第2話

 幼い頃の了真には、怖いものがたくさんあった。


 雷も、犬の鳴き声も、大人の男の人の声も。大きくて低い音がすると、何か悪いことが起こるんじゃないかと感じたし、その悪いことはお前のせいで起こるのだと理不尽に責め立てられるような気がした。


 「叱られたくない」というのは幼い子供であれば皆持っている感情だが、とりわけ了真は、幼い頃から他人ひとに責め叱られることに対する忌避感が人一倍強かった。

 学校では、いつ教師から理不尽に怒鳴られるか分からなくて常に息を潜めていたし、同級生と深く関われば、いずれ相手から酷く傷つけられるだろうから、できるだけ関わらないようにした。

 了真に親しい友人と呼べるような相手がいなかったのも、そうした消極的な生存戦略を取っていたからだ。

 勿論、実際にはそのような理不尽な人々はいなかったので、了真の心配はいつも杞憂で終わったのだし、そんなことは普通に過ごしていれば起こらないのだと云うことは、了真も頭では理解していた。

 それでも、幼い了真には、常に他人の癇に障らないように毎日をやり過ごす以外の生き方ができなかったのだ。

 大人にはいつだって、幼い自分には理解の及ばないルールがあって、それを乱す了真を叱るのだ。


 そんな了真がミズハと親しくなったというのは、奇跡的なことなのだと思う。

 あの時もやっぱり、沢がごうごうとうなっていて、それが怖くて仕方なくてミズハのいる隣の部屋に逃げたのだ。

  「だいじょうぶ。俺がいるから怖くないよ。」

 耳に心地よく流れ込むミズハの声を聞きながら、ひんやりとした大きな手で撫ぜられると、この世に自分とミズハの二人しかいないような気がして、そうしてやっと安心して眠ることができたのを虚ろに覚えている。

 そういえばあの頃からミズハは今と変わらない姿をしていた。

 今はいくつになるんだろうか。あれからもう13年経っているというのに。

 仮に出会った頃のミズハが今の了真と同じ齢だとして、もう40近くなっているはずだが、今のミズハは記憶と寸分違わない姿のままだ。

 そもそも自分はいつミズハと出会ったんだっけ。

 記憶を何度も辿り、どうにか思い出そうと試みるが、あの頃の記憶だけはまるで靄がかかったように朧気で、無理にその靄を晴らそうとすると息が苦しくなる。

 

 目を開ける。

 和室だ。

 天井から壁を伝って畳へと視線を滑らせていく———竹細工の笠のついた電燈、掛け軸の代わりに仏壇の収まっている床の間、重そうな座卓、祖父の遺影。

 13年ぶりだというのに、昨日までずっとここで暮らしていたような気がするほど、見慣れた部屋。この部屋は知っている。

 反射的に「朝だ」と思ったのに、予想に反して外は暗い。

 直前まで脳内を覆いつくしていた靄は、ピントの合わない視界の端で少しずつ薄くなっていく。

 上体を起こすと、身体から薄手のタオルケットがずり落ちた。ミズハが掛けてくれたのだろうか。

 そういえば、布団も敷かれていて、少し日焼けしたシーツからは仄かに樟脳の香りがする。

 このままじっとしていると、あの、沢の呻り声が聞こえてくるような気がして、了真は布団から立ち上がり、和室を出た。


 ぼんやりとした白熱球の灯りを頼りに廊下を通り、玉暖簾のれんをくぐって台所に立ち入ると、ミズハが食卓机に頬杖をついて了真を待っていた。

 暗闇の中で真っ白な髪が仄青く発光して見えて、こちらは蛍光灯みたいだ。

 すいぶん待たせてしまったのだろう。了真に気が付くと、蛍光灯の髪を揺らして顔を上げた。


 「よく眠ってたね。昔は怖くて眠れないって泣きついてきたのに。」

 「…おかげさまで。」


 「俺が添い寝してあげても良かったのに」とからかう声を無視しながら、気恥ずかしさをごまかすように入り口のスイッチを押すが、灯りは点かない。


 「ごめんね、ここの電球だけ切れてたみたい。明日買いに行こっか。」

 「うん」

 「あ、おなかすいたでしょ。何食べたい?作ってあげるよ。」

 「うん」


 そう言って真っ暗な台所を迷いのない足取りで冷蔵庫の方へ向かうミズハを見て、(ああ、こんな感じだったな…)と了真はぼんやり思い出していた。


 「何があるかな~、あっ、牛乳消費期限切れそう。」

 「…冷蔵庫の中身、腐ってないんだ…」

 「当たり前。」


 りょうくんがいつ帰ってきてもいいように毎日用意してたと、冷蔵庫の中の食品を確認しながらミズハは返す。

 ごく普通のことのように了真の為と言われると、自分のことを大事に思ってくれる嬉しさと、子供扱いをされているようなもどかしさでつい黙ってしまう。

 

 「オムレツくらいならすぐ作れそうだけど、それでいい?」

 「うん、大丈夫」


 大分暗闇に慣れてきた目で、了真は調理台に向かうミズハを改めて観察した。

 血管が透けて見える白い腕———変わってない。床を引きずるほど長かった白い髪は、肩先の長さまで短くなっている。祖母が切ったのだろうか。背は多分変わってない。流し台の上の収納棚に顔が当たるくらい。以前よりも目線が近いのは、自分が成長したからだろう。あとは———

 フラフラと引き寄せられるようにミズハの背に近付く。


 「やっぱり」


 首筋に締め痕のように残る赤い傷———変わってない。


 「…どうしたの、危ないよ。」


 頭の上から突然降ってきた低い声に、背中に冷たい刃物を突き付けられたように了真は「ひゅっ」と息をのんだ。

 見上げた先にいるのが自分の知っているミズハではないような。

 何か意思の疎通ができない別の生き物であるかのような予感がして、そのままの恰好で固まっていると、白い両手で頬を掬い上げ、上を向かされる。

 骨張っていて華奢なように見えるその手に力は入っていない。それなのに、振りほどこうという意志を抜かれる程の無力感からされるがままになってしまう。

 頭を固定され強制的に目を合わせられる。視線が…目の奥にあるものを確認しているかのようなミズハの視線が、了真に目を逸らすことを許してくれない。

 背筋に沿って下から上へと昇ってくる得体のしれないざわめきを感じながら、「何をしようとしているのだろうか」という不安で拍動が段々と脳を揺らし、耳が詰まる。

 もう耐えられないと思ったところで、頬に添えられていた両手がそっと離された。


  「待ちきれなかった?ごめんね、もうちょっとだから。」


 ミズハは何事もなかったかのように再び了真に背を向け、フライパンを探そうと流しの下をゴソゴソと漁り始めた。


 ───今のは一体何だ。

 優しくて、背が高くて、了真のことをいつでも想ってくれる。了真が知っているミズハと何一つ変わっていない。それなのにどうして、と思ってしまったんだろう。

 

 「お待たせ。はい、めしあがれ。」


 そんな了真の胸中など微塵も気づいていないのか、それとも分かったうえであえてそう振る舞っているのか、ミズハは了真の前に作り物のように綺麗なオムレツを置いて、うっとりとした顔で向かいの席から了真を見つめる。

 ミズハの手料理を咀嚼する了真をのぞき込むように首を傾げる様子も、その表情も

あの頃から変わりないはずだ。

 

 ざわざわと騒ぎ続ける胸の中の靄を、少し固めの卵と共に無理矢理飲み込んだ。


 

 

 

 

 

 

 


 

 

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炎陽 彼岸 @nemunemu06

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