第8話 人と魔族と王女と君と


 ──サフィア。


 ──ねえ、サフィア、起きて。



 どこからともなく声がする。

 呼びかける誰かの声に導かれ、サフィアはゆっくりと目を開けた。


 周囲一帯は漆黒の闇に包まれている。ここはどこだろうか。サフィアは訝り、目をしばたたく。



「ねえ、起きてってば」



 どこかで聞いた覚えのある声。

 旨の奥がざわざわと騒ぎ立てるその声。

 サフィアは得体の知れない恐ろしさを覚え、ぎこちなく振り返った。


 しかし、そこには誰もいない。



「こっちよ、こっち」


「……っ」


「うふふっ、こっちだってばぁ!」



 声のする方に何度目を向けても、その姿は一向に視界に映らない。嫌な予感は膨らむばかりで、サフィアは少しずつ後ずさる。



「ねえねえっ」



 この声を知っている。



「どうして逃げるの?」



 彼女のことを覚えている。



「どうせ逃げられないのに」



 パキッ、パキッ……。


 耳を塞ぎたくなる恐ろしい音が聞こえて、サフィアは自身の足元に視線を落とした。


 パキッ、パキキッ……。


 爪先、足首、ふくらはぎ……それらの部位はいつの間にか硬化し、真っ赤な宝石に変わっている。


「ひっ……!!」


 血の気を失い、サフィアは戦慄した。しかし重たい足では立ち上がることすらできず、彼女は地面に力なく倒れた。

 恐怖に駆られたサフィアは地面を這いずり、その場から逃げ出そうとする。しかし体は徐々に重くなり、真っ赤なルビーに侵食されていく。



「嫌だ!! 助けて!!」



 叫ぶ声は誰の耳にも届かない。



「お願い、誰か……!」



 手を伸ばしたくとも持ち上がらない。



「だ、ぇ、か……っ」



 ついに口元までルビーに侵され、声すら出なくなっていく。


 誰か助けて。ここから出して。


 切に懇願したその時、暗闇の中で誰かがサフィアの手を掴んだ。

 姿の見えない何者か。

 涙を流して身をすくめるサフィアの頬に触れ、顔の見えないそのひとが嘲笑わらう。



「ルビーの中でしばらくおやすみ、愛しい子」



 サフィアの視界が赤色に埋め尽くされた瞬間、布で顔を覆い隠した恐ろしい王女が、すぐ目の前にまで迫ってきて──



「いやああぁっ!!」



 そして、サフィアは目を覚ました。



「っ……!」



 チチチ、チチチ……穏やかなさえずりが耳に届き、視界の端から数羽の小鳥が飛び去っていく。

 優しい木漏れ日は風とともに揺らぎ、周囲には草花が咲き、首を傾げた小動物が、サフィアの顔を見下ろしている。


「……ここ、は……?」


 掠れた声を絞り出したサフィアは、背中にじっとりと嫌な汗が浮かんでいるのを感じながらまばたきを繰り返した。

 そんな彼女の元へ、騒がしい足音が近付いてきたのも、それからすぐのことで。



「あっ、起きたっ!」


「!?」


「おはよーっ、サフィアっ!」



 それまでの悪夢を霞ませるほどの明るい声で名前を紡いだのは、まったく知らない人物だ。サフィアは困惑し、警戒しながら上体を起こした。



「へっ……?」


「サフィア、おはよ!」


「え、あ、お、おはよう……でも、あの」


「ん?」


「……誰……?」


「ぼく!」



 ハツラツと答える高い声。しかし全然答えになっていない。

 サフィアの元へぴょこぴょこと駆け寄ってきたのは、まだ年端もいかない、短い黒髪の男の子だった。

 その顔に見覚えはない。彼は嬉しそうにサフィアのそばへやってくると、笑顔でちょこんと腰掛ける。



「ねえねえ、どーしたの? 顔色がとってもわるいよ?」


「え、えっと」


「あ、もしかしておなかすいた? えへへ、ぼくもぼくも! いっしょにご飯食べよ!」


「いやあの、結局あなたは誰……」


「あのね、さっきね、サフィアの好きなものあったから、拾っといたの」



 困惑するサフィアを置いてきぼりに一人で話を押し進め、見知らぬ少年は着ている黒いボロ切れの中に手を突っ込む。



「サフィアは、これが大好きだもんねっ」


「す、好きなものって……」


「はいっ!」



 ごろんっ。


 少年は質素な黒い服の裾をたくし上げ、一体どこに収めていたのか、ずしりと重たい巨大な卵をサフィアの腕に落とした。「ひい!?」唐突なことに思わず狼狽えるが、少年はニコニコと満足げだ。



