クジラの秘密

@LIONPANDA1991

第1話

鮎川克実は、ファーストフード店でアルバイトの面接を受けていた。

「鮎川くんは、バイト経験はないの?」

「はい、高校が公立で基本バイトは禁止でしたから」

「なるほどね。バイトをする動機は?」

「東京で一人暮らしを始めまして、なるべく親に負担を掛けたくないと思いまして」

店長の高橋は、克実の顔から履歴書に視線を落とす。

「出身は茨城みたいだね」

「元々は東京なんですけど、中学生の時に親の都合で引っ越しました」

「まあ、そこそこの大学だし、顔はまあまあイケメン、頭は悪くないだろうから、採用で、よろしくね」

店長の高橋は履歴書を見ながら、あっさり鮎川克実を採用にした。

「ありがとうございます」

「明日から来れる?早い方が助かるんだけど」

「わかりました。明日の夕方からお願いします」

ものの5分で交渉成立である。

世の中の交渉ごとがすべてこんな感じで成立したら、どんなに楽だろうと克実は思った。

鮎川克実、大学1年生で、初めての一人暮らし、初めてのバイトが決まった。

茨城の実家から大学に通うこともできたが、高校生ではできなかったことをしてみたいという好奇心で、一人暮らしを決めた。

大学の学費と交通費は親に負担してもらっているが、それ以外は自分の稼ぎで賄いたいと思っていた。

時給約1,000円×一日5時間×月20日=約10万円。

家賃月5万8千円。光熱費、電話代を払ったら残り2、3万ってとこかな。やっぱり厳しい極貧生活になりそうだ。

バイト先は、大学とアパートの中間地点の駅の近くにしたので、余計な交通費はかからない。それでもバイト代とは別に交通費が支給されるので、極貧生活には貴重な収入源になる。

