そして、吸血鬼(彼ら)は夜集う
暇崎ルア
Bad Medicine
前編 Twilight
街中を歩くのは嫌いだ。みんな僕を変な眼で見るだろうから。
本当は、こうしてほっつき歩くのもできればしたくない。でも、今僕には行きたいところがあるからぼとぼと歩いて向かわなくちゃいけない。子どものころから大好きな吸血鬼のように、こうもりになって夜空を飛んでいくなんて僕にはできないから。
十八時、日が沈みかける「黄昏時」と呼ばれる時間が一日の中で一番好きだ。黄昏時、という言葉の時点でおしゃれだと思うし「トワイライト」と英語にしてもかっこいい。
少しずつ薄暗くなりはじめた時間の東京を僕は歩いていく。誰の顔も見たくないし、誰にも僕の顔を見られたくないからパーカーのフードを深く被って、下を向いて。
夜でも、街は明るい。道に等間隔に立ち並ぶ街灯も、飲食店やコンビニから漏れてくる照明があふれて、まるで夜という時間を感じさせない。
目指す場所はもうすぐだ。このまままっすぐ通りを行き、二十四時間経営のコンビニ、個人経営の雑貨屋さんの隣に古びたビルがある。入口のビル名に「ビルヂング」と時代を感じさせるような言葉遣いの看板がついているような古いビルだ。もしかしなくても老朽化しているから地震なんかきたらひとたまりもないんだけど、なくならないでほしい。なんなら、地震が来て崩れる建物と共に僕も滅んでしまって全然かまわない。
階段の踊り場をくるっと回るように昇り始めたところで、後ろから来た誰かがぶつかる。ばっとすり抜けていったのは、僕より一回り背が高く、黒いウインドブレーカーを着た男。 頭を下げることもすみませんの一言もなく、ちらりと僕を一瞥しただけで上の階へと駆けて行った。見えたのは一瞬だが、眼は真っ赤だった。
最後の最後で嫌な思いをしながらも二階。昇ってきた正面には黒いドア。そこにかかったフックには小さな看板がぶら下がり「本日十八時より休業」の文字とともに赤いチョークで書かれたラズベリーの木の実がいくつか描かれている。
「休業」とある以上ほとんどの人間はこの店に入れないが、これは一部の人間のためだけの隠しメッセージで、僕にはどういうことかちゃんとわかる。チョークのラズベリーを何度か数えて十個であることを確信すると、店のドアをノックする。数秒後、ドアの向こうからやってきた足音の主が少しだけ開いたドアの隙間から顔をのぞかせ、今日はいくつ? と問う。
「十個ですね」
「正解だ。いらっしゃい、裕也」
ドアを全開にして僕を出迎え、和やかでどこか艶のある笑みを向けたのは、このカフェ兼バー「ローゼズ」の店長、そして僕が所属するクラブのリーダーの紅野さんだ。パーマをかけた黒いミディアムヘアー、すっとした中性的な顔立ちは女性にも見えるけど、男性だ。僕もこんな男性になりたい、と何度思ったことか。
紅野さんの下の名前は誰も知らない。そもそも「紅野」が本名なのかもわからない。しわもほうれい線もないから若く見えるけど、僕や他のメンバーより一回り以上は年上だろうってことはわかる。
でもそれでいい。紅野さんは紅野さんだ。
「今日もいつも通り?」
「はい。アルコールが入ってなければなんでもいいです」
この後、カラオケボックスのバイトの深夜シフトがあるので、酒を飲むわけにはいかない。元々そんなに強くもないし。
頷いた紅野さんは早速足早にカウンターへ、そしてドリンクを作り始めた。
僕も店内フロアのテーブル席を抜け、カウンター席へと向かう。テーブル席は主に昼間のカフェ、クラブがない日の夜は普通のバーとして営業しているという。クラブの日以外は来たことのない僕だが、週二日店主の都合で休業にしても平気なんだから客足は結構あるんだろう。
今日の紅野さんはチェーンと真鍮製のボタンがついたゴシックなベストを着ている。色は深いワインレッドだ。紅野さんはこういうファッションがよく似合う。
「お前、今日も顔色悪いのな」
開口一番毒づいてきたのは、僕とタメで二十四にしてヘビースモーカーの里香だ。ミドルポニーテールにしている長い髪の色は人工的な赤。美容師として働いているだけあって、自分のヘアスタイルにもこだわっている。
里香の本名は朝霧里香という。美容師として昼間働いているものの、本人は昼間が大っ嫌いで「朝」という字の入る自分の苗字すらも。本人曰く「太陽に生命力を奪われる時間だから」。悲しいけど同意できる。
里香は新しい一本をわざとらしくゆっくり吸い、ふーっと煙を僕に吹きかける。うっかり吸い込んでしまい、大いに咳が出た。
「やめろよ、匂い嫌いなんだよ」
「うっそだろ、メンソールだぞ」
「チョコの匂いだろうと花の匂いだろうと、有害な匂いに変わりはないんだよ」
ふん、とそっぽを向く里香。
「まあまあ、それぐらいにして。ほら、できたよ。増川くん」
僕の眼の前に一杯のカクテルが差し出される。櫛切りのレモンがついたグラスに注がれた液体は血のような赤だ。
