得体の知れない何かが床板1枚下を這いずり回っている。そう考えてしまえばしまう程に目が冴えてしまい、眠りにつく事が出来ないでいる。


 そしてまた、その物音が聞こえてくる。


 ずざ、ずざざ、ずざ、ずざざ……。


 変に意識してしまった所為か、その夜は特にはっきりと近く、大きく聞こえるような気がした。目を固く閉じ、深く潜った布団の中で強張った身体を縮めて膝を抱え込む。


 どれだけ不気味でも、床下1枚下の事だ。何も気づかない振りをして眠ってしまえば朝になる。そう思ってやりすごそうとしていると、ふとその物音が止んだ。


「……音が、止まった?」


 しんっと、不思議な程に辺が静まり返り、夜の帳が粛々と落ちる。それきりぱたりと止んだ音に、ふっと緊張が解けて枕へと深く沈み込む。

 

 その時だった。

 枕越しのすぐ真下から、か細い、息の掠れたようなかすかな声が聞こえてきた。


「…………み、…………ョ」


 思わず跳ね起き、這々の体で壁際に身をぶつけるようにへばりつく。

 それは確かに美代の名前を呼んだ。

 床板1枚隔てた枕の真下から囁きかけてきた。その事実に身の毛がよだち、美代は自らの身体をぎゅうと抱きしめる。


 結局美代は辺りが明るくなるまでずっと、部屋の隅で膝を抱えたまま蹲っていた。


◇◆◇


 五日目。床下の物音の事、昨夜の事を昌子に言い出せないまま、与えられたお役目をこなす。


「あと、2日。……それまでは」


 美代はカタカタと震える両手を押さえつけながらお膳を据えると、ばたっと勢いよく小窓を閉め、その場から急いで立ち去った。


 昌子ならきっと、親身になって相談に乗ってくれるだろう。だが小さな町だ、顔役の網元の家で変に騒ぎ立てたと他に知られれば、この町で缶詰め工場を営む兄に迷惑がかかるかもしれない。


 あと2日我慢すれば、それで終わる。


 その日の夜。美代は布団に横になる事が出来なかった。

 壁際で布団にくるまり膝を小さく抱え込む。うつらうつらとしながらも、ズキリとした目の奥の痛みにこめかみを押さえた。


 ここの所、満足に寝れていない為か身体がダルい。呆っとしたままの頭で飾り棚を見上げる。

 日中でもふと気を許すと、耳に残るあの声にまた名を呼ばれてしまいそうで、お腹は空いてるいるのに食事も満足に喉を通らない。


「あと2日も、……このまま?」


 見上げた視線の先が、飾り棚に置かれた手燭で止まる。美代はごくりと喉を鳴らすと、恐る恐るその手燭に手を伸ばした。


 気の迷い。

 何かの聞き間違い。


 ただの思い込みで、勝手に怖がっているだけかもしれない。よくある話だ。美代自身も、周りからそういった体験談は頻繁に耳にする。


 すがりつくような思いで手燭に火を灯す。小さく揺れる暖かな灯火が室内をほんのりと照らすと、それだけで自身の行動の背中を押されたような気がした。


 もうじき、あの物音が聞こえてくる時間帯に近づく。空腹と頭痛、そしてどうしよもない程の不安と酷い眠気が、普段よりも美代を行動的にさせた。


 布団をずらし、部屋の真ん中にある板張りに手をかける。嵌め込んであっただけの板は難なく外れ、その下にはがらんどうの木箱がひっかけられていた。釘打ちでもされていたらどうしようもなかったが、多少の力を込めて傾けるだけで外す事が出来るようだった。


 箱を外すと、酷く不快な磯臭さがして思わず顔を背ける。深い海の底に降り積もったものが腐って固まったかのような臭いだった。その下には、床下の湿った土が広がっている。


 美代は袖口で鼻を押さえながらそっと中を手燭で照らして覗き込む。畳敷きの部屋の真ん中に切ってある穴は20cm四方の正方形で、上から覗き込んだだけでは、ほぼその真下程度しか見る事が出来ない。


 穴は小さく、どちらかといえば小柄な方の美代であっても通り抜ける事は出来ないだろう。

 ならばと美代は手燭を掲げたまま、穴の中へと逆さまになって頭をつっこんでみる。

 自由に動ける程の余裕は無いが、それでどうにかある程度は床下を見渡せるようになった。


 暗がりの奥に手燭をかざす。


 静まり返った床下は剥き出しの湿った土が続くのみ。ゆっくりと慎重に辺りを見渡しても、そこに変わったものは特に見当たらなかった。その事にほっと安堵しつつ、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻す。


「こんな夜中に、……何やってんだろ、私」


 どこか冷静さを欠いていた。こんな夜中に他所様の家の床板を外して頭を突っ込むなど、普段なら考えもしないだろう。狭い穴に無理やり入り込んだ所為で体勢も苦しい。


 何だか馬鹿らしくなって戻ろうとした、その時だった。


 ずざ、ずざざ、ずざ、ずざざ……。


 例の物音が聞こえ、咄嗟に手燭をそちらへと向ける。それは確かにはっきりと、美代の方へと近づいてきているように思えた。


 頼りない明かりが届く、暗闇の向う側。その奥には他とは違い、何だかぼんやりとした白いものがあるように思えた。地面と床下の狭い隙間いっぱいに挟まるようにして、もぞもぞと動いてるようにも見える。


