第四章 モラトリアムボックス④


 体育館の裏手には、静かでひそかな場が広がっていた。

 陽射しが柔らかく緑地に降り注ぎ、古びた木製のベンチが花壇に影を落としている。

 荷物の搬入口扉の前には、金属製のゴミ箱やコンテナが並び、使い古されたボールやネット、マットなどの器具が辺りに散らばっている。すっかり日焼けした看板の文字は、視界がぼやけているのも相まって、何が書いてあるのか判らないが、どことなく威圧感を放っている。

 そんな、どこか隠れ家のような、ゆったりした時間が流れている無風の空間で、ただひとつ、異彩を放つようにハッキリと描写される存在があった。

 そこで思い出す。覚醒前に購買で会った男子生徒の姿。

 ベンチに座って、つまらなそうに項垂れて黙食している、頭に学帽を被った少年。

 そうだ、彼の名は――


「小浪谷さん!」


 アスマは彼に近づくと、声が届くようできるだけ声を張って呼びかけた。

 小浪谷は首と目線を少し上げて、こちらを億劫そうに睨み返すと、


「……………………あ?」


 付けていたイヤホンを片耳だけ外し、アスマの顔をまじまじと見る。


「誰だ? 今、俺の名前呼んだか?」

「だ、誰だって……ぼく、アスマですよ。やっぱり覚えてません? ほ、ほら、公安のこととか――爻坂さんは?」


 小浪谷は首を斜めにして、意味不明と言わんばかりに眉をひそめる。

 アスマは今日あった出来事や今の状況もすべて伝えてみたものの、


「……さっきから何言ってんだ、お前。からかってんのか? それとも何かの勧誘か? どっちにしろ興味ねぇからさっさと失せろ」


 どれも思い出すトリガーには至らず、小浪谷はますます不審そうな顔になるばかりだった。


「この身長捏造チビ、自分の名前は覚えてる癖にそれ以外ぜーんぶ忘れてますわ。やはり、思い出すまで殴った方がいいのでは?」


 叶守が、アスマの頭を小突きながら物騒な提案をしてくるが、小浪谷は何の反応も示さない。どうやら彼には叶守の声は聞こえていないらしい。

 ……たしかに、アスマは爻坂のビンタで思い出したが、あれは最終手段にしておきたい。失敗したら後が怖すぎる。


「……そういうわけにはいかないですよ。危ないですし」

「じゃあ、仮にお前の話を信じたとして、この学園は地縛霊の結界? ってのに囲まれてんだろ。んで、この結界内では昔あったであろう学園生活が繰り返されてると」


 小浪谷はアスマの説明をなぞるようにそらんじると、ベンチの背もたれに寄りかかって天を仰いだ。


「別に、

「………………………………へ?」

「同じような日々がずっと繰り返されるなんて最高だろ。ずっと変わらず平和でありゃ、それに越したことはねーんだから」


 アスマは、ほとんど絶句していた。

 ………………………………そんな、の。

 耳がきゅうと絞られるような感覚がして、音のない空間で体内の音だけがやけにハッキリ聞こえた。

 頭の中で輪郭のぼやけた言葉を反芻する。その中でどうしても割り切れない感情が、体外に出ようと猛り始める。

 だらしなく半開きになった口は、ゆっくり形を帯び、やがて強く引き結ばれ、


「そんなの、つまんないですよッ!!」


 堰を切ったように言葉が暴発した。

 アスマの拳は自然と握りしめられ、その目は鋭く小浪谷を睨みつけていた。なぜだか、彼の発言が許せない気がしたのだ。

 小浪谷は最初、たじろいだように目を見張ったが、すぐに冷たく鋭い目線をアスマに返した。低く抑えた声で言葉を返す。


「つまるつまらないは問題じゃねーよ」

「大問題ですよ! 今見えてるものだって、全部偽りのモノなんですよ?」

「知るか。俺にとってはどーでもいい」

「小浪谷さんは本当は学生じゃないんですよ!? 催眠で勘違いしてるだけで」

「だから知るか! 俺の自認は学生だ」

「う、嘘つき! (そうですわ捏造チビ!)」

「あァ? テメーだろ嘘つきは。いい加減にしろ。いきなり現れて訳わかんねーこと言いやがって、違ってんのか?」

「小浪谷さんこそいい加減にしてくださいよ。間違ってますよ!」

「だったら証明してみろよ。根拠の一つくらい出せうるせェんだよ。どうせお前、占いとか信じるタイプだろ」

「そうですけど!? だったら何ですか!」

「くそきめぇ。ぶれぶれバカ。分かりきった現実から逃げてるだけの阿呆」

