虚しさという心地よさ

 配偶者からひどい目に遭っているのに離れようとはしない被害者のことを、「奉仕と金を差し出して人格否定の暴言を吐かれている奴隷」と呼んだりする。
 人並みの自尊心があれば、とても一緒にはいられない。

 離れようとしない人は、そこに「意義」を見出している。
 意義の中身は人によって違う。

 いつかまた元通りのあの人に戻ってくれるのではないかという期待。
 夫婦ならば添い遂げるべきだという使命感。
 育った家庭で負わされていた「看護師」的な役割の再現。
 病人のために苦労をしている妻は世間から労わられて褒められる、そんな承認欲求の延長で、そこにいるのかもしれない。

 そこに何があるのかは、誰にも分からない。
 単純に夫への深い愛情かもしれない。

 妻の存在は夫の存在によって日々落とされる。
 それが分かっていながらそこに踏みとどまる人にも、報われないことを確認したい症候群のような、自滅的なものがある。
 わたしを見て欲しい。どうか愛して欲しい。
 どうか気づいて。
 虚しさはもはや心地よい、いつまでもこの願いが続きますように。


 精神科の医師の口から想わぬかたちで主人公は、夫の中にいる自分の姿をきかされる。
 では、あの人の中にいたんだ、わたし。
 透明人間のように扱われていたわたしが、あの人の狂った世界にちゃんといたんだ。
 だからといって何が変わるということもないけれど。

 診断を受けた夫は、どんな命であっても懸命に咲いている中にあって、色が薄い。
 その薄い色は夫だけが持つものではなく、この妻も薄いのだ。
 幸の薄い色をして咲く桜。通常種よりも風に揺れる風情が頼りなく、幽霊めいている。

 きっと、明るく溌剌とした向日葵のような人生よりも、そちらの方が棲みやすいのだ、お互いに。
 重ねてきた日蔭の日々のように、この夫婦の家のまわりで色の薄い桜は今年も咲いて散る。