「どーお? 元気になった?」


「へっ、ちょ、ええ!? あ、あなた、こんな大きい卵どこに持ってたの!? 人間の赤ちゃんぐらいの大きさあるわよ!?」


「えっと、お腹の中?」


「お腹の中っ!?」


「うんっ。ぼくのお腹ね、どこか広ーい場所に繋がってて、いろんなものを収納できるの。だからね、サフィアのこともね、ぼくがパクッて食べて、飛んで運んできたんだよ!」


「わ、私を運んできた? パクッと、食べて……?」



 不可解な発言に首を傾げつつ、サフィアは腕の中の卵に視線を落とす。しかし、冷静に考えてみると、それらの発言はあるひとつの可能性と結びついた。


「……あなた、まさか……」


 頭に浮かぶ生命体。恐る恐る、彼女は尋ねる。



「……プシュケ?」


「うんっ、ぼくプシュケ!」



 弾ける笑顔を振り撒いて、なぜか少年の姿になっている精霊・プシュケが頷く。


「えええーー!?」


 サフィアは驚愕して叫んだ。



「ほ、本当に!? 本当にあなたプシュケなの!? なんで子どもの姿に!?」


「わかんなーい。ぼく、バルツェに言われた通りに二人のことをパクッてしてね、船から離れたんだけど、気付いたらこんな姿だったの」


「っ……!」



 そこまで情報を開示されてようやく、サフィアは自分たちの身に何が起きたのかを思い出した。


 魔空挺アーク・バレーナが人間の差し向けた人工機械種オート・マキナリーに襲撃され、バルツェがスパイだと疑われて、騎士団長のミストに斬り付けられた──ハッと目を見張ったサフィアは、すぐさま自身の背中を確認する。

 たしかにこの身を斬られたはず……だが、痛みや違和感は特にない。



「あ、あれ? まさか、もう治ってる……? 私、けっこう深く斬られたはずなのに……」


「サフィア、怪我したの? だいじょーぶ? 頭よしよししてあげるね」


「え? あ、ありがと……じゃなくて! バルツェは!? 彼も怪我してたでしょ!? どこにいるの!? ま、まさか、死……っ!?」


「ちょいちょい、勝手に殺さないでくださいよ、姫様」



 ざく、と木の葉を踏みしめ、それまでどこかに消えていたバルツェがふらりとその場に現れる。「バルツェ!」サフィアはほっと安堵した表情で頬を緩め、巨大な卵をそばに置いて彼の元へと駆け寄った。



「よかった、無事だったのね! 怪我は!? あなた、深く刺されてたでしょう!?」


「もう治った。あの程度の傷じゃ魔族は死なないよ。それより姫様の怪我の方が心配なんですが」


「そ、そう……? でも、私も大丈夫みたい。ほら、ちゃんと動けているでしょ」



 くるり、サフィアはその場で軽快に回ってみせる。彼を安心させようと考えての行動だったものの、バルツェの表情はどこか暗く、「そっか、それは良かった」と目をそらされてしまった。


 サフィアは眉尻を下げ、言葉を詰まらせる。いつにも増して覇気がない。

 あんなことがあったのだから、きっと彼も落ち込んでいるのだろう。



(そ、そうよね……仲間に殺されかけたんだもの……。きっと辛いわよね)



