後編 Star Bright
月曜日から三日後。昨夜の夜勤明けの木曜日の昼、アパートの部屋で寝そべりながら携帯のニュースアプリを開くと、見覚えのある光景がニューストップに表示される。
紅野さんの店周辺の写真と共に「若い女性だけを狙った連続傷害事件 三人目の被害者」と言う見出しの記事が、新しいニュースとして更新されている。紅野さんの言った通り、事件は続いている。
内容をざっと見てみる。店がある通りを含む周辺一帯で十代、二十代の若い女性計三人が三日連続で襲われている。三人とも服装などに乱れはなく性的暴行の疑いは見られないが、首に怪我をしている。警察の捜査や周辺のパトロール強化などがされているらしいが、通行人や警察の眼を盗んだ時間帯での犯行が行われており、犯人らしき人物を見た人もいない。現場周辺をよく知っている人間の犯行である可能性が高い。
本文終わりで関連記事らしい「周辺の飲食店に届く薔薇 犯人のメッセージか」というものも目につく。「ローゼズ」の名前こそ出ていなかったものの、店の前に赤い塗料のついた白い薔薇が、犯行があった月曜、火曜と続き、どれも犯行時刻後に毎日届いている。関連があるものとしてこちらの捜査も進めている、と捜査関係者が発表したというものだ。昨日か一昨日なのかわからないが、紅野さんは届いた薔薇を警察に証拠として提出したのだろう。
昨日紅野さんへの個人チャットで聞いた話だが、夜の時間もバーの営業は続けていて、いつもより少ない客への接客の合間に店の前を見に行くものの、薔薇を置きに来る人間の姿は見たことがないという。
本当だったら、今日はクラブ開催日の前日として心躍る日だ。だけど、それもなくなってしまったから鬱々としている。それでもお腹は空くが、昼食を作る気力もない。そんな時は、アパートから五分のコンビニまで面倒だが行くしかない。
混む時間帯のピークを過ぎた十四時に行ったからか、客はほとんどいないのが幸いだった。僕ぐらいの年齢の黒髪の男の店員が、不愛想な声で「いらっしゃいませ」と出迎える。
今日の昼食はシーザーサラダと、ぱっと目についたレンチンで完成するきつねうどんに決まった。それにしても、レジ前で温めてもらった品物が出てくるまで待つ時間はどうしてこんなに長く感じるんだろうか。考えごとや携帯を見る時間には短すぎるし。
店員も同じようなことを感じていたのかもしれない。きつねうどんの容器を温めるレンジの前で、右手の小指をぴくぴく動かしていた。
苛立ってるんだろうなという同情と、何か既視感のようなものが頭の中を駆け巡った。
その日の夜に四人目の犠牲者が店の前で出たという話を聞いたのは、翌日になってからのことだ。
――君も太陽に見放されたんだね。
初めて会ったとき、紅野さんが言ってくれた言葉だ。
大学新卒で商社に入ったはいいものの、朝起きられず遅刻が多すぎたことが原因でたったの三か月でクビになった。当然だ。
もう明日から出社しなくていいと言われた日の夜、何をするでもなく夜の道を徘徊していた僕は「ローゼズ」があるビルの前のゴミ捨て場で紅野さんと出会った。
優しい彼は慰めてくれた。
――世の中には太陽に見放される人間がときどきいるんだ、僕も含めてね。
――もちろん、生きづらい。でも、それなりに生き方はある。
その言葉に、過去の僕は救われた。まともに会社勤めもできない社会のゴミだと死にたくなっていたその夜に。
紅野さんはこの辺は星がよく見えると言って、空を指さした。東京のくせに、三つの大きな星が頂点として三角形を作っていた。中学の理科の授業で習った夏の三角形だ。
今はまだ夏の三角形は見られない。でも、この時期はそれまで見づらかった北斗七星がはっきり見える季節だとどこかで聞きかじったことがある。
今日偶然それを思い出して、ビルの前まで来た。金曜日、本当だったらもうそろそろ「ローゼズ」に行くはずの時間。だけど悪い奴のせいで、そんな時間はなくなってしまった。