とりあえずは贅沢を我慢し、極力友達付き合いも控え、ひっそりと暮らすことを心がけよう。


「今日から一緒に働くことになった鮎川克実くん。大学1年生の18歳。よろしくお願いね」

「鮎川です。よろしくお願いします」

店長と一緒に従業員一人一人に挨拶をして回った。

調理場の男性は無愛想な反応だったが、接客の女性は愛想良く挨拶をしてくれた。

「おっ、クジラ、帰るとこか。時間帯が入れ違いだけど紹介しとく、今日からバイトの鮎川克実くんだ。よろしくな」

「よろしくお願いします」と、他の人と同じように挨拶をした。

「よろしくね」と、クジラは素っ気ない素振りで挨拶をして、さっさと帰って行った。

クジラが帰った後、店長にクジラって名前なのか尋ねたら、クジラはあだ名で、本名は鯨岡美月と教えてくれた。

店頭で愛嬌を振りまき過ぎて、オフモードの時は無愛想になるのかもしれない。

その日は雑用をこなしながら、ハンバーガーの作り方やポテトの揚げ方を教えてもらった。

夜の11時、本日のバイト終了。

私服に着替え、他の従業員に挨拶して店を出た。

電車に揺られて、自宅の最寄り駅に着いた時には、ちょうど日付けが変わった頃だった。

街灯だけの暗い道を歩いて、自宅に着いた時、後ろから誰かが付いてきてる気配を感じ、恐る恐る後ろを振り向くと、見覚えのある女性が立っていた。

「鮎川くん家、ここ?」

僕の住むアパートの外観を眺めている。

「あなたは、鯨岡さんですよね」

「店長に名前聞いたんだ」

「どうしたんですか?鯨岡さんの家も、この辺ですか?」

「そんな偶然はなかなかないよね。私、鮎川くんに相談があってさ、後を付いてきたんだ」

「それならもっと前に声をかけてくれれば」

「あまり外では話づらいからさ、中に入れてもらってもいいかな?」

「えっ、そんな突然、困ります」

「どうして?」

「部屋が散らかってますし、それにこんな遅い時間に女性と二人っきりはまずいかと」

「でも、私もう帰れないし、ここで寝るわけにもいかないし、どうしよう?」

困ったふりをしながら、部屋の中に入れろと目が訴えている。

どこに住んでるのか知らないが、タクシーで帰れないこともないだろうと思ったが、タクシー代を貸して欲しいと言われると面倒なので何も言わなかった。

「じゃあ、ちょっと待っててください。少し片付けますから」

「わかった。なるべく早くお願いね。変な人にさらわれたら大変だから」

ほとんど面識のない人間に相談をするほど困ってる人には見えないような笑顔で返事をする。

とりあえず書籍類をまとめて部屋の端に寄せ、目につくゴミをゴミ箱に捨てて、鯨岡美月を部屋に招いた。

「意外と広いじゃない」

部屋中を見渡して美月が言う。

「そうかな、ワンルームにロフトがあるだけだけど」

「二人なら十分だと思います」

「二人?何を言ってるの?」

思わず自分の顔が歪むのが、想像できた。

「今日から私、ここで暮らします。それを相談したくて」

「ちょ、ちょっと待ってよ。どうして鯨岡さんがここで暮らすの?」

「私、家賃滞納でアパート追い出されちゃって、行くところがないんです。お願いします、可哀想な私をここに置いてあげてください」

美月はその場に正座して、床に頭がつくくらい頭を下げた。

「そんないきなり、困るよ」

美月は顔を上げて、子猫のように克実の顔を見上げている。

「じゃあ、鮎川くんは私に公園のベンチで寝ろって言うの?」

「そんなことは言ってないけど、今日会ったばかりで、お互いよく知らないのに、いきなり同居はおかしいでしょ」

「だって、私、行くところがないんだもん」

美月の目から涙が流れ出し、突然声を出して泣き出した。鳴き声は徐々に大きくなっていく。

「わかった、わかった、わかったから泣かないでよ。今晩だけ、泊めてあげるから」

一瞬泣き止んだ美月だったが、また泣いた。

「今晩だけじゃやだー。今晩だけじゃやーだ」

困った。こんな夜中に大声で泣かれたら近所迷惑だ。

「わかった、わかったから泣かないでよ。しばらく居ていいから」

「本当?ありがとう」

美月は泣くのをやめ、人差し指で涙を拭って、再び頭を下げた。

こうして、僕と美月の秘密の生活は始まった。


ロフトのスペースを美月に譲った。

布団がひと組しかないので、僕の毛布にくるまって寝ていた。

そして僕は、下のフローリングに布団を敷いて寝た。

朝目覚めると、ロフトから寝息が聞こえて、美月がいることを思い出した。

布団をたたみ、折りたたみ式の小さなテーブルを出し、納豆とインスタントの味噌汁と卵がけご飯で朝食を済ませ、学校に向かった。

テーブルの上に、美月宛ての書き置きとスペアキーを置いておいた。

大学の授業が終わると、バイト先に向かった。

昨日と同じように、入れ替わりで美月とすれ違う。

「お先に、頑張ってね鮎川くん」

「お疲れ様です」と返事をする。

昨日とは美月の表情が違い、明るく挨拶を交わした。

バイトが終わり、美月に連絡しようと思ったが、美月の携帯番号を聞いていなかった。

コンビニで二人分の惣菜とおにぎりを買って帰宅すると、美月が玄関まで出迎えてくれた。

なんとなく新婚夫婦みたいな感じがして、内心ときめくものがあった。

「お帰り、カッちゃん。あれ、ご飯買ってきたの?」

「駅の近くのコンビニで、鯨岡さんに連絡しようと思ったら携帯の番号聞いてなかったから」

「ごめん、私、携帯持ってないんだ」

絶句した。今時の若い女の子が携帯を持っていないことがあり得ることを想像したことがなかった。

「具合が悪くてバイトを休む時とか、困るでしょ」

「基本バイト休まないし、困ったことはないかな。でもこれからはカッちゃんがいるから携帯も必要かもね」

言葉に詰まる。

「カッちゃんのためにご飯作ったんだよ。そこに座って」

コンビニの袋を持ったままテーブルの前に座った。

美月がテーブルにおかずを並べていく。

肉じゃが、マカロニサラダ、干物の焼き魚、しじみの味噌汁、ほかほかのご飯がテーブルいっぱいに用意され、あったかいほうじ茶を入れてくれた。

僕は手を合わせ、いただきますと感謝を述べて箸を伸ばした。

「美味しい!」

本当に美味しかった。

「鯨岡さんって、料理上手いんだね」

「ありがとう。お口に合って良かった。この程度でよかったら、毎日作ってあげるよ。リクエストがあったら言ってね」

あまりの美味しさにご飯を3杯も食べた。

「こんなに美味しいご飯があると思ってなかったから、コンビニで惣菜とおにぎり買っちゃったんだ」

僕は、美月にコンビニの袋を渡した。

「こんなに食べるの?」

「2人分」

「私の分も買ってきてくれたの、ありがとう。カッちゃん優しい。明日の朝食べよ」

美月は、コンビニの袋から惣菜とおにぎりを出して、小さい冷蔵庫に入れた。

もしも彼女と結婚して、こんな毎日が続いたら、幸せだろうと一瞬思った。


いつのまにかロフトには、美月の荷物がいっぱいになっていた。

「どうしたのこの荷物?」

「アパートを追い出されちゃったから、コインロッカーに預けてたの。昨日全部取ってきた」

「本当に行くところがないんだね」

「でもさ、2人で暮らした方が、お金も増えるし、なにかと便利じゃない」

「そうかもしれないけど」

「カッちゃん、私のこと嫌い?」

「嫌いもなにも、まだ鯨岡さんのことよく知らないし」

「今の私を見て、好きか嫌いか聞いてるの」

「顔は可愛いと思うよ」

「スタイルは?」

「見た目は良いと思う」

「性格は?」

「ちょっと強引なところはあるけど、僕にはない積極性があって羨ましい」

「ご飯は?」

「とっても美味しい」

「じゃあ、嫌いなところがないじゃない」

「確かに、悪いところはあまりないかも」

「あまり?」

「いや、全然ない」

「私も家賃半分払うから、余ったお金で旅行とかしたいね」

美月の言葉に、ある疑問が頭に浮かんだ。

「鯨岡さん、確認なんだけど、僕たちの関係ってなんなんだろう」

「同居人じゃない」

「それだけ?」

「ほかに何が言いたいの?私を彼女にしたいとか?」

「あっ、いや、ただ、一緒に暮らしてると、世間からは彼女とか、夫婦みたいに見られちゃうかなって」

「彼女や奥さんだったら、私カッちゃんとエッチしなきゃなんないじゃない。カッちゃんヤラシイ」

「僕だって男なんだぜ、女の子と一緒にいたら想像ぐらいはするよ」

「本音を吐いたな。もっとカッちゃんのことを好きにさせてくれたら、考えてあげてもいいわよ」

「鯨岡さん、人の家に転がり込んできた割には、いつも上から目線だよね」

僕の言葉で、美月が突然暗い顔になった。

そして、目から涙の雫が落ちた。

「ごめん、言い過ぎた。つい、気持ちが緩んじゃった。ごめんなさい」

僕は深々と頭を下げて、美月の許しの言葉を待った。

なかなか許してくれないので、顔を上げてみると、美月は僕を見て、笑っていた。

「鯨岡さん、勘弁してよ」

僕も笑って、なんとなく仲直りをした。


家賃と光熱費は折半にして、食費は月2万円を美月に預けて、やり繰りしてもらう。

外食は基本自腹。残ったお金は、僕の名義の銀行口座に共同貯金し、美月が管理することになった。

そんな二人の生活がひと月経った頃、初めてのバイト代支給日が来た。

「カッちゃん、初給料だね。今日はお祝いにステーキにしてあげる」

給料日のせいか、朝から美月の機嫌が良かった。

「僕、今日バイト休みだから、どっかで待ち合わせない」

「じゃあ、6時30分に池袋駅の、前に行ったコーヒーショップで」

「了解、後でね」

僕は大学に行くため、美月より先に家を出た。

5限まで授業を受けて、待ち合わせ場所のコーヒーショップに向かった。

ギリギリ6時30分に店に着いた。

店内を見渡すと、奥の席に美月を見つけた。

同居してから間もなく、美月は携帯電話を買い、その携帯電話で誰かと話していた。

僕はカウンターでコーヒーを買って、ゆっくり美月に近づき、目の前の席に座った。

美月が僕に気づいて、友達が来たからと言って、無理矢理電話を切った。

「誰かと話してたの?無理矢理切らなくてもよかったのに」

「いいのよ。ちょっと前に原宿でスカウトされて、連絡先教えたらしつこくて」

「凄いね、スカウトされるなんて。なんていうプロダクション?」

「ABC企画だって」

「聞いたことないな」

「私も、一回事務所に来いってうるさくて」

