中編 Crisis

 数十分後、僕と里香と司くんは眼を覚ましたスーザンを連れて紅野さんの知り合いがいるという病院の待合室にいた。紅野さんは留守番だ。

 病院と言っても個人経営の小さなクリニックで、診察室は二つしかない。受付にはひっつめた黒髪がかっこいい看護師の藤田さんがにこりともしない仏頂面で書類作業をしている。

「あ、戻って来た」

「どうしたんすか、その首」

「診察室1」とある小部屋からスーザンが出てくる。彼女の細い首には、白い包帯がぐるぐると巻かれていた。

「何か怪我してたみたいです」

「怪我?」

 お疲れさん、という野太い声とともに、スーザンの後ろからのっそりと長髪の男が顔を出す。ここの数少ない医師でもあり院長の細川先生だ。そしてこの人が、紅野さんの知り合いの医者でもある。忙しくて身なりに構う暇がないせいか背中まで伸びた茶色い髪を後ろで括っている。外見も野暮ったいし、喋り方もぶっきらぼうで紅野さんとは正反対みたいな人だけど、悪い人ではなさそう。悪い医者ではないというべきか。

「一通り見たけど、特に体内に異常はない。今のところだけどな。倒れてたっていうから、薬でも盛られたかなと思ったがそういう訳じゃないらしい。念のため、明日にでも内科とか行った方がいいとは思うが、今なんともないなら大丈夫じゃないか、ってところだな」 

「あの、体内はってどういうことですか?」

「今から説明するっての。藤田女史に見てもらったけど、性的暴行の痕跡もない。ただ、首に結構でかい異常がある。問題はそこだ」

「首に?」

「ああ」

 細川先生が太い喉元を片手で抑える。

「薬塗って包帯巻いたから今は見えないけどよ。赤い痣が首全体、それと数ミリも行かない丸い傷みたいなのがあるんだよ」

「何で、そんなもん」

 里香が顔をしかめる。

「痣ができた原因は一つしか考えられない。首を絞められたんだ」

 首を絞められた、という言葉に全員が言葉を失った。

「あとその丸い傷っていうのは、注射痕だろう。それがあったから、首元から薬品かなんかを注入されたんじゃないかと思ったんだけどな。そうじゃなかった。お嬢さん、なんか覚えてないか? 意識失う前のこととかさ」

 スーザンは首を傾げる。

「誰かに話しかけられたかもしれないんですけど。何でかな、覚えてないです」

「そうか。首を絞められて失神した後は、記憶がなくなってることもある」

「じゃあ犯人はスーザンの首を絞めた後に注射の針を刺したと仮定して、だけどその理由がわからない、と」

 スーザンを襲った犯人は何らかの理由でスーザンの首に注射の針を刺そうとした。刺すときに暴れられないように首を絞めて意識を失わせてから。ない頭を必死に絞って出てきた僕の考えに細川先生が頷く。

「そういうことになるな」

「意味わかんな、どういうつもりだし」

 里香が苛立ちを隠せていない声をあげる。

「これは、オレの考えなんだけどな。犯人はお嬢さんの首の中に何かを入れたかったんじゃないのかもしれん」

「え、どういうことっすか」

「ピストンを押し切った状態の空の注射を体内に差して、引き抜く」

 あ、とスーザンが驚いたような声をあげる。

「それってもしかして」

「そう、薬品を入れたくて注射を差したんじゃない。血を抜き取るためだ、お嬢さんのな」


 細川先生のクリニックの帰りに念のため警察に被害届を出した後、僕たちは「ローゼズ」まで戻った。

 交番で僕たちの話を聞いたおとなしそうな警官は「周辺のパトロールを増やします」と言ってはくれたが、それで犯人発見に至るかまでは怪しい。でも、僕らにできることはやったと思う。

