上海の夜

六条京子

本編

先日、生まれて初めての海外旅行へ行ってきた。

実は生まれてこの方24年、日本の外に出た事が1度もない。


一昨年までは、海外旅行は新婚旅行で行けばいいやと高を括っていたが、ハネムーン相手であり予算の捻出役であった恋人にはフラれてしまうし、このままだと私は一生、海外に行けないかもしれない。


そんな危機感を持った為に、結婚資金にとコツコツ貯めていた貯金を崩し、三泊四日の上海ツアーに1人で申し込んだのだ。


独りで参加のツアーなんか虚しくなるだけ、と周囲の人々には言われ、私自身も不安を抱えての参加だったが、全ては杞憂に終わった。


この人生初の海外旅行は本当に素晴らしかった。

全ての瞬間が輝いていて、私の心を艶やかに彩った。

また、この上海の旅はただ単に楽しいだけでなく、私自身の考えや生き方にまで影響を与えたもうたのだ。


ツアーの参加者は17名で、ほとんどが夫婦の参加で、1人で参加しているのは私だけだった。

バスで通路を挟み横に座る、還暦ちょうどという男性ガイドは私を見て、「何歳?」と尋ねてきた。丸眼鏡の奥の目が優しげである。


「24歳です」


「とても若いネ。ワタシの息子より若いネ」


そう言って微笑むと、ガイドさんはマイクを手に取り立ち上がり、総勢17名のツアー客に向けて意気揚々と話し出した。


「皆さん。ハジメマシテ。僕はガイドのゲンといいます。これから4日間、皆さんを楽しい上海の旅へご案内いたしマス。この旅の間は仕事の事や嫌な事は忘れてクダサイ。思いっきり、お楽しみクダサイ」


ゲンさんの思いやりある言葉を聞くと、途端に心がフワッと軽くなった。そうか。この四日間の旅行の間は仕事の事を忘れていいんだ。


心の底から旅を楽しんで良いんだ。軽やかな気持ちで思いっきり背筋を伸ばし、目を閉じてウーンと声を出す。

心の枷を外した頃に、バスは中華風の装飾に彩られたレストランに到着し、そこには豪華な中華料理がズラリと並んでいて、私たちを出迎えてくれた。


 「美味しそう!」


夕食を前に瞳孔がぱああっと開き、料理の良い匂いに鼻孔がくすぐられて、無意識に涎が垂れてきた。


席につくと、みんな思い思いに飲み物を注文し、勢い良くグラスに注いでいく。

私は異国に来た事の高揚感から、本場中国の紹興酒を注文した。

これには周りのお客さんも驚いて「お嬢さん。若いのに紹興酒なんて凄いね」と言って目を丸くしていた。


私はこれに応えるように、グイグイと一気に紹興酒を飲み上げた。

グラスからプハッと唇を離すと、余裕たっぷりにニンマリ笑ってみせる。さすがアルコール17パーセント。

この一杯だけで顔が赤くなり、クラクラと酔いが回って気持ち良いのなんの。


「ええ。ええ。お酒は大好きでございますよ。ちょいと、そこのお父さん。せっかくの美味しいお酒ですもん。一杯どうぞ」


そう言って私は左横の、ご夫婦で来ていた旅行客の60代前半と思わしき男性の杯にも、トポトポと、薄茶色の甘美なる液体を流し込んでいく。


「ありがとう。大和撫子のお姉さん」


60代紳士は、横隣の奥様と感じよく微笑み、今度は私のグラスに中国ビールを入れてくれた。


初対面の壁。年齢の壁がなんのこっちゃ!

私は上海ツアー1日目にして、この中に溶け込み、素晴らしい方たちに巡り合う事が出来た。


この素晴らしい仲間に、上海の美しい夜に乾杯!私たちは何杯も何杯もお酒を飲み、楽しく笑いあい、中華に舌鼓を打ちながら夕食の席を楽しんだ。


「アラ、皆さん。楽しそうネ。今度はホテルに向かいマス」


宴が佳境に差し掛かっている頃に、ゲンさんが迎えに来て我々は名残惜しさを感じつつ、バスに乗りに外に出た。酔いで足元はフラつき、外の世界がボヤけて見えた。


でも、ボヤけて見える世界であっても、とてつもなく綺麗なのだから上海は凄い。

紺碧の夜空を背景に、高いビルや近代的なタワーが発光して、様々な色に光り輝き、天上にはまん丸い月が昇っている。この夜の、なんて美しいこと!


