第1話 佐藤美咲(31)

茜色に染まった空の下、世界の中心にそびえ立つ世界樹の下に、2人の男が立っていた。

1人は柔らかな茶色の髪を風に靡かせながら、両手で自分より身長の高い男のフードを脱がせる。


男がフードを脱がせた瞬間、ぶわりと襲った風が隠されていた長い銀色の髪を巻き上げる。


その空を舞う銀色に、茶髪の男ーー……タツミは愛しそうに目を細めた。


「エルヴィン。君のその髪も、その赤い目も、俺は好きだよ」


銀髪の男、エルヴィンは一瞬だけ苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、その赤い目を隠すようにすぐに視線を逸らす。


タツミはそんなエルヴィンに仕方がないと笑い、その男の顔を両手で挟むとゆっくりと視線を合わせた。


「髪と目の色が違うだけ。お前も俺と何も変わらない、同じ人間だよ。だからさ」


タツミはそのまま自分の腕をエルヴィンの背中に回す。意外と筋肉質なその身体を引き寄せ、胸の音を確認すると、タツミは安心したように息を吐いた。


「自分自身のこと、大切にして欲しいんだ」


その言葉に、エルヴィンは目を見開いた。

見上げるタツミからはエルヴィンのこの世のものとは思えないほど整った綺麗な顔が良く見えた。

大きく赤い瞳が揺らめくのも。


そのまま2人は見つめ合い、そしてゆっくりと唇を合わせていく。




それが、大人気ブラウザBLゲーム「愛の華」のエルヴィン×ナインルートのワンシーン。


そして、佐藤美咲(31)の大好きなシーンだった。


◇◇◇


「ハァ〜〜……何回読んでもエルナイちゃん最高……尊い……泣けてくる……」


ぐすり。

鼻を啜りながら、佐藤美咲はティッシュを手にとった。

そしてちん、と鼻をかむと、ティッシュで一杯になったゴミ箱にそれを投げ捨てる。


「エルナイちゃんのおかげでティッシュの消費量が物凄い……超花粉症の人みたい……私花粉症じゃないし、そもそも今は花粉症の季節じゃないけど」


こんもりと溜まったティッシュの山に溜息をつき、美咲はパソコンの電源を落とす。


昼間は保険の営業として駆け回る美咲にとって、寝る前のBLゲームだけが忙しい日々の唯一の癒しになっていた。どれだけ疲れた日でも、夜に推しカプに触れ、軽く涙を流せば気持ちよく眠ることが出来た。


