第2話 お茶会の顛末
茶会の
そして、幾人もの女官たちが、茶会の準備を進めていく。
テーブルの上に、大きな壺のような形をした銀製のサモワールが据え付けられる。中で燃料を燃やして水を沸騰させる、紅茶専用の湯沸かし器だ。
大量の水を入れられる本体の中心には、金属製のパイプが通っており、そこで燃料を燃やす。
燃料に用いられるのは、一般的には木炭や石炭だが、ここでは昨秋に収穫して乾燥保存されていた松ぼっくりが使われている。
すでに沸騰してシュンシュン、ピキピキと軽快な音を奏で始めたサモワールを、女官が四人がかりでテーブル上に据えると、上部に付属しているティーポットに茶葉が投入される。
このティーポットで紅茶を濃く
そして、テーブルの上にはプリャーニク(蜂蜜パン)やバランキ(ロシア風ベーグル)、各種ジャムなどが所狭しと並べられている。
ロシアへの茶の伝来については、諸説あるが、ロマノフ
ピョートル大帝の時代に、
光太夫は事前にキリルから一通りのレクチャーを受けてはいたが、どうにも勝手がわからない。
ギンギンに煮えたぎったお茶はとにかく熱い。
戸惑う光太夫に、向かいの席のダーシュコワ夫人がお手本を示して見せてくれた。
菜園で摘んだ果実で作られたジャム。これを一口スプーンですくい、口に含む。そうしておいてから紅茶を口にすると、舌を
光太夫も見よう見まねで、
日本にいたら一生経験することはなかったであろう味わい。ロシアのいささか度の強すぎる
思わず
「こちらも召し上がれ。そこのサモワールと一緒に、トゥーラという町から献上されてきたものよ」
長方形の板状で、表面には女帝の治世を
蜂蜜と香辛料がふんだんに入ったパンで、一切れちぎると独特な香りがふわっと広がる。
少しボソボソした感じはあるが、紅茶との相性はすこぶる良く、光太夫はあっという間に一個食べ切ってしまった。
光太夫が食べ終わるのを待っていたかのように、女帝が語り掛ける。
「気に入ってくれたようで何より。ところで、
「あ、はい。ございます。が、貴国で飲まれているものとは大分違っておりまして……。日本の茶は緑色をしております」
正直なところ、キリルから話を聞いていなかったら、光太夫は今自分が飲んでいるものを「茶」だとは認識できなかっただろう。
知識豊富な博物学者で、
「そう。緑の茶葉も
女帝に水を向けられて、キリルはかしこまった表情で答えた。
「仰せのとおりでございます、陛下。コウダユウたちをただ送り届けるだけでなく、
「ええ。その提言はあなたが提出した上申書で読んだし、ベズボロドコ公爵にも見てもらったわ。そして、あなたにその案を持ち掛けたのは、息子さんだと聞いたのだけれど?」
そう言って、女帝はアダムを見た。
「はい。不肖この
「なるほど。素晴らしい見識ね」
女帝が感心し、アダムがまんざらでもない表情を浮かべると、彼の隣の席のズーボフが鼻を鳴らして口を挟んだ。
「お言葉ですが陛下、今
「あら、そうなの。我がロシアに優秀な人材が豊富なのは素晴らしいことだわ」
そう言って、女帝は
「そのレザノフなる者は、一度ベズボロドコ公爵に
いよいよ話が本題に入り、光太夫の全身に緊張が走る。
「彼らの境遇には、私も大いに同情しているわ。そして、彼らの故郷への想いも尊重したいと思っています。そこで、コウダユウ殿たちを
その言葉を聞いて、思わず光太夫の目から涙がこぼれた。
ようやく。ようやくだ。夢にまで見た日本への帰国の
キリルも感極まった様子だったが、ぐっと涙を拭って高らかに叫ぶ。
「陛下の御慈悲に神の祝福あれ!」
女帝は心地よさげに称賛を受け止めてから、さらに言葉を続けた。
「……それで、その使節団の正使なのだけれど、
これには光太夫も驚いたし、キリルも驚いている。もちろん、当のアダムも大いに驚いている――と言いたいところだが、何だか驚いたふりをしているだけのように思えたのは、光太夫の気のせいだろうか?