全てに酔わされ、美に圧倒させられていると、フンワリと良い匂いが漂ってきて、周りを見渡し、私はそれが金木製である事を知る。

上海の夜は罪深い。視覚だけでなく、嗅覚でさせも、その甘美さで私を堪らなく魅了してしまうのだから。



上海の旅は1日目から素晴らしいスタートを切り、3日間は夢の如く美しく、私を飽きさせる暇も与えずに過ぎて行った。

あまりの楽しさに、普段から落ち着きのない私は益々落ち着きを失い、そのハシャギっぷりたるや、凄まじい物であった。


上海2日目で訪れた大胡湖西という湖を見渡せる公園に来た時には、中国の悠々たる湖を前にして、「わぁ!これこそまさに、ドラマや漫画で見た、中国の風景だわ!」と、居ても経っても居られなくなり、これまた広い公園の中をガムシャラに走りまくった。


すると、橋を降りる石橋の部分に差し掛かった所でスッテーンと勢いよく転んでしまい、偶然に朝の散歩を嗜んでいた中国人の気の良さそうなおじさんに心配されてしまった。いやいや、お恥ずかしい。


そんな風にハシャいでいたものだから、ツアー仲間との集合時間にも遅れたりしてしまったが、気の良い皆さんとガイドのゲンさんは笑って許してくれた。


「お嬢様も到着したネ。では、次の観光地に行くネ」


私は今度は置いていかれないようにと、必死になってガイドさんの横を着いていった。

すると1人のご婦人が、「ゲンさんと貴女って、そうして歩いていると親子みたい」と、上品な微笑を浮かべて言った。


私自身も、こんな経験は初めてなのだけれども、バス車中でもツアー中でも、ほとんどずーっとゲンさんと一緒に過ごしているものだから、いつの間にか不思議なもので、情が湧いてしまっていた。


それはゲンさんも同じなようで、それはそれは私に良くしてくれたものである。

バスの中で珈琲を1缶、差し入れしてくれたり、なんと買い物の時に日本円を、実際よりも多く中国元に換金してくれもした。


それはチャイナドレスを、女性向けの衣料店にて物色している時で、私はとある1着のチャイナ服に心を奪われた。


黒色の絹の生地には、艶やかな大振りの赤い牡丹の絵が描かれていて、とても華やかで美しい。

だが物が物なだけに、高価で手を出そうかどうか悩まされる。するとゲンさんは「多めにあげるから、買いなさい。とても似合うからネ」と言って、3千円も多く、中国元を渡してくれるではないか。


チャイナ服を試着室で纏い、他の旅行客仲間とゲンさんに見せると「背が高いから、とても似合うわ」と、温かい言葉を投げかけてくれるものだから、私は益々有頂天になってしまった。


旅行に来る前は体重もお金も切り詰めてダイエットという精神だったハズが、そんな「節制」の意識の壁は打ち破られ、私は沢山食べて飲んで散財しまくった。

こんな異国の地まで来て、「我慢」なんて阿保らしい!せっかくの旅行だもん!どうせなら楽しまなくっちゃ!