 だが、手燭の明かりだけではよく分からない。更に目を凝らして観察しようとした所で、それが限界だった。


「……くっ、……はぁ」


 痛さと苦しさでそれ以上その体勢を維持する事が出来ず、穴から頭を抜いて床の上へと一度戻る。

 暗がりの奥に見つけた物音の正体。あれは一体何だったのか。それは今も足元から聞こえている。


「もう一回、今度こそちゃんと……っ」

 

 美代は再び手燭を手にした。ぎゅっと唇を噛み締め、穴の中へともう一度頭を突っ込もうとして視線を向ける。


 奥からこちらを見上げる顔があった。


 白くぬっぺりとした顔だった。

 瞼の無い両眼が真ん丸に見開き、濁った瞳孔には薄い膜のようなものがあるようにも見える。耳も鼻もなく、そこにはただ穴のようなものがあるだけ。


 開きかけた口の中は真っ黒で、そこから続く喉元には何やら鱗のようなものがびっしりと生えているようかに見えた。


 「……み……よ……」


 ぽかんと空いた口から漂う猛烈な磯臭さが鼻先を突く。

 喉の奥がつまったかのように息が止まり、一瞬の間を置いて全身に粟立つ嫌悪感が悲鳴となって突き抜ける。


「……いっ、いゃあぁあああぁあああぁあっあああっ!」


 弾けたようにその場から飛び退き、後ろ手についた手をすべらせて倒れ込む。畳の目をがむしゃらに掻き毟って身体を引き摺り、美代は無我夢中で壁際に全身を押し付けた。


「美代さん!? どうしやしたっ!?」


 バタバタと慌ただしい足音がして、いくつもの明かりと共に大勢の人達が部屋へと駆け込んでくる。真っ先に飛び込んで来た昌子が片隅で蹲る美代の肩に手をかけると、美代はその手にしがみつくようにして飛びついた。


「何があった!?」

「この穴は何だ? 床下? 誰かいるのか!?」

「おい誰かっ! 裏に回って床下を確かめろっ!」


 男衆が三々五々に怒鳴り声を上げ、部屋の穴の奥や床下を明かりで照らして覗き込む。一気に騒がしくなった部屋の中で美代は、ガチガチと噛み合わない口元を必死に押さえ続けていた。


 あれは一体何だ。

 あんなものが毎晩のように床下を這いずり回っていたのか。あまつさえあれは、美代の名を呼んだ。


 何故、どうしてと、恐ろしさと疑問とが交互に入り乱れる。


「……昌子、美代が落ち着いたら私の所へ。話がある」


 周りの慌ただしさとは裏腹に、妙に落ち着いた声にそっと見上げると、そこに厳しい顔をした網元がいた。


◇◆◇


 しばらくして美代が網元の部屋へと行くと、網元はそっと、お金の入った封筒を美代に差し出した。


「今夜はここで寝て、朝になったら家に戻りなさい」

「……あの、このお金は?」

「心ばかりだが、何かの足しになさい。悪いようにはしない」

「ですが……」


 祭りの間のお屋敷の手伝いでお給金が貰えるとは聞いてはいない。

 ならばこれは、一体何のお金だろうと。受け取りをしぶる美代に、網元は無言のまま深く頷いて見せた。


 その仕草に美代は、網元の意図を理解する。

――口外するな。そういう事なのだ。


「一つだけ、……聞いてもいいですか」


 美代は封筒を手に取ると、目を伏せて黙ったままの網元に問いかける。


「外から手伝いを呼ぶのは、……あれに覚えられてしまうから、ですか?」


 網元はその問いかけには答えず、ただ一言、「すまなかったな」と独り言のように呟いた。


 ◇◆◇


 朝になり、美代は昌子に心配されながらも屋敷を後にした。海沿いの小高い丘の上にある網元の屋敷からは、ぐるりと海岸線に出るように、なだらかな道が続いてる。


 祭りの最終日である明日、あの不気味なお神輿はこの道を通って、「ほこらさま」を離れ小島へと帰すのだ。海風が運ぶ潮の臭いに、わずかな悪寒が走る。


 人魚の肉を口にすれば不老不死を得られるのだという。昔話の一説が頭に浮かぶ。昌子も同じように言っていた。


 けれどもし、それが実際にあったのだとしたら。

 実際に人魚の肉を口にした人がいたのだとしたら。


 ――その人はその後も、『人』のままでいられるのだろうか。


 遠く、海岸線の向うに見える離れ小島。一年に一度、陸と繋がる島への道は、明日を過ぎれば再び海の底へと消えていく。

 美代は手にした風呂敷包みを深く抱え直し、家への道を急いだ。


 かすかに見える「ほこらさま」を見ないように、顔を背けながら。

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ほこらさま ぱのすけ @panosuke

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