いつも通り美咲はそのままベッドに潜り込んだものの、疲労している身体とは裏腹に頭が覚めてしまい眠れない。


「(前は軽く泣いたら心地よく眠れたのに)」


最近はこういう日が増えていた。

大好きな推しカプに触れても、ずっと胸に重くのしかかる蟠りの存在。

何度目かの溜息をつき、美咲は観念したようにスマホの電源を入れる。


「(そろそろ腹を括らないとね。……皆を心配させたい訳じゃないし)」


表示された検索窓に、すっかり予測変換で出るようになってしまった単語を打ち込む。


《結婚》《出会い》


もう何度も見た検索結果を眺めながら、美咲は理由もなくじわりと涙が滲み出てくるのを感じた。


「(私の人生って、なんなんだろう)」


美咲は3人兄弟の長女として生まれ、3歳年の離れた弟と、5歳年の離れた妹がいる。

両親は美咲が18歳、高校三年生の時に事故で他界した。


「(私、頑張って来たんだけどな)」


両親を亡くしてから、美咲は大学進学を諦めた。

人より少しだけ暗記が得意だった美咲はたまたま合格した進学校に通っていたものの、特に大きな夢もなかった。


だから、大学進学より、弟と妹のために働くことを選んだ。


いくら両親の遺産と保険金があったとしても、お金はあるに越したことはない。

まだ幼かった弟と妹がどんな夢を抱くかも分からない。

特に目的も夢もない自分のためにお金を使うことなんて、許されないと思った。


美咲は必死に働いた。

弟と妹になるべく苦労はかけたくなかった。


弟と妹は美咲を慕い、自ら家事を手伝ったり、アルバイトの給料を美咲に渡したりと協力的だった。


でも、美咲はそれが嫌だった。

「親がいないから」と弟と妹を縛りたくなかったのだ。


美咲にとって、家族は何よりも大切で、弟と妹を1人前にして幸せにすることが、美咲の生きる目的になった。


そして弟は1年前に、妹も先月結婚した。

無事、立派な大人として1人前になった。

これからは自分たちの幸せな家庭を築いて、幸せになっていくだろう。


美咲は心から2人の幸せを願った。


「お姉ちゃん。これからは、自分のために生きて、お姉ちゃん自身の幸せを優先して欲しいの」


涙ながらにそう話す妹は、真っ白のウェディングドレスが世界で一番似合っていた。


「姉さん、俺たちはもう大丈夫だから。今度は姉さんが幸せになる番だよ」


そう笑う弟の隣には、幸せそうに寄り添う義理妹がいた。最近妊娠が分かったと笑う2人は、世界で一番幸せそうだった。


「「幸せになって」」


幸せそうな2人の言葉は、美咲の心に太い楔を打ち込んだ。


「(幸せってなんだろう……結婚したら幸せなわけ? 私は2人が幸せなら、幸せだったのに……)」


その日、結局美咲は眠ることが出来なかった。




「疲れた……」


朝から分刻みのスケジュールをこなした美咲は、やっとの休憩時間にオレンジジュースを買うと近くのガードレールに腰を下ろした。


近くに公園はあったものの、そのベンチまで歩く気力すら残っていなかったのだ。

朝から何も食べていない身体は早くから空腹を訴えていたが、空が橙に染まり始めた今となってはもはや何も感じ無くなっていた。


睡眠不足の中でこなしたハードスケジュールに疲労困憊だったものの、どこか頭はスッキリしていた。

少しでも雑念が湧くと、ずっと胸に巣食う翳りに脳内が侵食されていく。その変わり、雑念が湧く隙も与えないくらい忙しければ翳りの存在はいつの間にか消えたような気になる。


「(でもそれ、社畜になるってこと……? それはそれで嫌なんだけど)」


買ったばかりのオレンジジュースを流し込めば、その冷たさが心地よかった。


「(結婚だけが幸せとは思わないけど……他にやりたいことも、BL以外に趣味もないし。仕事もお金が貰えるからやっているだけで楽しいわけじゃない)」


ずっと「弟と妹を幸せにすること」を目標に掲げて頑張ってきたのだ。それこそ、恋愛やお洒落には目もくれず。


それなのに突然「自分のために生きろ」と言われても、美咲は自分が何をしたいかすら分からない。


自分の思いに全て蓋をしたから、両親をなくしてからここまでこうしてやってこれたのだから。


「はぁ……モブの私には難しいよ……」


これまで生きてきて学んだこと。

それは、この世界には「スポットライトが当たる人間」と「それ以外の人間」がいるということ。


どんなに努力をしても、苦労をしても、報われるのは「スポットライトの当たる人間」だけなのだ。


弟と妹は幸いなことに「当たる側」の人間らしいことはすぐに分かった。

運動も勉強もそつなくこなし、前向きで優しさも持ち合わせている。

努力は勿論重ねるが、その努力は何倍にもなって2人の元に戻ってきた。


対して、美咲はと言えば。


苦労も努力も人一倍してきた自信がある。

それなのに、これといった「報い」はまだ手にしたことがない。


人生は山あり谷あり、トータルするとみんな等しく平等だと語る人は沢山いる。そんなことを語るのは皆「スポットライトが当たる側」なのだ。

当たらない側……「モブ」には、神様は微笑まない。


いつか報われるかもしれない。

そんな淡い期待を抱きながら、美咲は31歳になった。


周りはどんどん結婚をし始め、幸せそうに笑っている。

徐々に周りからの「あなたはいつ?」という静かな圧も感じ始めている。


まだ焦る時では無い。30代前半で結婚という人も多いのだ。


でも、もし「結婚」という形を望むなら、恋愛経験も無い自分は早くからそれに向けて取り組まねばならないだろうことも予想が着く。

これまでの遅れを取り返さなければならないのだろうから。


でも、そこまで必死になって結婚をしたいかどうかも分からない。


「(生きることがめんどくさい……もうこのまま時が止まればいいのに)」


そう思った時、女性の叫び声が耳に入る。

次の瞬間、美咲は道路に飛び出していた。


叫び声も、クラクションも、全てがどこか遠くに聞こえた。


必死に手を伸ばし、美咲はトラックの前に飛び出した男の子の背中を突き飛ばす。


力加減は出来なかった。

力いっぱい突き飛ばした男の子は顔からアスファルトに投げ出されていった。

きっと顔には傷を負っただろう。


申し訳ないと思いながら、美咲は目をつぶる。


やけに時間の経過がゆっくりに感じたが、自分が逃げおおせる時間は無いことは分かっていた。



ドンッ

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