「逃げてるのは小浪谷さんですよ!! 便秘頭!! 分かりきってる毎日より、何も分からない明日のが――」

「ッうるせぇな!! 糞ポエマーが! 声でかい癖につまんねー奴が、俺はこの世で一番嫌いなんだよ!」

ぼくは面白い奴です!!!!」


 感情が昂り、もはや反射的に言いたいことをただぶつけ合うだけの彼らの様子を、叶守だけが楽しそうにはやし立てていた。

 静かだったはずの空間に、強風が吹き荒れて、やかましい音が鳴り響く。

 らちが明かなかった。


「つまんないのは小浪谷さんですよ! でボーッとしてて何が楽しいんですか! 思い出してくださいよ! あの青春の日々を!」

「知るか!! そんなに言うなら思い出させてみろよ! この妄想パチ野ろ――」


 掴みにかかる勢いで詰め寄る小浪谷に、アスマは反射任せに手をふるった。

 すぐにパチン、と乾いた音が響き、水を打ったように辺りは一瞬で静まり返った。

 小浪谷の頬に、じんわりと赤い跡が浮かんでいる。彼は目を丸くしてアスマを見つめ、何度か目を瞬かせると、今度は俯いて自分の影を見つめた。

 ……やってしまった。けっこう勢いが……これで思い出してくれるか……?

 アスマは空中に手を残したまま、後悔の念に押しつぶされそうになっていた。

 叶守までも黙り、再び静寂に包まれて数秒後、小浪谷の第一声は、


「ウケる」


 まったく予想外のものだった。


「ああ……なんで忘れてたんだろうな? お前のこと。名前まですっかり……なんだ? ボケちまったのか、俺は」

「…………ん? えっと……だ、だから、ぼくはあ、アスマですよ? もしかして、思い出しました……?」


 アスマが恐る恐る尋ねるものの、小浪谷はどこか上の空で頷きながら、ぶつぶつと口の中で何かを呟くばかり。


「ああ……そうか? いや、いや、うん、まあいいや……。……そんなことよりお前、よくもやってくれたな」


 小浪谷は頭を振って、沸々と湧き上がる感情を確かめて、高めるように、ぶたれた方の頬を撫でた。口角を僅かにあげてアスマを睨む。

 再び向けられた眼差しは、逆ねじを食う覚悟を問うような鋭さがあった。


「ッあ、あえっと……本当すす、すみませ、そそそ、んなつもり、は」

「へへ。やってやるよ。やろうぜ、久しぶりに……なぁ、オイ」


 怒りと興奮からか、口調もテンションもどこか上ずっている。

 ……や、やばい。半殺される……!

 アスマが後ずさりするのと同じタイミングで小浪谷が一歩詰め寄る。

 山にハイキングに行って、不運にもクマと相対してしまったような気分だった。逃げだした瞬間、間違いなく襲いかかられる。

 間合いを保ったままジリジリと後退して、

古びた看板の前を通ったところで小浪谷の足が大きく動いた。

 もう限界だ。踵を返して逃げ出そうとした瞬間、叶守がアスマの髪の毛を引っ張って叫んだ。


「…………ッ!!? アスマ――!!」

「――――――お█彁イ██墸」


 切羽詰まった叶守の声と同時に、耳元で陶器をフォークで引っ掻いたような不快な音が鳴った。

 視界が暗み、背中が粟立つ。アスマはいつの間にか、何か巨大な影の中に立っていた。

 咄嗟に音の発生源を見やると、看板の文字が目に入った。――――此殺処█ラ出テ逝。

 途端、右の足首に粘着質の泥のようなものが絡みつき、看板の影の中へ体を引きずり込もうとする。

 黒い泥は徐々に形を帯び、最初に腕と頭のようなモノが影の底から這い出てきた。

 のっぺらぼうの真っ黒な顔に、三日月のように口だけが浮かんでいる。

 ソイツは早口で「コッチへこイ」と繰り返し口パクしながら、剥き出しの乱杭歯をガタガタ揺らす。


「――来墸█シ蛾雅賀餓牙臥我ァ唖唖!!」

「……――ッ!?!〇▼※☆!! わ、ぐ、うわあ、ああああああああああ!!? ッおま何だおまえええ!?」

「ハハ何よそ見してんだオラァ!! くたばれええええええええええええ!!」


 三者三様。

 煩音と絶叫と怒声が同時に轟き、乱躁滅裂とした彼らの戦いの幕は上がった。

 




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ゴーストダンス・フラワーロック② 山田悪魔 @yugami

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