第4話 エルヴィン【10年前②】
「(ナイフ……!?)」
アンは警戒しながら辺りを見渡す。
少年を刺した犯人が近くに潜んでいるかもしれないのだ。
ほんの少しの違和感も逃さないよう、五感に意識を集中する。
「っ、はは」
真剣なアンを小馬鹿にするような笑い声に目を向けると、目の前の少年の紅い瞳と目が合った。
少年は上体を支えるアンの手を払うと、そのまま自分の胸に刺さるナイフの柄に手をかける。
「抜いたらダメ!!」
何かが刺さった時は安易に抜いてはいけない。アンはそう聞いたことがあった。抜いてしまうと、逆に出血が酷くなるのだと。
胸からの大量出血なんて、命に関わるとしか思えない。
真っ青になって腕を伸ばすアンより早く、その少年はナイフを一思いに引き抜いた。
そして
「ッ……!!」
自分の胸に目掛け、大きくナイフを振り下ろした。
「ぐっ……!」
思わず目を背けたアンがゆっくりと視線を向けると、少年はいつの間にかナイフをまた大きく振り上げている。
呆然と立ち尽くすアンの前で、少年は何度も何度も同じ動きを繰り返す。
アンの目の前は徐々に、しかし確実に血で染まっていく。
「(何が起こってるの……なんであの子は自分の心臓にナイフを……)」
苦しそうに顔を歪めながらも、少年が自傷行為をやめる気配はない。
アンが力なくその場にへたり込むと、そこでやっと少年はアンを一瞥した。
血で染まったようなその瞳に、アンは全身が雷に撃たれたような衝撃を受けた。
「エ、ル……」
全身が震え、言葉が出てこない。
だが、アンを突如襲った衝撃は確信へと変化していく。
紅い瞳。
それは、アンの推しキャラクターであるエルヴィンの特徴だった。
『愛の華』の世界で「紅い瞳」が持つ意味。
それは、魔人の血が通っているということ。
魔人の特徴は銀髪、尖った耳、そして紅い瞳。
人間と魔人の間に生まれた半魔のエルヴィンは、尖った耳以外の魔人の特徴を持っていた。
目の前の少年は紅い瞳に、丸い耳。
髪の毛の色は泥と血で汚れて笑って分からないが、少なくともアンの知る限り『愛の華』の世界ではエルヴィンのような半魔は滅多に居ない。
「ぐぁ……っ!」
押し殺せなかった呻き声を聞いた瞬間、アンの全身に濁流のように血が駆け巡るのを感じた。
半魔であるエルヴィンは超越した回復力を持つ。
だからきっと、「死ねない」のだ。
「やめて!!」
アンは震える脚で立ち上がり、倒れ込むようにエルヴィンの身体を押さえつける。
エルヴィンの身体は見た目よりずっと軽く、アンの体重を受けてあっさりと倒れ込んだ。
「もう、やめて……っ!!」
アンは必死にエルヴィンの持つナイフに手を伸ばし、エルヴィンはアンの手から逃れるように身を捩らせる。
「そのナイフ、渡しなさい!!」
「なんっ、なんなんだ、お前っ……!」
「渡しなさい!!」
アンの気迫に一瞬たじろいだものの、エルヴィンは軽い身体を器用に動かしアンの身体からすり抜ける。
ハァハァと二人の荒い息遣いだけがその場にあった。
暫く睨み合った後、またアンがゆっくりと立ち上がる。
「ナイフ……!」
「俺の事はほっとけよ!!」
「目の前で自殺を繰り返すような人っ、放っておけるわけないでしょ!?」
「俺だって繰り返したくて繰り返してるんじゃない!!」
「じゃあやめてよ!! 痛いでしょ!?」
その言葉を口にした瞬間、アンの目から堰を切ったように涙が溢れ出る。
大粒の涙を流しながらも、アンの瞳はエルヴィンだけを見つめ続ける。
「……お前、人に共感し過ぎだろ」
アンに鋭い視線を送りながら、エルヴィンは呟いた。
「俺が痛みを感じようが、お前には何も関係ねぇだろ。それに……っ、」
エルヴィンは見せつけるようにナイフを振り上げると、わざとらしくもう一度胸にナイフを突き立てる。そしてそれをゆっくり引き抜くと、血で赤く染まった胸をアンに見せつけた。
「ほら、な。傷なんてどこにもないだろ」
諦めたように力なく呟いたエルヴィンに、アンはもう一度掴みかかる。
「傷が治るからって、痛いのは事実なんでしょ!」
エルヴィンは回復力が人の何倍もあるだけで、決して不死身ではないことをアンは知っている。
痛覚は普通の人と変わらないことも。
「ナイフを渡して!!」
「お前っ……! 離せ!!」
暫く揉み合う二人の均衡はすぐに崩れた。
身長はアンの方が高いのだ。
アンが全身で覆い被さるように体重をかければ、痩せているエルヴィンの姿勢はすぐに崩れる。
「ッ……!!」
どさり。
倒れ込んだ瞬間、アンの左手に熱が走る。
「ナイフが……っ」
ナイフはエルヴィンの手を離れ、アンの左手を貫通するようにその身を宿していた。
ドクン、ドクンと脈打つ衝動がアンの身体に響く。
想像より痛みはなく、その代わり傷口が熱があるように熱くなっていく。
アンの左手を見上げるエルヴィンの瞳が揺れた。
エルヴィンの身体から力が抜けたのを見逃さず、アンは右手で力任せにエルヴィンを抱えあげた。
「ッ痛……!」
身体に力を入れると、アンの身体に痛みが走る。
じくじくと左手がその傷の存在を主張し始めた。
「何してんだ! 離せ!!」
「ッ痛いんだから動かないでよ!!」
アンの剣幕にエルヴィンは大人しく口を噤む。
「ちょっと、あなたが軽くても、流石に抱っこはキツいかも……っ」
「俺を離せばいいだろ!!」
「嫌だ!!」
アンは右手で抱えたエルヴィンの身体に、ナイフが刺さったままの左手を添える。いくら小柄で軽いとはいえ、男の子1人をほぼ片手で抱えあげるだなんて、普通なら無理だっただろう。
どこかでこれは火事場の馬鹿力と言うやつなのだとアンは分かっている。
でも、冷静になってしまえばもうエルヴィンを抱えあげることは出来ない気がして、アンは雑念を振り払うように短く息を吐いた。
「このまま、山を降りるから……ちょっと、私に抱きついてくれない?」
「はぁ!?」
「あなたの体重を片手で支えられないの! 抱きついてくれたら、多少楽になるから……!」
「俺を下ろせば済む話だろ!?」
「だって逃げるでしょ!」
「ッ……」
「お願いだから……私の首に手を回して。しっかり抱きついて。左手が痛いから、早くしてくれる? 抱きついてくれたら、左手を上に挙げられるから……心臓より高い位置にしておかないと、私が出血多量で死んじゃうかも……」
アンの言葉は静かだったが、切羽詰まった迫力があった。戸惑うように視線を動かした後、エルヴィンはそっとアンの首に腕を回す。
「ありがとう。いい子だね」
アンはそう笑うと、エルヴィンを抱えままま山をゆっくりと降り始めた。
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