資料2

  坂下地区 澤口信雄さわぐちのぶおさんの話


 この辺は山に囲まれとるでな、ありがたいことに空襲の被害は少なかったんよ。まあ、元々この辺住んどる奴は少ねェし、そのくせ男衆おとこしはみィんな戦地に送られてな。どんな辺鄙な地域でも赤紙は届いたやろ?あの頃は。


 え?疎開に来た人がおったやろって?いやァ、そンな人はおらんかったなァ。ああいうのは大概、親類縁者のおる田舎に疎開したんやろ?縁故疎開ッちゅうンか。でもなァ、この辺は昔ッから坂下ン中で嫁取って死ぬまで外に出んのが普通やったもんで、外に縁者がおる家ァ無かった。集団疎開するにも中途半端やし。名古屋からも東京からも微妙に遠いしな。そんなやから、戦中はとにかく人がおらんかった。やから、敵さんもこんなとこ爆撃しても意味ない思うたんやろ。被害は少なかった。


 あの日のことは今でも、昨日きんのうあったみたいに覚えとる。どんより曇った日やった。前の日に大雨が降ってな、地面に溜まった雨水からジメジメした熱気が上がってきて、歩いとるとだんだん気分がわるくなったんよ。わっちャあ三軒隣の山下のバァさんに呼ばれて、向かっとるとこやった。長男の嫁のヤエさんが野良仕事中に倒れたんやと。さっき、坂下の者ァ外に出んって言うたが、わっちャあ戦前京都の帝大に通っとったんよ。戦争のどさくさに紛れてこっち戻ってくるまでは、細菌の勉強しとった。やから、戦時中でも前線には送られんで済んだんよ。まァ、最後には理系の学生も徴兵されたんやけどな、わっちが送られる前に終わった。ギリギリやったな。


 なんの話やったっけ、ああ、あの日の話やったな。そう、ほんでわっちが理系の学生やったから、山下のバァさん、わっちをお医者の勉強しとる思うたんやろなァ。細菌学と医学の違いなんて、こんな田舎のバァさんにわかる訳ァ無い。ほやけど、「ヤエが倒れたー!」言うて血相変えてうちに飛び込んできた年寄りに、「専門じゃない」言うて断るンは酷やろ。日は照ってないが、きっとこの暑さにやられたんやろなと思うて、バァさんをうちで休ませてわっちひとりで三軒隣へ向かった。


 三軒隣なンて言うても、隣の家まで十町離れとるような村やもんで、山下のバァさんち行くまで三十分強かかる。しかも途中に沢があるもんで、流れの緩いとこまで大回りしんとかんと思うと、一時間かかることもあった。流石にそんなに悠長なことァできんで、流れは速いがまあ渡れねェこたァないやろうって辺りで沢に下りた。


 前の日の大雨のせいで、水は濁っとるし、渡れるとは思うが流れは普段よりずッと速いもんで。下りたァいいが、わっちャあ戸惑ッちまってな。何の気なしに向こう岸をぼうッと見とったんよ。

 沢のこっち側は道から沢が見えるくらい開けとるんやけど、向こう側は岸のすぐ後ろンとこが雑木林になっとる。やから、山下のバァさんちに行こう思うたら、雑木林をかき分けて開けたとこまで出んとかん。ああ、厭だなァ。地面はぬかるんどるし、虫は多そうやし、濡れた葉っぱをかき分けて進まなかんと思うたら、急に億劫になってきた。やっぱり大回りしてでも、もっと流れの緩いとこまで行くかな、否、今更上の道まで上がるンも面倒やな…

 そンなことをぐるぐるぐるぐる考えとったときや。雑木林の隙間からチラッと白いもんが動いたンが見えた。何だありゃァ?鷺かなンかか?とな、目ェ凝らしてそっちをじッと見つめると、下草をガサガサかき分けて、は出てきた。


 わっちャあな、実を言うとがどンな見た目しとったか、全体では覚えとらんのやお。只、部分部分はハッキリ覚えとる。着物の袖から伸びる手は骨みたいに細くッて、血管の浮かんだ手ェには獣みたいな爪が生えとって。真ッ白な髪が足元まで伸びとってな、地面をずるずる引きずってたからか先は泥で汚れとった。睫毛まで真ッ白なんやなァと思った瞬間、その大きな目がぎょろっとわっちの方を見た。

 ああ、見ちゃァ駄目なもんやったのに。

 そう、思った。


 次に気がついた時には、山下のバァさんちの前やった。信さん大丈夫かァ!どうした?ッて、ヤエさんの様子見に来たお隣の辻堂さんが、わっちの肩ァ必死で揺さぶっとった。

 どうやってそこまでたどり着いたんかは、全く覚えとらん。

 を見た証拠になるようなもんも何にもない。やから、夢や言われても否定できんのや。

 わっちは今は夢や思うようにしとる。

 

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