「でも鯨岡さん、芸能人になったら成功するかもね。バラエティとかイケそうだし」

「本当、じゃあ私、スターになっちゃおうかな」

まんざらでもなさそうに喜んでいた。

「これからどうする?」

「せっかくだから、ちょっとだけ贅沢しちゃう?」

「よし、ファミレスで初給料パーティーだ」

僕と美月はコーヒーショップを出て、ハンバーグが美味しいと評判のファミレスに入った。

まだ未成年でお酒が飲めないので、コーラで乾杯をした。

初給料のお祝いということで、支払いは美月が全額出してくれた。


「前から気になってたんだけど、鯨岡さんって、家族はいないの?」

なんとなく美月の表情が暗くなった気がした。

「高校1年の時、自動車事故で両親とも死んだ」

「ごめん、辛いこと思い出させちゃったね」

「別に、もう昔のことだから」

「鯨岡さんって、東京の人?」

「そうだよ。正確には千葉の市川だけど」

「じゃあ、ディズニーランドが近いね」

「子供の頃はよく行ったけど、中学生になってからはあまり行ってない」

「案外近すぎると、行かないのかもね」

「カッちゃんは、茨城の人なんだよね」

「正確には、東京都葛飾区堀切で育って、中学生になる時に茨城の龍ヶ崎に引っ越した。ちなみに生まれは愛媛だけど」

「茨城からじゃ東京の大学に通えないか」

「通えるよ。時間はかかるけどね。でも東京で一人暮らしをしてみたかったんだ」

「どうして、一人暮らしをしたかったの?」

「自分でもよくわからないけど、たぶんサバイバルみたいな感じかな」

「サバイバル?」

「もっと簡単に言えば、冒険心かな。人に頼らず、どうやって生き抜くか、みたいな」

「私がいたら冒険の邪魔だね」

「あっ、でも、これはこれで冒険だよ。思いもよらなかった展開で、最初はビックリしたけど、ある意味救世主が現れたって感じかな」

「カッちゃん、やっぱり優しい。そう言ってくれると嬉しい」

「僕たちさ、お互いのこと、まだまだ全然知らないから、少しずつでも鯨岡さんのことが知りたいって思うんだ」

「気持ちは嬉しいけど、私は自分の過去があまり好きじゃないの。できれば忘れたいくらい。だから、昔の話はしたくない」

「そうなんだ。過去より未来の方が大切だからね。なるべく未来について話をしていこう」

「ありがとうカッちゃん。そんなに優しくされたら好きになっちゃうよ」

「もう好きになってない?」

「全然好きじゃないよ」

「ショック、もう少し優しくしてくれると嬉しんだけど」

「ごめんね。カッちゃんの優しいところとご飯を美味しそうに食べてくれるところは大好きだよ」

「ありがとう」

その時、僕の携帯電話が鳴った。

携帯画面には「母親」と表示されていた。

「ごめん、母親からだ。ちょっと待ってて」

僕は電話に出た。

「もしもし、母さん」

「全然連絡こないから、元気でやってるの?」

「なんとかやってるよ。バイトも始めたし」

「なんのバイト?」

「ハンバーガーショップで、ハンバーガーとかポテト作ってるよ」

「元気ならいいけど。明日は家にいる?」

「明日はバイトだから、ほとんど家にいない」

「じゃあ、仕方ないわね」

「明日何かあるの?」

「明日の夜銀座に歌舞伎を観に行くから、一晩泊めてもらおうと思ったんだけど。克実のアパートも見てみたかったし」

「なんだ、もっと早めに連絡くれたら良かったのに。残念だな」

バイトが休みだったら、危なかった。

美月と同居してることを知られたら大変だ。

「今度東京に来る時は、早めに連絡してよ。残念だけど」

「なんか喜んでない?」

「なんで喜ぶの、残念だよ」

「まぁ、頑張って。たまには連絡しなさいよ」

「わかった、また連絡する。母さんも元気で、父さんによろしく」

電話を切って美月を見ると、僕と母親の会話の様子を見ていたようだ。

「お母さん、東京に来るの?」

「明日銀座に歌舞伎を観に来るんだって、一晩泊めてくれって言うから断った」

「どうして、泊めてあげればいいのに」

「鯨岡さんがいるのに」

「私なら、どっかのホテルに泊まるから」

「ロフトに女性の荷物があるし、面倒だからさ。いいんだよ」

「カッちゃんのお母さん、会ってみたかったな」

「同居してるのバレたら大変だよ」

「怖いの、お母さん」

「怒ったらね」

「私みたいなバカな女が一緒だと、怒っちゃうかもね」

「鯨岡さん、君はそんな女性じゃないよ。大学なんか行ってなくても、一生懸命生きてる立派な女性だよ」

「ありがとう、やっぱりカッちゃん優しい。ちょっとだけ好きになった」

とりあえず今回は回避できたが、親が訪ねてくることも考えておこう。

翌日、大学からバイトへ。いつも通りの行動で1日が終わり、帰宅した。

遅く帰る時は、美月に鍵をかけておくように伝えてあるので、鍵を持ってはいるがチャイムを鳴らして開けてもらう。

いつものようにチャイムを鳴らして、鍵の解除を待っていると、ドアが開いて美月ではなく母親が出てきた。

「お帰り、克実」

予想してなかった展開に、一瞬言葉を失った。

「母さん、どうしてここにいるの?」

「昨日電話で、銀座に歌舞伎観に行くって言ったじゃない」

玄関で靴を脱ぎ、部屋に上がるとキッチンに美月がいた。

「お帰り、カッちゃん」

いつも通りに、話しかけている。

カバンを机の椅子に置いて、テーブルの前に座った。

隣に母親が座り、土産の説明を始めた。

「歌舞伎座で、歌舞伎揚買っちゃった。これは、近所のあられ、父ちゃんが米買って送るって言ってたから宅配便で届くと思うよ」

「ありがとう、助かるよ」

美月がテーブルに夕食を並べていく。

「あのー、どうして母ちゃんがここにいるの?」

「本当は歌舞伎観てそのまま帰ろうと思ったんだけど、克実がどんなアパートに住んでるのか見てみたくて来てみたら、部屋の電気が点いてるからピンポン押したら、こんな可愛いお嬢さんが出てきて、びっくりしちゃった」

「カッちゃん、私のことお母さんに話してなかったんだね。突然お母さんに会っちゃったから私もびっくりしちゃった」

美月が右目でウィンクして、話を合わせるように合図した。

「東京に出てきて、こんなに早く彼女ができるなんて母ちゃんびっくりしたよ」

僕は頭の中で、僕のいない間に美月と母親がどういう会話をしたのかを予測した。

美月は母親が東京に来ていることを知っていたが、まさかここに来るとは思っていなかった。でも、突然訪ねてきた母親に、僕のアパートに勝手に入っている状況からして、自分を僕の彼女として名乗ったのだろう。

「同じバイト先で知り合ったんだ」

「さっき美月さんから聞いた。克実から誘ったって聞いて、克実もそんなことができるんだって母ちゃん安心したよ」

僕から誘ったことになっているのか。

美月を見ると、笑って誤魔化している。

「彼女、料理も美味しいし、よく遊びに来てくれるんだ」

「なかなか良い子じゃないか、大事にしてあげなよ」

僕は夜食を食べながら母親の話しを聞いた。

「じゃあ、そろそろ私帰るから。お母さんといろんなお話が出来て楽しかったです」

「こちらこそ、遅い時間までありがとう。また会えるといいわね」

食事を終えた僕は、食器をキッチンの流しに下げて、美月の後を追った。

「母ちゃん、彼女を送ってくるから、ちょっと待ってて」

美月に声をかけ、一緒に玄関を出た。

「カッちゃんのびっくりした顔、面白かった」

「そりゃ驚くよ。鯨岡さんが出てくると思ったら母ちゃんが出てくるし、鯨岡さんも一緒に部屋にいるんだもん。頭の中が、パニックだよ」

「私も突然お母さんが現れて驚いた。でも、優しいお母さんで良かった」

「これから帰るって、どこに行くの?」

「駅前のネットカフェに泊まる。3人で寝るのは無理でしょ」

「そうだね」

「突然だったんで、ロフトに私の荷物があるから、カッちゃんがロフトに寝たらいいよ」

「そうか、そうするしかないね」

「私の布団で変なことしないでね」

「変なことって、なに?」

「布団の匂いを嗅いだり、枕に顔を埋めたり」

「人を変態扱いするな」

「ごめん。送ってくれてありがとう、ここでいいわ」

「明日の朝には帰ると思うから、ごめんね」

「せっかく来たんだから、親孝行してあげなさい。じゃあね」

美月と別れて、僕は家に戻った。

二人っきりになると、母親のおしゃべりは止まらず、睡眠時間をかなり削られた。

しかし、美月に対する印象が悪くなかったことは良かった。

翌朝、大学の授業が2時限からだったので、少し遅めに起きたが、母親が先に起きて朝食を用意してくれたので、久しぶりに母の味を堪能して、一緒に家を出た。

母親はゆっくり歩いて行くからと、僕を先に行かせ、最寄りの駅で手を振って別れた。


バイト先で美月とすれ違ったが、いつものように挨拶だけを交わした。

周りに気づかれないように、お互いの目を合わせる。

バイトが終わり、遅くに帰ると、母の味とは違う美月の料理が待っていた。

食事の時、美月から相談があった。

先日原宿でスカウトされた芸能プロダクションからしつこく連絡があり、明日バイトが休みなので、一度行って来ようと思っているらしい。

僕は昨夜の睡眠不足の影響もあり、美月の相談を受け流しながら安易に返答をしていた。

翌朝、いつものように家を出て、大学に向かう。午後の昼過ぎまでは平穏な一日だったが、美月からの電話で状況は一変した。

「カッちゃん、私。例のプロダクションやばいよ。助けて、私逃げられない」と、一方的に話して電話が切れた。

折り返しの電話をかけたが、美月は電話に出なかった。

美月の身に何が起こっているのかはわからないが、危険な状況でなければ助けてとは言わない。

僕は美月が前にスカウトされた時の話を思い出し、スカウトしたプロダクションの名前を必死に思い出そうとしたが、気持ちが焦れば焦るほど頭の中が真っ白になり、何も思い出せなかった。その時たまたま見上げた視線の先に、大学の校舎に書かれていた「A館」の文字を見て、プロダクションの名前がアルファベットだったことを思い出した。

ABC企画をスマホで検索して、企業情報を確認した。

風俗嬢やアダルトビデオなどの女優が所属している事務所みたいで、二十歳前後の女性の水着姿や大事な部分を編集で隠した裸の画像が掲載されていた。タレント募集要項に事務所の住所と電話番号が書いてあり、渋谷のとあるビルに入居していることがわかった。

