第3話 紅茶の味

 九月二八日、正式に光太夫たちを日本に送還する勅令が出され、待ち望んだ帰国がついに現実のものとなった。

 漂着した時には十七人いた仲間たちのうち、十二名は異郷の地で命を落とし、二名はキリスト教に改宗して異国に骨をうずめることとなった。日本行きの船に乗り込んだのは、光太夫と、彼よりも年長の荷物にもつ賄方まかないかた小市こいち、そして光太夫より一回りほど若い水手かこ磯吉いそきちの三名のみ。


 キリルと涙の別れを交わした後、オホーツクの港を出て、根室へと向かったのは、翌一七九二年九月のこと。光太夫たちが漂流してから、実に九年半以上の歳月が流れていた。

 使節団の正使となったのは、あの茶会の時に言及されたとおり、アダム=ラクスマンだ。


(それにしても……)


 船の行く先を見つめる若者の横顔を、光太夫はちらりと見た。

 正直なところ、疑問を覚えないわけではない。


「どうかしたのかい、コウダユウ?」


「い、いえ。何でもありません」


 光太夫はごまかそうとしたが、アダムは悪童のような笑みを浮かべ、言った。


「当ててみせようか。何故僕のような、一介の守備隊長に過ぎない若輩者じゃくはいものが、使者に任命されたのか、気になっているんだろう?」


「め、滅相も無い。アダムキリロヴィチ殿はお若いながらも優秀なお人ですから、陛下も期待を寄せておられるのでしょう」


「ならいいんだけどね。ていに言えば、今回の人事は色々政治的な思惑があってのことなんだよ」


「政治的な思惑……ですか」


「そう。あのお茶会の時にズーボフ伯爵が推していたレザノフって奴、伯爵に取り入ったり、それ以外にもあちこちに働きかけたりして、東方で一旗揚げようと画策してたんだ。そして伯爵も、レザノフに功績を上げさせることで、自身の立場をより強固なものにしたいと考えていた。それに対して外務参事院議長ベズボロドコ殿は、レザノフという奴は目的のためなら手段を選ばない人物だということで警戒していた――もっとはっきり言うなら、排除すべきだと考えていた。でも、だからと言って、あからさまに外務参事院議長ベズボロドコ殿の人脈に連なる者を使者に任じたのでは角が立つ。それで、僕にお鉢が回ってきた、というわけさ」


 なるほど、と頷きかけた光太夫だったが、新たな疑問が浮かび、アダムに問い掛ける。


「しかし、陛下はズーボフ伯爵をご寵愛なさっていたのではないのですか?」


「ふふ。ご寵愛はなさっても、能力のない者や適任でないものに必要以上の権勢を握らせたりはなさらない。そういうお方だよ、陛下は。往年のポチョムキン公爵ほど有能な人物ならともかく、ズーボフごときではね」