 こういう時、何と声をかければいいのか、サフィアにはわからなかった。

 仲間たちから無実の罪を着せられ、半強制的に追放されるような形になってしまった彼。いつも飄々としているが、きっと色々思うところがあるだろう。



「あ、あのね、バルツェ、その……」


「同情なんかしなくていいよ」


「え……」


「俺、何も気にしてない。いつかこういう日がくるとは思ってたし」



 何か適切な言葉を選ぼうと迷っているうちに、バルツェはいつもと変わらない口調で言葉を放つ。


「それより、動けるなら早くどこかに身を隠しましょう。できる限り遠くに転移したつもりだけど、おそらく魔空挺アーク・バレーナは追ってくる」


 さらにはそう続けて、移動の準備を始めるようサフィアを急かした。サフィアは一層表情を曇らせる。



「……あの騎士団から、逃げるってこと?」


「それしかないでしょ」


「でも、あなた、これでいいの? スパイなんかじゃないんでしょう? 事情を説明すれば、わかってくれるんじゃないの……?」


「無理だよ」



 虚空を見つめたまま言い切り、バルツェは空を仰ぐ。



「──人間側と繋がってるスパイは、多分ボスだ」



 やがて、堂々と言い切った彼。サフィアは目を見開き、「え……!?」と口元を押さえた。



「どういうこと? ミストさんが? どうして!?」


「さあ……。でも、人間と情報をやり取りしている内通者がいる存在は、王女の絵画が盗まれる前から俺は薄々感じ取ってたよ」


「そ、そうなの!?」


「うん。人間の科学技術は、昔に比べてかなり進化した。けど、ここ十数年の伸び方があまりにも異常だったんだ。〝魔素〟が誕生してから数年足らずで人工精霊が作られ、人工機械種オート・マキナリーが生まれた……今の状態になるまで、いくら何でも早すぎる」



 バルツェは冷静に振り返り、自身の見解を語り始める。



「俺の想像上の話でしかないけど、今回人間側に情報を売っていたスパイは、実は十年以上も前から人間との関わりを持っていたんじゃないかな。魔術に関する情報を人間に流し、魔素の研究の手助けをしていた可能性が高い」


「そ、そんな……どうして、そんなこと……」


王女あんたを眠りから目覚めさせるためだと、俺は思ってる」



 サフィアは息を呑んだ。

 ぎゅ、と自身の左胸を押さえる。


「オレイア・ルビーを、狙ってるってこと……?」


 小さく問い掛ければ、バルツェは頷いた。



「あんたを眠りから目覚めさせるためには、おそらく魔力だけではどうしようもなかった。きっと人間側の科学技術が必要だったんだろ。だから人間に情報を流した」


「……」


「王女の絵画も、実は最初から盗まれたりしていなかったんじゃないかと思う。多分、スパイが持ち出して、トロイメリア遺跡に絵画を置き、何らかの方法であんたの封印を解いたんだ。──そして、スパイ容疑をなすり付けるのにちょうどいい半魔族デミの俺を、あの場所に向かわせた」


「……もしかして、その場所を、あなたに指示したというのが……」


「そう、察しがいいね。場所を決定したのはボスだったよ」



 バルツェは淡々と告げる。

 その脳裏には、先日の会議のあとにミストから与えられた言葉が蘇っていた。



 ──私が君を王女の近衛騎士に任命したのは、君を信用しているからだ。


 ──君は騎士として、必ず王女を守る。


 ──そう信じている。



「……反吐が出るよな」



 冷たく吐き捨て、バルツェは目を伏せる。



「ずっと、俺はボスがスパイだって可能性に気づいてた。……でも、言い出せなかった。俺はボスのことを信じていたかったから」


「……バルツェ……」


「でも、それも今日で終わりだ。結局はボスも同じだった。俺を仲間なんて思ってない。……きっと、俺なんて、誰からも──」


「──バルツェのばか! ぼくは仲間だと思ってるよ!」



 直後、高い声を張り上げ、それまで静観していたプシュケがバルツェに飛びついた。「いっ!?」バルツェは目を見張って苦しげな声を放ち、一方で、プシュケは不服げに頬を膨らませている。



「ぼく、バルツェが大事で、バルツェが大好きだもん! ひとりぼっちだったぼくを、バルツェが拾ってくれたんじゃないか! ぼくはずっとバルツェの味方だもん! そんな顔しないでよ!」


「……プシュケ」


「ねえ、サフィアもそうでしょ? ぼくと一緒の気持ちだよね? バルツェのこと、大好きだよね?」


「……えっ!?」



 唐突な問いかけに、サフィアはびくっと肩を揺らした。じわり、嫌な汗が吹き出してくる。声を詰まらせる彼女に、プシュケは不安げな表情を浮かべた。



「……もしかして、好きじゃないの……?」


「え、えっと、その」



 ちら、と助けを求めるようにバルツェの顔を一瞥する。

 しかし彼はプシュケを止めも慰めもせず、ただ無表情にサフィアを見つめているだけだ。片や、プシュケは今にも泣き出しそうな顔で、訴えるような視線を送ってきている。

 どくり、どくり、謎の緊張感に包まれた心臓。やけに大きく音を立てる。どう答えるべきか迷っている間に、プシュケの瞳はことさら不安げに揺らぎ始めた。


 子どもを泣かせてしまうかもしれない──そんな罪悪感が胸に満ちていく。サフィアは存外お人好しだ。子どもの願いを一蹴する勇気など持っておらず、ややあってようやく恥じらいながらも意を決し、小さな声で答えた。