そして、慌てふためいている人物がもう一人いた。
「お、お待ちください、陛下。
年齢で言えば自分の方がアダムよりさらに若いのだが、そんなことは棚に上げて、ズーボフが女帝に抗議する。
「あら、
若い愛人のことを愛称で呼んで、女帝は特に気を悪くした様子もなく問い掛けた。
「はい。恐れながら、先ほど申し上げましたレザノフなる人物、東方への見識非常に広く深く、
ズーボフがそう言うと、それに対して隣の席のダーシュコワ夫人が異を唱えた。
「レザノフという方、たしかデルジャーヴィン殿の配下の官房長でしたわね。年齢で言えば
ズーボフは一瞬言葉に詰まった。確かに、レザノフはアダムより二歳ほど年長なだけだ。
「ね、年齢はともかく! 大事なのはその見識と能力です! アカデミー総裁といえども、夫人は外交の専門家ではいらっしゃいませぬでしょう。余計な口を挟むのはお控えいただきたい」
慇懃無礼なその物言いにも、ダーシュコワ夫人は全く動じず、
「部外者だからこそ、中立的な視点で物事を見ることが出来る、ということもありますよ。父君の
「そのようなことはございません!」
口論を始めた――ズーボフが一方的に食って掛かっているという方が的確だが――二人を、女帝は穏やかに
「
いきなり水を向けられて、光太夫は困惑した。
自分たちの帰国自体はすでに女帝の心の中でほぼ確定しているようなので、使者の人選などどうでもいい――とは言うものの、やはり言葉に尽くせぬほど世話になったラクスマン家の肩は持ちたいし、第一このズーボフなる若造は気に食わない。
光太夫は深呼吸して気持ちを落ち着かせ、言った。
「私は異国の人間であり、政治や外交などにも見識など何も持ち合わせてはおりません。しかしながら、こちらにおられる
「控えよ、
「
口を挟んで来たズーボフを、女帝が穏やかな、しかし有無を言わさぬ口調で黙らせる。
光太夫は言葉を続けた。
「我ら
光太夫がそう言い終えると、女帝はにっこりと微笑んだ。
ズーボフは苦々しげにこちらを睨んでいたが、不意にいやらしい笑みを浮かべ、言った。
「ヤポ、いえ、コウダユウ殿は異国人ながら素晴らしい見識の持ち主ですな。どうでしょう、陛下。かの者をこのままお側に置かれては? きっとお役に立ちましょうし、十分な待遇を約束してやれば、遠路はるばる
それを聞いて、光太夫の顔はたちまち蒼ざめた。
ズーボフの魂胆は、光太夫への嫌がらせと、もしも女帝がその気になって光太夫を留め置いたら、日本への使者がアダムでないといけない理由が弱まり、彼のお抱えのレザノフをねじ込める確率が上がる、といったところなのだろう。
光太夫にしてみればたまったものではない。
「と、とんでもねえですだ。おらみでえな田舎者、とても陛下のお役には立てませんですだよ」
「あらあら、御謙遜を」
いきなりシベリア
向こうの席のダーシュコワ夫人が、やはりにこにこしながら、穏やかに助け舟を出してくれた。
「ロシアの言葉を覚えた上、中央の言葉と辺境の言葉の使い分けまで出来るなんて、コウダユウ殿は本当に優秀ですね。辞書の校訂を手伝ってもらっているのも、大変助かっています。しかしながら陛下、やはり故郷を思う気持ちは何ものにも代えがたいかと」
「ふふ。わかっているわ。あなたの気持ちを尊重しましょう。
「仰せのままに」
ズーボフは渋々ながら頷いたが、不満の色はぬぐい切れていない。
「納得がいかないようね。うーん、やっぱり、
年齢に似合わぬ妖艶な表情を浮かべて、女帝はそう提案した。
アダムは顔を引きつらせながらも、懸命に平静を装って返答する。
「み、身に余る光栄でございます」
ズーボフはすんと真顔になって、言った。
「いえ陛下、やはりここはヤポ……コウダユウ殿の気持ちを尊重すべきでしょう。
その後もお茶会は和やかに続けられ、光太夫は
小麦粉をこねてリング状にし、一度茹でてから焼いてあるそれは、滑らかな口当たりで、ロシアで毎食のように口にしてきたライ麦パンのような酸味もなく、食べやすい。
光太夫にとっては、昔日本にいた頃に食べたうどんの味を連想させるものがあり、ふと郷愁に駆られる味だ。
すっかり気に入った紅茶をもう一杯飲みながら、
「コウダユウ殿、今日は楽しんでくれたかしら?」
女帝に尋ねられて、光太夫は本心から答えた。
「はい陛下。本日のお招き、心より感謝申し上げます」
途中、ちょっとばかり胃が痛くなる局面もあったが、一生忘れられない思い出となったのは間違いなかった。
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