「この辺りには、良からぬことを企む何者かがいるかもしれないってことだね」

 スーザンの容体と細川先生の話を聞いた後、紅野さんは平静としたトーンで言っただけだったが、物静かな怒りが含まれていることは十分伝わってきた。

「だけど、なんでスーザンが襲われなきゃいけなかったんよ」

 ジントニックのグラスを傾けながら、里香が低い声で独り言ちる。

「こう聞くのはあれっすけど、スーザンは誰かに恨まれてるとかそういうのないんすか?」

 うーん、とスーザンは首をひねったが、すぐにあっさりと「ないです」という返事が帰ってくる。

「恨みを持ってる人間が犯人とは限らないだろ。無差別通り魔って可能性もあるし」

「女子の血を手あたり次第狙う通り魔? きんもっ」

「手あたり次第かは知らないけど、若い女子なら誰でもいいとかさ」

「はあ、なるほど」

「お前、経験者みたいに言うじゃん」

 司くんからも里香からも大いに勘違いされてる気がする。

「何だよ、その眼は。ただの推測だよ」

 こういう推測ができるのもおかしいよな、と大いに自省する。

「殺しはしないジャック・ザ・リッパーみたいなものでしょうか?」

 スーザンが声を弾ませる。

「あー、そういうことかな。ていうか、楽しそうだね」

「えへへ、なんかホラーみたいでわくわくしちゃいました」

「いや、もう少し危機感持てよ……」

 そういえばこの子は以前、猟奇ホラーとミステリが好きだし「吸血鬼に血を吸われてみたい」とかニコニコと言ってた子だった。

 しばしの沈黙が続いた後、カウンターの隅っこでカルーアミルクを飲んでいたスーザンが、あのうと声を上げる。

「血を抜き取るってことはいかがわしいことに使うってことでしょうか? 私の血で黒魔術とか?」

 被害者にも関わらず、興味深々な声でスーザンは笑えない冗談を言ってのける。こんなこと言っていられるなら心も身体も元気ってことなのかもしれないけど。

「ろくなことに使うとはとても思えないね」

 苦々しく吐き出す紅野さん。

「もしかして本物の吸血鬼でしょうか? あ、注射痕じゃなくて歯形とかかも。あ、でも歯形で痕がつくのが一本なのはおかしいか」

「いや、さすがに妄想飛躍しすぎ」

 眼をきらめかせるスーザンを里香が呆れたように嗜める。

「もしかしたら、犯人はヘマトフィリアかな」

「ヘチマフィリア?」

 どうしてそうなるんだとつっこみたくなるような聞き間違いをする司くん。

「ヘマトフィリア。ヴァンパイアフィリアとか吸血嗜好症とも言って、人の血を飲むことを好むんだよ。人間の身体って血液を口に入れるとえづいてしまうようにできているんだけど、そういう人もいるって話」

「マジかー、なんでそんなんになるの?」

「元々生まれ持った嗜好だったり、精神的疾患によるものだったり原因は色々あるらしいけど。まあ、これも僕の推測」

「……そうか、もしかしたら」

 紅野さんは何かを思い付いたのか、青い顔で何かを考えている。

「何かわかったんすか?」

「……いや、何でもない」

 何でもなくはなさそうな様子だけど、何か隠してるんじゃないかとつっこむのは誰もいなかった。

「今回の件はどうにかしないといけないね。楽しい夜が過ごせなくなる」

「それって、この場がなくなるってことですか?」

「そう。裕也の言うように犯人が無差別だった場合、今後も同じような事件が起こってもおかしくはない」

「えー、それは最悪」

「残念だけど、仕方ないさ。命の方が最優先だ」

「それはそうですけど……」

 あからさまに不満げな里香をなだめたくなるものの、僕もこのクラブの活動がなくなっては欲しくないのが本音だ。

「あ、オレたちで犯人を捕まえればいいんじゃないっすか?」

「そうかもですけど、危ないですよ」

「その通りだよ。司、変なことは考えないでくれ」

「そ、そうっすよね。すいません……」

 咎めるように細められた紅野さんの視線に司くんが萎縮する。僕たちが危険なことに首をつっこむことなど紅野さんはそう簡単に許さないだろう。当たり前のことだけどそういう意味では、紅野さんはこの中で一番大人だ。

