第4話 呪縛

 私には、とっても愛してやまない人がいる。

 彼女は漫画家だ。

 別に漫画家という職についているわけではない。ごく普通の――かなり変わった専門学生だったけど。

 別に恋人じゃない。家族でもない。だけど彼女は、私のためだけの漫画家だった。


 彼女はますます描くのは速くなった。

 そして彼女の絵は、とても荒くなった。

 私が好きだった、細い線で編まれた繊細な絵は見る影もなく。

 出鱈目に強弱をつけたとしか思えないようなぐちゃぐちゃな線で、すぐに40ページほどの漫画を描き上げる。


 描き上げた漫画を私が読んでいる間、彼女はじっとこちらを見つめてくる。

 私は今日も、こっそり彼女の顔を盗み見た。

 こちらを見つめる彼女はひどく疲れた顔をしていて、なんだかとっても痛々しかった。

 疲れたような、遠くを見つめるような目で私の方を見ていた。

 彼女は私が見ていることに気がついているのかいないのか、その表情はいくら見つめても変わらない。


 私はもう、彼女の視線の先がわかってしまっている。

 本当はとうの昔から、わかってしまっていた。

 彼女は私を見ていない。

 死を見ているのだ。

 生きている間では辿り着けないほど遠くを見つめているのだ。


 それに気がついた時、既に彼女は私ではどうもできないところまで来ていたんだと思う。

 彼女の視線はとうに私を通りすぎていて、私を見て立ち止まってくれることはないだろうとわかった。


 彼女のことは見ていないことにして、再び漫画に目を落とす。

 細部まで絵を眺めながら、先の展開を想像しながら、まるで知らない漫画を読むように、ゆっくりと噛み砕きながら読む。


 私が考えた物語だ。先の展開はわかっているはずなのに、わからない。

 1時間以上かけて、じっくりと漫画を読んだ私は、顔を上げて真っ直ぐに彼女を見る。

 すると彼女もようやく私に焦点を合わせて、口角を釣り上げて笑う。

 

「さあ、次はどうなるの?」


「次は――」


 私は漫画を読みながら考えた続きを、ゆっくりと彼女に話す。

 私の話に、彼女が目を輝かせてくれることは、おそらくもうない。

 ただじっと黙って、面白いのかつまらないのかわからない顔で話を聞いている。


 読み聞かせをするようにゆっくりと伝え終えると、彼女はすぐにペンを取る。

 シャーペンの下書きはせずに、慣れた手つきでGペンを走らせる。


 私はそんな彼女の手をじっと見つめる。

 多分私は、恐ろしく冷めた目をしていると思う。

 彼女が私の話に星をくれなくなったように、私も彼女の絵を描く姿から、星を抱くことは無くなってしまった。


 私は知ってしまっている。気づいてしまっている。

 楽しいもののために、素敵なもののために、可愛いもののために、私のために絵を描いていた彼女は、もういないのだと。


『里砂ちゃんのお話を全部描くまで死ねないよ。』


 あの日の彼女の言葉が、彼女を生に縛りつけているのだ。

 そしてその言葉が、私を彼女に縛りつけている。


 あの時は、それだけ彼女が私の話を、里砂ちゃんを大事にしてくれているのだと、ただただ嬉しかった。


 けれど今は、その言葉だけが私の希望になっていた。

 里砂ちゃんのお話を全部描くまで死ねない。

 裏を返せば、彼女をこの世に留めておけるのは、里砂ちゃんだけだと言うことだ。


 彼女は死ぬために漫画を描いているのだ。

 早くこの物語を終わらせて、死んでしまいたいと思っているのだ。

 だから描くのが早くなった。

 彼女は死ぬために、この物語を終わらせようとしている。


 だから私は、この物語を終わらせるわけにはいかない。

 私は彼女が大好きだ。

 だから生きていてもらわなくてはいけない。


 本当ならもう何年も前に、ハッピーエンドを迎えているはずの物語。

 もう何年も前に、彼女を解放しているはずの物語。


 丸く収まりそうになっては新たな障害や敵を投下して、また振り出しに戻す。

 そんな作業を私は、もう何回しただろうか。


 私の頭の中にあった別の世界は、もう消えてしまった。

 私の頭の中に本当に生きているように、自由に動いていた里砂ちゃんは、もういなくなってしまった。

 彼女を縛るために、里砂ちゃんの幸せを奪ってまで話を引きのばそうとしている私に、愛想を尽かしてしまったのだろう。


 だけど私は、やめるわけにはいかない。

 里砂ちゃんの代わりに頭の中に作った、里砂ちゃんによく似た操り人形を懸命に動かしている。


 彼女が漫画を描いている間、彼女が描き上げた漫画を読んでいる間、私は懸命にこの話の続きを考えている。

 昔は考えなくても勝手に出てきたのに。

 今では頭を極限まで絞って、ようやくつまらない続きが出来上がる。


 あんなにワクワクして、ときめきが詰まっていて、胸が高鳴るような、キラキラした話は見る影もない。

 目の前にある原稿は、死ぬためにペンを動かす漫画家と、生かすために頭を捻る原作者に挟まれて、くしゃくしゃになっている。


 時々、本当にこれでいいのかと思うことがある。

 私の私欲のために、見たくもない話を考えてもいいのか。

 里砂ちゃんを無理やり動かしてもいいのか。

 こんなにも生に疲れて、壊れてしまった彼女を、縛り続けてもいいのか。


 自由にさせてあげなさい、大人に聞けばそう言うかもしれない。

 だから私は何も言わない。誰にも相談しない。


 私は彼女を生かし続けることを選んだ。

 他の友達との時間より、他のことをする時間より、里砂ちゃんの幸せより、キラキラした話より、彼女の生を望んだ。


 1度選んでしまったものをやめることはできない。

 私に彼女を解放する気はさらさらない。

 こうやって、永遠に生き続ければいいのだ。


 こんなことを考えている暇はない。

 続きを考えなくては。

 もうそんなこと考えたくない、と悲鳴を上げる頭を、私は無理やり従わせる。

 彼女を守るために。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【完結】私は彼女の生命線 天井 萌花 @amaimoca

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