第3話 その日【10年前①】

 推しカプ・エルタツを生で拝むこと。


 二度目の人生の目標を定めたアンは、すぐにジュディの開くパン屋で職人見習いとして働き始めた。


 元々真面目で努力家のアンは『推しカプに買いに来てもらう』という秘めた情熱から誰よりも熱心に学び、パン作りの練習を重ねた。その努力はすぐに実を結び、もうすっかりアンはパン屋に無くてはならない人材へと成長している。


 その日、アンはジャムの材料をとりに山へと入った。ジャムが存在しなかったその世界では、アンの作る「ジャム」が話題となり、ジュディのパン屋には人々が押し寄せるようになっていた。


 アンはジャムの作り方を広く伝えようとしたが、ジュディから「それはあなたの財産になる」と制止を受け、現状ジャムはアンだけが作れる希少なものになっている。


 ジャムを目的にジュディのパン屋へ客足が増えていることもあり、孤児である自分に良くしてくれるジュディへの恩返しにもなっているかとアンは満足していた。


「(そろそろ野いちごが食べ頃のはず)」


 いつも通りの山道を進んでいたアンのすぐ側で、ドン、という大きな音が響く。


 破裂音とも違う不思議な音に、アンは首を傾げながらも脚を向けた。


「(どこかで聞いたことがある音だったんだけど……何の音だったかな……)」


 記憶を辿りながら、アンは無警戒に脚を進める。


 この山はアンの住む町のすぐ近くにあり、果実がよく採れるので季節毎にアンは足を運んでいた。食べ頃がまだ先と分かればまた出直し、熟した時に収穫する。

 それを繰り返すうちに、すっかりこの山はアンの庭になっていたのだ。


「(この世界で聞いたことは無い気がする……ってことは元の世界の記憶なんだろうな)」


 ガサリ、ガサリ。


 アンが草木を踏みしめる音だけが響いている。

 やけに静かな周囲の様子に、アンは気づかない。


「(元の世界で……大きい音……花火ではないし……)」


 呑気に足を踏み出した次の瞬間、アンの視界は大きく開けた。


「(そうだ、あれは……)」



 自分の死の直前に聞いた音だった。



 アンが記憶に辿り着いた時、目の前あったのはそびえ立つ崖。


 そしてその下には血だらけの小柄な少年が倒れていた。



 ◇◇◇



「ちょっと……!」


 一瞬で血の気が引くのがわかる。

 自分の体温すらどこかに行ってしまったような感覚の中、激しく動き始めた心臓とは裏腹に頭だけはやけにクリアだった。


「大丈夫!?」


 アンは倒れている少年に駆け寄ると、その顔に触れる。

 べっとりと着いた血とは裏腹に、少年の傷口は一見何処にあるのか分からない。

 服は所々破れてはいるものの、その先に傷口は見えないのだ。


 状況からして、恐らく崖の上から落ちたのだろうと思いつつ、アンの中には小さな違和感が宿った。


「ねぇ、君! 生きてる!?」


 反応のない少年の胸元にアンは手を伸ばす。

 胸に手を当て、数秒間。

 確かに動く心臓に、ほっと胸を撫で下ろすと同時だった。


 少年はむくりと起き上がると、感情の宿らない目でアンを見た。


「(紅い、目……?)」


 少年は大きなため息をつくと怪我などどこにも無いように立ち上がる。


「ね、ねぇ……君、動かない方が……」


 少年はアンの言葉など一切聞こえていないように背を向けて歩き始める。


 少年が倒れていた場所には確かに血痕が残されており、アンの手に着いた血液もまだ生温かい。


 それなのに、目の前から離れていく少年は血だらけではあるものの、どこかを傷めた様子もない。


「(どういうこと……? この血は彼のじゃない、ってこと……?)」


 本人の怪我では無いのなら、この血一体は誰のものなのか。


 どしゃり。


 少年が進んだ方向から聞こえた不気味な音。

 アンはゴクリと喉を鳴らすと、ゆっくりと少年の進んだ方向へ足を踏み出した。


 なるべく音を立てないように、慎重にアンは足を進める。


 踏みしめた木の枝がパキリとなる音も、木の葉の潰れるガサリとした音も、普段なら気にならない音がやけに大きく感じる。


 心霊スポットのようなおどろおどろしさとは違う、ピリリと張り詰めた空気があった。


「(さっきの子……もう足音がしないってことはもう遠くに行ったのかな……それにしても、やけに静かなのはどうしたの?)」


 普段なら聞こえるはずの鳥の声も、小動物の動く音も、何も聞こえない。


 さっきまでののどかな山の風景が一変し、まるでどこか別世界へ迷い込んだようだった。


「ッぐ、ぁ……!」


 アンは小さな呻き声に足を止める。

 その場でじっと耳をすませると、押し殺す様な呻き声と荒い息遣いが聞こえてきた。


「(さっきの子……!?)」


 気付かれないように、ゆっくり、ゆっくりと音を立てないように前に進む。


 少し進んだ先にはぽっかりと開かれた場所があり、そこで先程の少年が背を丸めて蹲っていた。


 少年の周りには血が広がり、荒い息遣いも、漏れる呻き声も彼のもので間違いない。


「っ、やっぱり怪我してたんじゃない!」


 アンは少年に駆け寄り、震える背中に手を当てる。


「崖から落ちたんでしょ!? 大怪我なのに無理をするから……!」


 見る限りかなりの出血量になっている。この世界には医者のほか、治癒魔法を専門に扱う治癒士も存在する。

 値段は高いが、治癒士ならこの大量出血でもどうにかなるかも知れない。

 そう考えたアンは、治癒士の元に少年を連れていこうと蹲るその身を起こさせた。


「ぐっ……!」

「治癒士の所に連れていくから! 大丈夫だから、頑張っ……」


 苦痛に顔を歪める少年の胸には、深くナイフが突き立っていた。


 

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