「あーもーっ、犯人ぶっ飛ばしたいわっ!。絶対許さねー!」

 この場のほとんどが思っているであろう感情を、顔を赤くした里香が勢いよく吐き捨てた。大分酒が回ったようだ。


 夢であってほしかったぐらいの大変なことがあったにも関わらず、今日のクラブはお開きになる夜の二十一時までちゃんと開いていた。本当だったら、それぞれ帰った方が良かったのかもしれないけどみんな最後までいた。逆に怖いことがあったからこそ、夜の道をバラバラに帰るより、可能な限り仲間たちと集まっている方が安全だとみんなわかっていたのかもしれない。

「あれっ、これ何すか?」

 二十一時を過ぎて総員で店内外の片付けに入ったころ、「貸し切り」の看板がかかった入口のドアから司くんの素っ頓狂な声が上がる。

 看板を脇に抱えて戻ってきた司くんが両手で包むように持ってきたのは一本の白い薔薇。

 でもただの薔薇じゃない。白い花弁の三分の一ぐらいが、つんとした匂いのする赤いとろみのある液体でべったりと覆われている。塗られているのは絵の具の類だろうか。

 かけられた絵の具が重いのか、花弁の先から小さな赤い粘液たちがぼたぼたと店の床に落ちる。血が滴ったみたいで気味が悪い。

「こんなのさっきまでなかったすよね?」

 全員が首を振る。僕がこの店に来たときも、スーザンたちと共に細川先生のところから帰ってきたときも。あったらすぐに気づいたはずだ。

「置かれたのは、今から一時間もしないうちだね」

「『不思議の国のアリス』みたいですね」

 スーザンの言葉は場違いだけど、僕もちょうど同じことを考えていた。ルイス・キャロルのナンセンス児童文学の代表作にも、僕らの眼の前にあるような異物が登場する。

「アリス?」

「アリスが会うハートの女王に仕えてるトランプ兵が、庭に間違えて植えちゃった白い薔薇を赤いペンキで塗って誤魔化そうとするシーンがあるんです。お茶会のとき、庭の薔薇が赤くないと女王様が激怒して、兵隊は首をはねられちゃうから」

「ええっ、怖いっすね」

「これが店の前に?」

 モップを手にした紅野さんが眼を瞠る。

「そうっす。ドア開けたらすぐ正面にぽつんと置いてあって、床も赤いので汚れちゃってました。捨てちゃいますか?」

「いや、警察に持って行った方がいいな。その前に写真を撮っておこうか」

 紅野さんはカウンターテーブルに敷いた白い紙の上に薔薇を置くと、携帯で写真を撮った。

「これ、わざとですよね」

 そう言い放った僕の声は悲しいぐらい弱弱しいものしか出なかった。

「それ以外考えられないっしょ。わざわざ赤いのつけて、店の前に置いとく暇人、そうそういないわ」

「じゃあ、犯人はスーザンがここを出入りしてることも含めて、オレたちを知ってる、狙ってるってことっすよね?」

 自分たちが知らないだけで、僕たちは誰かから恨まれているのだろうか。

「考えたくないことだけど、そうなのかもしれない」

 薔薇をジッパー付きの袋に慎重に入れている紅野さんの声は硬かった。

「しかも、よく見てくださいよ。茎、折れちゃってんすよ」

 司くんが指で示した、薔薇の茎の先端は数ミリほどぽきりと折れていた。犯人はわざと折ったのだろうか。薔薇の茎は硬くて折れにくいと言うけど。

「こんなことして花がかわいそうっす」

「そもそもこれどういう意味なんでしょうか」

「ますますだったらわかるんじゃね?」

「わからん」

「何だよ、わかんねーのかよ」

「何で僕ならわかるって思ったんだよ」

 この店の名前が薔薇を意味する「ローゼズ」だからか。それにしたって、白い薔薇を赤い絵の具で汚す意味がわからない。

「この薔薇の意味は後で考えるとしようか、もしかしたら意味なんてないかもしれないけど。それと、これを見て心を決めたよ」

 全員の驚いた視線が紅野さんに集まる。

「残念だけれど集うのはしばらくお休みにしよう。もうこれは決定事項だ」

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