僕は、昨夜の美月の話をちゃんと聞いていなかったことを後悔した。

午後の授業をキャンセルし、大学を出た目の前の通りでタクシーを拾い、ABC企画に向かった。

ところどころで渋滞になり、焦る気持ちと格闘しながら、タクシーの選択を後悔していた。

途中で、僕の落ち着かない様子を見て、タクシーの運転手が、かなり急いでるみたいだねと言って、大通りから裏道ルートに切り替えて急いでくれた。

ABC企画の入居しているビルは老朽化が進んでいて、エレベーターが1つしかなく動きが遅いので、掲示板でABC企画が7階であることを確認して、7階まで一気に階段を駆け登った。

事務所のドアを開けると、電話だけが置いてある受付を無視して、部屋の奥に入って行った。

数人の従業員しかいなく、僕は部屋中に聞こえるように大声で鯨岡さんの名前を呼んだ。

席に座っていた従業員が一斉に克実を見た。

「誰だ。勝手に入ってくるな」と、奥の席に座っていた男から怒鳴られる。

「すみません。鯨岡美月さんが面接に来てるはずなんですが、どこにいますか?」

近くの席に座っていた男が立ち上がり、僕に近づいてきて、「出て行きなさい。不法侵入で警察に訴えるぞ」と脅す。

その時、右手奥の会議室らしき部屋から美月の悲鳴が聞こえた。

僕は会議室に向かって走り出した。

ドアノブを回そうとしたが、中から鍵がかかっている。

少し下がり、体当たりでドアを打ち破った。

部屋に飛び込むと、服を乱した美月がソファの上で、上半身裸の男二人に押さえつけられていた。

僕は、振り向いた二人の男に向かって突進した。二人の男は壁際まで吹っ飛び、二人とも床に倒れた。

僕は美月の手を取り、部屋の入り口に向かったが、入り口には他の従業員が立ちはだかり、僕たちの行く手を阻んだ。

僕は用心棒のようなイカツイガタイの男にいきなり殴られ、床に倒れると、他の男たちに囲まれて、蹴りでボコボコにされた。

「やめて!」と叫ぶ美月の声だけが、微かに聞こえていた。

「その辺にしておけ、仏さんになっちまう」

高級そうな背広を着た男が現れ、克実への暴力を止めてくれた。

「お嬢ちゃん、彼氏がいるのにここに来ちゃダメだな。裸で金を稼ぐには生半可な気持ちじゃ困るんだ。今回だけは許してやるから、血だらけの彼氏を連れて帰んな。次来た時は、その可愛い顔と身体でたくさん稼いでもらうからな」

僕は美月に肩を借りて、足を引きずりながらプロダクション事務所を出た。

ビルの前を偶然通りかかったタクシーを拾い、二人はなんとかタクシーに乗り込んだ。

僕は全身に力が入らず、タクシーの揺れとともに身体の痛みを耐えながら美月の身体に寄りかかっていた。

美月は泣きながら、僕にごめんねを繰り返す。

家に着くと、ボロボロになった服を脱ぎ、濡れたタオルで、美月が傷や汚れた身体を拭いてくれた。

僕の背中を見た時、美月の手が止まり、背中の傷痕を尋ねてきた。

「この傷、どうしたの?」

「それはさっきできた傷じゃないよ。子供の頃に火事で火傷した痕、よく覚えてないんだけど、かなりの重傷だったらしい」

「可哀想」

「ごめん、気持ち悪いよね。手足が痛くて、うっかりしてた。背中は拭かなくていいよ」

「ごめん、気持ち悪いわけじゃないの。ちょっとびっくりしただけ」

美月はそう言いながら、背中も拭いてくれた。

翌日、右腕と左足の痛みが引かず、病院に行くと、両方とも骨折していた。

その日は大学とバイトを休み、家でじっとしていた。美月が、ずっとそばにいてくれた。

数日後、大学は松葉杖をついて登校したが、利き腕の骨折でバイトには支障があり、一旦ハンバーガーショップのバイトは辞めることにした。

責任を感じた美月は、ハンバーガーショップ以外に居酒屋のバイトを始め、僕の分までお金を稼ごうと頑張ってくれているが、僕は美月に無理をしないで欲しかった。

夏休みになると、腕の状態もかなり良くなり、僕は同じバイト先に復帰し、美月に居酒屋のバイトを辞めてもらった。


ある日、バイト先に二人の刑事がやってきた。

店長を呼び出し、1枚の写真を見せて、何かを尋ねていた。

「確かに似てますが、名前は鯨岡美月ですけど」

美月の名前が出て、僕は刑事と店長の話が気になった。

「確か、電話を持っていないはずです。住所なら履歴書で確認できますが、事務所にありますので取ってきますよ」

刑事は、店長が事務所に履歴書を取りに行くのに同行して行った。

刑事が美月を探しているのは何故だろう。

もしかすると、美月は家出少女で、本当は生きている家族が探しているのかもしれない。

明日美月がバイトに出てきた時、店長が警察に連絡して、刑事に美月が連れて行かれることを想像した。

僕は、どうするべきか、どうしたいのかをゆっくり頭で考えた。

できれば、このままの生活を続けていきたい。それが僕の本音だ。

事務所から出てきた刑事は、足早に店を出て行ったが、数時間後、同じ二人の刑事が再び店長を尋ねて戻ってきた。

「店長さん、さっき聞いた住所はデタラメですよ。番地が実在していませんでした。他に彼女の居場所に、心当たりはないですか?」

「そこまでは、わかりませんね。明日シフトが入ってますから、本人が出勤すればわかると思いますけど」

「わかりました。明日の出勤時間は?」

「朝の10時から勤務ですから、その前には出勤します」

「明日もう一度出直します。我々のことは本人には内緒でお願いします」

「わかりました。あのー、鯨岡は何かしたんですか?」

「申し訳ありません。捜査に関することは、お話できません」

僕は、店長と刑事の話を聞いていないふりをして、すべて聞いていた。

バイトが終わり、店長に挨拶した際、刑事が来ていたことを尋ねてみた。

「あー、鮎川くんは時間帯が違うからあまり会ったことがないと思うけど、前にクジラって紹介した女の子いたでしょ。よくわからないけど、刑事が彼女を探してるみたいなんだよな。履歴書の住所がデタラメで、困っちゃったよ」

「みんな様々な事情を抱えて生きてるんですね」と言って、店を出た。

僕はそれ以上首を突っ込んで、怪しまられることを警戒した。

すぐに美月に連絡したかったが、周りの目を気にして、あえてスマホを見ずに家まで帰った。

家の中に入ると、すぐに鍵をかけた。

「お帰り、カッちゃん」

僕は人差し指を唇に立てて、声を出さないように合図した。

美月は、不思議そうな顔で僕を見ていた。

「鯨岡さん、聞きたいことがあるんだ。念のため小さい声で話してほしい」

美月は無言で、ちゃぶ台のようなテーブルに料理を並べていく。

チンジャオロース風の野菜炒めと煮魚から出来立ての湯気が上がって、美味そうだった。

「さっきバイト先に、刑事が2人訪ねてきた」

美月の顔の表情が微かに変わった。

「店長の話では、鯨岡さんを探しているらしい」

美月は黙って僕の話を聞いている。

「名前は鯨岡美月ではないらしいけど、刑事が持っていた写真は、クジラだったって店長が言ってた。刑事は鯨岡さんの連絡先を聞いていたけど、店長は鯨岡さんが携帯を持っていることを知らないから、履歴書に書いてあった住所を刑事に伝えた。一旦お店を出て行った刑事が、しばらくするとお店に戻ってきて、履歴書の住所はデタラメだったと店長に伝えたんだ。鯨岡美月さん、本当の君は別の人なの?」

真剣な表情で聞いていた美月の顔が、シラけた笑いの表情に変わった。

「カッちゃん、教えてくれてありがとう。とうとうバレちゃったか。できればこのままの生活を続けていたかったな。でも、いつまでも嘘をついてるわけにもいかないよね」

「やっぱり、鯨岡美月さんじゃないんだね」

美月はぎこちない笑顔のまま話す。

「ごめんね。詳しい事情を、今は話せないの。でも、私は警察に捕まるようなことはしてない。それだけは、信じて。もうバイトには行けないし、カッちゃんに迷惑をかけたくないから、私明日、ここを出て行く」

