あの時と同じ風

帆尊歩

第1話 あの時と同じ風

心地良い風が吹いている。

いったいここは?。

どこかの屋上、眼下の綺麗な町並みとその先の海。

ああ、ここはあたしの故郷だ。

この潮の香りが、あの頃は大嫌いだった。

なぜこんなところにいる。

あたしは確か、病院のベッドの上で死にかけていた。

えっ、もう死んだと言うこと、あたしは死んだの?

「いえ、まだ死んでいませんよ」どこからか声が聞こえた。

「えっ、何、誰?」

「誰と言われると、答えにくいですね」

「大体ここはどこ?」

「身に覚えはありませんか」

「ある。だってここは私が生まれた町。なんであたしはこんな所にいるの。あれ、あの小学校は建て直して、新しい校舎になっているはずなのに」

「ええ、ここはあなたの過去の世界ですからね」

「過去の世界?」

「まあ、人生の答え合わせとでも思ってください。

さあ、思い出してください。この町に住んでいたときに、あなたに告白した男の子がいましたよね」

「ああ、そうね。この風はあの時と同じ風だ。彼はあのあと亡くなったの。あたしが振ったせいで。でも嫌いだったわけじゃない。まだ何も分からなくて、だから良くわからず断ってしまった」

「それで彼は亡くなったとお思いですか」

「いえ」あたしは口ごもる。

「彼は元々、心臓に疾患をお持ちでした。あなたとは何の関係もない」

「そうなんだ」



急に風景が変わる。

この風が吹いていたのは、あたしの会社の屋上。

そうだ会社の隣に金木犀が植わっていて、その季節になると金木犀の香りがした」

「ここで、プロポーズされましたね」

「そう、彼は本当に誠実な人で。でもあたしもまだ若くて、もっと素敵な人が現れるのではと思って断った。ずっと後悔していた。

彼と結婚していたら、もっと幸せになれたのではと。だってあたしは、旦那のせいで酷い目にあった。

結局、離婚してシングルマザーになった。何とか娘を育てることは出来たけれど、彼と結婚していれば、もっと楽に生きることが出来た」

「でも今の娘さんも、お孫さんも生まれてきませんでしたよ」

「でも、子供は生まれたでしょう」

「いえ、彼と結婚していたら。お子さんは結局生まれませんでした。そして彼も五十五歳で亡くなりました。あなたは三十年、一人で生きていかなければなりませんでしたよ」



ここは?この風は娘が学校から帰って来て、話があると言われた日の風だ。

「娘は、音大に行きたいと言ったの。でもわたしは反対した。奨学金をもらってでも行きたいと言ったのを、あたしが行かせなかった。でも無理をすれば、行かせてあげられたかもしれない。奨学金と、元夫に養育費とは別に頼めば、もう少しお金だって出してくれたと思う。あたしの意地で、あの子の夢を詰んでしまった」

「そんな事ありませんよ。結局音大に行っても、音楽は出来ませんでした。奨学金と言う借金を残して」

「でも結局は奨学金を借りて、返すのに十五年掛かった」

「音大でしたから、奨学金の額はその三倍でした。娘さんは、その事を苦に、仕事は出来なくなり、自己破産しました。あなたの選択は、正しかったんです」

「そうなの」


この風は?娘が男に捨てられて帰って来たときの風だ。

妊娠していて、途方にくれていいたときの風だ。

「あの時、あの子は途方に暮れて、育てられないから、中絶すると言ってきかなかった。でもあたしは、それを許さなかった。あの子は言ったの。

(あたしを育てるために、お母さんだってもの凄い苦労をしたでしょう。あたしにはそんなまねは出来ない)

その言葉を聞いて、あたしはあの子を初めて叩いた。あの子は、あたしの事を良くは思っていないでしょうね。でも生まれた子は本当に可愛くて、あの子にもあたしと同じシングルマザーの苦労をさせてしまったけれど・・・。後悔していないと言えば嘘になるかしらね」

「そんな事もないようですよ。娘さんは、あの時あなたが殴ってでも産ませてくれたことに、大変感謝している。確かに育てる苦労はしたかもしれなせんが、でも中絶しなくて良かったと、心から思っていますよ」

「そうなの。それならどんなにか心は救われる。ずっと心に引っかかっていたの」

「よかったですね。あなたの選択はみんな正しかった。誰もが羨む人生ではなかったかもしれません。でも最悪の事態は起こっていない。それが一番良い人生なんですよ」

「よかった。ありがとう、人生の答え合わせをしてくれて。心のつっかえが取れた」

「よかった。ではそろそろ時間です。行きましょうか」

「行くってどこへ」沈黙が流れた。どこからか聞こえていた声は聞こえなくなっていた。

あたしは。

ああ、そういうことかと納得した。



「ご臨終です」医師の言葉が病室に響いた。

「おばあちゃん」

「お母さん」

「でもお母さん。おばあちゃん、とても安らな顔。なんか幸せな夢でも見たのかな」

「そうだね。お母さんもおばあちゃんに、散々苦労掛けたから、良かった」

「おばあちゃん」

「お母さん。ありがとう。そしてさようなら」

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あの時と同じ風 帆尊歩 @hosonayumu

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