 そう言って、アダムは愉快そうに笑う。


「結局、すべては陛下のたなごころの上ってわけ。あの時すでに、僕も内々で打診されていたんだよ。固く口留めされていたから、親父にも黙っていたけどね」


「そういうことだったのですか……」


「まあでも、せっかく回って来た大役だ。出世の足掛かりにさせてもらうさ。コウダユウにとっては、利用されているみたいで不快かもしれないけれど」


「いえ、そのようなことは決して」


 光太夫は慌てて首を振った。実際、大恩だいおんあるラクスマン家の役に立てるなら、いくらでも利用してもらって構わないと思っている。



 二人がそんな会話を交わしているところへ、大声で割り込んできた者がいた。

 光太夫と同じ漂着者の一人、磯吉いそきちだ。


「船頭さん、陸地が見えたって! 蝦夷地えぞちですよね!?」


 そう言われて、光太夫も船の行く手に目を向けた。確かに、水平線上にうっすらと陸地が見える。


「ああ、そうだ、蝦夷地だ。日本ひのもとに……帰って来たんだ!!」


 磯吉はその場にへたり込み、号泣し始めた。

 光太夫の目からも涙があふれ出す。懐かしい、夢にまで見た故郷。万感の思いが胸にこみ上げてくる。


 しかし、心の片隅には、もうこれでロシアの地を踏むことは一生無いのだという一抹の寂しさも、確かにあった。

 ふと、光太夫の口の中に、あの時飲んだ紅茶の味が蘇る。もうあの味も、二度と味わうことはできないだろう。

 何かを得るために別の何かを失い、失ったものに執着を覚える――人間の心理の可笑しさに、光太夫は泣きながら苦笑した。



   †††††



 一行を乗せた船――エカテリーナ号は、根室ねむろの港にいかりを下した。

 光太夫たちにとって、日本の土を最後に踏んでからすで十年近い歳月が流れている。

 この地で、一行は江戸幕府への伺いを立てたのだが、しかし交渉に時間が掛かって、翌年春まで足止めされることとなる。

 漂着者の一人・小市こいちは病を得て、根室の地に骨を埋めることとなった。最後にせめて日本の土を踏めたことは、幸いと言うべきだろうか。


 江戸幕府は突然の来訪者に困惑しながらも、時の首班しゅはん松平まつだいら定信さだのぶは、長崎限定でなら門戸もんこを開いても良いとの方針を定め、長崎への入港許可証――信牌しんぱいを発行。これを受け取ったアダムは、光太夫たちを幕府の役人に引き渡した後、それをひとまずの成果として、一旦帰国の途についた。


 帰国したアダムは、女帝に日本行きの成果を報告するとともに、日本から贈られた品々を献上した。その功績をもって、大尉に昇格。献上した日本刀を褒美に賜り、それはラクスマン家代々の家宝となった。


 一七九六年十一月、女帝エカチェリーナ二世は脳梗塞のうこうそくのため崩御。

 女帝の後ろ盾を失ったズーボフは、女帝の跡を継ぐもその政策をことごとくくつがえそうとして総スカンを食らったパーヴェル一世の暗殺に関与するも、結局檜舞台ひのきぶたいに立つことは出来ず、隠棲してひっそりと一生を終えた。


 パーヴェル一世の跡を継いだアレクサンドル一世(女帝の孫)の治世。アダムが持ち帰った信牌しんぱいにより、日本との通商を開始しようと、第二回の訪日使節団が派遣されることとなった。

 その使者に選ばれたのは、ニコライ=レザノフ。

 ズーボフ失脚後もしたたかに立ち回り、念願の大役を射止めたレザノフであったが、ロシアとの通商を積極的に容認する姿勢を見せていた松平定信が失脚していたことから、江戸幕府はけんもほろろな態度に出る。

 これに業を煮やしたレザノフは、樺太からふと択捉えとろふの日本人居留地を襲撃。文化ぶんか露寇ろこう、あるいは露寇ろこう事件と呼ばれる大騒動を引き起こすこととなる。


 日本とロシアの国交樹立は、エフィム=プチャーチンの来航による一八五五年の日露にちろ和親わしん条約じょうやくの締結を待たねばならない。



 光太夫と磯吉は、江戸に住まいを与えられて妻もめとり、幕府からは貴重な海外の情報源としてそれなりの処遇を受け、穏やかな人生を送った。

 蘭学者の桂川かつらがわ 甫周ほしゅうが光太夫に聴取したロシアの記録が『北槎ほくさ聞略ぶんりゃく』という書物にまとめられているが、そこには紅茶に関する記述が飲食に関する項目でわずかに記されているだけで、女帝のお茶会に招かれたことには全く触れられていない。

 その理由が、日本では二度と味わうことが出来ないその味を思い出すと切ない気持ちになるから――だったのかどうかは、今日こんにちの我々には知るすべはない。



――Fin.


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ロシアと世界の国々との友好が蘇る日を切に願って。




蛇足ですが後書き。


「小説家になろう」公式企画「秋の歴史2023」のテーマが「食事」ということで、エカチェリーナ二世が大黒屋光太夫を招いてのお茶会風景を書いてみたのが本作です。


で、それに関して調べていく過程で、アダム=ラクスマンの若さに今更ながら驚き、彼を使者に起用した人事の裏を読んでみました(笑)。

レザノフがズーボフに取り入ろうとし、ズーボフもそれをきっかけに東方に関心を寄せていた、というのは事実らしいです(Wikiのレザノフの項参照)。


ダーシュコワ夫人は、正直登場させなくても話は回せたんですけどね。登場させたかったんだよ。文句あっか。

ちなみに、作中の彼女は完全に善意の第三者ポジです。

詳しい事情を聞かせておかなくても、プラトントニーシュニカの味方は絶対しないだろう、ということで、女帝が連れてきました(笑)。


おまけとして、零 (@zero_hisui)様のエカ×ダー漫画をご紹介しておきます(ttps://twicomi.com/manga/zero_hisui/1287282575837298689)。

二人の関係性めっちゃ好き♡

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女帝のお茶会 平井敦史 @Hirai_Atsushi

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