「ちょっと待って、どうしてここを出て行かなくちゃいけないの?」

「だって、カッちゃんに迷惑かけたくないもん」

「僕のことはいいんだ。鯨岡さんのことが心配なんだ」

「ありがとう。カッちゃんの気持ちだけで十分だよ。私、カッちゃんに出会えて本当に良かったと思ってるよ」

「まだ、警察は僕のことを疑ってない。しばらくはここにいた方が安全だと思う」

「私、カッちゃんを巻き込みたくない」

「今更遅いよ。鯨岡さん、しばらくこの家から出ちゃダメだ。僕が守るから、ここに居てくれ」

美月は何も言わずに、克実の顔をじっと見つめていた。


翌日、学校からバイト先に行くと、また刑事が店長と話していた。

「来ませんね。無断欠勤は初めてです。まるで刑事さんがここにいるのを、知ってるみたいですね。誰かが鯨岡に伝えたのかもしれませんね」

店長の発言に、一瞬ドキッとした。

僕は、仕事に集中しているフリをして、刑事と店長の会話に耳を傾けていた。

その後、従業員が一人一人事務所に呼ばれ、鯨岡美月について知ってることがないか聞かれ、僕の順番がきた。

「僕は、すれ違う程度で、ほとんど話したこともありません」と答えると、すんなり解放された。

この日のバイトが終わり、帰る途中、誰かに後をつけられているような気がして、コンビニに寄ったりして、様子を見たが、相手の姿を見つけることはできなかった。

家に入ると電気は真っ暗で、僕は部屋の電気を点けた。

これは美月と話し合っていたことなので、予定通りのことだった。

机にカバンを置いて、ロフトを見上げると、顔だけ出して、美月がお帰りを口の形で伝える。

僕も同じように、ただいまを声を出さずに伝えた。

僕は美月が作った料理をテーブルに運べて、一人でご飯を食べ始めると、美月がロフトから降りてきて、バイト先の様子を聞いてきた。

「やっぱり警察が待ってたよ。店長が無断欠勤は初めてだって言ってた。それと、警察がいることを誰かが教えたんじゃないかって疑ってた。意外に鋭いね」

「そうなの、あの店長、普段はチャランポランに見えるけど、結構周りを見てるの。要注意人物よ」

「たぶん、この後に狙われるのはバイト代の引き落としだね。おそらく引き落とした時のカメラの画像や場所で潜伏先を絞られると思う」

「変装して、遠くの銀行で降ろすとか」

「そうだね、第三者にお願いする方法もあるけど、仲間を増やすとかえって足がつきやすくなる。僕が変装するのが一番いいかな」

「カッちゃんが女装するとか」

美月は僕の女装姿を想像して笑った。

「別に女装する必要はないよ。変装すればいいんだから」

僕は少し不愉快な気持ちで反論した。

「一日中家の中にいると退屈。私も変装して外に出たいな」

「じゃあ、男装してみる?」

僕はお返しに美月の男装を想像して笑った。

「いいね。男装してみたかったんだ。カッちゃんの服を貸してよ」

美月は僕のシャツとGパンを履いて見せた。

「どうかしら、似合う?」

サイズはゆるゆるだったが、正直普通に似合っていた。

「似合うけど、男装になってないよ」

「帽子とメガネとマスクすれば」

「ダメだよ。胸の膨らみで女だってわかる」

「カッちゃんのエッチ」美月は両腕で胸を隠した。

そんなつもりじゃなかったのに、まるで変人みたいに美月が僕を睨んだ。


翌日、大学の授業が終わって、スーパーで買い物をして帰った。

美月に頼まれて女性用の生理用品を初めて買った。恥ずかしくて、レジのおばさんの顔を見ることができなかった。

アパートに美月の姿がなかったので、メールをしてみた。

すぐにメールの返信があり、渋谷に洋服を買いに行っているとのこと。

警察に捕まるかもしれないのに、堂々と出掛ける度胸には感心と虚無を感じた。

頑張って生理用品を買った努力は、報われずに忘れられそうだ。

夕方になると、玄関の鍵を開けて、突然見知らぬ男が入ってきた。

「誰だ!」

僕はキッチンから包丁を持って、身構えた。

美月は警察以外にも誰かに追われているのか。

男はサングラスを外した。

「カッちゃん、私だよ。美月」

よく見ると、美月だった。

マスクを外し、帽子を取って髪を下ろすと、美月の顔が現れた。

「カッちゃん、包丁、危ないよ」

「だって、知らない男が突然入ってきたから、殺されるんじゃないかと思うじゃん」

「変装、大成功。これなら時々外に出れるでしょ」

「あまりびっくりさせないでよ。寿命が縮まったよ」

「カッちゃん、旅行に行きたい」

「突然どうしたの?」

「ずっと東京のコンクリートジャングルにいたから、自然の新鮮な空気を吸いたい」

「どこに行きたいの?」

「愛媛の松山」

「四国か、僕の生まれた場所」

「カッちゃん、いつ行く?」

「いきなり?冬休みか春休みまでは無理だよ」

「やっぱり春かな。桜が満開の春」

「頑張ってお金貯めなちゃ」

「私も頑張る。あまり外に出られないから、絵を描く」

「絵が描けるの?」

「子供の頃から絵は得意なの」

「ネット販売するなら、僕のパソコン使うといいよ」

「ありがとう。来年の春、松山に行こうね」

二人で指切りげんまんの約束をした。


バイト先に刑事が来なくなった。

「店長、最近刑事さん来ませんね」

「クジラが現れないから、他探してんだろ」

「クジラさんは、何をしたんですかね」

「内緒だぞ。俺の勘だが、殺人事件だな。しかも、地方の事件だ」

「なんでわかるんですか?」

「片方の刑事は、言葉に訛りがあった。地方の警察と警視庁が合同で捜査してるんだろう。刑事が捜査本部の会議時間を気にしてたから、それだけの規模で捜査してるってことは、殺人事件の可能性が高い。まぁ、あくまで俺の勘だけどな」