「す、好きよ……すごく……」


 すると、途端にプシュケは瞳を輝かせた。



「わあ! やったあ! ほら、サフィアもバルツェが好きだって! よかったね、すっごくすっごく好きだって!」


「ちょ、ちょっと、プシュケ、そんな大きい声で言わないで」


「ねえ、バルツェ、元気出して。ぼくも、サフィアも、バルツェが悲しい顔してるのはいやだよ。苦しいよ。泣いちゃうよ……」



 しょんぼりと肩を落とすプシュケは、バルツェに抱きついたままぐりぐりと額を擦り寄せる。バルツェはしばらく黙り込んでいたが、程なくして浅く息を吐き、抱きついているプシュケの柔らかい黒髪を撫でた。



「……精霊って、こんなに口やかましかったんだな。知らなかった」


「? くちやかましいってなに? ぼく、褒められたの?」


「うんうん、褒めてる褒めてる。お前のおかげでだいぶ気が晴れた」


「えっ、ほんと!? えへへ!」



 嬉しげに破顔し、プシュケは再びバルツェに抱きつく。「うぐっ……」彼はまた苦しげな声を発した。



「……お、お前、そんなに甘えん坊だったっけ……」


「うん!」


「そっかあ……」



まるで親子のようなそのやり取りに、サフィアはほっこりと頬を緩める。しばらくして、彼女はバルツェに呼びかけた。



「ねえ、バルツェ」


「何ですか、俺のことが大好きな姫様」


「ちょ、ちょっと、からかわないでよ!」


「はいはい。で、何?」



 相変わらず適当な返答にムッとしつつ、サフィアは拗ねた顔で本題を投げかける。



「……私たち、これからどうするの? 騎士団からも人間からも追われる身になっちゃったのよ? 行く宛はあるの?」


「ないですよ。ノープラン」


「えええ……」


「でも、一人だけ会ってみたい人ならいる」



 いまだにしがみついているプシュケの背を優しく叩き、バルツェはサフィアの目を見つめた。


「会ってみたい人?」


 首を傾げれば、彼は表情ひとつ変えずに答える。



「人間側の天才科学者。人工機械種オート・マキナリーを生んだ、俺たち魔族の宿敵だよ」


「──! それって、魔素を開発したっていう人!?」


「そうそう、よく覚えてましたね」



 えらいえらいとサフィアを雑に褒めるバルツェ。どことなくバカにされているような心地になって一層むくれるが、彼女を無視してバルツェは続ける。



「ボスが本当にスパイなら、その科学者と長らく接触していた可能性が高い。その場合、あの科学者の研究資料には、きっと魔族と関わっていた証拠が多少なりとも残ってる」


「なるほど……たしかに」


「それさえ手に入れば、少なくとも俺の無実は証明できる。あの頑固な兄貴ベルだって、もしボスがスパイだと知れば、迂闊に身動きできなくなるはずだ。ああ見えて忠義に熱いからね、大いに困惑するでしょ」


