第3話 光の力
私には、とっても愛してやまない人がいる。
彼女は漫画家だ。
別に漫画家という職についているわけではない。ごく普通の――少し変わった高校生だったけど。
別に恋人じゃない。家族でもない。だけど彼女は、私のためだけの漫画家だった。
高校は別々になってしまったけど、私達は変わらず仲が良くて、毎日彼女の家で遊んでいた。
放課後、私が彼女の家に行くと、彼女は必ず家にいた。
インターホンを鳴らすとすぐにドアが開き、セーラー服を着た彼女が出迎えてくれる。
彼女は明るい子だった。
太陽のように眩しい彼女に、私はいつも光をもらって生きていた。
けれどその太陽は、いつの間にか曇ってしまっていた。
半袖のセーラー服から伸びた白い腕には相変わらず包帯が巻かれていて、頭と脚に伝染したその包帯も、すっかりとれなくなっていた。
私の姿を見ると、彼女はにこりと嬉しそうに笑う。
細められた目の下には濃い隈ができていて、綺麗だった黒い髪も、痛みが目立つようになってきた気がする。
私が部屋に入ると、彼女は今まで通り、漫画を描き始める。
私は今まで通り、隣で彼女の手をじっと見つめる。
彼女は、とても描くのが速くなった。
けれど彼女の絵は変わった。
私が好きだった、細い線を編んで描いたような繊細な絵ではなくなってしまった。
強弱のバラバラな線で描かれた、バトル漫画のような迫力のある絵になった。
別に下手になったわけではない。
彼女が描いてくれる里砂ちゃんは今でも可愛い、素敵な少女だ。
けれど変わってしまったことを、私は内心で残念に思っている。
私は彼女の繊細で優しい絵が、彼女本人によく似た絵が好きだった。
今の少し荒々しさを感じる絵は、なんだか彼女らしくないと思った。
同時に、彼女はそれくらい追い詰められているのではないかと思った。
彼女はもしかしたら、絵を描くのが嫌になってきているのかもしれないと思った。
里砂ちゃんのお話は、もうすぐハッピーエンドを迎える。
そうなったらもう、彼女の絵を描く姿を見るのはやめようと思う。
遊ぶ方法なら、絵以外にもたくさんある。
どこかに出かけるのもいい、ゲームをするのもいいかもしれない。
彼女は、絵を描くことが全てのようにものを言うことがある。
そんな彼女に、絵以外にも楽しいものがたくさんあることを知ってもらいたい。
漫画が1話分描き終わると、彼女はすぐに渡してくれる。
受け取った私がそれを読んでいる間、彼女はじっとこちらを見つめてくる。
私は1度だけ、こっそり彼女の顔を盗み見たことがある。
こちらを見つめる彼女はひどく疲れた顔をしていて、なんだかとっても痛々しかった。
疲れたような、遠くを見つめるような目で私の方を見ていた。
彼女は私が見ていることに気がつくと、口角を釣り上げてにこりと笑う。
無理やり笑っていることがよくわかるその笑顔は、疲れた顔以上に痛々しかった。
私はいつも、門限の9時頃まで彼女が漫画を描いているのを見守っていた。
彼女は私が帰る時、決まって寂しそうな顔をするようになった。
今までは「また明日!」と笑って見送ってくれたのに、彼女は悲しそうな目で私を見つめてくるようになった。
そんな彼女を放っておくことができずに、私は「どうしたの?」と尋ねたことがある。
すると彼女は無理やり笑みを作って、「なんでもないよ。」と答えた。
「大丈夫?」と私が聞き直すと、「大丈夫だよ。」と答える。
「本当に?」と聞くと、「本当。」と答える。
それから、「バイバイ。」と言ってドアを閉めてしまうのだ。
聞かないでほしい。
そう言っている彼女の声が聞こえてくる気がした。
だから私は聞かないことにした。
忘れたふりをしているけれど、やっぱりいつも、「大丈夫?」と聞きたくなる。
今日も今日とで、私は彼女から描き上がったばかりの漫画を受け取った。
1話のページ数はあの頃よりも増えていて、30ページくらいある。
それを私は、ゆっくりと時間をかけて読む。
彼女は描くのが速くなったが、私は読むのが遅くなった。
もうあの時のようなときめきも、どうしようもないくらいの胸の高鳴りも、感じなくなってしまった。
ただ義務のように、お腹が空いていないのにご飯を食べるように、味のしない物語を飲み込んでいく。
30ページの漫画を読むのに、普通は10分もかからないのではないだろうか。
私は決して多くないその量を読むのに、1時間近くかけた。
ようやく読み終えた私は、彼女に目を向ける。
いつもはじっと私を見て待っている彼女だが、待ちくたびれてしまったのか、寝てしまっていた。
紙やペンを避けて伸ばした両腕が机の上を占領している。
起こすべきか、寝かせておくべきか。
どうしようかと彼女を見ていると、ふと、両腕に巻かれた包帯が気になった。
右腕に巻かれた包帯が緩んで、今にも解けそうになっていた。
特に深い理由はなかった。ちょっとした、好奇心だった。
ずっと彼女の謎だった包帯の下が、どうなっているのか気になった。
寝ている彼女を起こさないように、そっと包帯を解いでいく。
半分ほど解いたところで、私は手を止めてしまった。
少し見えるようになった腕は思っていたより少し細くて――不健康そうな白い肌には、無数の傷や痣がついていた。
それはもう、白いと思われる肌が白く見えないほどに。
『これはね、右手には闇の力が、左手には光の力が封印されてるの。だから外せないの。』
あの日の彼女の言葉を思い出した。
別に本気にしているわけではない。
きっと冗談だろう。きっと、あの時思いついたことを適当に言ったのだろう。
けれど気になってしまった。
もし本当に、この傷や痣が闇の力なのならば――
光の力は、どんなものなのだろうか。
私はもう一度そっと彼女に触れて、今度は左手の包帯を解いた。
こちらの包帯は右手よりも緩く巻かれていて、少し解くと、しゅるしゅると連鎖して解けた。
ほぼ完全に見えるようになった左腕を見て、私は息を呑んだ。
勝手に震え出した唇から、細く長い息を吐いた。
――これが本当に“光の力”なのだろうか。
右腕と同じく大量についた痛々しい傷や痣。
それを上書きするように幾つも、幾つも引かれた細い緋色の横線。
血の滲んだ、引っ掻き傷のような切り傷。
これが本当に光の力なら、彼女はどんな光を見ているのだろう。
今にも消えてしまいそうな、か細い光を見ているのではないだろうか。
それか、彼女が光だと思っているものは、光ですらないのかもしれない。
――守らなければ。
私が守ってあげなくてはいけない。
誰より彼女を好いている私が。
彼女を起こさないようにそっと優しく、けれどもしっかり丁寧に、両腕の包帯を巻き直した。
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