忘れないでね
幸まる
知られざる香り
領主館の中庭には、ひとつの
年中心地よい花の香りに包まれたそこは、領主一家のお気に入りの場所だ。
屋外でお茶をするのにちょうど良い時期には、午前にも午後にも、領主一家の誰かが腰を下ろす。
今は秋も深まり朝晩は冷えるが、今年はまだまだ日中の気温は高い。
それで前領主の老紳士は、侍女一人を伴って、今日も午後のお茶の時間に訪れた。
そして、この場所の一番南側の椅子に腰を下ろす。
彼はこの位置が一番のお気に入りなのだ。
なぜならば、ここに座るとちょうど正面が、庭園の入口に繋がる生け垣の間になるからだ。
「おじいちゃまー!」
駆けて来るのは、濃桃色のワンピースを着た少女だ。
生け垣の間から顔を覗かせ老紳士の姿を見つけると、パッと顔を輝かせて駆けて来た。
少女は現領主の末娘、三歳のエミーリエ。
肩下まで伸びたふわふわの金髪は光を弾き、くりりと丸い大きな瞳は新緑の色。
色付いた頬は程よく丸く、まるで店頭にメインで飾られるお人形のような可愛らしさだ。
そんな可愛らしい孫娘が真っ直ぐに駆け寄って来るのだから、歳をとってやや偏屈にもなったこの老紳士も、目尻がふにゃりと下がろうというものだ。
「おお、エミーリエ。今日も元気かな?」
「はい、おじいちゃま」
エミーリエはにっこりと微笑むと、前屈みになっている祖父に向け、背伸びするようにして両腕を広げる。
老紳士は更に目尻を下げて彼女を抱き上げた。
「大旦那様、鼻の下が伸びすぎでございます」
「余計なお世話だ」
すぐ側に立っていた背の高い侍女ルイサが、耳元でコソッと教えると、老紳士は顔をしかめて彼女を睨んだ。
ルイサは片眉をやや上げて半歩下がった。
老紳士の首元に額を付けていたエミーリエが、ふと、顔を上げた。
「おじいちゃま、変な匂いがします」
「変、とな? どのような匂いかな?」
「……チーズの保管庫みたいな……匂い?」
「……チーズの保管庫?」
「はい。前に料理人のオルガに見せてもらいました。棚にチーズがいっぱい並んでいて、とっても臭いの!……あ」
『臭い』と言ってしまってから、エミーリエは可愛らしく小さな両手で口を押さえた。
老紳士は鈍器で頭を殴られたような顔をしている。
「違うのおじいちゃま。ちょっぴり変な匂いだっただけで…」
ルイサが一歩前へ出て言った。
「加齢臭でございますね」
「!?……か、か、か……」
「加齢臭。か・れ・い・しゅ・う、でございますよ、大旦那様」
「三度も言うなっ!」
ルイサは片眉をやや上げて半歩下がった。
ちょうどその時に、領主の妻が庭園に入ってきたので、エミーリエは可愛らしく膝を曲げて礼をすると、母の下に駆けて行った。
辛うじて笑顔で見送った老紳士は、ピクピクとこめかみを震わせた。
「か、加齢臭……」
「年寄りは臭くなるものです、大旦那様」
「お前はいちいち言い方が酷いのだっ!」
言って
老紳士は鼻の頭にシワを寄せる。
「どうして彼女は、お前を私の専属に置いていったものか」
溜め息混じりに呟けば、ルイサは動じずに口を開いた。
「大奥様の思い出をたくさん話せるのが私だけだからでは?……大奥様は、大旦那様にご自分を覚えていて欲しかったのでしょう」
先代領主の老紳士は、連れ合いを去年亡くして、少し前に喪が明けたばかりだ。
領主の座を息子に譲り、これから隠居生活を楽しもうと思った矢先の死だった。
最愛の妻の遺言は、彼女の唯一人の専属侍女だったルイサを、夫の専属として側に置くこと……。
「……どうしてそんな遺言を残したのかと思ったが、お前と生前の思い出を語り合えということだったのか……」
しんみりと、老紳士が呟く。
最愛の妻の喪失は大きい。
彼女が自分を忘れないで欲しいと願っていたのかと思えば、恋しさと共に僅かに胸が詰まった。
彼女への想いは、今も胸にある。
いつになっても、それは消えないだろう。
「……ふん。不敬な侍女だが、彼女の思い出を語ってくれるのなら、共に茶をすることを許す。座りなさい」
一つ息を吐いて、老紳士は杖で横の席を示した。
ルイサは几帳面に礼をして座り、背筋を伸ばす。
「そういえば、大奥様もチーズの匂いだと仰っておりましたわ」
「……は?」
「大旦那様が起きた後の枕が、カビの生えたチーズ臭いと」
「はあぁ!?」
「『加齢臭を纏ってこそ一人前と言うけれど、こう臭いのなら半人前で良いのに』とも仰っておりました。これも思い出でございましょ?」
ルイサが片眉を上げる。
「クビにしてやるーっ!」という大声が庭園に響く。
ふふ、と笑う声が聞こえて、
エミーリエとよく似た美貌の母は、さも楽しそうに笑っていた。
「さすがお義母様。あれではお義父様も落ち込む暇がないわねぇ」
《 終 》
『参考・引用/蜂蜜ひみつ/てんとれないうらない/第39話 首に 加齢臭を纏ってこそ 一人前』
忘れないでね 幸まる @karamitu
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