「クジラさんが人を殺したんですかね?」

「どうだろうな、人の過去には何があったかまではわからない、嫌な思い出はみんな隠したがるからな」

「店長、詩人ですね」

「何言ってんだ。早く仕事しろ」

僕は持ち場に戻った後も、店長の勘ではあるが、殺人事件の可能性を気にしていた。

店長の観察力は鋭い。

美月の正体は、一体何者なのだろうか。


人々の服装が厚着になり、いよいよ冬の到来を感じる季節。

「カッちゃん、冬物の服が全然ないんだよ」

「鯨岡さんは、ずっと家の中だから必要ないでしょ」

「酷い、私だって女の子なんだよ。ファッションだって気にするし、部屋の中だって暖かい服を着たいじゃない」

「そうなの?」

「そうだよ。一緒に冬服買いに行こうよ」

「鯨岡さんは警察に追われてるのに気楽だね」

「変装していくから大丈夫だよ。たまにはデートしたくない?」

「僕、鯨岡さんと一緒にいると、いつも落ち着かないんだよ。疲れるんだ。いつまでこんな生活を続けなちゃいけないんだよ」

「今日のカッちゃん、いつもと違う」

「僕だって、いつもいつも同じ感情じゃないよ。人間なんだから、喜怒哀楽は少なからずあるんだよ」

つい、感情の苛立ちを声に出してしまった。

美月の能天気な提案に、今まで我慢していた不満が堰を切ってしまった。

美月はそれ以上何も言わずに、ロフトへ上がってそのままその日は降りてこなかった。

自分の感情をコントロール出来ずに美月に不満をぶつけてしまったことを心の中で反省していたが、その日は素直に謝る気持ちにはなれなかった。

翌日、僕は美月が起きる前に家を出た。

なんとなく、顔を合わせるのが気まずい気がした。

コーヒーショップでモーニングセットを食べて、学校に向かった。

バイト先から家に帰ると、家の電気は消えていた。

最近は警察の気配がなかったので、夜になると電気が点いていることの方が多い。

鍵を開けて部屋に入ると、部屋の空気がひんやりしていて、いつも感じる人の温もりのような空気感がなかった。

僕はあえて、ただいまって言ってみたが、何も起こらなかった。

電気を点けて、ロフトへの梯子を登ると、ロフトに美月の姿はなく、美月の荷物も無くなっていた。

僕はすぐに美月へ電話をしたが、携帯の電源は切れていた。

昨日のことを怒って、出て行ってしまったのだろうか。

僕はどうして、美月に優しくしてあげられなかったんだと、反省した。

美月がここを出て、行きそうな場所にまったく見当がつかなかった。

僕は家を出て、あてもなく二人で行ったことのある池袋、新宿、渋谷を、夜中に探し回った。

僕は何をやってるんだろう。こんなことをして、見つかるほど東京は狭くない。それでも、じっとしているよりはマシだった。

渋谷の公園のベンチに腰掛け、美月のことを考えた。

最初は強引に押しかけてきて、戸惑ったけど、毎日一緒に暮らして、たくさんの話をして、楽しいと思えるようになった。彼女を助けて大怪我をした時も、彼女を守るために必死だった。彼女のためなら、僕の命を差し出してもいいとさえ思った。

毎日僕のために美味しい料理を作ってくれた。このままずっとそばにいてほしいと思っていた気がする。

僕は美月のことを好きになっていることに気づいていたのに、言葉で伝えることはなかった。

警察が追っていることを知りながら、彼女を守ることしか考えてなかった。本当は、彼女の話を聞いて、彼女が誰かを殺めたのならば、罪を償わせて、帰りを待ってあげるのが本当の愛だったのではないか。

僕は、本当に美月のために行動していたのだろうか。むしろ、間違った道に導いていたのではないだろうか。

僕は、僕を許して美月が帰って来てくれることを心から祈った。

そう言えば、美月は僕のことをカッちゃんて呼んでいるのに、僕は今だに鯨岡さんって呼んでいる。もっと彼女と心を近づけたい、通わせたい。今度会ったら、彼女をクジラと呼ぼう。違う、それじゃバイト先の店長と同じレベルでしかない。よし、思い切って美月って呼んでみようと思う。

そしていつかは、本当の名前で呼んでみたいと思った。

僕は早朝に動き出した電車に乗って、家に帰った。その日は学校とバイトを休み、美月の描いた絵と美月の写真をパソコンでずっと眺めて過ごした。

何度か電話をかけてみたが、電源は切れたままだった。僕は、美月にメールを送った。

「美月、僕には君が必要だということがわかりました。僕は君のことが好きなんだと思います。いつまでも君の帰りを待っています」


美月からの連絡がないまま年の瀬を迎え、僕が茨城の実家に帰ると、母親は陽気に迎えてくれた。

「お帰り、ひとり?美月ちゃんを連れてくるかと思って期待してたのに」

母親は、開口一番、美月のことを口にした。

「美月は千葉の実家に帰ってるんだ」と、僕は母親に嘘をついた。

「おかしいわね。お父さんは事故で、お母さんは病気で亡くなったって言ってたから、ご実家はないのかと思ってたわ」

「そうだった、地元の友達と約束があるって言って、千葉に帰ったんだった」

母親の話に合わせ、嘘に嘘を上塗りした。

僕には、両親とも交通事故で亡くなったと言っていた。どっちが本当なんだろう。美月は、まだまだ、秘密だらけだ。

「そう、残念ね。お父さんも克実の彼女に会いたいって、楽しみにしてたのに」

「また機会があれば連れてくるよ」

年末年始を実家で過ごし、年明け最初のバイト日に合わせて、僕は東京に戻った。

美月のいない日々は、まるで無味無臭の時間のように過ぎていき、初めて一人で過ごす冬は、いつも以上に心の寒さを感じた。


美月と松山に行く約束をした春の季節がやってきた。

ある日、ふと携帯を見ると、美月からのメールが届いていた。

喜びのあまり、携帯電話を落としそうになる。

「カッちゃん、心配かけてごめんなさい。約束通り、一緒に松山に行こう。桜が咲く4月1日、午後3時、松山城本丸広場で待ってます」

僕はすぐに携帯で電話をかけたが、電源は切れていた。

メールの返信をしたが、その後返事は来なかった。

美月の行動は不可解だが、美月に会えると思うだけで心は踊った。


4月1日、羽田発松山行きの飛行機に乗って松山へ向かった。

松山空港からリムジンバスに乗り、大街道というバス停で降りた。

目の前には東京にもある老舗の百貨店があり、反対側の方に山があり、山頂付近に松山城らしき建物が見えた。

少し早めに着いたので、昼食を食べることにして、大きなアーケードの中を歩いてお店を探していると、自分がバイトしているハンバーガーショップを見つけた。松山まで来て、わざわざバイト先のチェン店に入ることもないと思ったが、もしかしたら美月がいるかもしれないと思って、ついハンバーガーショップに入ってしまった。

カウンターで注文をして、トレーにのったハンバーガーとフライドポテトと飲み物を持って、カウンター横の階段で二階に上がった。

ガラス張りの通りに面したカウンター席に座り、ガラス窓の外を見ると、アーケードの商店街を歩く人たちが眼下に見えた。ハンバーガーを食べながら、なんとなく行き交う人の中に美月の姿を探していた。