「今日はブラッディ・メアリーなんですね」
「今思いついたってだけなんだけどね」
紅野さんが茶目っ気たっぷりに笑う。
飲みものが差し出された途端、黄色いカクテルグラスを持った里香がちゃっかり隣の席に座る。グラスの縁に透明な塩の粒がついているからソルティ・ドッグだ。
「しゃーない、まずはお前と乾杯してやるか」
「しゃーないってなんだよ」
「だって、まだ飲んでねーんだもん。律儀に待ってたんだよ」
急かすように里香が自分のグラスを宙に掲げる。誰かがこうして乾杯のサインをとったら、同じようにするのがここのルールなので仕方なく僕も続く。
紅野さんは何も言わず、僕たちの様子を静かに見守っていた。
「太陽に背を向ける者たちの夜に、乾杯」
「太陽に背を向ける者たちの夜に、乾杯」
二つのグラスが突き合わさる高い金属音が響いた後、僕たちはようやくグラスに口をつける。口の中いっぱいに広がる甘酸っぱいトマトと、炭酸のシュワシュワとした飲み口。本当ならウォッカの苦い味がするけど、これはノンアルコールだから炭酸水だ。
里香と僕が乾杯の前に繰り返したのは、この会の独特なルールの一つだ。
僕たちは、紅野さん率いる「吸血鬼クラブ」のメンバー。吸血鬼と言っても、全員ただの人間だ。ただ一般的な人間と違って、昼と太陽が嫌いで夜と月が出ている間は異常なくらいに元気というだけ。
活動内容はいたってシンプル。週に二回「ローゼズ」に集まって、グラスを片手に仲間たちと談笑する。入るには「貸し切り」と書かれた看板にランダムで書かれたラズベリーの実の数を数えて伝えなければならない。吸血鬼が家の中に入るには、戸口にばらまかれた木の実を数えないといけないというヨーロッパの古い民間伝承から来ているらしい。
そして、守らなきゃいけないルールがただ一つ。仲間が合言葉とともに掲げた杯には、必ず乾杯をする、それだけだ。後は日頃の愚痴を吐き出すなり、騒いだりすればいい。
「やっぱ紅さんのカクテルうんまー」
続くぷはー、っという里香の声で我に返る。見れば里香のグラスはもう空だ。
「お前、飲むの早」
僕は一口飲んだだけだというのに。
「相変わらず強いんだね、里香は」
紅野さんは感心したような呆れたような顔をする。
「だって、おいしいんだもん」
「飲みすぎるなよ。あの、司くんとスーザンはまだ来ないんですか」
司くんとスーザンというのは、クラブのメンバーである御手洗司とスーザンもとい
携帯の時刻を確認すると十八時。そろそろ来てもいいころだけど。
「まだ何の連絡も来ていないんだよ。あの二人なら無断欠席とかはないと思うんだけどね」
「二人とも真面目ちゃんだから、そういうところちゃんとしてるもんねー」
「事故とかあってないといいんですけど」
「そうだね。……噂をしたら来たかな」
入口に眼をやった紅野さんに続き背後を振り向くと、ドタバタと誰かが駆けてくる音が聞こえた。
続いて、ガチャガチャと急いだようにドアノブを回す音と、ドア越しでも聞こえてくるすいません、開けてくださーいという上ずった大声。
「司くんの声だね」
「間違いないですね」
「なんか急いでるね、あいつ。……おーい、ラズベリーいくつだよ」
まだ忙しなくドアノブが回っているドアに向かいながら大声を出す、里香。
「あー、ごめんなさい。えーっと、十個?」
「おっすおっす、つーかー。……はっ?」
ドアを開けた里香が固まる。
僕も、紅野さんも入口に眼が釘付けになっていた。
「す、すみません。連絡もなしに遅れて申し訳ないっす」
三人目の来客は、やっぱり司くんだった。走ってきたのか、ぜーはーと息を切らしている。
そして、司くんの長く鍛えられた腕の中に抱えていたのは華奢なスーザンの身体だった。
「え、どういう状況?」
「道に倒れてたんっすよ。このビルと雑貨屋の間の細い隙間あるっすよね、そこで」
確かにこのビルと隣の雑貨屋さんの間には路地裏のような細い隙間がある。身体を横にして無理やり通れば、向かいの道路に出られるとは思うけど、入ってみたことはない。
里香と司くんがパニックになる中、紅野さんだけは冷静だった。
「何はともあれ医者には見せに行こうか。十分ぐらい歩くけど知り合いがやってる夜間病院があるから連絡してみるよ」
「知り合いの医者って、あの茶色いおっさんのこと?」
里香が苦い顔をする。
「里香の知り合いなんすか?」
「んー、一回だけ医者っぽい白衣着てた人ここに来てたの見たことあって、野暮ったいっていうかきな臭いっていうか」
「こらこら、人は外見で判断するものじゃないよ、里香。あいつはああ見えて名医だから」
「マジですかー」
そこでううん、とうめき声がする。全員が視線をやった先では、司くんの腕の中のスーザンが眠そうに眼をこすりながら司くんを見上げる。
「あれ、司くんなんで、私のことお姫さま抱っこしてるの?」
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