第10話 李徴とその妻

 故郷に戻り、買っておいた山林の隅に、檻を置くと

 李徴は、檻を出て、一瞬だけ妻と袁傪を振り向くと、駆けさって木々の間に姿を消した。

 虎となった李徴が帰ってきたという話は、すぐに噂になり、全国からその姿を一目見たいというものがたくさんやってきた。中には、塀を乗り越えて中に入る不届き者もいたが、結局、だれひとり姿を見ることは出来ず、さすがに訪れるものもだんだんいなくなってきていた。

 そんなある日、国を代表する詩家である張良からの手紙をうけとった袁傪は、その手紙を持って李徴の妻を訪れた。莫大な富を手にしながら、彼女はまだ例の廃屋のような家で暮らしていた。

 手紙の話をするととても喜んだ。

「すぐに李徴に伝えましょう」という。

「え、でも会えるのですか? 絶対に姿を現さないという評判ですが」

「私と子どもたちにだけは会ってくれます。早速行きましょう」

 妻は机の隅の手紙を取り上げた。

「いまだにこんなに愛読者からの手紙が来るのです。夫はあまり興味なさそうなのですが、一応届けています」

 袁傪は、妻と子どもたちとともに、山林の柵の扉を開けて中に入った。妻は林を抜け、道なき道を進んで行く。やがて少し開けた高台に出た。

「私たちに気づいて待っていることもあるんですけど、今日は違うようですね。あなたたち、お父さんを呼んで」

 促されて子どもたちは、四方に向かって「おとうさーん、おとうさーん」と呼びかける。

 ややあって、ざざざと足音がして、虎が姿を現し、少しはなれたところに立ち止まった。

 袁傪は、わかっていてもその恐ろしい面容に、思わずぞくりとしてしまったが、子どもたちは全くおそれる様子もなく、虎に駆けよって抱きついている。二人が背中にまたがると、虎は近くを一周した。もちろん、子どもたちは大喜びだ。

「あなた、今日は袁傪様がよい手紙を持ってきてくださったのよ。あの張良様からのお手紙よ。あなたが、前から当代では一番だとおっしゃっていた方よね」

 李徴が近づいてきたので、袁傪は、手紙を、李徴の前に広げて読めるようにした。

 長い手紙ではなかった。次のような趣旨だった。

「お手紙を差し上げたのは、あなたの作品が、虎になる前の作品も含めて、真に価値のある作品だとわたしが思っていると伝えたかったからです。世間では、あなたが虎になりながら、なおも創作し続けた作品であることにばかり注目が集まって、作品そのものの持つ芸術性の高さ、磨き上げられた美しさ、精神性の高さがきちんと評価されていないような気がして残念なのです。しかし、私はあなたの作品が、作者がどうあれ、作品として、大好きです。後世に残すべき傑作揃いであることを確信しております。そういうことをお知らせしたくて手紙をしたためた次第です」

 李徴は、手紙を見て、それから袁傪を見ると、「わかったよありがとう」とでも言うように頭を下げた。

 それから近くの倒木の上に座っている妻の近くに、寝そべった。袁傪が近寄ると、妻は筆と紙とを差し出していた。

「気分のいいときには、何か書いたりもするんですよ。ただこの頃は人間の意識がだいぶ薄れているようで……」


 妻は、手提げからここへ来てから書いたという断片をとりだした。

「わたしにとっては宝物です。おまもりのようにもちあるいているんですよ』

 見るとほとんど判別不可能なほど崩れているがそれでも意味だけはわかった。

「虎になって初めて本当に自由になれた気がする」

「かつて人間だったことがまるで夢のようだ」

「あまりに多くのものに縛られていた。人との関係、世間の目、自分に対する期待、後世に名を残したいという思い」

「がんじがらめで動けなくて、一番大切なものが見えなかった」

「でもその一番大切なものが自分を助けてくれた」

 まとめると、おおよそ、そんな内容だった。

 袁傪はほっと息をつくと、李徴を見下ろした。

 もう、おそらく、李徴の中の人間は姿を消そうとしているような気がした。でも、たとえ虎になりきったとしても妻と子どもたちへの愛は失われることはあるまいとも思えた。

 袁傪は、李徴を微笑みを浮かべながら見下ろしている妻の美しい横顔を見つめた。

何という女性ひとだ! ともう一度思った。

 長い苦しみの後、これでようやく李徴は幸せになれたのかも知れない。もしかすると、人間であり続けるよりずっと……

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李徴の妻 @hasumiruka

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