3時になれば、松山城の本丸広場で美月に会えるのだが、心は早く会いたいと急かす。

松山城は山の山頂にあり、山頂までは坂道を歩くか、山頂付近までケーブルカー、リフトを使う方法がある。

僕は春の陽気が気持ちいいことと、美月への謝罪の意味を込めて、歩いて登ることを選択した。

長い坂道を登っていると、昔この道を歩いたことがあるような記憶があった。

確かに、生まれたのは愛媛だったが、幼過ぎて詳しい場所を覚えていない。

木々の間から、こぼれ日がキラキラ光って綺麗だった。

樹木が途切れたところから松山の街が見え、登った山の高さを実感した。

山頂近くの城の門をくぐり、石段を登り切ると、突然視界が広がり、山頂の大きな広場の先に松山城の天守閣が見えた。

広場の周りにはたくさんの桜の木があり、ピンクの花を咲かせ、天空に迷い込んだような幻想的な世界だった。この風景も、昔、見たことがあるような気がした。

広場の中央付近まで歩いて行き、写真を撮る観光客たちの中に美月を探し、360度見渡した。

その時、広場の端の桜の木の下から僕を見ている美月を見つけた。

僕は馳せる気持ちを抑えながら、美月の元に歩いていった。

「お待たせ、美月さん」

「約束の時間よりだいぶ早いよ、カッちゃん」

「やっと会えた」

「ごめんね。でも、カッちゃんにはどうしてもこの松山に来てもらいたかったの。本当の私を知ってもらうために」

「本当の美月さんって、どういうこと?」

美月はカバンの中から共同でお金を貯めた銀行の通帳を取り出し、僕に差し出した。

「私の分は半分引き出したから、残りはカッちゃんの分」

なんだか別れを告げられているようで、僕は寂しさを感じた。

「じゃあ、行きましょうか」

美月は松山城の天守閣に背を向け、下山するために歩き出した。

美月は坂道を下ることに慣れた様子で、僕は美月の歩く速さについて行くのがやっとで、話しかける余裕さえなかった。

むしろ、美月が僕に話しかける余裕を与えないようにしているように感じた。

山の下まで降りると、美月が大通りでタクシーを止め、二人で乗り込んだ。

美月が行き先を告げ、窓の外を悲しい顔で見ていた。僕はそんな美月を見て、やっぱり話しかけられなかった。

タクシーはある公園の前で止まり、美月が代金を支払い、二人でタクシーを降りた。

また、美月が歩き出し、公園の中に入って行く。

遊具などを見ると、比較的新しい公園らしい。

背もたれのついた木製のベンチに美月が腰掛け、隣に僕が座るスペースを空けて僕を待っている。

僕は無言で美月の隣に座り、公園で遊ぶ子供たちの姿を見ていた。

太陽の日差しが少し柔らかくなった空気の中、大きく深呼吸をした美月が、前を向いたまま話し始めた。

「15年前、ここには私のお父さんが経営する印刷会社があったの。でも、火事で全部が灰になっちゃった」

美月の言葉で、僕の頭の中で忘れかけていた記憶が微かに蘇った。できれば思い出したくない記憶が、僕の胸を締め付けるのを感じていた。


〔15年前・松山〕

横濱栄治は、印刷会社を父親から受け継ぎ、新規顧客の獲得などで業績を伸ばし、工場の増設や新しい印刷機の導入などで、事業の拡大を図っていた。

暑い夏の日、盆休みで会社は休暇に入っていたが、贔屓の得意先からの要請で、急遽印刷作業を請け負うことになった。

営業担当の松浦と印刷工の鮎川に出勤してもらい、3人だけで対応することになった。

松浦の妻は、娘と早めに里帰りしていたため、8歳の息子、俊彦が家に残っていた。

鮎川も、妻の晴美の父親の体調が思わしくなく、一人で先に東京の実家へ帰っていたため、4歳の息子、克実が残っていた。

急遽の出勤だったため、松浦と鮎川は共に息子を会社に連れて行き、会社の敷地内で遊ばせておくことになった。

「俊彦、克実くんの面倒をちゃんと見るんだぞ。会社の外には絶対出るなよ、わかったな」

松浦が、息子の俊彦に克実の面倒を任せた。

「わかったよ、克実くん一緒に遊ぼ」

俊彦は克実を連れて、営業部の応接室に行き、家から持ってきた携帯型ゲーム機で遊んでいた。

その間に、鮎川が印刷機に銅版をセットして、印刷の準備をしていた。

試し刷りをしては、社長の横濱と営業の松浦に確認を取り、色調整をしながら順調に作業を進めていた。

「克実、ゲームも飽きたし、探検に行こうぜ」

俊彦が克実を誘った。

「探検?どこに」

「工場の中だよ、父ちゃんが外に出るなって言ってただろう」

「工場に勝手に入ったら怒られるよ」

「大丈夫だよ、会社の外には出るなって言われたけど、工場の中には入るなって言われてないだろう。俺に任せろ、行くぞ」

俊彦は強引に克実を連れ出し、工場の中に侵入した。

パレットに印刷した用紙が積まれていて、その間を探検隊のように通り抜けて遊んでいた。

俊彦はポケットから父親の百円ライター取り出し、克実に見せた。

「これなんだか知ってるか」

「知らない」と、克実は答えた。

「お前の父ちゃん、タバコ吸わないんだ?」

「吸わない」と、克実。

「これさ、このギザギザの部分を擦ると火がつくんだぜ。ほら」

俊彦がライターの上の部分を指で回すと、炎が上がった。

「克実もやってみな」

克実は俊彦からライターを受け取り、俊彦と同じように指で回してみたが、指の力が弱く、火を灯すことができなかった。

「ダメだな。こうやるんだよ」

俊彦は克実からライターを取り上げ、自慢げにもう一度火をつけて見せた。

「ここにあるレバーを動かすと、火が大きくなるんだぜ」

俊彦は右手でライターの火をつけたまま、左手でレバーを動かそうとした時、力を入れ過ぎた勢いでライターを落としてしまった。

ライターの火が積んである紙に燃え移り、瞬く間に炎が大きくなっていった。

「やべえ、どうしよう。克実、逃げるぞ」

俊彦は克実を置き去りにして、走り出した。

克実はパレットにつまずき転んだ。逃げ遅れ、必死に逃げ出そうとしたが、火の回りが早く、どこに逃げたらいいのかわからない。俊彦の姿を見失い、克実は泣きながら、ひたすら走った。出口がわからず戸惑っていると、着ていた服に火が燃え移り、背中が燃えてパニックになった。

このままじゃ僕は死んじゃうと克実が思った時、「克実くん」と克実の名前を呼ぶ声がした。

横濱栄治が克実を見つけ、着ていた作業着を脱ぎ、克実の背中の火を叩いて消した。

タオルで克実の鼻と口を押さえ、克実を抱き抱えて出口に走り出した。

途中で父親の鮎川に克実を預け、克実は工場の外に脱出することができた。

克実は、すぐに救急車に乗せられ、病院に運び込まれた。

命に別状はなかったが、背中に大きな火傷を負ってしまった。

克実を助けた横濱栄治は、たくさんの煙を吸い込み、病院に運ばれたが一酸化炭素中毒で死亡した。

消防と警察が出火原因を調べた結果、印刷済みの用紙置き場が一番火災損傷が酷く、現場から見つかったライターが火の元だと判断された。

出火当時、現場にいたのは松浦俊彦と鮎川克実だった。鮎川克実は火傷が酷く、話を聞くのは後に回され、いち早く現場から逃げ出した松浦俊彦から、先に話を聞くことになった。

松浦の自宅を刑事が訪れ、両親に席を外してもらい、俊彦に当時の状況を尋ねた。

「僕は工場の中に入ったら怒られるって言ったのに、克実くんが行っちゃったから追いかけたんだ。そしたら、工場の中にライターが落ちてて、克実くんが火をつけちゃって、近くの紙に火がついたんだ。すぐに火が凄く大きくなって、僕は外に逃げたんだけど、克実くんが出てこなかったから死んじゃったと思った」

俊彦は淡々と人ごとのように話をした。

二人の刑事は顔を見合わせ、俊彦の証言に不審を抱いた。

「俊彦くん、ライターに君のお父さんの指紋がついていたんだけど、君がお父さんのライターを持って行ったんじゃないのかな?」

「違うよ。僕が持って行ったんじゃないよ」

俊彦はすぐに否定した。

「克実くんは、家にライターがないから、ライターの使い方を知らないはずなんだ。また、4歳の子供の力だと上手く火をつけられないらしい。君が火をつけたんじゃないのかい」

「僕じゃないよ。本当だよ。刑事さんは僕がウソついてると思ってるの。信じてくれないなら、もう話したくない。克実がみんな悪いんだ。僕は何も悪くない」

俊彦が、刑事を相手に怒り口調で泣き出した。

「ありがとう。おじさんたちも仕事で俊彦くんにお話を聞いてるんだ。君を疑っているわけじゃないから許してくれよ。ごめんな」

刑事は松浦の家から退散した。

数日後、克実から当時の話を聞くと、俊彦とはまったく話が異なっていた。

「俊彦くんが探検しようって言って、工場の中に入って行ったんだ。紙のお山に囲まれた中で遊んでたら、火をつける道具をポッケから出して、火をつけたんだ。僕にもやってみろって言ったからやってみたけど火がつかなかった。もう一度俊彦くんが火をつけて、火を大きくしようとした時落としちゃって、紙が燃えちゃったんだ。僕、火に囲まれちゃって逃げられなくて、僕、死んじゃうと思ったんだよ」

克実は当時のことを思い出して、泣き出してしまった。腕で涙を拭きながら、一生懸命話を続けた。

「背中が燃えて熱かったけど、おじちゃんが服で火を消してくれたんだ。おじちゃんが僕を助けてくれたんだよ」

二人の刑事は、克実の話を頷きながら聞いていた。

「克実くん、ありがとう。泣かなくていいよ。おじちゃんが君を守ってくれたから、もう怖くないからね」

克実に、横濱栄治の死を伝えられることはなかった。


横濱栄治には、妻の佳子と、4歳の娘の陽菜と、1歳の息子の幸治の家族がいた。

印刷会社の工場は全焼し、導入したばかりの機械も使えなくなり、会社の存続は出来なくなった。

生命保険と火災保険と会社の敷地の土地を売却して、債務の返済と従業員の退職金に充てたが、それでも借金は残った。

横濱佳子は二人の子供を育てるために、複数の仕事を掛け持ち、毎日疲れ果てるまで働いた。

古いアパートで、親子三人の貧しい生活が続き、陽菜と幸治は貧しいことで学校の同級生からいじめられていた。

陽菜が小学校5年生の時、陽菜の描いた絵がコンクールで入賞すると、廊下に展示された絵に、誰かが陽菜を中傷する言葉を落書きした。それを見た陽菜は、その場で泣きながら、入賞した絵を破いて捨てた。