ここに行けば必ず星が見えるというわけじゃないし、星が好きな訳でもない。でも、無性に北斗七星を見てみたかった。本当にひしゃくのような形なのか知りたかった。
いや、そんなの建前だ。単に紅野さんの元まで行く理由が欲しいんだ。そこは僕を救ってくれた場所だから。
十七時半。春だから徐々に日が長くなっている。星が見える暗さになるまではあと三十分ぐらい待たなければいけないだろう。
雑貨屋の前まで来た時、足が止まる。異様な光景が広がっていた。
真っ黒なウインドブレーカーを着た背中。そいつが動くたび、吸血鬼のマントのように裾がひらりと翻る。
ウインドブレーカーの長袖から覗いた手は、注射器のような透明な細いものを持っているように見えた。
ああ、こいつだ。悪い吸血鬼。僕らの平穏な夜を壊しにきた悪い吸血鬼が、僕の眼の前でまた誰かを赤く染めようとしている。
そいつの肩越しから一瞬ちらりと見えた人工的な赤の髪。里香だ。彼女の細い首に大きな手がかけられている。
今にも力が抜けそうな足になんとか力を込めて走り出す。非力な僕にできることなんかないかもしれない。でも、今のあいつの気を引くぐらいはできるかもしれない。
足音に気づいた吸血鬼が振り向く。フードから覗く黒い前髪と、その下の血のような赤い眼。僕はこの眼を何度も。
誰かの脚が左脇から、ビルの階段の方から飛んできた。長い脚に強烈な蹴りを入れられた悪い吸血鬼がバランスを崩し、ガードレールに向かって飛ぶ。
「捕獲っすよっ! あ、裕也くん」
素早く犯人を抑えつけた司くんが、振り向く。
「みんな来てたんだ」
「はいっ、犯人っぽいやつ来たらオレが捕まえてやろうと思って一時間前ぐらいに来たんす。そしたら、偶然里香もいて」
「それであたしが囮になるから、犯人来たらぶっ飛ばせって言ったんだよ。こいつ空手できるし」
地面に胡坐をかいた里香が自慢げに告げる。後少し経っていたら大変な目に遭っていたのかもしれないのに、全然そんな雰囲気を感じさせない。
「今のはただの飛び蹴りっすけどね」
「いーんだよ、何でも。あと正直、ますますは来なくてよかったんだけど」
「本当にひどいな、お前」
「そうですよー。人は多い方がいいですっ」
ビルの階段からスーザンがバタバタと走ってきた。首の包帯はもうすっかりなくなっているが、まだ少しだけ赤い痣が残っていた。
「やっぱりここに来ないと寂しくてこっそり来ちゃいました。紅野さんには怒られたんですけど」
えへへ、とおどけて笑うスーザンの背後から、スマートに駆け降りてくる長身の人影。紅野さんだ。その眼はまっすぐ、犯人の男の眼に据えられていた。
「後の祭りだけど、前に会った時、君の連絡先を聞かなかったことを後悔してるよ、雨宮くん」
「紅野さん、お久しぶりです。でも、前とは携帯変えちゃったからどっちみち無理でしたよ、申し訳ないですけど。あの、起きていいですか? 逃げないんで」
雨宮と呼ばれた男を抑えつけていた司くんは一瞬迷ったが、手を放す。
「どーも。あー、眼ぇかゆ……」
眼をこすりながら起き上がる雨宮。眼が赤いのはアレルギーとかのせいなのかもしれない。眼つきは危ないものの、彼の顔は男の僕でもわかるぐらい端正だった。
「何でこんなことをしたのか、教えてくれるかな」
「単に血が欲しかったんですよ。首絞めて気絶させて、血を吸い取る」
気だるげな声で語りながら、雨宮は手に持っていた空の注射器をポイと捨てた。
「薔薇は紅野さんの店名を見て思いついた悪ふざけです。白い薔薇って「純潔」を意味するらしいんですよ。それで俺が狙った子みんな、それっぽいなあと思って」
「そんなこと思いついたんですか。最低ですね」
今の言葉だけで意味がわかったのか、スーザンは雨宮に幻滅したような視線を向けていた。
「すみませんね、碌でもないこと考えるの得意なんで」
雨宮の口がさっきより大きくにっと開く。どうして今笑えるんだろう。