「じゃあ、まずはその科学者の情報を集めればいいのね!」


「そういうことです」



 頷くバルツェ。サフィアも明るく声を発した。彼の冤罪を晴らす道ができたと安堵していたのだ。


 しかし、その直後──


「科学者の名は、ルベリア=クローネ。所在地は不明です」


 彼から続けて開示された情報に、それまで緩んでいたサフィアの表情が凍りつく。



「……え? ルベリア……?」


「……? そうですが、何か?」


「その科学者、ルベリアっていうの? 本当に?」


「そうだけど……どうかしたんですか?」


「どうしたも、こうしたも……」



 声を震わせ、徐々に青ざめていくサフィア。

 彼女は汗ばむ手で左胸に触れ、どくどくとうるさくなる心音を確かめながら、続きを語った。



「ルベリアって──私をあの絵画の中に閉じ込めた、当時の王女と同じ名前よ……」



 か細く告げるサフィア。バルツェは一瞬目を見張り、やがてその視界を狭めた。


「へえ……」


 何かを思案し、いつの間にやらすっかり寝こけてしまっているプシュケを抱いて、彼は立ち上がる。



「じゃあ、俺たちの行く先は、やっぱりそこに決まりですね」


「……で、でも……私……あの方は、少し苦手で……だって……」


「大丈夫です。安心してください、姫様」



 バルツェはサフィアをまっすぐと見つめ、嘘偽りのない真摯な表情で宣言した。その手を取り、甲に唇を押し当てる。サフィアはカッと頬を赤らめた。



「俺が、あんたを守るよ」



 忠誠を誓うような緑眼に射貫かれ、とくり、胸が高鳴りを覚えた。

 ふたりの間を流れた風が少し冷たく思える程度には、顔が熱いと感じてしまった。


 頬にふつふつとせり上がってくる熱。それをごまかすよう、ぷいっと顔を逸らしたサフィアは、やがて、唇を尖らせながら小さく頷く。



「……う、うん。ありがと」


「姫様、なんか顔が赤くないですか? やっぱ俺のこと大好きなの?」


「違います! あんまりからかってるとぶん殴るわよ!」


「うわ、なんか暴力的になってきたな。はいはいすみませんでした。じゃあ、プシュケ寝ちゃったからちょっと抱いてて。さっき近くで川見つけたんで、旅支度ついでに飲み水でも汲んできます」


「わ……!」



 膨れっ面のサフィアに無理やりプシュケを預け、バルツェは彼女に背を向けた。サフィアはまだ不服げだったが、「気をつけてね!」と声をかけて彼を見送る。


 ひらり、軽く片手を上げて、バルツェは森の奥へと消えていった。


 ざく、ざく、ざく。


 背筋を伸ばし、淡々と。顔色ひとつ変えず、森の中を進んでいく。


 ざく、ざく、ざく……ざく。


 しかし、サフィアとプシュケのいる場所からだいぶ離れた頃になって──バルツェは突然腹部を押さえ、苦しげな表情でがくりとその場に膝をついた。



「チッ……」



 舌打ちを放ち、黒い服の裾をめくる。

 そこには、ミストに刺された時の刺傷が、まだありありと残っていた。

 一度塞がったような形跡はあるものの、どうやら先ほどプシュケに抱きつかれた際に再び開いてしまったらしい。


「くそ、面倒くさい体だな……」


 さほど大したことのない痛み。さほど大したことのない怪我だ。

 だが、そこから溢れ出す真っ赤な鮮血が、バルツェにとっては何よりも耐え難い屈辱であり、苦痛だった。


 まるで人間のようだから。



「……魔族なら、さっさと治れよ、こんな傷……」



 人間の血は赤い色。

 魔族の血は黒い色。


 忌々しげに声を絞り出しても、押さえた傷口からは真っ赤な血が溢れてくる。



 ──下等な半魔族デミのゴミが。

 ──汚い血と交ざりやがって。

 ──恥さらし。



 人間だとも、魔族だとも認めて貰えない。愚かな血。劣等種の血。

 ざりっ──歯がゆさを噛み殺しながら、バルツェは地面の土を握り込んだ。


「あーあ……」


 呟き、一度だけ目を閉じる。



「こんなんだから、騎士団に捨てられたんだろな……」



 こぼれ落ちた弱音は地面に寂しく転がった。やがてバルツェは起き上がり、傷を抱えたまま、ふらふらと小道を歩き出す。

 その脳裏には、あの日ミストから告げられた言葉が、しつこくこびり付いたままだ。



 ──君は騎士として、必ず王女を守る。


 ──そう信じている。



「最後まで、ちゃんと守りきれたら……ボスは、また、俺を認めてくれるかな」



 遠い空を仰ぎ見て、小さく紡いだひとことは、誰の耳にも届かない。


 ルビーの心臓を持つ王女と、人と魔族の血を持つ騎士。

 これは、世界中から命を狙われることになった二人が、やがて本物の王女の元へとたどり着くまでの旅の記録。


 未知の力に恋焦がれ、世界を変えてしまった誰かの顔を、ルビーの心臓だけが覚えている──。




〈第一章 …… 完〉

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ルビーの心臓を持つ王女 umekob.(梅野小吹) @po_n_zuuu

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