あの日の続きが今の私

 大学デビュー。

 真新しい場所で心機一転、新しい一歩を踏み出すといえば聞こえはいい。いわゆる勘違いと失敗の痛いヤツにはなりたくないけれど、鬱屈とした高校時代とは違う、楽しい未来を思い描いても悪くはないだろう。

「片付けは苦手だけど、料理はできるしなんとかなるよね」

 引越し作業も終わり、一緒に部屋を整えてくれた両親は昨日帰った。さして広くもない室内。いつもだったら何の気なしに返される言葉はなく、こぼれ落ちた独り言は静かに空気に溶ける。

「……大丈夫、だいじょうぶ」

 湧き上がった寂しさに、棚の上からクマのぬいぐるみを下ろしてぎゅっと抱きしめる。ふわふわの手触りに、ちょっとだけ心が和んだ。

 一人暮らしに憧れもあったし、頑張りたい気持ちに嘘はない。ただ親の目がないという自由さは、それ相応の責任が伴うと思えば身が引き締まる。

「家計簿もアプリでいいからつけた方がいいって話だし……」

 向き合うようにクマを抱え直せば、ふわふわでもふもふの毛並みを携えて、クマのぬいぐるみはにこやかな顔で微笑んでいる。考えれば考えるほど悪循環に陥りそうな私もつられて、へにょりと顰めていた眉が緩んだ。

「キニシスギナーイ…………なぁんて、ね」

 クマの手をパタパタと動かし、幼い頃に楽しんだように遊びを演じてみれば、ふと気付く。

「そういえばこの子の服……」

 青と白のワンピース、というよりは安っぽさのある生地で出来た空色のドレス。胸元の刺繍も、チュールのパフスリーブもなんとなく見覚えがあった。なんだっけ、と思いつつ母がクマのぬいぐるみの横に置いていった小箱を開ける。

「……あ」

 収められていたのは、小さなティアラとビーズのネックレス。忘れかけていた古い記憶に震える手でそれらを取り出して、棚に戻したクマのぬいぐるみにそっと付けてあげれば可愛らしいプリンセスが出来上がる。専用に仕立て直されたドレスを纏い、アクセサリーを身につけたクマのぬいぐるみは、なんだかさっきより誇らしげに見えた。

「あれ、まだ何か……手紙?」

 空っぽに見えた箱の底に、ひっそりと入っていた封筒。飾り気のない便箋の上で踊る筆跡は、見慣れた母の癖字。

<いってらっしゃい。イヤだったら戻っておいで>

 綴られていたその言葉は、ストンと胸に落ちた。

 怖気付いて立ち止まってしまいがちな私を、母は見越していたのだろう。幼い頃によく聞いた言葉そのものに、苦笑がこぼれた。親にとって子供はいつまでも子供だという話は聞くけれど、この歳になってまで背中を押して貰うとは思わなかった。

 イヤだったら戻っていいと信じ、ドレスを纏って大好きなキャラクターへと歩いて行った幼い私。あの頃の勇気は、きっとまだ私の中に眠っているはず。昔のことを思い出しただけなのに、ちょっと変われた様な妙な高揚感を携えて、私は新生活を始めることにした。

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SS集 風見弥兎 @yat0_k

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