しかし、雨宮の言葉で大体の意味はわかった気がする。白い薔薇は「純潔」。赤い絵の具は「血」や「暴力」。後は考えたくない。人はここまで残酷なメタファーを考えられるものなのか。
「あと、血を飲むことは、前会ったとき止めるようにと言ったはずだけど」
「無理なんですよ、血は俺にとって薬なんです」
雨宮は低い声で語り始めた。
子どものころからずっと、原因のわからない精神的不安定に苛まれていたこと。ある日、怪我をして流血した友人の血を口にし、しばらくの間味わったことのない幸福感に包まれて以来、人の血を飲むようになったこと。幸い恋人には不足しなかったので、度々恋人から血をもらっていたこと。
「今までは、三年ぐらい付き合ってた彼女にもらってたんですけどね。でもとうとう愛想尽かされちゃって。また新しい彼女作るまで我慢とかできねーし、試してみたんです」
「試してみたって、何言ってるんすか、あんた」
司くんの声は怒りのせいか震えている。
「だって、俺には必要なんだ」
半年ほど前、彼は紅野さんと出会い、クラブへの入会を希望した。紅野さんに「夜は何をしたい?」と聞かれた。クラブ入会を希望する人間に、紅野さんが必ず聞くことだ。
彼は答えた。何も考えずひたすらに血を飲みたい、と。
結果、紅野さんは彼をメンバーに入れなかった。
「紅野さん、そのとき言ってましたね。『俺に必要なのは、血じゃないんじゃないか』って」
「ああ、君の入会を拒む言い訳に聞こえたかもしれないが、事実そう思ったよ」
「そうでしょうね。でも、あのときの俺にはわからなかった。それなら俺は自分なりの生き方をしてやるって思ったんです。何なら今でもわからないですけどね」
「本当の吸血鬼っていうのは『夜にしか生きられないものたち』のことだ。君はただ、血と暴力で自分を助けられると思い込んでいるだけだ。冷たいことを言うようだけど」
紅野さんは何も実際に血を吸うのが好きな人間を集めたいわけじゃない。
夜しかうまく過ごせない僕らのような人間のために「吸血鬼」という存在の名前を借りて、その居場所を作ったのだ。
吸血鬼は確かに血を欲する。でも、それ以前に夜しか生きられない。紅野さんはそんな存在を救いたいだけだ。
「……あなたとは何回か会ってましたね」
「ああ、覚えてるよ。腐れ縁ってのかな」
紅野さんの店があるビルの階段、コンビニで意図せず顔を合わせていたことを告げると、里香は顔をしかめた。
「何でそんな大事なこと言わねーんだよ」
「ごめん、全然気づかなくて」
「里香、そんな責める必要ないっすよ。偶然二回会っただけで犯人がこの人なんて普通わからないっす」
初めてビルの階段でぶつかったときは、思い付きもしなかった。だけど、コンビニで彼の動作を見たときピンときた。
「花の茎を折ってたのはわざとじゃないんでしょう」
腹の上に置かれた雨宮の右手の小指を観察していると、時折宙をはじくようにぴくぴくと動く。
店の前に置くまで雨宮が持っていた薔薇は、繰り返し動くこの小指によって折られてしまったんだろう。
これは雨宮の無意識の癖とか、本人の意図しないまま身体が動いてしまうチックのような症状なのかもしれない。
「苛立ったり、焦ったりするとこうなっちゃうんだ。子どものときはこれが原因でからかわれたりしたな。でもさ」
雨宮の眼が不気味にきらめく。
「血を飲めば落ち着いて、そんなことしなくなるんだよ。たった数時間の効き目だけどさ、安心していられるんだ」
「……君は間違えたんだ。それに気づいても、他の方法を試そうともしなかった」
紅野さんの無感情な声が響く。
「何をです?」
「本当に頼るべきものに、だよ」
雨宮は自嘲するように笑っただけで、何も答えなかった。
タイミングを計ったかのように、パトカーのサイレンが近づいてきた。
「全員無事だったからいいけど里香に司、もう二度と捨て身の行動はしないでくれ」
