ジャアクメイク

松本まつすけ

序章

第1話 夜を駆ける痴女

――月明かりの灯る、冷たい夜。


 恍惚とした表情を浮かべる女が、興奮気味に吐息を漏らす。

 発情期のメス犬でもそうはならないだろう、というくらい熱を帯びていた。

 沸騰しそうなほど、あるいは溶けてしまいそうなほど、汗をまとって。


絶頂クぜ」


 そう言って彼女は服を脱ぎ捨てて、アンダーシャツにアンダーパンツの裸に等しい露出姿を晒し、アスファルトを一歩、踏み抜く勢い。

 黒髪ロングが振り乱され、修羅の如き形相で、ソレとの距離を詰める。


 ブロロロロロロォォ……――。


 アクセルをベタ踏みした車の背後にぴったりとくっついて、飛びつく。

 それは獲物を捕食しようとする獣と見間違えたかもしれない。

 バックミラーに一瞬映り込んだ女の影は、その男の恐怖を天井まで煽った。


 刹那――運転席側のガラス窓が粉砕されて、そこから腕が伸びてきたかと思えば、ハンドルを握っていた男の首根っこが捕まれ、外へと強引に引っこ抜かれる。


 運転手を失った車は慣性のまま、あらぬ方向へと暴走。

 運転手は路上に放り投げられて、ゴロゴロと丸太棒のように転倒。


「ひ、ひぃぃぃっ、命だけはお助けをぉぉ……」


 全身打撲。なんなら、擦り傷だらけで血も流れている男は頭を庇い、命乞いする。

 横たわったまま見上げると、すぐそこに女が立っていた。


 息遣いすら聞こえてくる距離。裸体と見間違う美しいシルエット。

 こんなにも近いのに、月が眩しいくらいに照らしているのに、その顔を見ることができない。闇の色に塗りつぶされたメイクのようだった。


「なんて、なんて、じゃ、邪悪な……」


 その男は肉食動物に捕食される小動物の如く、怯え、震え、うわ言のように一つの言葉を繰り返す。

 ジャアクメイク、ジャアクメイク、ジャアクメイク。


 やがて、糸がプツリと切れるようにして、男はコロンと落ちる。

 重なる疲弊と緊張感に耐え切れなかったのだろう。


 こうして、この夜の出来事は人知れず、闇へと消えていった……――


 ※


 ※ ※


 ※ ※ ※


「ふぅー……、なんとかなったようね」


 新聞紙を大きく広げ、ついでに大股も広げ、上等な椅子に腰掛けた女が一息つく。

 大見出しも小見出しにも目を通し、写真の端々まで注目して、安堵した様子。


「ネットニュースにも話題になってないみたいッスよ、所長」


 少し離れた位置にある事務机の上、カタカタとキーボードを鳴らす少年が言う。

 目の前の複数のディスプレイに映るのは昨日今日のニュースばかりだ。


「全くもう……、宵歩よいほさんにはいつも言っているではないですか。そんなに心配するくらいならあまり大騒ぎしないようにって」


 和服の少女が呆れた表情を浮かべながらも、白い湯気の上る淹れ立てのコーヒーの入ったマグカップを女の前のデスクに置く。


「ん、いつもありがとね、星満ほしみちゃん」


 マグカップに指を掛け、くぴっと一口飲む。

 さすがにまだ熱かったのか、舌をちろっと出す。


「一応、色々と証拠を消したボクのことも労ってほしいッスよ」

「はいはい。いつも情報データには助けられてるわ。ありがとね我が助手阿賀爪あかつめ草太そうたくん」


 口の中にコーヒーが残っていたからか、それとも別な理由か。

 少し苦笑いを見せて言う。


「そんなことより、宵歩よいほさん。今回の収穫はどうだったんですか?」


 切り替え早く、少女が話を切り出していく。

 少年の方は「そんなことって……」と小声にぶつくさ腐る。


「なんとか押収することはできたわ。そこにある奴よ。いつものようにお願いね」

 そういってデスクの上、丁重に、というより乱暴なまでに布に包んだ箱を指さす。


「はい、それではこちらは私の方でお焚き上げしておきますね」

 にっこりと笑うと和服の少女は箱をよいせと持ち上げる。


「巫女さんも大変よねぇ」

「いえいえ、これも私のお努めですので。それでは失礼しますね」


 箱を抱えたまま、和服の少女は会釈すると扉を潜り、その部屋から去っていく。

 後に残るのはコーヒーの香りに、沈黙。それと、女と少年だけだ。


「さぁて、一仕事終えたことだし、またひと眠りするかぁ」

「あのぅ、所長。まだ昼前なんスけど……これから依頼者きたらどうするんスか」

「そこはまあ、適当に対応しといてよ。お願いね、草太くん♪」


 言うだけ言うと、女は立ち上がりソファへと体を預ける。

 そうして、そのままブランケットをバサっと被って横になってしまった。


「この人はもう……こっちは廃業にすればいいのに」


 そんなことをぼやきながらも、少年はため息をついて、窓ガラスに張り付けられた文字を、何の気なしに眺めた。


 月見里やまなし探偵事務所。白い鏡文字でそのように書いてある。

 ここは、れっきとした探偵事務所であり、表向きには当然探偵業を営んでいる。


 ソファの上で早くもいびきをかいているのは所長の月見里やまなし宵歩よいほ

 デスクで延々カタカタとキーボードを叩くのはその助手の阿賀爪あかつめ草太そうた

 丁度窓の下を箱を抱えて歩いているのは何のことはない普通の巫女の冬樹ふゆき星満ほしみ


 無論のこと、ここがただの探偵事務所ではないことは、言うまでもない話だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ジャアクメイク 松本まつすけ @chu_black

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