それから陽菜は、人前で絵を描くことをやめた。

弟の幸治が中学生になると、服装が乱れ、不良グループと付き合うようになり、万引きや恐喝で何度も警察に補導された。

不良を演じることで、いじめから自分を守るために考えた防衛策だった。

母親の佳子は、近所の人から不良息子の母親として、後ろゆびを指されていた。

陽菜は中学を卒業すると、進学せず、年齢を偽ってキャバクラで働いたが、すぐに年齢がバレて、風営法違反で警察に補導された。

その後は、50代ぐらいの男性をターゲットに、キャバクラで覚えた色気でホテルに誘い、シャワーを浴びてる隙に現金を盗む犯罪を繰り返した。

大抵の男は妻子があり、不貞を隠すために警察には訴えない。

そんな生活をしていた陽菜が17歳の時、母親の佳子が過労で倒れ、そのまま病院で息を引き取った。

母親の死をきっかけに、陽菜と幸治は、自分たちには未来がないと悟り、家族みんなを不幸に貶めた鮎川克実への復讐を、人生最後の目標に掲げた。

鮎川家は、父の印刷会社が火事で倒産した後、松山から何処かへ引っ越して行った。

克実の将来を考えて、松山を離れたのだ。

陽菜と幸治には、克実を探す手掛かりがなかったが、母親の出身が東京だと死んだ母から聞いていたので、おそらく東京へ引っ越したと考えた。

二人は偽名を名乗り、陽菜は鮎川克実を探すため、とりあえず東京へ向かった。

幸治は、もう一人の火災の当事者、松浦俊彦に近づき、情報を探ることにした。

松浦俊彦は、引っ越すことなく、松山にそのまま住んでいたが、高校時代に素行が悪く退学処分になっていた。

飲食店などでクレームや恐喝を繰り返し、反社会勢力のような風貌で街をフラついていた。

幸治は、夜の酒場で暴れている松浦を見つけ、声をかけた。

「兄貴、スゲーな。俺も兄貴みていになりてーよ。俺を仲間に入れてくれよ」

「おもしれー、金を持ってきたら仲間にしてやるよ」

「金か、よし、ちょっと待っててくれ」

幸治は店を出て行き、5分後に戻ってきた。

「兄貴、今そこにいた奴から金を引ったくってきたけどよ、これしか持ってなかった」

5万円以上の入った財布を松浦に渡した。

財布の中身を確認した松浦は高笑いし、面白いやつだと言って、幸治を仲間に迎え入れた。

幸治は自分を、「鮫島幸太郎」と名乗った。

ある日、東京へ向かった姉の陽菜から、偶然鮎川克実を見つけたと連絡が入り、殺す機会を伺っていると伝えてきた。

その頃幸治は、松浦と毎晩つるみ、松山の酒場をフラついていた。

そんなある日、幸治は何気ないふりをして、あることを松浦に尋ねた。

「兄貴、●●町にある公園って知ってるか?」

「あぁ、昔、恒栄社という印刷会社が火事で焼けちまった跡だろう」

「よく知ってんな」

「幸太郎、いい事教えてやるよ」

幸治を指で手招き、幸治の耳に囁いた。

「その火事、俺が火をつけたんだ。ワッハッハ」松浦は醜い顔で、高笑いをした。

「何で火をつけたんだ、兄貴」

「うちのオヤジがそこで働いててな、社長の野郎がうちのオヤジを叱りやがって、ムカついたからライターで火をつけてやった。確か、その社長、火事で死んじまったんだ。馬鹿みたいだろう」

「兄貴、犯罪で捕まっちまうじゃねーか?」

「その時一緒にいた克実っていうチビに、罪をなすりつけてやった。警察の馬鹿が俺のウソを信じて、俺はセーフってわけだ」

俊彦の話を聞いていた幸治の顔から徐々に笑顔が消え、怒りの顔へと変わっていった。

「兄貴、子供のイタズラを世間は許しても、俺は許さねーぜ」

幸治は、懐から出した出刃庖丁を松浦の胸を目掛けて突き刺していた。

松浦は悲鳴とともに椅子から転げ落ち、二人に気づいた酒場の客が大騒ぎし、幸治はそのまま店を飛び出した。

幸治は逃走中、姉の陽菜に連絡をした。

「姉ちゃん、オヤジを殺した本当の犯人は松浦俊彦だ。俺は今、松浦を殺してきた。もう、鮎川克実をやっちまったか?‥‥‥良かった。姉ちゃんは人殺しになんかなるなよ。じゃあな」

数日後、陽菜は松山に戻り、幸治を探した。

子供の頃の記憶を頼りに幸治を探し、昔母と三人で行った興居島の民宿で幸治を見つけた。

民宿はすでに廃業し、誰も住んでいない空き家になっていた。

幸治は陽菜が来ることを予測していたように、驚くこともなく迎え入れた。

「幸治、もう復讐は終わり。自首して、帰って来なさい。私が待っててあげるから」

「姉ちゃん、俺は自分で自分に片付ける」

「ダメ、松浦のために幸治が死ぬことなんかない」

「もう十分だ。親父とお袋の仇は討った。もうこの世に未練はない」

陽菜は、幸治の頬を叩き、涙を流した。

「幸治、姉ちゃんを一人にしないで。もうこれ以上悲しい想いはしたくない。私を一人にしないでよ」

陽菜は両手で幸治の服をギュッと掴み、返事をするまで泣き続けた。

「面倒くせーな。わかったよ」

横濱幸治は、翌日、松浦俊彦の殺害で警察に出頭した。


〔現在〕

「カッちゃん、私があなたに近づいたのは、あなたを殺すため。本当の私がわかったでしょ。これですべて終わり、サヨナラ」

公園で遊んでいた子供たちは家に帰り、電灯に照らされた公園には、僕と美月だけだった。

「どうして僕をすぐに殺さなかったの?」

「カッちゃんの家に転がり込んで、隙を見て殺すつもりだった。だけど、あなたは隙だらけで、いつでも殺せそうだったから、躊躇してしまったの」

「でも、君は僕を殺さなかった」

「もし、カッちゃんが私を襲ったら、性犯罪で訴えるつもりだった。でも、あなたは私の嫌がることを決してしなかった。むしろ、いつも私を守ってくれた。あなたが大怪我をした時、私を命懸けで助けてくれてることがわかった。背中の火傷の痕を見たとき、あなたもあの火事の被害者なんだって思った。私にはあなたを殺すことはできなかったのよ」

「美月、いや、陽菜、僕は君を愛してる。陽菜が僕の元からいなくなった時、わかったんだ。僕は君を心から愛していることを。僕と付き合って欲しい。そしていつか、僕の両親に君のことを話す。きっと祝福してくれるはずだ。僕の両親は、僕を助けてくれた君のお父さんに感謝していたから」

陽菜は俯き、泣いていた。

「陽菜、僕の命は君のお父さんに救ってもらったんだよ。だから僕は、君のお父さんの分まで君を幸せにしてみせる。陽菜、僕は、世界で一番君が好きだよ」

陽菜は、克実の胸に飛び込み、涙が止まるまでしがみついていた。

その日の夜、克実と陽菜は愛し合い、松山で永遠の愛を誓った。





























































  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

クジラの秘密 @LIONPANDA1991

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