チャイナ服を着て、まるで楊貴妃になったかのようなつもりになった私は、財布を空にして胃袋を破裂する勢いで、買いまくったし食べまくった。


アツアツの汁が溢れ出す小籠包に、ピリリと香辛料の聞いた麻婆豆腐。それらをある時は紹興酒で流し込み、ある時はビールで勢いよく流し込んでいく。


酔ってトランス状態になった私は怖いもの知らずで、買い物カゴにもポイポイと色んな物を放り込んでいった。

無錫の真珠工場では、肌が美しくなるという真珠クリームを、中国の浅草である豫園城場では日常的に飲むと、体の内側から毒素を出してくれるという漢方。

絹の専門店では包まれて眠ると、天に上った心地になるという極上の絹布団・・・。


飲みまくり大騒ぎの私に、もっと飲めもっと飲めと、ツアー仲間はお酒を注いでくれた。お酒も箸も止まらないし、話す話題も尽きなかった。


それくらいに、私たちは短期間の間で、心を通わせ打ち解け合っていたのである。

ゲンさんも、そんな私たちを見て「皆さん、仲良しネ。こんな仲良しなお客さんたちは初めてネ」と嬉しそうである。


私はアハハと声高らかに笑っていたが、同時にどこかで寂しさも感じていた。


たしかに、たしかに今、この時は充実しているし満たされている。でも、今この瞬間にも時間は経っていて、私が日本に帰る時が来る。


その時に私は、泣かずにいられるだろうか?と。それは全ての楽しみの後に付き物の悲しみである。そしてこの楽しい旅の終わりも、ついに訪れてしまうのであった。


上海の旅4日目、空港へ向かうバスの中で、ほとんどのお客さんは疲労から眠りに就いていた。

私は上海の景色を車窓から目に焼き付けよう、後悔のないようにゲンさんと沢山話そうと思い、眠さを振り払って目を開けていた。

この中国の風景とも後しばしでお別れなんて・・・。ゲンさんとも。


「またいつか、中国に来てネ。観光地、沢山ある」


ボソリとゲンさんは呟いた。心なしか、ゲンさんの表情も少し悲しげに見えた。


「うん。また来るね」


「旅行はとても良いネ。みんな幸せになれる」


「うん。私も楽しかった」


「僕も、いろんな人に会えるから、幸せネ」


この優しい声が、もうすぐ聴けなくなる。ずっと一緒にいたから、何だか信じられなかった。


「貴女はとても良い娘ネ。会えて良かった」


バスが空港に着いた時、ゲンさんがそう言ってくれた。そんなことは全くないのに。本当の私は醜い部分ばかりなのに。でもそれを告げる間はなく、皆めまぐるしく忙しくバスから降りて行った。ゲンさんの背中をただただ目で追った。


空港に入るとゲンさんに見送られながら、私たちは搭乗受付へと向かっていった。


人の波に追いやられるものだから、ゲンさんとの間はますます空いていってしまう。あんなに傍にいたのに。今はこんなに遠い。


「皆さん!お気を付けてネ!」


ゲンさんが手を振っている。この時点で、ボロボロと私の目から涙がこぼれていた。


「ちょっと・・・アンタ、何を泣いてるん」


隣にいる、同じツアーだったマダムが驚いて私を見た。私自身もビックリだ。

だって、今まで旅行で会った人との別れで泣いた事なんか1回もなかったんだもん。


「うっ・・・うう・・・」


「・・・ゲンさんと、仲良かったもんなぁ・・・。本当に親子みたいだったでアンタたち・・・」


マダムはそう言って、優しくポンポンと背中を撫でてくれた。

それでも涙は止まるどころか、どんどんどんどん溢れてくる。

ついには空港だというのに、私は脇目も振らずに、大声でワンワンと泣き出すものだから、マダムもお手上げである。



飛行機に乗り、中国を見下ろす頃には涙が収まっていた。

予想と異なり、旅行から帰るという「上海ロス」はなく、私の胸にはメラメラと闘志が燃え始めていた。


ゲンさんが言った通りに、私はまた必ず中国に来る。中国だけでなく色んな国に。

自分でお金を貯めて自分で行く。今までの、男性に何かして貰おうって自分からは卒業しよう。そう決意を固め、拳を固く握った。


帰りの飛行機では、この四日間の上海の思い出が、沢山沢山思い返されて、泣いたり笑ったりで感情の整理が忙しかった。


その中でも、ひときわ輝いているのは、やはりゲンさんとの思い出なのである。こうして思い返して文面に書き連ねているだけで、自然と涙が出てきて、切ないけれど、とてつもなく温かい気持ちにさせらてしまう。


ゲンさん。ありがとうね。貴方に会えて本当に良かった。


またいつか中国に行くね。

なぜだろう、あの人にまたいつか、またいつか会えると信じている自分がいる。


まさか恋愛感情以外で、こんな気持ちにさせてくれる人に出会えるだなんて、まだまだ人生、絶望して生きるには早すぎる。


だってゲンさんを思い出すと、あんなに輝いて脳裏に記憶されたハズの上海の夜景も、涙で滲んでしまうんだもの。

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上海の夜 六条京子 @akasinokata321

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