警察に雨宮が連れていかれるのを見送った後の紅野さんの第一声は、愛ある叱咤だった。
「はーい……」
「すみません……」
「まあ、この二人なら大丈夫かもしれないと僕も止めずに見守っていたから、これ以上怒る資格はない。それに、これは雨宮くんの連絡先を僕が知っていればもっと早く防げたかもしれないことだから、僕のせいだ」
本当に申し訳ない、と頭を下げる紅野さん。雨宮とは以前からの知り合いだったとはいえ、そこまで紅野さんの責任ではないような気がする。
「そんな謝んないでくださいよ。犯人があの人だってわかって、止めようとしても止められなかったかもしれないでしょ?」
「そうそう。てか、つーかーって何で空手できるんだっけ?」
「今それ聞くんすか。中学生のときにクラスのやつらにいじめられたからっすよ。ぜってー強くなってぼっこぼこにしてやるって思ったからっす」
そして、いじめを受けたのが陽の当たる公園だったから、それ以来太陽が嫌いになった、と司くんはしみじみと語った。
「今回の件考えると、やっといて良かったっすね。それより紅野さん、大丈夫っすか?」
紅野さんはまだ、雨宮を連れたパトカーが走り去った方を見ていたが、いつもの微笑みはどこにもなかった。今こんな状況じゃ笑えるはずないとは思うけど。
「慣れないことをしたし、色々思い出したからね」
「あの、余計なお世話かもしれないんですけど」
それまで黙っていたスーザンが、控えめな声を出す。
「責任とか感じてるんじゃないですか。雨宮さんのことで」
スーザンはほわっとしているようで、よく人を見ている。
「……そうかもしれない。彼を仲間として受け入れて、本当に必要なものが何かを説得し続ければもしかしたら変わるんじゃないかと思った。でも怖かったんだ、彼自身が。今でもそうだ」
紅野さんはいつも余裕のある人だと思っていたけど、このときは違った。眼には、恐怖と悲しみの色が浮かんでいた。
「えっとですね、もしっすよ」
一瞬の沈黙を置いて、司くんが口を開く。
「雨宮さんを仲間にして、紅野さんが説得し続けたとしても上手くいくとは限らないじゃないすか。さっきも似たようなこと言いましたけど、紅野さんがそこまで思いつめる必要ないっすよ」
「あたしもそう思う。あいつの血を飲みたいってのは、元々の性格だと思うよ。なかなか変えられないって。あたしが煙草やめられないのと一緒」
紅野さんは、静かに頷いていた。
「あなたがどう頑張っても変えられないものはあると思います。でも、それはあなたのせいじゃない」
何を偉そうにって感じだけど、どうしても伝えたかった。僕は紅野さんに救われた。でも、救われない人もいる。僕たちはみんな違うから。
「……そうだね、君たちの言う通りだ」
「一人で何でも背負おうとしないでくださいよ。ちょっとはオレたちのこと頼ってほしいっす。今後ああいう人が来るかはわからないっすけど」
「これからはそうするよ。君たちは頼れる仲間だ」
紅野さんはようやく微笑んだ。紅野さんは完璧な人だと思っていたけど違う。この人にも、弱さはある。僕たちと一緒だ。
「あ、見てください。星出てますよー」
スーザンが、空を指さす。七つの星で作られた長い柄のひしゃくが確かにあった。
「あれが北斗七星か。初めて見た」
「お前本当、しょうもないことばっか詳しいよな」
「うるさい」
綺麗な星が見えるのは夜だからだ。僕たち吸血鬼クラブが愛する夜。
夜は危険でもある。でも、僕たちはこの時間でしかうまく生きられない。そういう意味では、暗い夜空で一層と輝ける星と一緒かもしれない。
「店に入ろうか。何だかんだあったけど今日のクラブは開けそうだ」
僕たち全員が頷いた。夜はこれから始まる。
そして、吸血鬼(彼ら)は夜集う 暇崎ルア @kashiwagi612
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